※注:この作中の神田さんはお人形っぽいです。
 第16夜微かにネタバレっぽく。
 限りなく人間に近い人形、或いはその逆。
 その点を踏まえてどうぞ。





 片腕を失いかける恐怖と、敵の懐に入り込む機会とでは、俺の優先順位は常に後者にある。
「…っ、神田!」
 その手に伝わったのは悪性兵器を破壊し尽くした感触と、その一瞬後に襲ってきた衝撃。痛みというよりは打撃に身体の軸がぶれ、まるで昼下がりの公園で清涼を振り撒く噴水さながらに、赤い体液を撒き散らし俺はくるくる踊るように倒れこんだ。霞みがかる視線の先に、見る見るうちに広がってゆく赤・赤・赤。そしてその向こうには、泣きそうな程の動揺を隠さない、同僚である少年の叫び声。


 (―――うるさい)


 (いい加減に、慣れたらどうだ)


 血の匂いにも、
 相手をただ打ちのめす破壊者としての在り方にも、
 そして己が生死の境を片足で渡って生きていることにも。
 いつまで経っても生温さの抜けない同僚が、だくだくと出血を続ける肢体を抱き上げ、大雑把な手つきで布きれを乱暴に巻きつけていくのが判る。上手く巻くことのできない両手に呪詛を吐きかけている奴に、苦笑だけは何とか浮かんだようだ。不器用な癖に慌てているせいだ、馬鹿。ゆっくりと薄れていく意識の中で、俺は身体機能が『戦闘時』から『生命維持』へと切り替わる気配をそれこそ肌で感じていた。


 ―――命の、残量。




 ++ 人形談義        ++





 がちゃん、がちゃん、キィィィィィ―――…


 やがて欠けた歯車が再び動き出す。身体の中から聞こえ出す、機械的な連続音は『直った』ということだ。目を開けると無愛想な真っ白の天井が映りこんだ。身体を労わる必要も気遣いもせず、全く平生と変わらぬ動作で俺は上体を起こした。俺の身体は至る所が包帯とガーゼで覆われていて、見えはしないがその下に隠れた表皮は元の滑らかな感触を取り戻していることだろう。
 引きちぎるように邪魔なそれらを解いていく俺の耳に、部屋の空気が動くのが伝わった。扉が開いたのだ。
「…神田、意識が戻りましたか…」
 ほぅ、と判りやすく安堵を浮かべたそいつは、手にしたトレーに乗せた水差しが倒れそうになるのも構わずに、ベッドサイドへと文字通り飛んできた。そして俺がリノリウムの床に散らかした包帯やらテープやらを苦笑しながら片付け始める。
「ねぇ神田。幾ら治ったからって、すぐに動こうとするのはどうかと思うんですよ。毎回のことですけど」
「どれだけだ?」
 奴の愚痴めいた、恐らく心配から来るのだろう台詞を無視した俺の問いかけに、今更奴から「何がですか?」などの間の抜けた問い返しはなされない。もう、幾度も同じことを繰り返してきたのだから。
「1日と、15時間…25分と少し、ですね」
「ちっ」
 予想より時間がかかっている…夕焼けと思われたカーテンを染める赤は、朝焼けのそれであったらしい。苛立ちをそのままぶつけるように最後の包帯を一掴み、奴に叩きつけてやった。その腕を咎める動きではなく、むしろ労わるようにか、優しく取られる。
「離せよ」
「……君はいつもいつも、僕にどれだけの心労をかけているか判ってますか…? 僕1人でイノセンスと同僚の遺体を抱えて帰還、なんてさせないで下さいよ」
「捨て置けばいいだろうが」
 ぎり、と奴の爪先が手の甲に食い込む痛みが走る。そもそも死地に赴くエクソシストが殉職したとして、屍骸など放って置かれるに決まっているではないか。日毎に誰かの命が消えていく、そんな世界に生きる者にとって奴の言い分などそれこそ微温湯に過ぎない。この危うい平和主義の新人ならば意地でも骸を引きずって本部に帰り着きそうではあったが、それでもその骸が俺であることは少し勘弁願いたい。まともな人らしい死など望むだけ無駄だとは判っているが、俺を知る者たちに無様を知らしめるなんて御免だ。
 俯いた奴の表情は窺えない。そして俺は自分の主張を曲げるつもりなど毛頭ない。
「いつだって、優先されるべきは任務でありイノセンスであり、使命だ―――エクソシストじゃない。それだけが存在価値なのだから」
 俺にとって、と呟く声は、果たして奴に届いたか。
 奴の指先は遊ぶように、撫でるように、俺の肩から腕にかけてを辿って行った。確認する指の動きが、その時だけは煩わしく感じなかった。何の痕跡もない皮膚に覆われているだけの薄い胸。そこから繋がる左腕が、つい40時間程前には胴と辛うじて皮一枚で垂れ下がっていたのだ。
「神田」
 確かめるように、奴の唇が俺のそれに押しつけられる。前振りもない、完全な不意打ちだ。しかし俺は無言で、奴の行動を許した。
 奴の乾いた、少し引っかかる唇が頬を下り首筋を伝い、そして左胸の上でぴたりと静止する。俺の睨み下ろす視線に気づかぬはずはない癖に、それでも動じた様子は見せない。左胸。普通の人間ならばただその下に心臓が埋まっている場所。その唇に触れる場所に何があるか、奴も既に知っている。
「…もっと、自分を大事に戦えませんか」
「俺を最優先させるべき必要があればな」
 そんな時など、一生来るはずもないが。
「いい加減離れろ。暑苦しい―――本部に、戻るぞ」
 蹴り飛ばすように奴を引き剥がし、俺は真白いシャツと漆黒のコートを手に取った。


