東洋人の感情は判りにくいというのは嘘だとリーバーは考える。人の機微を読むのに長けた聡明な彼にとって、掴めないのはただ一人だけだ。リーバーに突然両手首を掴まれ、壁に押さえつけられても特に取り乱した様子も見せない、この男だけだった。





 +++ の外側には、 +++





 東洋人の割に彼より余裕のある上背を持った男は、先ほどから眼鏡の奥で思慮深い黒瞳を瞬かせている。コムイ=リーの本質はどこまでも科学者だ。彼にしてみれば恋愛感情にすら麻薬中毒との診断を下すかもしれない。
 逃げる気配もない手首をもう一度しっかりを握り直し、リーバーは相手をゆっくりと(かなり複雑な気分ではあったが)見上げた。まるで思春期の子どものように必死な自分の姿に自覚はしていたので、こと部下で遊ぶことにかけては努力を惜しまない男の反応が非常に怖い。案の定、コムイは彼と自分の体勢と状況を完全に把握した様子のままに、にっこりとアジアンスマイルどころではない満面の笑顔を向けてくれた。ちくしょうめ、と内心リーバーは毒づく。
「どうしたの? 確か仕事の鬼の班長さんは、僕をせっつきに来られたんじゃなかったっけ?」
 ああほらそこに、未処理の書類がたんまりと。
 ちらとコムイが視線を投げかけた先には、つい先ほど自分が彼の机へと見事なバランスでもって積み上げた紙の山脈(もはや山というレベルですらない)が鎮座している。リーバーが飛びかかった反動がまだ残っているのか、コムイのかけていた椅子が空しくくるくる回っており、そしてようやく止まった。
 埃の舞う室長部屋。壁に据え付けられた本棚に背中を押し付けられている部屋の主。その主を拘束している男が一人。
「うわ。リーバーくん目ぇ充血してるよ。寝不足?」
「えぇそうっスね。誰かさんが遠慮会釈なくこき使って下さるモンで」
 他愛ないやり取りをしながら、コムイがかすかに指先を動かした。それを感じ取り、リーバーは即座に拘束する力を強める。カジョウハンノウ、とコムイの唇が小さく動いたのをしっかりとリーバーは読み取っていたが、情けないのは今更であるので気にしない方針に切り替えた。
 そもそも情けないのは最初からだったではないか。きっと溜まりに溜まった疲れとストレスと寝不足とが、おかしな具合に化合してしまったに違いない。そうでなければ獲物に飛びかかる猫のように、自分の上司をとっさに押さえつけるなんて芸当ができるはずもない。ただの上司とはとても呼べない、よりによってこの男を!
 コムイはとても楽しそうに、彼の一番のお気に入りである部下の様子をじっくりと眺めている。その無邪気さを装った邪気にたまりかねて、リーバーはため息をついた。
「…あんたね、俺を何だと思ってんですか」
「僕の可愛い可愛い部下」
「胡散臭すぎなんデスけど」
 ええ?酷いなあ?
 掴まれている手首はそろそろ痛みと痺れを訴えて来ているだろうに、一向にコムイは振りほどこうとする素振りすら見せなかった。リーバー=ウェンハムの取りうる行動を確信しきっているようなその余裕。
「じゃ真面目に答えるとして」
 そうです最初からそうして下さい。
「仕事の鬼で能率最優先で上司を上司とも思わず酷使する部下で」
 いい加減邪魔になった机を足で思いきり蹴って僅かに動かす。机と本棚との間は大の男2人が入るにはやや狭い。振動で紙製の山脈が雪崩を起こしたらしき盛大な音が響いたが、リーバーは振り返りすらしなかった。足をずらした時に滑り込んだか、靴がぐしゃりと書類を一枚しわくちゃにしたが、それすらも意に介さない。自分の肩越しに、コムイはその様子を眺めているのだろう。
「自分よりは他人に優しく何だかんだで面倒見のいい貧乏くじタイプ」
 うるさい最後は余計なんですよ。
