侵される。
この頭にぎっしり詰まるものが狂気なのか、狂喜なのか、それすら把握することは叶わない。適わない。 ++ 聖夜に惜しみなき祝福を愛を ++ 其処は一片の光すら差さぬ、冷たく陰気な小部屋だった。幾つもの扉をくぐり、幾つもの誰何の問を受け、幾つもの角を曲がり階段を下りた先にようやく辿りつく、父なる神の懐に抱かれた場所の最奥に、その部屋はひっそりと存在していた。湿り気を帯びた空気は淀み、そこかしこに澱を作っているかのようだった。古びてはいても頑丈さだけは残した扉には、幾重もの鎖がかけられ南京錠がぶら下がっている。 その室内に生の気配はなかったが、しかし動の気配だけは辛うじてあった。ずるり。ずるり。ずる。ず。 「…………〜」 生者のものとはとても思えないその蠢きは金属質な音を立てるのみで、まるで幾本もの金属チューブが蛇のように石造りの床をのたくっているかのシュールな様子を連想させる。そして微かに混ざる、雑音に近い鼻歌。 ずるり。ずるり。ずる。ず。ずず。 「……〜、…、〜〜」 誰も聞く者のいない歌。よくよく耳を澄ませ細心すれば、何を歌ったものかが判っただろう。それは歌ではなく、ただただ「彼」が歌うように言葉を垂れ流しているだけだ。 (さあ) 闇に埋め尽くされた小さな部屋。他の全てから隔離された其処だけの世界。其処だけがぽつねんと、神の恩寵から取り残されたかのような場所。そして時折、そう、ほんの時折。 「入るぞ」 がちゃがちゃと数多い錠前を外す手間に舌打ちが聞こえた時のみ、その扉は開かれるのだ。 神田は慣れた様子で迷うことなく、ずしりと重い鍵束のひとつひとつをそれぞれ、合う穴に差し外していく。一体この扉だけで幾つ鍵をかけなければ安心できぬというのか。ただの鉄の鍵だけではない。タリズマンが仕込んであったり洗礼が施されていたり、ただ部屋の中のものを厳重に「保管」するための錠ではないことは明らかだった。 これは「保管」ではない。「保護」でもない。これは「封印」であり「束縛」であり「生贄」だ。 一歩足を踏み入れれば、おどろおどろしい空気がねっとりと質感を持って神田の頬を撫で回す。不快に首を振る仕草も、すでにしなくなった。そして扉と反対側の壁にもたれかかる「彼」を冷ややかに観察し、今日神田が戻って後、報告するだろう文章を事務的に口にする。 「前回より3週間経過。侵食の進行はやや緩やかになっているが、同化が激しい。意識レベルはU」 「〜…、……、〜」 「聞こえているか、これだから寝汚い奴は困る。それと不躾に触れるな。俺は高い」 伸びてきたそれを、勢い良く叩き落とす。室内に侵入してきた人間を警戒してか、その動きは徐々に緩慢なものから敏捷なものへと変化していく。ずるり。ずるり。ずる。ず。 「……少し、緩んでいるか。すぐ済む。動くな」 取り出したのは新たなタリズマン。科学班が最先端の技術の全てをつぎ込んだそれは、物理的衝撃、エネルギー波から呪詛に至るまでを悉く遮蔽する。エクソシストよりも突然の死に見舞われることの多い探索部隊にとって、それは必要不可欠なものだった。外部の何人からも自らを守る術として。ただ、今回の使途は常とは違う。外部の何かから内を守るものではなく、内にあるものを外界の全てから切り離すために、それは使われる。 「………、」 呟いたのは結界発生の鍵言葉。楔型に作られたそれが淡い光を発し始める。神田はそれを「彼」の周囲で比較的「空いて」いる箇所を選んで突き立てる。まるで墓標のように突き立ったそれは、すでに同じものが数十本、「彼」の周りを檻の如くぐるりと取り巻いていた。新たに増えた杭に共鳴するかのように、「彼」と取り巻く空間全体が一瞬だけ光を発する。 それに頓着することなく、「彼」は歌う。 「〜…、…、〜〜…っ♪」 「っ、待…っ!」 僅か、ほんの僅かだが「彼」の「目」が光を増したのを神田は見逃さなかった。掠れた声も若干音量が増す。何気ない風に、「彼」の「腕」がほんの僅か――― 「止めろ、違う!行かなくていい!」 「……ぁ、ぁ、あ、あ」 「人の話を聞きやがれ、阿呆!すぐ消える!」 ああそうだ。すぐに反応など消える。タリズマンに仕込まれたモニターの先では、「彼」の反応の源を今まさに叩き潰している所だろう。何をしているぐずぐずするな。早く潰せ。