※神田さん嬢設定でもOKな方のみどうぞ。





 『 カ シ ャ 』


 切り取る時間は、永遠ではなく。





  ++ 小心者は窓を覗く ++





 斜め後方130度。視界は絶好調逆転中。逆さの件の人物は、頬骨から後頭部にかけてのみで十分美人と判る造作で、真正面から見たならさもありなん。これも一種の役得だろうかね、と内心呟いた。パーソナルスペースが常人の倍近い彼女のプライベートスペースで、私生活を覗けるのはかなり限られた人間にしか許されていない。
「はーい、神田サン」
 挙手。
「何だ蜜柑男藪から棒に」
「ノリ悪ぃなー。こーゆー時はアナタ、『はい何かな、ラビくん?』ってにっこりしてくんな……済まん俺が悪かったさ」
 ようやく振り向いたかと思えば恐ろしく剣呑な表情が現れ、笑いながら両手を上げた。とは言え、自分がいるのは己の物ではないベッドの上で、のんきに仰向けに寝転がっている。そのままひらひら手を振られても、冗談にしか見えないだろう。事実、冗談でしかないのだが。始終顔に貼り付けた笑顔にやや困惑をプラスして、
「何て言うか、俺オトコなんだけどさ一応。いや目の保養なんで楽しいんよ当然。でも幾ら隅から隅まで見てるっても少しは恥らってくれねかなとちょい複雑な男心」
「…お前相手に今更何言ってやがんだ」
「いやまあその通りなんだけどさ」
 自分の顔をよくよく見れば、笑顔と困惑には程遠い、やに下がった顔が覗いていることだろう。しかしそんな視線にも今更ユウは動じない。単なる幼なじみに近い関係から、その形が変わりかなり経っている。室内に自分しかいないと判っているユウは堂々とその見事な裸体を晒しつつ風呂から上がってきた。そして寝転がっているこちらの視線など気づいていないのか気にしてはいないのか(多分後者だ)、大き目のバスタオルを手にしているくせにそれで身体を覆う素振りすら見せない。適当に水分を拭い取っているだけだ。
「ユウちゃーん」
「ちゃん付けするな気持ち悪い」
 さらさらさら。そんな音が聞こえてきそうな程に、見事な艶やかな黒髪が柔らかなリネンに揉まれ揺れる。淡く上気した肌からは仄かな湯気が立ち上っていて、頬を薄赤く染めていた。
「何つーかさー、確かに気にすんなっつったのは俺よ?でも本当に放って風呂行きますか?ユウちゃんってばつれない。しくしくしく」
「棒読みご苦労」
 こいつは怠け者の癖に綺麗好きだ。風呂を時折面倒がる割に、一度湯船に浸かれば茹だるまで出てこないこともある。ふらりと私室を訪れた時は運悪く気が向いた℃桙セったらしく、可哀相な自分は今までずっと他人の部屋で一人ぼっちでした。今更遠慮も何もないけれど、親しき仲にも何とやらじゃないのか。言えば即行で鼻で笑われるだろうから、口にするような愚は犯さないが。
 手馴れた調子で髪をおざなりにまとめ、高い位置で留めている。まだ十分に水気を取り去っていない髪先から、透明な雫がぽたりとうなじを伝い落ちた。細い首。柔らかな曲線。すらりと伸びた脚。普段は周りの男共など圧倒してしまうほどの威圧を漂わせているが、ふとした時にこいつが女なんだと思わさせられる。
「はーい、ユウちゃんこっち向いてーきゃー」
「……何してんだお前」
「見て判らね?」
 左手の親指と人差し指でLの形を作り、右手でまた同じ形を作って組み合わせ四角を作る。即席のファインダー。せっかくの目の保養なのだからと、男の欲望に忠実な俺はうつ伏せで上体のみ起こしている。にわかカメラマンのファインダー越しに見えるのは絶世の美女。
「はい笑ってー、スマイル!」
「…………………馬鹿?」
「うわ目一杯ためてそゆ事言う」
 はははは、笑いながら幾度もシャッターを切った。
 カシャ。
 呆れたように肩を竦め、ユウは俺に背を向けて着替えている。風呂上りにこいつが纏うのは東洋の衣服で、あぁやっぱり異人種なんだと実感させられる。欧州の中心で欧州の神に抱かれる場所で眠りにつきながら、決定的に相容れることはない。教団の連中にはモンゴロイドも時折混じってはいるが、ぬばたまの黒髪も滑らかな肌の色も、俺の持っていないものを此処まで見事に組み合わせている奴はそうそういはしなかった。
 カシャ。窓から覗く光景は他者の存在しない空間とただ1人のみを捉えている。写真というものは便利だ。一瞬の絵を半永久的なものとできる。カシャ。淡々と着衣を羽織っていく1人だけをこの目は追う。夜を溶かし込んだ瞳と髪と、そして絹で編み上げた肌を持つこのしなやかな生き物だけを、俺は見ている。見てきたし、見ているし、見ていくだろう。
 しかし今この手にカメラが握られていたとしても、きっと俺は実際にシャッターを押すことはしない。俺は臆病な観察者だ。
「…いい加減邪魔だ、どけ」
「だわっ!?……ってー…」
 不安定だった体勢に、一方向から急激な圧力が加えられれば為す術はない。綺麗なおみ足に蹴り飛ばされて、勢いよく転がった先には冷たく無機質な床が待っていた。自分の頭ながら実に良い音を立てて落下したものだ。脳細胞は果たして幾つ死んだやら。しかしめげずにその姿勢のまま向き直り、はいポーズと呟けば心底馬鹿にしたような溜め息を吐かれた。お前いい加減俺の性格把握しろ。いやしてるか。