+++


 …砂の音が、うるさい。


 ざらざらと、不揃いな粒が遠慮なしに流れ落ちていく音がする。耳をすませ、闇に息を潜ませればより明確に、その音は俺の内から何かを主張するように叫びたててくる。主張、主張、主張―――あぁそうだ。俺はこれこそが『タイムリミット』だと知っている。いつしか終幕を突きつけるためだけに流れ落ちゆく砂は、延々とこの身体を血液のように循環していくのだ。
(気をつけた方がいい…君の身体のことだ)
 うるさい。知った顔をするな。
(計り間違えてはいけない。余裕を見る余分などない。君を本当に殺すのは―――安堵だ)
「…そんな事」
 何よりも自分が、知っている。
 心の奥底をぎりぎりのところで窺わせない男は、愛用のマグで珈琲を啜りながらそうやって不意に言葉をぶつけてくる。そして俺の反応を珈琲の湯気越しに、それこそ科学者の目で興味深げに観察しているのだ。最初は感じていた不愉快さも、男がそういう生き物なのだと知った今は別段気にもかからない。あの男は聡明過ぎて、一緒の空気ですら吸えない。神が人を愚かに創り上げたのなら、大人しくそれに従っていればいいものを。
 脳裏に次々閃く、男の落ち着いたハイ・バリトンは歯車の軋みにとてもよく似ている。


 キィィィィィィ     キィィィィィィ


 常人ならば『治る』までに数ヶ月を要する負傷も、たった数時間から数日で『直る』この身体。忌避も畏怖も侮蔑も散々に受けてきた。俺は確かに生き急いでいるのだろう、目的の為に。黒の教団での重要かつ崇高であるらしい任務ですら、俺にとっては手段でしかない。神の非情さを嗤いながら神の代理行為に勤しんでいるのだ。陰性の笑みを刻みながら、純白のシーツに包まれたマットの上で、すぐ目の前に浮かぶ漆黒へ手を伸ばす。確かめるように、軽く握っては開いてを繰り返し、すぐに飽きてただ目を閉じた。何処までもこの身体は人間だ。その筈だ。それは言い聞かせなければ見失ってしまいそうな事実。少なくとも造詣だけは、神が手をかけて造ったもののように自惚れでなくそう思う。
 ざらざら落ち行く砂。きぃきぃ廻る歯車。耳障りな不協和音は妙な調和を持って其処に在る。四肢を丸め胎児のように、その左胸に手をあてれば紛れもない拍動が伝わってくるというのに。
(この、確かな鼓動は生の証ではないのか?)
 いっそ心臓すらも機械仕掛けであれば楽だったのに。自分らしからぬ馬鹿な考えは、微かな笑いとなって宙に消えた。


