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「やぁこんばんは」
相変わらず表情筋の使い方が上手い男は、今日も実に人好きのする笑顔だ。 ++ 閉じられ綴じられた逃走劇++ 誰が聞いても意外だとしか反応しないが、実はこの男の私室は整然とまとまっている。書類はファイルに、書籍は番号で振り分けられた棚に、筆記用具は引き出し一番上のケースの中に、あるべきものがあるべき場所にきちんと収まっている光景は、研究室や科学班室では絶対に拝めない。やろうと思えばここまで整理整頓ができるのに、どうして普段はああなのか。いや、どうして私室だけはこうなのか。理由と突き詰めれば結局は自分とこの男との唯一の共通点に到達してしまうのは判りきっているので、今まで問うたことはない。本部上層部に食い入る男と本部の誇る悪魔祓いとが、揃いも揃って洗礼すら受けていないとは。 天井と壁に据えつけの本棚には、所狭しと文献が並んでいる。程よく時を経たインクの臭いを振り切るように、俺は奴の私室を突っ切った。扉を開け俺を迎え入れた姿勢のまま、ぐるりと首だけを回して、男は面白そうに俺の足の向く先を見ている。ちらちらと瞬く光は好奇心という名のルーペだ。そのあくなき探究心と観察力だけは、研究者として認めてやってもいい。それと、空恐ろしいまでに他人への感情が希薄な所も。 一応は科学班室長、という地位にいる男はプライベートスペースも広く割り当てられている。自分たちエクソシストの住宅事情がワンルーム、家具・シャワー付きなら、こちらはスィートルームだ。しかもとびきり豪勢な。私物を収めた書斎代わりの部屋の向こうには、寝室までついている。その寝室へ至る扉を部屋主の視線を感じながら開け放ち、そのまま中央に鎮座する寝具へ近づくなり飛び込んだ。頭から飛び乗った割には衝撃はない。ばふん、と空気の抜ける音と共に、微かな香の香りが立ち上る。さらさらとした肌触りのシーツからは、柔らかな太陽の匂いがした。そのまま羽毛の詰まった枕に顔を埋めながら寝転がっていると、寝室と書斎の境にやってきた男はようやく床に落ちたそれに気づいたらしかった。 ―――風邪引くよ? まるきり子どもに言い聞かせる口調で、男は落ちていた黒の団服を拾い上げた。先ほど脱ぎ捨てると同時にベッドへ滑り込んだ訳だが、室内が適温に調整されているため、寒さは感じない。 ―――やれやれ。 うつ伏せたまま微動だにしない俺に、苦笑を洩らしながら男はそれをハンガーに吊るしたようだ。金属質の音と男の動く雰囲気でそうと判断したのだが、間違ってはいないだろう。 やがて、ぎしりとベッドの端に重みがかかった。男が腰かけたのだ。まだ眠るつもりはなかっただろう男の寝室は当然ながら闇に覆われていて、顔を上げ目を開けたとしても、今男の表情を確認することは難しい。実験器具の数々を丁寧に扱う指先は、それと同じくらいに(もしくは、同程度に?)優しく俺の髪を梳いた。 「此処はお子様の相談室じゃないんだけどねぇ」 「…うっさい」 前フリも何もなしで、いきなり核心を突かれてしまったお子様としては、盛大に拗ねて見せる他ない。枕から顔を離さないままの返答は、大人の奴からして見れば十分に拗ねているに違いなかっただろうけれど。 「あのねぇ神田クン? 悩ましい姿を僕のベッドで公開してくれるのは嬉しいんだけど、多分それアレン君に見られたら僕の身が危なくない?」 「何だそれ」 「だから此処で引きこもるのは止めようねーって話」 「誰が引きこもりだ、誰が」 「目の前で拗ねてる子」 よしよし、と完全にあやす調子は非常に腹立たしくしか映らない。身体つきだけなら既に十分大人と呼べる形を成しつつあるのに、中身にまでそれが行き渡っていないと、察せられているのだから。 「…あいつ、訳判らねぇんだけど」 「ま、そうだねぇ。特に君にとっちゃそうだろう」 「何が言いたいのかも。何を欲しがってるのかも判らない」 男が軽く肩に手をかけたのを理由に、俺はようやくごろりと仰向けになった。心地よい暗闇が視界を埋め尽くす。