「こいつ」を捕獲している檻は、「こいつ」が無反応な時でしか通用しない。 「…せ…!」 ここに来て、ようやく「彼」は、まるで大罪人であるかのごとくに捕縛されている少年は、かつて神田の隣で笑顔を浮かべていた新人は、遠い昔やけに真剣な間抜け顔で神田に「好きです」と告げてきたアレン=ウォーカーは、まともな声を発した。まともでないのは部屋の有様と、彼自身の有様と、そして台詞の内容だった。それはずっと、彼が歌い続けてきた言葉だった。 「殺せ壊せ呪え犯せ…!!!」 「…っう」 痛いほどの振動が神田を直撃する。数十個のタリズマンがけたたましい悲鳴と警告音を上げる。そしてアレンの「右腕達」が一斉に神田を敵と認識した。 (敵だ) (壊さなければ) (偉大なる父に逆らう悪魔を) 「呆けるな、ど阿呆が!」 黒い刃が翻る。一振りする度アレンの腕が切り飛ばされていくが、彼はそれに頓着した様子はない。痛覚をまともに感じているのかいないのか、それすら神田には推測することも叶わない。 のたうつ幾十本もの「腕」。際限なく肥大し続ける腕は分岐し、時に融合し、肉色の表面は醜く波打っている。呼応するように、アレンの左目も遥か遠くにいる敵を逃がすものかと索敵を続ける。彼の左顔面は殆どが「目」で覆われていた。必死に蠢く眼球。気味の悪さより、痛々しさを感じてしまうのは神田だけだろうか。否。 「…っ!、〜!!…………〜、…」 ふっとアレンの動きが止まった。先ほどまで暴れていたのが嘘のように、アレンは再び静寂に溶け込んだ。ただ、伸びた腕だけがいつでも狂騒を演じられるよう、ゆっくりとさざめき続ける。ずるり。ずるり。ずる。ず。 「……終ったか」 神田は小さく息を吐いた。結界が破られれば次の結界となるべきは自分だ。効果のほどは定かではないが、いつでもアレンの咽喉元を掻っ切れるよう、神田はアレンの全てを凝視していた。 半狂乱で彼に怒鳴りつけ、問い質し、刃の切っ先を突きつけ、そして最後にはみっともなく縋りそうになったのは何時の日だったか。彼に、この部屋が終の場所として提供され押し込められたのは何時の日だったか。 ここは一片の光すら差し込まない。暗く淀んだ小さな一室。 「…こんな処に来させられるのは、俺くらいなものだ」 「……、〜」 「ついでに共倒れにでもなってくれれば重畳、とでも考えてやがんだろ」 目の前の同僚ばかりを同情することはない。既に人の枠を外れているのは己も然りだ。 いつか。いつの日か。 神田は己の所属する機関を、痕跡すら残さず破壊しようと決めている。この少年に彼らが与えたものを、それには到底及ばなくても返してやろうと決めている。己を律するものは最早ない。最後の戒めが消える日も、近いだろう。 「そろそろお前なら言いそうだな。俺の顔ばかりはもう飽きた、と」 そして黒髪の少女や、赤毛の少年はどうしたのかと。 今のアレンに恐れも懼れも抱かず、ただ悲嘆と純粋な憤りを感じてくれるだろう存在。あの少女の兄も、その部下の男も、厨房の主も、彼を知る同僚たちも、皆。 「…幾らエクソシストでも仲間でも、あいつらは人間なんだよ」 あれから、一体どれだけの年月が過ぎているのか。お前が知ることはきっとない。もし、あの頃から何も変わらない神田の姿を見れたとしたなら、余計に判らないだろう。 「面白くないか?お前に最後まで付き添っているのが俺だとよ。下手な冗談より笑えるだろう?」 神田はくつくつと笑みを噛み殺した。 あれからどれだけ経っただろう。既に敵の頭は潰し、腕も潰し、はらわたも抉り出し、残すところは数え切れないほど世界に散らばっている、奴らの足だけだ。人間の魂を搭載した悪性兵器は、マスターを失っても尚、他人の魂を喰らい続けている。 これはもう互いの生死を賭けた戦いではない。殲滅戦。単なる後片付けだ。ダークマターが振り撒かれることがなくなった今、兵器が増えることもなくなった。後は徐々に、そう見つけては潰し見つけては潰す。まるで害虫駆除のように。 そして今、身体に異変を来たしたアレンはこうして監禁状態にある。 「…いつだったろうな、ジュニアはお前をアンラッキーボーイだとか言って」 嗚呼本当に。何処までもお前は運のない。 アレン=ウォーカーのイノセンスは核であった。 全てのイノセンスの根源。全てのイノセンスの無事を、危機を、象徴するもの。 