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何かがずれてしまったこの現実から、僕たちはもう逃れる術を持たない。 ++ 平行感情・交差感情 ++
密やかに夜の帳は下り、黒すんだ雲の切れ目から星々が覗いていた。静寂に包まれ、生ある者は皆、眠りに落ちているひと時。 暗闇に包まれた一室で、何かの煌きが動きを見せた。同時に低く響く金属同士のかすれる鋭い音が、身じろいでいるのが西洋風の鎧であると知らしめた。 ぎしぎしと安っぽいベッドが抗議を言い立てるのに、できるだけ均等に重みをかけるよう注意しながら、しかしアルフォンスは目の前に立つ小柄な少年に、感情篭らぬ声で言い捨てた。 「…服、脱いで?」 ねぇ、兄さん、と。 ベッドに腰かけるアルフォンスの向かいには、コートだけを脱いだ彼の兄が静かに立っていた。彼のまとう黒の上下が、室内に今にも溶け込みそうな雰囲気である。そしてそれに反発するように、白い肌は浮かび上がり、緩く編まれた金髪が彼の背で夜目にも鮮やかにさらりと揺れていた。 「……」 アルフォンスの命令じみた口調にも異を唱えず、彼はゆっくりと上着の留め具に手をかけた。躊躇なくそれを外し、上着を床へと放り投げる。いや、放り投げるというよりは、脱ぎ捨てると言ったほうが正しかった。すでに脱いでしまったものに、エドワードは何らの未練も羞恥も見せず次の衣服へと手をかけて行っていたので。 「全部だよ」 追い討ちをかけるように鎧の弟が告げる声に従って、エドワードはベルトの留め具へと指をかける。弟の反応を見るでもなく、自分の行為を自覚するでもなく、淡々と作業をこなすように彼は身にまとう全てを取り払った。闇に溶け込んでいた彼の四肢が、柔らかに白く浮かび上がる。彼の身体には白い肌だけではなく銀に光る箇所が存在したが、造形美めいた印象は拭えない。終わりだ、と手を止めた彼に、アルフォンスはくすくす笑って手招いた。 「どうして、言われた通りにできないの?」 「……?」 初めて、エドワードの表情に戸惑いが浮かんだ。彼の無表情は年よりも大人びて彼を見せたが、少しでも感情を揺らせばそこには幼さすら残る表情がのぼる。 「ほら―――これ」 アルフォンスの体温のない指先が、彼の頬を撫で擦る。そのまま首筋を伝い、鎖骨の窪みをくすぐり、肩甲骨をなぞり上げるように悪戯に動いた後、束ねられた髪へとその指は伸ばされた。 「全部、って言ったじゃない」 「……ふふ」 エドワードが、堪えきれないとばかりに笑いを洩らした。切れ長の目を細め、薄い唇が緩く弧を描く。ベッドの端にいる弟の元へと近づくと、彼の左膝へと右手をつき、前かがみになった。まさに猫科の動物特有のしなやかさで伸び上がり、上目遣いにアルフォンスの瞳を覗き込む。 金の瞳に映し出された弟の瞳は、空洞の輝きに照らされていただろうか。それともその虚ろは、彼自身の色だったろうか。 そして残る右手でゆっくりと三つ編みの先を口元へと持って来ると、アルフォンスに見せつけるかのように彼の目の前で、紐を咥えぎりぎりと噛み切った。だらりと紐が口の端から垂れ下がるが、エドワードは吐き捨てもしない。そのまま甘えるように、鎧の少年へと腕を絡ませ膝立ちになった。生身の少年と鎧の少年との温度差はかなりあっただろうが、双方とも今さら口にはしない。 「いい子だね、兄さん?」 「ん…」 唇の端に貼りついた紐の残骸を、太い鎧の指が取り払ってやる。 そのまま弟の指が離れて行こうとするのを止めるように、エドワードの腕が絡みついた。10本の指全てで弟の腕を愛撫するようになぞり上げ、指先へ小さな舌を這わせる。 次第に室内に、水音が響き始めた。 「ン、―――はっ」 口腔に収まりきらない程の太い指を、それでもエドワードは一心不乱にそれに唾液を絡めていった。1本だけでも常人とは比べ物にならない質量であったが、開いた彼の唇は2本の指をくわえ込んでいる。