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 その日、目覚めると異様に頭が重かった。


 朝。
 明日以降に予定されている任務について、大まかな説明と質疑応答を受けた。
 少しぼうっとしていたので重要な個所を聞き逃す。


 昼。
 食欲がなかったのでそうめんを半分だけ食した。
 それでも襲ってきた嘔吐感を何とかやり過ごす。


 夜。
 いつもの鍛練を今日は控えることにする。
 さっさと眠ろうと部屋の灯りに手を伸ばした所で、扉がノックされる。
 緊急時の叩き方だったのでコ−トをひっ掴みながら開けると、そこには今世界で一番見たくない顔が平然と笑っていた。




++ までもらし続 ++




「あぁーっと、ちょっと酷いですよ、いきなり」
 指、挟んだら怪我しちゃいます、と素晴らしい速度で閉じられかけた扉に、これまた素晴らしい反射神経で手を入れてこじ開けた白髪の少年は、不平を口にしながらするりと神田の私室へと入り込んだ。
「帰れ。ていうか入っていいと言った覚えはない」
「えぇ? だって神田の口から入っていいって台詞、聞いたことないですよ」
「だから入るなと言ってるんだ!」
 思わずがなり立てると、自身の声の高さにもがんがんとこめかみが痛む。
 頭痛が酷い。
 何かを言わなければならないような気がしたが、それが何か判らない。
 咄嗟に右手でこめかみと眉間を押さえ、神田はもう再び侵入者に扉を指差した。
「……いいから、帰れ。これ以上粘るとその軽い頭を胴から離すぞ」
「嫌です」
「おま…っ」
 あっさり言い捨てて、アレンは手にした紙袋をがさがさと振って見せた。
「お見舞いです」
「……は?」
「神田、今日1日具合悪そうでしたから。昼も夜も、そんな食べてなかったし。朝なんて食べてすらいなかったでしょう」
「……お前の基準でモノが食えるか」
「一般基準でも足りてませんよ」
 勝手にアレンはテーブルの上に紙袋の中身を並べ始めた。
 中身は缶詰やら果物やら、要するに食べやすく消化の良いものばかりを詰めて持って来たらしい。
「神田、リンゴ好きですか? 剥きますよ」
「……要らん」
「そんなこと言わずに」
 にこにこと何が嬉しいのか、アレンはこれまた忍ばせていたらしい果物ナイフを手に取ると、赤く熟れたリンゴに刃を入れた。
 しゃくりと硬質な音と、爽やかな芳香が一瞬広がる。
「ほら、神田。そんなとこに突っ立っていないで。ベッドに横になったらどうですか? 辛いでしょう?」
「……ふん」
 それでも、神田は大人しくアレンの言う事に従ってベッドへと横たわった。
 先ほどからがんがんと、頭痛が増して行っているのが判る。
 束ねている髪を解くと艶めかしい黒髪がばさりと白いシーツの上に広がった。
「ゆっくり、休んで下さいね」
「……ぁぁ」
 驚くほど素直な言葉が口をつく。
 何だろうか。
 何かが頭の中で叫びたてているのに、白い薄幕が張っているかのように実態が掴めない。
 気分が悪い。
 神田の反応にアレンは一瞬驚いたように目を見開いたが、嬉しそうに笑ってリンゴを剥き続ける。 