ようやく感情の昂ぶりが落ち着いてきたのか、此処に来て少しばかり肌寒さを感じた。上体はサラシを巻いただけで、二の腕も肩も腹も外気に晒している。見た目からして寒いはずだ。 「どうしたの」 人肌を思い出そうと、男の首に両腕を巻きつければ小さく笑われた。そして笑いを収めないままに、前髪をかきあげられ露になった額に小さく唇が落とされる。その濡れた感触にぞくりと皮膚が小さく粟立った。 「甘やかし過ぎちゃったかなぁ」 「…妹をか?」 「まさか。僕の姫は砂糖漬けになるくらいにまで甘やかしてあげる予定だよ」 悪い大人に引っかかった君のこと。 小さく囁く男の言い分は、確かにその通りなのだろう。例えその瞳に何を映していなくても、他人の欲しいものを的確に推察してしまう。この男は、こうして自分がベッドの上でどんな姿を晒していようとも、おそらく感情がかき乱されることはない。そしてこの男はこれで完成されていて、変化など起こらないと確信しているからこそ、自分は平気で服を脱ぎ捨ててベッドに上がる。 「アレン君が怖いかい」 「…な訳ねぇだろ」 「僕は怖いよー。君と違って、あちらは地べた這いずり回って生きてきた子だからね。見た目は可愛いから、本部に新たな華が増える・って喜んじゃったんだけどなぁ」 上手く行かないものだねぇ、と男はのんびり笑い、手馴れた様子でサラシを緩めた。圧迫感が開放感に変わり、小さく息をつく。 「…悪い大人だと自覚はあったか」 「まぁそりゃあ。こうして困り果ててる君を放っておくくらいには」 サラシの隙間から手が差し入れられ、優しく揉みしだかれる。普段は女という性別ごと押さえつけているとは言え、男連中の好色な視線には慣れていた。そしてそういう意味では、この男に雄を感じたことはない。最初、役に立つのかとすら思った程に。 「あの子は容赦ないだろうねぇ。人間の下種な側面をきっと見尽くしてる。君にしてみれば、相手が悪すぎた」 「…だから、俺はあいつが嫌いだ」 「だけど、彼女は君が欲しいんだよねぇ」 全くもって、上手く行かないねぇ世の中っていうものは。 「あぁ、そうだな」 本当に、その通りだ。 「やれやれ、不器用な子が多くて困りものだよ」 今度は深く口づける。しっかりと腕を回して、相手の頭部ごと抱きしめた。こちらの反応など全て判りきっていると言わんばかりの余裕に、今だけは安堵しか感じない。 「出来た大人ならきっと君を追い詰めて追い詰めて余計で煩雑な論理や倫理なんて全部引き剥がしてあげるんだろうけど、」 惹き込まれてしまったら己がどうなるのかすら判らない子どもに、逃げ道なんて残してやらないのだろうけど。 「僕は悪い大人だから、君を楽になんてしてあげたくもないんだよ。ま、精々苦しんでね」 「…は…っ、最低だな…」 男が唇の端を歪めた。きっと、その笑みには嘲笑が幾分か混じっていたことだろう。 「だから来たんだろう? さて、ゆっくり甘やかしてあげようか」 ―――そして相手の真っ直ぐで強すぎる感情に、足ごと縫いとめられてしまえばいい。 その言葉は呪詛だ、とはっきり感じた。 この男の薄っぺらい優しさ(という名の無関心さ)に堕落を誘われた自分はきっと、あの鮮烈な光を放つ赤い瞳には耐え切れない。指を這わせれば指先に感じるのは細身ながらも筋肉質な男の体躯なのに、そしてそれには慣れ親しんでいるはずなのに、微かな違和感が拭い去れない。圧し掛かるのは確かに見知った男であるはずなのに、どうしてだろうと思いながら、その答えを知っている自分がいる。どうしてお前は俺をそこまで追い詰めるんだ。どうして放っておいてくれないんだ。どうしていともあっさりと、この空っぽの器と心にお前は楔を打ち込むんだ。一体お前は何処まで俺を追い落とすつもりなんだ。 どうして、この心地よく不毛な場所から引きずり出そうと。 目蓋と共に思考も塞いで、追い払いたいのは。 あの真白い少女の姿。 |
>>>イロモノpart2、アリィ嬢前提コム嬢(…) 捏造も此処まで来ると逆に清々しいものがありますね。 百合万歳。と小さく呟いてみます。同士様求ム。 >>>back |