まるで追い立てられるように、自ら溺れるように、その行為だけに没頭していく兄の姿を、冷ややかにアルフォンスは見下ろしていた。 「あまりがっつくと、顎、疲れちゃうよ?」 「……むぁ」 それまで兄の好きにさせていたアルフォンスが、少し指先を蠢かしてやる。それだけで面白いようにエドワードの肢体が跳ねた。薄く笑って、そのまま追い詰めるように上口蓋や舌裏を擦り上げていく。次第にがたがたと震えが伝わり、何だろうと兄の様子を伺えば、膝立ちになっていることも最早辛いのか、エドワードの身体がくず折れそうになっていた。 「兄さん」 「ん!」 「駄目だよ、倒れ込んじゃ。ほらしゃんとして」 呼びかけると同時に尻を引っ叩いてやる。今夜初めて身体に触れられた刺激に耐え切れないように、彼は身を大きくくねらせた。しかしアルフォンスの言葉を守ってか、無意識に膝を立てる力は強められたらしい。どんな状況にあっても、彼は弟であるアルフォンスの声だけは聞き取った。 それは昔からそうであり、今もそうだった。 「兄さん、そんなにこれ、気に入った?」 彼の唾液が糸のように伝う手を見せつけ、指先を彼の頬へと擦りつける。常なら白い頬は今は赤く染まり、そしてぬらりと体液に塗れた。上気した頬の兄に対し、アルフォンスの身体は熱を帯びることはない。感情を唯一伝えるはずの声も、今は冷たく兄を貶めるようにしか発せられなかった。しかしエドワードは、彼が何事かを口にするのが嬉しいのか、口元を綻ばせる。 「…ァ」 「何?」 「アル、フォンス…?」 にこりと、およそこの場にはそぐわない、無邪気なほどの笑みをエドワードが浮かべる。まるで幼子が母親を見つけた時のような顔。母親が愛子を抱き上げた時のような顔。 鎧の弟に跨って裸体の少年が笑う様は、まるで1枚の絵画のように何処か神聖で、そして荒廃の匂いが満ちていた。 「アル、好きだよ」 「黙ってよ」 「ア…」 「黙ってったら!」 怒りをはっきりと声に滲ませて、アルフォンスは力任せに少年の身体を引き倒した。くるりと体勢を入れ替えるようにアルフォンスが立ち上がると、エドワードは抵抗なくベッドへと沈んでいる。仰向け気味にしどけなく横たわり、現状を把握しているのかすら判らない。天井を眺めていた蕩けた瞳が、ゆっくりとアルフォンスへと固定され、そしてまた先ほどの笑みを口の端にのぼらせた。 白く細かな傷だらけの腕が、差し伸べられる。弟へと向かって。最愛の者への仕草で。 それに耐え切れず、アルフォンスは彼の両手首を掴み取り頭上に縫いとめた。そしてまた反対の手で、自分を見る彼の目を塞ぐ。 +++ 何時からだろう。 何処からだろう。 自分たちの在り方が、現実から逸れ出したのは。 +++ 「兄さん。目を、閉じて。腕も、そのままでいて」 動いちゃ、駄目だよ。 エドワードからの返事はない。しかし聞こえてはいたのだろう。アルフォンスが腕の力をやや緩めてみても、彼は微動だにしなかった。 「じっと、してるんだよ?」 優しく言い含めるように彼の耳元で囁き、いまだ彼の唾液に濡れた指を下肢へと伸ばす。まともに触れてすらいない彼の身体は、しかし待ち望んでいた感触に喜悦の色をすぐさま浮かべた。花開くように、身体は拓かれる。 ゆっくりと、彼の最奥へと指を沈ませると侵入に戸惑いを見せたのはものの数秒のことだった。大の男より遥かに太く長い指を容赦なく突き入れても、彼からは嬌声しか返らない。 「気持ち良いよね? そうだよね?」 「ぁ…う・んっ…」 こくこくと、ひたすらに頷いて見せるエドワードは、すでに目を覆われていた腕を外されていたが、その目は堅く閉じられたままであった。もう一度アルフォンスが目を開けるようにと言うまで、彼は目を閉じ続けるだろう。 残った手で、アルフォンスは兄の両手首をひとまとめに彼の頭上に縫いとめているままであったが、ゆっくりと、確かめるようにその手を外した。思いの外力を込めてしまっていたらしいその手首は、うっすらと赤く色づいてしまっている。長く掴まれていたために、痺れているだろう両腕。 