 しゃくしゃくしゃく。


「よし、と。神田、起きてます?」
 暫くした後、アレンは皿にウサギに作ったリンゴを並べ終えた。
 軽く神田の肩を揺さぶると、うっすらと彼の黒瞳が現れた。
 眠気が増して来ているのか、やけに溶けかかった色をしている。
「……ん」
「はい、起きて下さい」
 アレンに促されるままに、神田は身を起こした。
 目の前に差し出されたリンゴは可愛らしい動物の形に模されていたが、今さら神田はそれに文句をつけはしなかった。
 ふらふらと、条件反射のように白い果実を咀嚼していく。
 まるで自身がウサギになったようだ。
「本当に、大丈夫ですか神田。また、無茶な鍛錬でもしてたんじゃないでしょうね」
「……知るか…」
 その答えに、アレンが微かに唇を歪めた。
 いや、神田が気にも止めていなかっただけで、彼は今日1日中、ずっとそんな顔をしていなかったか?
 今日1日ずっと、神田の顔を見て彼は密やかに笑っていなかったか?
「……?」
 こめかみの血がどくりどくりと大きく鼓動している。
 まるで心臓がこめかみにあるかのようだ。
 思考回路が働いていない。
 今、単純な計算をやれと言われてもできるか判らないまでに脳の働きが落ちている。
 頭が痛い。
 本気で割れるのではないかと、そんなリアリティのない空想に囚われるほどに。
「……寝る」
 すでに起きていることも限界で、神田は倒れこむようにベッドに横たわった。
 その様をずっと、アレンはにこやかに眺めている。
「神田。寝ます?」
「……帰れ」
「…えぇ、帰りますよ」
 そしてアレンは神田の耳元へ唇を寄せると、密やかに囁いた。


「今日は、昨日みたいなことはしませんから―――」


「……え?」
 あまりに優しげな声に、その意味するところが一瞬判らなくなる。
 間の抜けた神田の返答に、くつくつとアレンは楽しそうに笑った。
「あぁ、やっぱり。やっぱりですか」
 朝から変だ変だとは思っていたんですよ。
 1人納得したように頷き、アレンはベッドサイドに腰かけると横たわる神田の髪をさらりさらりと梳き始める。
 びくん、とただの条件反射以上に神田は自身の身体が竦むのを自覚した。
「おや、神田。どうしました」
 最近はようやく、触れるのにも慣れてきてくれたじゃないですか。
 アレンの台詞に、あぁ確かそうだったはずだと思い返す。
 意外にもスキンシップが好きらしい新しい同僚は、何かと言えば神田の肩に触れ手に触れ、そしてとうとうしつこさに負けた神田は髪に触れることすらも許し始めたのだ。
 彼の触れ方は壊れ物を扱うかのように優しく、不本意ながらも心地いいとすら神田は思っていたのだった。
 そうだ。
 確か、自分は口では彼を拒絶しながらも結局は彼が触れることを許容していた。
 その筈、なのに。
「……離、せ」
 その声ですらひび割れるほどに、今の自分は彼の接触を全身で拒んでいた。
「何でですか?」
「…離せっ」
「聞こえません」
「…や…っ、だか、ら、離せ、と……っっ!!」
 掠れた声で必死に彼を拒絶する。
 頭に熱い血液が一気に逆流したかのようだ。気分が悪い。
 そして反対に足からどんどんと体温が吸われていくような気がする。今自分の顔は真っ青になっているのではないだろうか。


 がた、がた。


 何の音だ。
 風が強く吹いているわけではない。壁の何が落ちたわけでもない。


 がた、がた。


 あぁ、これは。
「離せ―――…っ!」


 自分の歯が、鳴っている音。


 恐怖に竦んだ、みっともない顔で。


「…っふ」
 そんな神田の醜態を見下ろし、アレンはとうとう堪りかねたように笑い始めた。
「あ、っははははははははははは!!!」
「………っ、何…っ!?」
 誰だ。この目の前で笑い転げるこの男は。
 誰だ。こんな狂ったように笑う男を、自分は知らない。


 ――― 本当に?


