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ゆるゆると。
ゆるゆると。


何かが形を成しながら、迫り来ることをエドワードは知っていた。





++ 刻印の御子 0 ++

+ 脳裏に揺らめく、鈍色 +





エドワードが列車事故に巻き込まれ、行方不明になってからすでに4ヶ月以上が過ぎていた。
彼の身を案じたアルフォンスが1人で各地を彷徨い、ようやく兄を見つけ出した時には彼は思い出と呼べるもの全てを失っていた。
虚ろな目で鎧の弟を見つめ返した時の、彼が絶望に彩られた様をはっきりとエドワードは記憶しており、それに微かな痛みを覚えると同時に明らかな歓喜を、その胸に抱いていた。


抱いて、いたのは。


実の弟に抱くはずのない、抱くべきではない、狂気に満ち満ちた恋慕。
否、それは純然たる欲であっただろうか。
彼の存在を、彼の形を、彼の重さを。
全て己だけが知り、そして捉まえておきたいのだと。


+++


2人きりの旅が再び始まって、2週間が経っていた。しばしは人目をはばかって2人だけでひっそりと旅をしていたのだが、そろそろ無事を知らせねばなるまいかと2人で話し合って、そう決めた。この調子ならば明日には東方司令部に着くだろうとアルフォンスが告げ、しかし列車がなかったことから彼らは小さな宿に部屋を取った。
当然のように2人部屋を取ろうとしたアルフォンスをエドワードは留め、1人部屋を2つ用意してもらう。
訝しげな彼に、エドワードは「少し、1人になりたいから…駄目か?」と済まなさそうにうな垂れた。それだけでもう、アルフォンスには何も言えなくなる。
いまだ記憶の戻る兆候すら見せない彼。
一見したならすらりと人形のように整った容姿である彼の内に、どれほど熱く強い感情が潜んでいるか。彼を誰よりも近くで見てきたアルフォンスは熟知している。
彼が、何もかもを抱え込み1人で苦悩する寂しい人間であることも、全て。
だからアルフォンスは兄にきちんと眠るようにとだけ言うと、大人しく隣の部屋へと移ったのだった。


兄の内に、どれほどの感情が渦巻いているのだろうと。
記憶をなくした彼。身体をなくした自分。
取り戻すのに容易なのは、果たしてどちらなのだろうと考えながら。


アルフォンスが自分の部屋へと戻ったのを気配で感じ、エドワードはゆっくりとベッドに横たえていた身体を起こした。
彼のいるだろう壁の向こうを、ただじっとエドワードは凝視する。


「アル…」


呟く声は、うなされるような熱を孕んでいた。


+++


無骨な金属の手は、それでも勝手知ったように白い肌を這いずり回る。
薄く綺麗についた筋肉の流れを沿うように指が伝い、一層快感が強まる所で指の力も強くなった。


「…ん」


愛おしむかのように、冷たい義肢に口づけを落とす。口内に、金属特有の刺激感が走った。手入れに使う、オイル臭も僅かに鼻をつく。しかしエドワードは全く意に介せず、上がった熱を全て移し渡すかのように、必死で舌を絡ませ唾液が伝うまでにする。
生温い金属の手指が己の身体を彷徨う様を脳裏にまざまざと思い描くと、そのあまりの背徳にすでに笑うしかない。
くく、と笑いかけたその唇が、高まる快楽に喘ぎを洩らし始める。


「…アル…っ」


ん、気持ち良くない?とアルフォンスは天然ぶりを十分に知らしめる台詞を吐く。兄の痴態を目の当たりにしたとて、そんな台詞を他意なく口にするのだから、余計に性質が悪い。


「そ…じゃ、なくて…っ」


もっと、触れて欲しい。
その常人のそれよりも大きな、冷たい金属の手で。
この身体を撫で回し、かき抱いて欲しい。


仕方ないなぁ、兄さん。
肉体があったならきっと肩をすくめていただろうアルフォンスの声音。
おっとりとした彼の言葉に、エドワードは余裕など早く捨ててしまえと言わんばかりに縋りつくのだ。
千切り取るように、抉り上げるように、優しさの欠片も感じられない愛撫であったとしても、おそらく自分は悦楽に啼くだろう。
強く。強く強く強く。
躊躇いを塵ほどでも見せたなら、怒りに我を忘れてしまいそうなほどに。


アルフォンスという男は、全てにおいて労わりと優しさが前面に出る。
彼は確かにエドワードを抱いた。抱いた、という表現はおかしいかもしれないが、確かにその手で実の兄を快楽へと溺れさせたのは事実である。
しかし彼は、己が肉欲を持たないがゆえであろうか、兄の体調を最優先させた。鎧の上で一晩踊った身体は、次の日にも万全とは言い難い。幾らエドワードが平然を装うとも、彼の信念は固かった。
旅の身なんだから、とアルフォンスは言う。
ひとつ処に定住しているならともかく、体力が物を言う旅の道中では体調管理をしっかりしないといけない。
兄であるエドワードの体調管理は、当然自分の仕事なのだから、自ら兄の身体に負担をかけ過ぎることはするわけにはいかないよ、と宥めるようなアルフォンスの台詞を、この2週間の間に幾度聞いただろうか。


あぁ、判っていないのだ。
エドワードが己の身を顧みない理由が旅の目的にのみあるわけではなく、目の前の存在を欲しての衝動に従っているだけなのだ、という事実に。


びくり、とエドワードの身体が強張った。
入り込んでくる冷たい指先に、ただただ意識が集中する。
うつ伏せたまま背中を丸め、枕に額を押しつけるような姿勢で微かなオイルの匂いに酔った。


「は、あ…」


息を吐き、中の存在をリアルに感じ取る。
生身の人間のものとは明らかに違う、無機物がもたらす冷感と硬質感。
その事実が何よりも。
そう、この行為自体が与える悦びよりも、それこそが―――





ねぇ、見てみるか。
この身体を。
この身を染め上げる欲望の色は、一体何色をしているだろうね…?