しかしエドワードは、そのまま両腕を頭上に上げたまま、動かそうとはしなかった。 『目を、閉じて。腕も、そのままでいて』 予想していたその様子に、小さくアルフォンスは苛立ちを見せる。そして、僅かな悲しみもまた交じっているようであった。感情のままに、1本でも細身の彼の身体には十分だろう指を一気に2本突き込む。 「…は…っ!」 弓なりに身体がしなる。声ではなく肉体が悲鳴を上げているのが、アルフォンスにも判った。快楽と苦痛は紙一重だ。神経を高ぶらせ、身体だけではなく心にまで影響を与える、その感覚。 けれど。 目は、やはり閉じられていた。 腕は、やはり掲げられていた。 エドワードの眦からは溢れるように涙が伝っていた。達するには刺激が十分ではなかったか、細かな痙攣が四肢を襲っている。荒く息をつき、まとわりついた髪を鬱陶しそうにしているが、それでも彼は目を閉じ続け、腕を自ら固定し続けた。 アルフォンスの声音から、完全に温度が消える。 「―――兄さん」 「ひっ、あ、あぁっ!?」 限界まで足を開かせ、容赦なく責めたてる。アルフォンスの重みをかけてしまっては、この華奢な身体は無事では済まない。のしかかりながらも重みを与えないようにのみ、アルフォンスは注意を払った。それ以外一切の手加減はせず、悦楽という名の苦しみの中へと放り投げてやる。 まるで見えない紐に縛られ、透明な目隠しをされているかのようなエドワード。 傍から見たなら、これは強姦と呼べるのだろうか。 全身に震えが走り限界が近いらしい彼の身体から、一気に指を抜き去るとその感覚が辛いのかエドワードの腰がねだるように揺らいだ。アルフォンスはそのはしたない様に小さく笑う。そして己の笑みから感情が湧き出ることを恐れたように、すぐさま彼の耳元へと囁きかけた。 「ねぇ、兄さん。目を開けて。動いていいよ」 涙に濡れた金の睫毛が蠢いた。欲に蕩けた金の瞳が、薄く覗く。 「向こうを向いて、四つん這いになってくれる? あぁ、ついでに顔は枕に埋めて、腰だけ上げてて」 声が震えないよう努めながら、アルフォンスは男には屈辱的だろう『お願い』を口にした。茫洋と弟を見上げる少年は、虚ろに弟の台詞を飲み込むように唇の動きだけで繰り返した。 『向こうを、向いて』 『四つん這いに、なって』 ようやく意味を把握したのか、彼の金の瞳が理解に瞬いた。熱を持て余した身体を引きずり、エドワードは気だるそうに、しかし躊躇いなくごろりとうつ伏せ、そして――― (あぁ、やっぱり…) 「…兄さん!」 耐え切れず、アルフォンスが叫ぶ。 「どうして」 鎧姿の少年が兄へと向ける声に込めた感情に、エドワードは気づかない。明らかな嘆きの色に、それでも少年は気づかない。 うつ伏せた彼の肩を掴み、仰向けさせた。抵抗なくごろりと彼は再び天井に顔を向け、そして覆い被さるアルフォンスを見上げる。 「…どうしたんだ、アル?」 「どうしてだよ、兄さん」 「いいのか? 俺まだお前の言うように―――」 「止めてよ!」 叫んで、アルフォンスは巻き起こった感情のままにエドワードの咽喉へと手をかける。彼はけして華奢なだけの少年ではない。しかし質量100sを越える鎧と比べれば、ひどく頼りなく細く見えた。事実、アルフォンスの片手で、エドワードの首を締めるには十分なほどだ。 「…は…ッ」 かは、と酸素を求めて本能的にエドワードの身体が跳ねる。苦しそうに歪む表情。寄せられた眉。滲み出る脂汗。 このまま力を抜かず、それどころか本気で締め上げれば、窒息どころか首が捻じ切れただろう。しかしそれは叶わなかった。 アルフォンスが力を緩めるより先に、エドワードは………笑って見せたのだから。 殺したいならそうしていいよ、と。 その金の瞳は優しく語りかけていた。 「っ!」 やっと正気に返ったように、アルフォンスが手を離す。呆然と己の手と、そして兄とを見比べる彼を、エドワードはうっとりと見つめていた。人間としての何かを超越した兄の表情に、絶望的な思いでアルフォンスはうめき声を上げた。 