聞思の会(36)録
第36回聞思の会2010年2月4日@京田辺
『浄土文類聚抄』13/5(16)
証と言ふは則ち利他円満の妙果也。即ち是れ必至滅度之願より出でたり。亦「証大涅槃之願」と名づく。亦「往相証果之願」と名づくべし。即ち是れ清浄真実・至極畢竟無生なり。
必至滅度之願とは第11願(1/15)
「設我得仏。国中人天。不住定聚。必至滅度。不取正覚」
(たとひ我物を得んに国中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずば正覚を取らじ)
これは「証大涅槃之願」「往相証果之願」ともよべる
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必至滅度とは「真実にであうこと」と聞かせていただいたことがある。「証とは清浄真実・至極畢竟無生である」とは私が真実にであうこと。
- このお話を聞いたのは「大教」の講義の中で。真実・真如・法性法身から方便法身・報身・如来・本願・浄土が生まれ私の世界に応身化身となってはたらきかけてくださる。私が浄土にふれることで真実に遇わせていただく道となってくださるために。
『顕浄土真実証文類四』愚禿釈親鸞集
必至滅度之願 難思議往生
12/118謹んで真実証を顕さば則ち是れ利他円満之妙位、無上涅槃之極果なり
即ち是れ必至滅度之願於り出でたり亦証大涅槃之願と名くるなり
然るに煩悩成就の凡夫生死罪濁の群萌往相回向の心行を獲れば即の時に大乗正定聚之数に入るなり
住正定聚故→必至滅度=常楽=畢竟寂滅=無上涅槃=無為法身=実相=法性=真如=一如
然れば弥陀如来は如より来生して報応化種々の身を示現したまふ
『親鸞の教行信証を読み解くVー証・真仏土巻ー』(藤場俊基)p21−p22
浄土教の証果は二段構えになっておりまして、・・・まず凡夫は浄土へ往生することが確実に約束される。それは「念仏の衆生を浄土に生まれさせずにおかない」という第18願の誓いに基づいています。そして浄土において今度は「必ず滅度に至る」という第11願の約束によって成仏します。
『浄土三経往生文類』には
「大経往生・難思議往生」「念仏往生の願因によりて必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して必ず真実報土に到る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるが故に、無上涅槃の悟を開く。これを大経の宗致とす。この故に大教往生と申す」「この阿弥陀如来の往相回向の選択本願をみたてまつるなりこれを難思議往生と申す」「しかれば無量寿経優婆提舎願生げに曰く「如何が回向したまへる一切苦悩の衆生を捨てずして心に常に作願すらく回向を首として大悲心を成就することを得たまへるが故にとのたまへりこれは大無量寿経の宗致とす。これを難思議往生と申すなり」
ここに出されている願は、諸仏称名の悲願(第17願)、称名信楽悲願成就文、念仏往生の悲願(第18願)必至滅度の悲願(第11願)、一生補処の悲願(22願)と、18願だけではないが「真実の信楽を得る」ことが、私に本願が切り結ぶポイントになっている。
感想
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還相回向は人へのはたらきかけであるといわれるが、人に仏法を勧めることにためらってしまう。
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人に勧めるということは役割を担うということだが、会座の案内を出すなどの作業を事務的にしているうちに身についてできるようになるのだろうか。
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身内に勧めるより、知らない人に勧めるほうが気が楽だ。
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自分がまず念仏を一番大切にすべきものと思えていない
いつかいただいた言葉
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「念仏よ私を通り抜けてくれ」
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不可思議のことをたずねるあゆみ。
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あゆみとは「こういう私です南無阿弥陀仏。」
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「念仏ひとつでことたりるか」
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「それ以外の何で立とうとしているのか」