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それは私にとって、普段と同じ日常の一欠けらのはずだった。 ++ 分子運動 × 感情連鎖 ++ 毎日毎日、部下を悩ませてくれる上司の尻を鞭ならぬ愛銃で引っ叩き、書類の高さが減るより増える速度のが上回れば泊り込みだと脅したのが効いたのか(彼が今夜とあるレディと約束を交わしているのは既に把握済みだ)、私もありがたく定時に上がることができた。 そろそろ肌寒さを感じるようになってきたこの季節、特に今日は昨日に比べて格段に気温が下がっている。 「…寒…」 着ていたジャケットは少し防寒には力不足で、私は前をかき合わせて風を遮り、足早に自分のアパートメントへと足を進めようとした。あぁ確か、自宅の冷蔵庫には夕飯の材料がなかったのではないだろうか? ベーコン、香草、卵…。駄目だ、これでは朝食にはなっても夕飯になど化けはしない。何か適当に見繕って…そうだ、ハヤテ号の御飯も買わなければ…。 予想以上の寒さに、あまり外を気にせず思考の波に沈んだまま帰宅してしまおうと、私は中央道路を渡るべく信号待ちをしていたのだった。向こうの青が点滅して、もうじき赤に変わる… 「…っきゃ!?」 にゅう、といきなり視界が真っ白になった。 予想外の出来事に、自分らしからぬ声が洩れてしまう。 不意打ちの下手人は、硬直した私の肩をほぐすように背後からぽんぽんと手を下ろした。 「あはは、吃驚した?」 「……エディ!?」 私の後ろへとこっそり近づき、その両手で一瞬私の目を覆ったのは誰あろう、金髪金目の映える錬金術師エドワード=エルリックにして、現在私の年下の恋人。 「いきなりだもの、驚くわ」 「ごめんー。だってさー、俺そこに立ってたんデスよ? リザさん気づかず素通りだもんなー。俺傷ついて」 そう言って彼が指差したのはなるほど、私がつい30秒前に歩いた道筋のすぐ側だった。 「そりゃーさ、リザさん寒そうに下向いてたし? 俺わざとらしく向こう向いてたし? でもなー。俺としては、『あら、迎えに来てくれたの?』くらいのリアクションは欲しかったというか」 「…ごめんなさいね。あまり周囲を見てなかった」 いいよ、本当言うとそこまで気にしてないし、と彼は笑って、軽く肩を竦めた。そんな動作が似合うようになったのは何時からだっただろう。何気ない仕草のひとつひとつに、彼の成長が見て取れる、そこまでに私と彼との付き合いは長い。 そう、私は軍人だ。その私が、背後から伸びてきた手に全く気づかないまでに。 「それじゃ、改めて。『あら、迎えに来てくれたの、エディ?』それに、何時こっちに着いたの?」 「ん、ついさっき。アルは宿にいて、俺はリザさんの顔見に直行」 やっぱ実物見ないと、中央に来たって気がしないんだよなー。 「…いらっしゃい、エディ」 「はい、ただいまデス」 何とも嬉しい彼の言葉に、自然挨拶の硬度も蕩けるというもの。 「で、だ。で、ですよリザさん」 「はい?」 すっと差し出された腕に腕を絡ませ、自宅へと脚を向けた私に彼は言った。 「俺腹減っててさー、昼少ししか食ってなくて」 「それなら、これから少し買い物して夕飯作るから、二人分買えばいいわ」 「や、そーじゃなくって。レストラン、予約してるんだよね。二席」 「……あら、お誘い?」 「そー。なかなか遭えない彼氏からのデートのお誘い。いかがですか?」 そうね、と私は視線を宙に遊ばせた。無論、答えは考えるまでもない。けれど気がかりがあるのもッ実なので、私は仕方なく今思い出したかのように言う。 「でもエディ。実はハヤテ号にまだ御飯をあげてないの。とりあえず、一旦帰宅してもいいかしら? それに、服も私服だし」 「あ、大丈夫大丈夫。ハヤテには俺が御飯、あげてきましたv」 抜かりない彼の手には、以前私が彼にあげた自室の鍵が揺れている。無くさない様、しっかりとキーホルダーがつけられているのが妙に嬉しい。 「それに服装も大丈夫。レストランどころか、今からパーティにだって出られるって。何着てたって中身が本質なんだから」 「…エディ。何時からそんな風になったのかしら」 「んー、多分、リザさんが俺にツバつけた辺りから?」 全く、先が思いやられる。 年齢の差ゆえ、私が彼を引っ張ってきた感が強かったのに、その形が少し崩れ出したのはきっと錯覚ではないのだろう。 気づけば、私の脚は彼のエスコートするままに、最初の方向とは違う目的地を目指して歩き始めた。当たり前のように、私の歩調に合わせる彼。彼の歩幅が私を上回ったのは何時のことだったろう? 「…あら、雨」 ふと頬に感じた冷たく弾ける感触に、虚空を見上げれば銀色の線が幾筋も落ちてくる所だった。やけに肌寒いと思ったら、かなり天気が崩れていたらしい。 「あーあ、保たなかったなー。いいや、雨中デートもアリでしょ」 明るく言って、彼は着ていたコートを脱ぐと自然な仕草で私の肩へとかけた。ふわ、と一瞬私を包み込むのは紛れもない彼の体温と、彼の体臭。どちらも私にとってとうに馴染んだシロモノだ。 「寒くない? こんなのしかなくてごめん」 「…大丈夫よ。とっても…暖かいわ」 私はうっとりと目を細めて、彼の腕に絡ませた腕に少しばかり力を込めた。 「…そういえば、何処のレストランを予約したの?」 「それは着いてのお楽しみです♪」 彼の無邪気そうな笑顔だけは、何年経っても変わりはしない。私はそんな些細な事実がとても嬉しくて、それならば私は彼に変わらない何かを与えられているのだろうかと思いながら、もっと寒くてもいいのに、と恨めしく空を見上げた。 コートのお陰ではなく、風が止んだお陰でもなく。そして彼の気遣いでも、優しさでも、これから訪れる久々の二人の時間でもなく。 今私を暖めているのは、ただ君がいるというその事実だけ。 |