「…あ」


 アレンを見、一瞬だけ怯えた様子を見せた神田の手を掴み、アレンはにこりと笑った。
 体質の差か、経験や技、応用でなら神田の方に分があったが、純然たる力としてはアレンの方が上だった。
 本気で押さえ込もうと思えば、ベッドに寝転んだ相手など少々強引でものしかかれる。
「止め・っ、お前…っっ!!」
「だって、忘れちゃってるでしょう? 初めはなかったフリしてるのかなと思いましたけど、考えてみれば神田ってそこまで演技できない性格だし」
 ある意味で失礼なことを言いながら平然と覆い被さる黒い影に、神田の気分は最低になる。
 気持ちが悪い、気持ちが悪い、気持ちが悪い!
 嘔吐感と胸のむかつきと酷い頭痛と寒気と、ありとあらゆる不快が全身を覆い尽くす。
「それって酷いですよねぇ? だから思い出させてあげようかなって。親切ですよ♪」
 すでに彼の手を振り払うほどの余裕すらない神田に薄く笑って、アレンは彼の左手をぐいを掴み上げた。
 ずる、と袖を肘の辺りまで引き下ろし外気に晒す。
「無意識に見ないことにしてるんでしょうけど。僕がいるなら見えるでしょ? ほら、神田。見て下さい」
 そう言って、アレンは神田の目の前に露になった手首を突きつけた。
 アレンの意図が神田には判らない。
 掴まれた左の手首はいつも通りで、強いて言うなら相変わらず日に焼けず生っ白い腕だという感想だけだ。
「…何、言って」
「逃げようったって駄目ですよ。……ほら、見て。よーく、見てみて?」
 ぐわんぐわんと頭の痛みが激しくなる。
 まるで警鐘だとでも言うかのように。
「…?」
 アレンの言う通りに、霞みかけた瞳でじっと手首を凝視した。
 何もない、白い手首。
 引き締まった薄い筋肉、血管、骨、親指の下の赤い痣―――


「……あ?」


 ―――赤い、痣。


 一瞬の内に蘇る、フラッシュバック。
 それは鮮明すぎる、昨夜の記憶。


+++


(止め…っ! 離せ…っ)
(駄目)
 既に抵抗しきれるだけの体力のない神田の足を抱え上げ、彼は躊躇なしに雄を捻じ込んだ。
 適当に慣らしただけであるが、強引に体重をかけて分け入れば何とか全て収め終える。
(ひ…っ、や、痛ぁ……っ)
(これからもうちょっと痛いかな? 動きますから)
(ぃ……っ、ひぃああぁぁぁあっ!?)
 内臓を直接掻き回されるような圧迫感と苦痛から逃れようと、必死に手を突っ張り首を振るがいともあっけなくその抵抗は封じられる。
(あ・はァ、いぅっ、や―――っ!)
 突きこまれる他人の肉。
 絶えず耳を侵す水音。
 両手首はがっちりと押さえつけられ、そして身体の上を傍若無人に生暖かい舌が這いずり回る感覚だけがやたらとはっきりしていた。
(……綺麗、です……ねぇ、神田?)
 まるで称えるかのような囁きを生みながら、その唇は容赦なく神田の身体にこの行為の残滓を刻み付けていく―――


+++


 ぐ、と強烈な嘔吐感に口元を押さえうずくまった神田の手を、アレンはなおも彼に見せつける。
「……ね? 見えたでしょう?」
 思い出したでしょう?
「……っ、お前…っ」
「1人で忘れて、1人で平気な顔をして。それでなかったことにするつもりだったんですか? なかったことに、できるつもりだった?」
 人間の記憶とは、実は曖昧なものだ。
 客観的ではなく主観的であるがゆえに、あまりに本人が拒絶する記憶を一時的に消去してしまうことも―――ありうるのだ。
 悪夢のような一夜を、いつも通りの日常に。
 記憶に蓋を。感情に重しを。
 そんな神田の精一杯の自己防衛を、目の前の男はいともあっさりと笑い飛ばした。
「そんなこと、できるはずないでしょう? この僕が此処にいるのに!?」
「出て行け―――!」
 枕を引っ掴み、アレンへと叩きつけようとするがあっさりと避けられる。
「一度でも、忘れようとするから。だからこうして、余計に苦しいんですよ」
 彼の声が、ぐるぐると思考回路を妨げていく。
 体調は悪化していくばかりだ。
 思わず神田がベッドの上で後ずさると、笑みを絶やさないままにアレンが乗りあがってきた。
 そのまま有無を言わさず、きっちり止められた神田の胸元を強引に開かせた。
「まだこんなに、残ってるのに」
 所構わず、まるで誇示するかのように散りばめられた、赤い華―――
「―――ぃ…っ!!」
 反射的に、神田は目を閉じ、両手は耳を塞いだ。
 まるで子どもがお化けから逃げているかのような滑稽な姿。
 目を開けては。手を離しては。
 見たくない現実と、聞きたくない事実が自分をきっと打ちのめす。
 どうして忘れられると思ったのだろうか。
 どうして無かったことにできると思えたのだろうか。
 此処まで明確に刻み込まれた証に、よく目隠しをしてこれたと思う。
 そこまでして、みっともなく足掻いて忘れ去ろうと務めているのを知りながら、それでも。
 こうして神田の何もかもを暴きに、この男はやって来る。
「ねぇ神田、知ってますか」
 楽しそうだ、と神田は思った。
 自分の手首を掴み上げ、まじまじと昨日の名残を見つめるアレンの表情には確かに喜色が浮かんでいる。
「杯をね、引っくり返したらどうなると思います?」
「…何、を?」
「判りませんか? 判りますよね? 引っくり返したら、零れた水はもう戻らないんですよ!」
「……っっ!」


