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穏やかな春の風にまどろんだ、とあるひととき。 失くしてしまった過ぎた日を思い起こさせる優しい温もりをくれたのは、降り注ぐ柔らかな陽射しだけでなく。 傷も罪も寂しさも、全てを包み込んでくれたのは、あの。 True Merry Rings 白い息が前から後ろに流れていく。 北風を裂いて歩調を速めると、凍てつく寒さに思わず肩を竦めた。 胸に抱える紙袋はまだ、ほのかに暖かい。買ったばかりのドーナツは、この町で行き付けの店のものだ。鼻先をくすぐる甘い香りに、わずかに頬を緩める。 ほぼ習慣のように顔を出した店先で、見慣れたデコレーションの中から目敏く発見した、しかもできたての新商品。チョコレートの幸せな甘さや、香ばしい歯応えと自然の甘味と苦味が絶妙な胡桃は、幼い頃から彼の心を掴んで離さない。鼻腔をくすぐるシナモンに、甘酸っぱいリンゴにオレンジ、そのままでも生地に練りこまれても自己主張を怠らない紅茶にコーヒー、バニラビーンズの効いたカスタード…。 最強師匠のもとで鍛えられ、大総統のお墨付きをいただく最年少国家錬金術師も、大好物の甘い誘惑と店の主人の口車には勝てなかった。成長すると味覚が変わると言うが、それは自分には当てはまらないようだ。子供の頃からずっと甘いものには目がなくて、…未だに牛乳は飲めない。 紙袋に入れられたのは、新商品から数種類。――当たり前のように、“あの人”の好きな種類を真っ先に選び取った。 店を出る直前に時計を見たが、待ち合わせの時間まで、まだ少し余裕があった。 あと数十分はブラブラできると言うのに、それでも、子供のように弾む気分と約束の場所へ向かう軽い足取りは止まらなかった。 自分の周囲にいる見知った軍人の中でも、彼女はずっと特別な位置にいた。甘やかしも子供扱いもしなかったけれど、向けてくれる眼差しはいつも暖かくて優しくて。子供にも大人にもなれないちっぽけな自分に、ほんの少しの安らぎを与えてくれた。ほんの少し、休む事を赦してくれた。 微笑んで髪をすいてくれる掌は、似ている訳でもないのに、それは遠い日に失った最愛の母を思い起こさせるものだった。 それなのに。 いつの間にか芽生えていた、今までずっと知らなかった感情。 気がつけば、この存在全てを愛してくれた母よりも、いつも変わらず其処にいてくれるばっちゃんや幼馴染みよりも、何もかも理解して背中を支えていてくれる師匠よりも。 ずっとずっと、大きくなっていたその存在。 あの人がくれたものは、ただ一時の甘い夢なんかではなかった。 寒風に翻すコートの色は、子供の頃から変わらぬ真紅。この日の為に新しく仕立て直した事は、あの人には内緒にしておくつもりだ。 ポケットに手を突っ込んで、そろりと指先で撫でたのは、小さくとも決して軽いものではない、冷たい感触。 円形の滑らかなフォルムをなぞり、また鼻の奥をくすぐる感情に苦笑した。 あの人は、 笑ってくれるだろうか。 冷たい空気を切り裂いて、大股に歩いていく。 豆だのチビだのとからかわれていた事など、既に思い出。自分でも知らないうちに伸びていた身長は、何処かのヘビースモーカーにはわずかに届かないまでも、これまた何処かの鼻持ちならない野心家と並ぶほどになった。 胸に抱えるのは、ドーナツの甘い香りと逸る想い。 ポケットの中で握り締めた、散々迷って選び抜いた小さなリング。 いつかのひとときよりも伸びたこの手足なら、あの人を抱き締められるかもしれない。 遠い、けれど今でも鮮明に思い出す事のできる、あの春の日に、あの人がしてくれたのと同じように。 我知らず駆け足になっていたせいでわずかに乱れた呼吸を、凍りつく空気で整えて。 そろりと角から通りを覗き込めば、その場所には、望んだ姿が。 蜂蜜よりも甘い光を放つハニーブロンドを包むのは、この初冬に彼が贈ったチョコレート色のマフラーだ。 ときに真冬の月のように凍てつく美しさをまとう彼女だが、今、こんな寒い中であっても、かつての春の日の陽射しのような温もりを宿している。 それはきっと、贔屓目だけではないはずだ。 凛としたその背中は、他の誰でもない、自分を待っていてくれている。 こみあげてくるこそばゆさにも似た嬉しさに緩む頬を、片手で叩いて引き締める。深呼吸をひとつ。熱の上がった心臓を冷たい空気に浸して。――まずは一歩、踏み出した。 他の誰でもない、自分だけを待ってくれている、あの人のもとへ。 歩を進めるごとに増してくる不思議に神聖な気持ちを抱きながら、確かめるようにして握り締めた小さなリングに、深く強く、想いを込めた。 |