アレンの目は今や、半径100kmの距離に入り込んだ悪性兵器をも補足できる。その目が敵を捉えた瞬間、養い親の呪いは全身で彼のイノセンスに命令を下すのだ。 (さあ壊せ砕け崩せ滅ぼせあそこにいるはお前の敵だ) 強大になっていく呪いに呼応して、イノセンスも又進化を遂げていく。最初は肩の付け根から生えていたイノセンスは、既に彼の右半身を覆い尽くし、呪いの発する警告の象徴へと向けて牙を剥く。そして明白な未来は訪れた。アレンが己の身体を、思うよう操れなくなったのだ。あまりに大きくなり過ぎた、彼自身故に。彼自身の力故に。 それだけならば良かった。そうだったならばその日とは、1人のエクソシストが戦場に立つ資格を失った日に過ぎなかっただろう。 嗚呼。だけれども。 アレン=ウォーカーの心臓は核であった。 すなわち、彼の生存はイコールイノセンスの安全であった。 まだ、悪性兵器は完全に除去されていない。破壊し尽くされていない。それを破壊できるのは神から賜った武器だけだ。彼の心臓によって保たれている、武器だけだ。 アレンが死んだとて、核までが崩壊するとは限らない。イノセンスのこと、アレンの死んだ土地に根付き、また新たな適合者を見つけ寄生するかもしれない。 しかし、もしもそのまま砕けてしまったら? その仮定の果てに、アレン=ウォーカーには永遠の牢獄が贈られた。幾つもの鍵と、封印と、鎖とで区切られ、結界は重ねがけされ、たまに訪れるのは彼の生存ではなくイノセンスの無事を確認するためだけの使者…だと、神田を此処へ寄越した者は思っているだろう。それは半分は正解かもしれない。既に呪いか、イノセンスか、或いは両方か、それは脳の神経までも侵し始め、彼は夢うつつを彷徨いながら狂気じみた歌を歌うだけ。 「…また来る。下手な歌を聞きに」 神田はゆっくりときびすを返した。重い扉に手をかけ、ふと思い出したように振り返る。視線の先には、静かに歌う少年がいる。 「日付感覚などとうにないだろうが、今日が何日が判るか?」 「―――Happy birthday,Walker」 かつて聖者の生まれた日、彼も生まれた。正確には、彼が人間らしく生を歩める日となった。ならばその日に、祝福を。皆に笑顔を贈り、暖かな言葉をかけ、皆の春のような存在であった少年に、祝いを。 それと同時に、呪いを。恨みを。 どうしてまだお前は生きている。生ける屍のような姿で、それでもお前は生きている。早く楽になればいい。早くその息を止めるがいい。そうしたなら俺はすぐさま刀を抜き払い、周囲の全てをことごとく塵に返してやるのに。何故お前はまだ。俺を。 相反する感情を全て込め、紡いだ言葉。誰も聞くことのないだろうそれは、神田にとっての告白にも近い。そして神田以外誰も知らない。彼が少年の名を呼んだことなど、これまで一度もなかったのだと。 なのに。 「……っ」 神田は息を飲んだ。 伝っている。ゆっくりと透明な雫がアレンの右目から、滑らかな頬を伝い落ち、そして異形と化した身体へと。涙腺が壊れ、ただそれだけしか術が残されていないかのように、少年は泣いている。歌いながら、少年はただ泣いている。その目は神田を捉えてはいない。彼を認識している素振りもない。霞がかった彼の世界の中で、それでもただアレン=ウォーカーは泣いていた。 神田の整った相貌が、一瞬だけ醜く歪んだ。 「…んだよ」 聞こえてんじゃねーよ。 しばらくその場で、神田は突っ立っていた。扉の方に顔を向けたまま、立ち尽くしていた。引っ張られるような感触に足元を見やると、彼の「腕」が神田の団服の裾に絡み付いているところだった。まるで、此処から出て行かないでくれと言っているかのように。 神田は、その「腕」を嫌悪も見せず手に取る。 「……お前が、未だ俺を見知っているお前であることに」 一瞬だけそれを頬にあて。痛みを抑えきれない顔はけして振り向かない。少年の白灰の瞳から溢れる涙を、神田は見ない。 「……感謝と、」 重い扉は閉ざされ、中には生の気配はない。 ただただ、微かな動の気配だけがその小部屋を埋め尽くしている。 ずるり。 ずるり。 ずる。 ず。 ず。 |
>>>アレンさん誕生日おめでとう!!(遅かった上に内容がこれでか) 原作の最終回はハッピーエンドだといい。 そんな思いを込めて、妄想で散々な境遇にしとけば原作は幸せに見える筈大作戦(不発) >>>back |