 ―――消し去れやしないんですよ、もう2度と!


 高らかに宣言する彼に、あぁそうだのだと神田は思う。
 どれほど視界を塞いでも、どれほど鼓膜を鈍らせようとも。
 この世界の誰よりも、覚えているのは自分自身なのに!
「…お前、は…いったい、何がしたいんだ……」
 自分の顔はおそらく、涙と汗とでぐちゃぐちゃだろう。
 そんな顔を上げ、掠れた視界の先には、今己の世界を支配する少年がいる。
 神田の問いかけにも、彼は楽しそうに笑ったままだ。
「そうですね、とりあえずは」
 不意に彼が顔を寄せてくるだけで、びくりと過剰に反応を返してしまう。
 例え突き飛ばそうとしたとて、大人しく突き飛ばされてくれるはずはなかっただろうが。
「………ン・」
 じゅっ、と鋭い水音を立てられ、ちくりと首筋に一瞬痛みが走る。
 満足そうな笑み。
 彼の舌先には、血の味でもしただろうか。
「毎日、こうして痕をつけに来てあげる。毎日毎日、新しくしてあげますよ」
 優しげな声音が、絶望めいた色で神田の背後から迫るのが判る。
「……はは」
 ベッドに仰向けに倒れ伏し、両腕を交差させて両目を覆い、そして神田は薄くこみ上げる笑いに身を任せた。
「はは…ははは、お前、は」
 逃がさない気か。
 忘れさせない気か。
 この閉鎖された日常空間で、毎日顔を付き合わせなければならない相手に、此処まで思考の大半を持って行かれたままでいろと?
 それでお前は、至極満足そうに笑うのか。


 ―――あぁ、何て残酷で最低な男。


 己の顔を覆って小さく笑い続ける神田の腕に、アレンは触れるだけのキスを落とした。
「良い夢を、神田」
 見なくても何故かはっきりと判る。
 彼の顔に浮かんだ、薄らな愉悦だけは。


 はっきりと。


+++


 ふと、重い目蓋を上げると既に朝だった。
 いつ自身が眠りについたのか、神田には記憶が全く無い。
「……?」
 ぼうっと重い頭を振りながら、神田はベッドから下りた。
 そのまま習慣通り、顔を洗うために洗面所へと向かったところで、鏡を見つける。
 ふらふらと鏡へ近づき、そして神田は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「……今度は、忘れはしなかったか」
 呟いて、鏡の中の自分を眺める。
 思う存分につけられた痕はいっそ華やかなほどだ。
 そして首元の一点、昨夜彼に重ねて刻まれたそこへと指を伸ばした。
 一瞬のうちに、脳裏に展開されるのは幻の彼の姿と彼の声。


(毎日、こうして痕をつけに来てあげる)


 誰も見ていないこの場所で、神田は顔を歪めこつりと鏡に額をくっつけた。
 目を閉じたままで、首元のそれにそっと触れる。
 指先に微かに電流らしきものが走ったのは、気のせいなのだと神田は思い込むことにした。
 そして自分が泣きそうなことにも、神田は気づかない振りをしようと決めたのだった。


「例え、お前が来なくても、もう―――」




までもらし続








>>>こないだの鬼畜が神田担当だったので
本家本元鬼畜のアレンに登場願ったら
かっ飛ばしすぎてしまったご様子。
さすが総攻。
そして本当に済みません(笑)

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