+++


 ゆっくりと、だが確実に。
 身体の修復は緩やかになっていく。古びた歯車は、徐々に浮き始める。
 それは例えば、あっけなく今までが崩れ去って行くような…

ィィィィィィィィィ

     キィィィィィィィィィィィィィ


 その日も、俺は奴とコンビを組み共に任務に当たっていた。レベル1程度のアクマならば掠り傷1つ負わずに10体単位でなぎ倒せる俺たちが、あえて組まされるような任務。それは当然、レベル2以上のアクマが関わってくると思われるものか、不確定要素の強すぎるものなど、要するに一筋縄では行かないような内容となる。エクソシストや捜索部隊の未帰還率もこの危険値の任務に集中しており、教団にとって重要であり本腰を入れるべきものなのだ。
 俺と奴は相変わらず打ち解けあう事はなかったが、しかし任務は任務として怠ることはしなかった。どうやら俺たちの戦闘スタイルの差は連携にも適しているらしく、不本意ではあるが他の連中と組まされるよりは随分良い、とまで思うこともあった。
 暗く深い森の中、俺は木々の合間を縫って走り続ける。コートに包まれている筈の肌にまで直接突き刺さるような殺気と害意を感じる。ひと気の全くないこの場所は『処理』には最適だ。下手にイノセンスが人間同士の葛藤や見栄や謀略に巻き込まれてしまったその後始末の面倒さと来たらない。人間よりアクマを相手にする方が、破壊者としては楽だとも言える。既にイノセンスの回収は終わり本部への移送にかかっていて、後は森に数体存在する兵器を破壊すれば終わりだ。そう、これは破壊行為なのだ。『救済』という言葉は、生者にのみ使うべきだ。
「―――あ゛ぁぁあっ!」
「ちっ」
 捜索部隊の内の1人だろう、放つ恐怖に彩られた絶叫に舌打ちが洩れる。どうしてさっさとこの場から離れておかない。現時点でここにいるべきは、使徒か兵器である筈なのに。その叫びで位置を確認し、愛刀を抜き払いながら駆けつける。さほど時を置かず辿り着いたその目の前で、白い部隊服の背中が鋭利な何かによって貫かれた。
「…くっ」
 憐れな被害者の身体が完全にくず折れる前に、俺は斬りかかった。イノセンスを解放し、宿る蟲と共に飛びかかる。相手はたかだかレベル1だ、何のこともない…と、思った瞬間ぐにゃり、とそれ≠フ球形のフォルムが歪む。
(進化しかかってやがる―――!)
 『進化』を目の当たりにして、俺はその前にと斬りつけた。蟲が兵器を貫き、黒い刃が一刀両断に裂く。終ったか―――? と体勢を立て直しかけた所で、俺の名を呼ぶ奴の声を聞いた。
「神田!!」
 何時の間にか奴が俺の前方に立っている。服は所々汚れ、軽く怪我もしているようだ。兵器たる左腕も発動しているのを見ると奴も数体処理してきたのだろう。しかしその事をゆっくり訊く余裕はなかった。奴の焦りを浮かべた表情を見とめて―――
「…っ、!」
 ダミーか。
 それとも原生動物のように一部のみでも生存可能個体なのか。
 一瞬差で進化を追えたらしいばらばらに地に落ちた兵器の、刺とも触手ともつかぬ器官がそれだけで蠢き、深々と俺の背を刺し貫く。衝撃にたたらを踏んでしまう程の一撃。ぐらりと強い揺れの後に遅れて、脊髄を猛烈な痛覚が走りぬけた。
(…まずい)
 唐突に浮かんだ思考。俺は死なない。死ねない。
 それでもよぎった、修理しきれないかもしれない・・・・・・・・・・・・・、という本能に近い予感と、そして―――
 俺はその時、初めて気づいた。俺が任務において負傷する時、いつも奴は俺の背後にいた。当たり前だ。奴が最優先するのは命と安全と平和だが、俺にとってのそれはイノセンスと任務だ。奴は密やかに激情型だが、俺は判断した上での無謀型だという自覚くらいはある。自分の身を顧みることのない戦い方はいつも奴の不興を買う。奴は俺がいかなる時もそうなのだと思っているらしいが、そもそも長く任務に就いているのだからそうそう怪我をしはしない。実際、俺が単独で任務にあたって入院沙汰になることは殆ど皆無だった。奴と組むということそれ自体が危険を意味するのだから、俺が重傷を負う時を狙い定めたかのように奴がいるだけだ。
 だから、奴の前で俺は傷を負い、奴の叫びを背中越しに聞いているだけだったのだ。そしてそのパターンは初めて破られた。俺は奴を目の前に捉えながら、貫かれた胸を押さえた。ぬめぬめと体液に濡れた凶器が胸から突き出ている。抜けば失血が酷くなる上に、どうやらその余裕もないようだ。
 ―――ざしゅ、と軽い破裂音と共に、奴の左手がのたうつ残骸を片付ける。今度こそ完全に事切れた兵器が崩れ去る音も気配も、俺は判ってなどいなかった。
 見てしまったのだから。
 恐らく奴が、これまでと同じように浮かべていただろう表情を。
「神田」
 俺の身体を抱きとめ、そのコートが血に染まることも厭わない奴は…笑んでいた。