2人だけの旅路は、2人きりの世界は、ひどく心地よいものだった。
その事実にエドワードは1人、笑う。
かつては閉ざされた箱庭の中で崇められていた自分。
そして求めるものがすぐ触れられる日常に浸りきっている自分。
どれほど違いがあるだろう。
望むべくとも、望まざるべくとも。


枷がかけられ、枷をかけた世界は、時に依存と執着をも引き起こすのだ。


「…っと」


もっと。


深く欲してくれさえすれば。
そうしたなら、エドワードはあっさりと欲望の奥底まで曝け出すだろう。
こんなにも求めているのだと。
彼がいさえすれば、他に何を望む。


「アルぅ…っ」


兄さん、綺麗。と耳元で男の声がする。鼓膜から甘やかな毒水のように、その声は染み入った。
反射的にぐ、と中で深く指が折り曲げられる。瞬間走ったあまりの快楽に、エドワードはくず折れるように達した。緩く束ねられた髪は解け、しなやかな金糸が白いシーツへと惜しみなく投げ出される。ようやくゆるゆると顔を上げた彼の目は、とろりと蕩けきっていた。
かすかに痙攣を起こす身体を心地よくベッドに委ね、荒い息を押し殺すよう務める。


そしてエドワードはゆっくりと、ベッド向こうの壁を見た。
物言わぬ壁。あの向こうには。
自分が欲して止まない男が、眠ることなく夜空を見上げているだろう。
眠ることも食べることもしなくなって幾年も過ぎた男は、今何を考えているだろうか。
少なくとも、己のように浅ましい欲望に流されていることはないだろう。


「ふ…っ、はは…」


ゆっくりと、気だるさを押し殺して右手を頭上に掲げる。
機械鎧のその手に伝うのは、白い残滓。つつ、と雫が重力によって腕を伝い落ちていく様子を、どこか恍惚とエドワードは眺めていた。


これは、お前の腕。
お前の手。
お前の指。


お前と同じ、金属の四肢。


お前の与えてくれる快楽。


その認識こそが、何よりも自身を高ぶらせることを、エドワードは改めて自覚した。


「なぁ、アルフォンス…?」


いまだ熱引かない声で、寝室の彼に囁きかける。


「俺さぁ…多分、どっかイカレてるわ」


そんなこと、今さら判りきっていたのに!


左手は、ずっと枕をわし掴んだままであった。この体温のある柔らかな人肌では、きっと己は快感を得ることはできない。
毎晩でも彼を求めて本能が訴えかける。逃がすなと。けして逃がすなと。
彼が己を気遣って触れない夜であっても、衝動が幾らかも減るわけもなく。
金属の義肢のもたらす不毛な快感にこうして酔っていることを、どこか潔癖な彼は予想もしていないだろうか。


はじめに妄執があった。


そして、性的衝動までが塗り替えられた。


次は、何が壊れてしまうだろう。


その時期は、おそらく近く。
そして、エドワードはそれを心の片隅で待ち望む。


ゆっくりと、待ち望む。


そのことを、鎧の弟はいまだ知らないだろう。
自分のことを誇り高く強き兄だと、信じているあの男は。


「…お前が、好きだよ。アルフォンス」


それが唾棄すべき汚らわしい感情であったとしても。
今さら構う余裕はなかった。





+++





「―――うん。だから、もう少ししたら帰るね。心配しないで。うん、大丈夫だから…」


翌朝、エドワードが朝食を摂りに食堂へと下りると、宿の電話で何事かを喋っているアルフォンスの姿があった。兄に気づくと、アルフォンスは「うん、それじゃあ切るね。ばいばい」とあっさりと通話を止め、エドワードの所へとやって来る。
そんな些細なことにも優越感が刺激される己に、エドワードは自嘲気味に笑った。


「おはよう。兄さん。よく眠れた?」


「…まぁまぁ。お前、何処にかけてたんだ?」


「うん。後で判ると思うよ」


覚悟してなね、とアルフォンスが笑う。
それに多少は嫌な予感を抱きながらもエドワードは朝食を摂り、そしてアルフォンスは隣に腰かけ他愛ない話をしていた。
繰り返してきた、この2週間での新たな習慣。
彼の視線を感じながら食事をすることに、すでに慣れきっている自分がいる。
奥底まで彼が染み渡る日も、そう遠くはないだろう。


「よし、行くか」


「うん。今日も良い天気だよ」


旅日和だねぇ、とアルフォンスが嬉しそうに言う。
年中根無し草だろ俺たち、とエドワードもつられて笑い返した。


昨夜の名残が微塵もない顔で、エドワードは鎧の男の隣に立つ。





ゆるゆると。
ゆるゆると。


何かが形を成しながら、迫り来ることをエドワードは知っていた。









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