 自分がこの男を把握している以上に、この男は自分というものを判っている。そうでなければ駒として使えないからだ。戦略を細かに立て、そして勝利に導くために熟知しておくべきものは二つ。ルールと手駒の癖だ。そして男は自分の目的のためになら、たいていのことはこなしてしまう。そうでなければ、この欧州の中心とも呼べる機関の抱く教団で、東洋人が高い地位につけるはずがない。
「でもって優秀極まりない上司をこの上なく尊敬してくれる可愛い部下…っ、ん・」
 噛み付く勢いで口付けた。二人していい歳であるのに、けしかけたキスは色恋を覚え始めた青少年並みだ。一瞬驚きに彩られただろうコムイの表情を拝めないのが残念だと思いながら、リーバーはとりあえず相手の口内を堪能することにした。
 いい加減に認識して貰っても良い頃だろう。自分の部下は時折読みきれない行動を取るおかしな男であると。
「………っ」
 ようやく相手に変化が見られ出した。最初の勢いこそ子どものそれであったものの、そこはそれなりに経験を積んだ大人だ。角度を変え強弱をつけ、とりあえずは細かなことは考えずにキスを仕掛け続ける。
 それまでリーバーにされるがままになっていたコムイが、薄く目を開けた。蕩けるような黒曜の色に理性の光がちらつく。そしてリーバーがキスに熱中するあまり緩くなっていた拘束をあっさりと振りほどいた。
(…やば)
 報復を恐れ、一瞬身をすくめたリーバーだったが、次の瞬間思考が軽くフリーズすることとなった。
 男は逆に彼の後頭部と首に手を回すと、先ほどのそれよりも濃厚なものを仕掛けてきたのだ。一体上司が何を考えているのか。リーバーにはさっぱり理解できなかったが、されるままでは癪に障る。お互いに主導権を奪い合うように口付けた。
 ねっとりと粘液同士が絡み合う、最も単純な体液交換。舌だけが独立した生き物のように、二人分の口内で蠢き合う。歯列弓と言わず上顎、下顎部分も余す所なく舌先でなぞっていく。ぐちゃぐちゃと響く濡れた音だけが、二人の行動が現実のものだと知らしめた。
「……は」
 やがて二人の顔が離れる。睫毛の触れ合いそうな距離(とは言っても片方は眼鏡を着用している)でしばし見つめ合うと、ふとコムイが笑った。
「…何ですか、あんた…」
「ん?いやだからね、ホント、上司の言うことよく聞く良い部下だなあって」
 わざとだらしなく開けられたままの口。そこから覗く舌先にはまだ唾液の糸が伝い落ちていて、リーバーは視線を外せなくなった。その糸の先端は、つい先ほどまで自分の口内と繋がっていたのだ。
 コムイはまた、最初に手首を掴まれた時のような楽しげな顔をしてじっとリーバーを見下ろしている。違うのは手を拘束する側が入れ替わっていることだ。
(上司の言うことを、よく聞く?)
(…はは)
 リーバーは脱力した。この男は時折狡猾な知性を持っている癖にやたらと子どもじみた行動に出てくれる。
 誘うように開かれた口。力の抜けた肢体。相手の反応を待ち焦がれるように輝き続けるレンズ越しの瞳。きっともう一度口付け、そして更に行動を進めても男は拒みすらしないだろう。それだけははっきりと判る。なぜならば、これは既にリーバーの仕掛けた行為ではないからだ。
 この行為は既に。
(上司の言うことを、よく聞く…ね)
 全く、この男は自分の部下をあくまでも自分の思惑内に納めておくつもりであるらしい。リーバーが何をしようと、それは全て上司の意図によるものなのだ。
「上等じゃないですか…」
 掠れた声で呟いて、リーバーは再び敬愛する上司との距離を詰めていく。
 足元では書類がまた一枚、貰うべき判も押されずに紙くずと化していった。








>>>初リバコム。
リバコムはアダルティーな筈なのにアレ神よりガキ臭かったらいいと思います。
アレ神はほら、爛れてますから(笑)

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