 紛れない喜色に唇を吊り上げて、跳ねた血飛沫を頬に受けたまま、確かに彼は笑っている。
「…かは…っ」
 やられたのは気道か肺か。
 血を吐いて、がくりと膝を折る。俺の体重を全て支えながら、その動きに合わせて奴はゆっくりと膝を曲げた。血溜まりが見る見るうちに地面に広がっては吸い込まれていく。
「大丈夫ですか?」
 どこか平然と、彼は俺の頭の下に腕を差し入れ、酷く優しい手つきで横たわらせた。なすがままにされつつ、心配そうな声とは真逆の彼の表情を俺は呆然と見上げていた。
「あぁ、深いですね……早く、手当てをしないと…」
「……っは、お、前―――」
 微かに発声するだけで、ごぷりと血の泡が口の端に溢れてくる。脳に直接打撃を加えられているような苦痛が俺の意識を狭めようとしていた。こんな状況下にあって優しすぎる顔をした彼が唐突に恐ろしくなり、僅かに振り払おうとした手の動きですら強い力で阻まれた。
「駄目ですよ。じっとしていて」
「痛…っ」
「だからじっとしていて、と言ったのに。そんなに僕が怖いですか」
 すぐ目の前、僅か20cm程上にある彼の顔。この男はこんな顔をしていただろうか。にこやかに俺を見下ろし、胸にまで到達していた傷を塞ぐためか確かめるためか、無遠慮になぞり上げられる。更なる痛みに顔を歪めても、彼は気にも留めなかった。
「離…」
「君は人形だ」
 ねぇそうだろう?
 確認ですらなく、淡々と事実だけを言うような声音。
「この怪我はどのくらいで『直る』かな? 1時間? 10時間? 1日? 1週間? 普通なら即死していてもおかしくないのに」
 もしくは、人間なら。
「…何、が」
「僕は綺麗なものが好きなんです」
 赤い体液に全身を汚しながら、彼はただただ笑みを刻んでいる。
「そして今はとびきり欲しいものがあるんです。綺麗な綺麗な人形に、一目惚れをしましてね」
 どうして、今まで気づかなかったのか。
 目の前の少年の瞳に浮かぶ、感情と。
 そして彼がかつて、その弱い愛故に何をしたのかを。
「…これ、邪魔ですね」
「ぁあ゛…っ!」
 何の断りもなしに、奴は胸に突き立った凶器をいきなり引き抜いた。目の前が真っ暗になるような痛みが襲いかかる。
「流石ですね。まだ意識がありますか」
「……けふ…っ、は、は………っ、ふざ…ける、な…っ」
「君の言う事は何一つ聞いてあげません。それに僕は君が何をどう思おうと、そんな事どうだって良いんですよ―――ねぇ」
 俺の頭を抱きかかえ、彼は愛を囁くように呟いた。
「壊れたら、僕に頂戴?」
「……冗談、じゃない」
「言ったでしょう。神田の言い分なんてどうだって良いんです。どうですか、調子は? さっきまでより少し喋れるようになってますね―――あぁ、今回も修復しきってしまうのかな。良かった」
 全然そうと思っていない事は声で判断するまでもなかった。
「本当なら、もっと早くに欲しかったんです。でも神田。君はあまりにも僕を信用したように目の前で倒れてくれるから。それに、神田と一緒に過ごす時間も好きなんですよ、これでも―――」
「…死ね」
「君を譲り受けた後になら」
 此処は何処だったろう。不意に俺は辺りを見渡したくなった。
 どうして俺たちはこんな会話をしているのか。どうして俺たちはこんな場所にいるのか。どうして俺は怪我をして、どうして彼は俺に嬉しそうに告げるのか。
「ねぇ神田。いつか君が人形らしくことりと倒れて壊れたら、僕はその隣で鎮魂歌を歌いましょう。綺麗に綺麗に飾り立てて、ずっと見守っていてあげる。僕が人間らしく腐り落ちて死ぬまで」
 どくどくと拍動と共に血液が体外へと押し出されていくのが判る。茫洋と霞みの深まる意識。ぼやけた世界にただ1つだけ明瞭に、響いてくる彼の声が睦言のように聞こえたのは何だったのか。
「いつか君を僕に頂戴」
 周囲に対して紳士的な少年。
 和やかな雰囲気を作ることに長け、他人への気遣いを忘れない少年。
 皆に愛され、皆を愛している筈の少年。
 それらの振る舞いも、もしかして全部―――


(…あぁ)


 この男は、世界の全てを欺いて生きているのだ。


 充足とも恐怖ともつかぬ感情に満たされながら、俺は何故か微かに頷いて。
 そしてゆっくりと、闇の中へ意識を手放したのだった。


 いつかこの身体が完全に停止する時、この同僚は幸福に満ち満ちた笑みを浮かべているのだろう。
 そんな確信に満ちた思いと共に、またあの音が―――





キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ






>>>あぁ残念だったな。
 お前も見誤ったか。
 俺を殺すのは安堵でも油断でも希望でもなく、
 お前ですら見逃していた、狂気じみたあの―――


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