「いいから起きろ。ゴロ寝すんな」
「うわ蹴飛ばした張本人さんがそゆこと言う?責任取れー起こせー」
 起こすまで動かないぞ、とばかりに笑って俺は手を差し出した。正しく子どもの駄々だ。
「ガキかお前は」
 面倒くさそうな顔をして、それでもユウは起こそうと手を握り返してくれる。その瞬間を見逃さず、一気にその手を引き寄せた。幾らユウが刀を握らせれば相対すること容易くない猛者だとしても、崩れた姿勢に男の腕力が瞬間的に入れば抗えるはずがなかった。先ほど自分がやられた反対とも言う。
「…っ!」
 声にならないくらいの、短い悲鳴が薄い唇から漏れる。勢いよく倒れこんだユウをそのまま抱きしめるように、俺はその肢体を受け止めた。まるで抱き合ったまま2人して倒れたかのような、向かい合い密着した体勢。馴染んだ柔らかな感触を堪能する前に一発、殴られた。
「……離せ」
「ん。もうちょっと」
「汚れる。俺は風呂上りなんだが」
「後で一緒に入らね?洗ってやるよ」
 更にもう一発、殴られた。
「んー…」
 風呂上りのこいつの身体からは甘い匂いがして、頼りない温かさが衣服を通して伝わってくる。軽く身じろぎしてその背に両腕を回し抱きしめると、相手が息を飲むのが判った。ここまでくっついていれば、互いの動揺などあっさりと判ってしまう。判った振りが、できる。
「気持ち良いなー…」
 子犬のように相手の首筋に鼻先を埋めた。冷たい雫が俺の肩口を濡らしていくが気にも留めない。もしかしたらユウは怪訝な顔をしていたかもしれない。こんな体勢になっても、俺が何もしないから。背に回していた両腕をまっすぐ天井に向けて伸ばし、そしてまた四角を作った。切り取られた空間。切り取られた時間。一瞬を紙切れに焼きつける一押し。
 俺とこいつとが共にいるこの瞬間を残して。
「…馬鹿らし」
 結局俺は指を離し手を離し、ただユウの細い肩を抱いていた。
 我ながら情けないばかりだった。不変などありはしないのだ。戻らぬ一瞬を切り取ったまま手元に置いておく勇気など、俺にはない。今は俺も、そしてこいつも、この神の懐に抱かれている。父の御心のままに暗躍する選ばれた子として。
 しかし結局は俺たちに使命感なんてない。腕の中にいるこいつはひとつの目的のために、俺は身体に流れる血のために、この黒い家に縛られている。
 今は、まだ。
「なぁ、ユウ」
「……何」
「胸またでかくなっ………げふっ!〜〜っ、ちょ、いま鼻折れた鼻っ!」
「いっそ死ね!」
 悶絶しつつ顔面を押さえ、それでも痛みは逃げきらなかった。
 アナタこんな男前の顔になんてことして下さるんですかちょっと。
 手のひらで表情ごと全部隠しながら、俺は唸っていた。しかしそれでも俺の口元は笑っている。俺の無表情とはすなわち笑顔に他ならない。俺の笑顔は無感情だがこいつの無表情は実に感情豊かで、付き合いが長い分かなり理解できるようになった。
「まぁ照れない照れない」
 だからこそ、ユウの頭ごと抱き締めた俺の目は笑みなど欠片も含んではいず、しかしユウに届く声だけには相変わらず笑みが過分に加えられている。そしてユウもそんなことは百も承知だ。そうでなければこの短気に殴られるだけで済むはずがない。幼い頃から一緒だった俺たちは、互いへの暗黙の了解を完璧に築き上げていた。
「…ラビ」
「ん?」
「背中痛くねーのか」
 指摘され、はじめて自分が床に寝転んだまま2人の体重を受けていたことに気づいた。道理で背中の筋が痛い。ついでに身体の末端が冷え切っているらしく、指先がすっかりかじかんでいた。俺の様子を見たユウが珍しく小さく口元を綻ばせ、ベッドに連れて行け、と目線で命令を下される。女王様のご命令に、俺は恭しく従った。軋むベッドの中で、身体が跳ねる。ユウは何も知らない風に俺の首へとしなやかに腕を絡ませ、引き寄せられるままに俺は柔らかな胸元へ顔を埋めた。
 他意なしに、抱かれている、と思う。
 心臓の鼓動が温かな肉を通して伝わってくる。臆病者の俺はたった一言だけを目の前のこいつに訊くことすらできない。不自由なこの庭の中、生きてきた自分とこいつとの道が元から分岐していることなど判りきっているのだから、口にする必要すら実際はないのではあったが。


 お前だって、とうに悟っているのだろう。


 血に縛られた自分とは違い、いつかお前はこの箱庭から解放される。
(お前のいる景色を形に残して置けるほど俺は)





 本当は俺よりも余程優しい女の胸で、ただひたすらに眠りたくなった。









>>>「不幸な蜜柑」担当だった筈なのですが見事に惨敗でした。
むしろ良い目を見すぎているという説も。
…更に精進を重ねたい所存でございます。
使用お題は「蜜柑」「床でゴロ寝しない」「撮影」
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