どうしようもない悲しみに。 どうしようもない嘆きに。 「兄さん…どうして」 「…アルフォンス?」 「なに?」 「いいのか、止めて?」 心底不思議そうに、エドワードは弟へ問うた。 アルフォンスは何も言わず、首を振る。そうか、とエドワードは納得したようだった。 +++ 繰り返す、不毛なやり取りと愚かな快楽。 何度、同じ夜を過ごしただろうか。 すでに現実はずれている。 世界と、真理と、そして兄と、自分。 不可逆な流れへと、自分たちは放り込まれた。 +++ 「どうしてなんだ…兄さん、どうして」 「アル、何か不安でもあるのか?」 柔らかく笑って、エドワードは自分に覆い被さる弟の、鋼の身体を抱きしめた。 暖かな、包容に満ちた許容の愛情。 エドワードの瞳に宿る感情は、まさしく至上の愛だった。何も見返りを求めず、許し、全てを受け入れる、神官の説く愛がそこにあった。 だからこそ、少年は永遠に己の過ちに気づかない。 だからこそ、少年は永遠に弟の思いに気づかない。 「違うんだよ、兄さん。嫌な時は、嫌だって、言ってよ…!」 「嫌って…俺そんなこと思ってないし」 何言っているんだと、エドワードは弟を見上げて笑う。罪知らぬ顔で、綺麗に笑う。 「嫌じゃないの? 僕が何言っても、何で何も言わないの?」 「だって…お前が言うことだし。俺はお前の言う事なら、何だって…」 ―――通じない。 純水は電気も通さない。ほんの僅か不純物を加え、ようやく電気が通るようになる。 それと同じ事だ、と科学者の一面を覗かせアルフォンスは思った。 あまりに純粋に特化した存在は、その煌きゆえに周囲を傷つけ、落とし、そしてそのことに一生気づかない。 「どうして、判ってくれないの、兄さん。僕は、兄さんと一緒に、元に戻りたいんだよ…っ」 「判ってるさ、アルフォンス。お前は絶対、俺が元に戻してやるから」 食い違う言い分に、気づくのはアルフォンスだけ。 「ほら、そんな泣きそうな声するなよ。俺がついてるから、さ」 泣ければ良いのに、とアルフォンスは思った。 涙を流せたなら、彼の頬や額に雫を落とせたなら。 そうしたなら、それが皮膚を通して彼の心にまで染み渡りはしないだろうか。 歪んで固まってしまった彼の愛情が、少しは綻んでくれないだろうか。 「僕は…」 「愛してるよ、アルフォンス」 「…僕も…」 望む愛情は、全く異なるものだけれど。 慈母の愛。聖母の愛。盲目と狂信が彼の愛情の根底だ。 愛する者に何を言われようと、されようと、彼の愛は揺るがない。そんな愛こそが理想だと、何も知らない使徒たちは声高に言い立てる。 そんなはずがないではないか。 まるで何をしても興味がないように、流されるように受け入れる兄。 愛しているのか、そうでないのか。虚無に手を伸ばしても何にも触れられないように。 彼の内には触れられない。 彼の心に、言葉は届かない。 魂だけでも泣けるのだ、と。 アルフォンスは実感した。 「…アル?」 「兄さん、続き、しようか…」 「あぁ」 ふわりと浮かぶのは純化した愛情。 お前を愛しているよと目で告げられても、アルフォンスは見ない振りをするしかなかった。 こうして彼の身体をかき抱いて、いつか彼に拒絶される日が来るのだろうか。 無茶なアルフォンスの言い分に、彼が異を唱える日が来るのだろうか。 小さな喧嘩を繰り返して、そしてまた仲直りをして。一緒に色々なことに一喜一憂するような、日が。 いつか、そんな日が来たら。 アルフォンスは、今度は心から告げようと決めていた。 今はまだその日は遠く。 再び快楽に溺れ始めた彼の耳元で、声には出さずに呟いた。声に出せば、きっとその色は涙に染まっていただろう。 どの道、エドワードには届かなかっただろうが。 『ねぇ、兄さん。愛してるよ―――貴方を』 貴方だけを。 愛しているんだよ…。 +++ 言葉は遠く、掴む手は空を切る。 重ならない言葉。 重ならない心。 重ならない身体。 真理の扉よ。 お前は、兄から何を奪い取った。 |