聞思の会(35)録
第35回聞思の会2010年1月28日@京田辺
島地聖典『教行信証』欲生釈12/77(51)善導大師『観経義』「玄義分」より(52)「序分義」(53)「定善義」(54)結釈までをいただいてから、まとめに『浄土文類聚抄』13/12(31)から13/15(36)の前まで「三心即ち一心」の義を通読する。
12/77(51)観経義に道俗時衆等各無上心を起せども生死甚だ厭ひ難く仏法復欣ひ難し共に金剛の志を起こして横に四流を超断せよ正しく金剛心を受けて一念に相応して後果として涅槃を得る者と言いへり 抄要
山辺赤沼の字解より抜粋要約
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四流: 四暴流。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流、この四煩悩は吾等の善根を押し流すこと暴流のようであるからこの名あり。
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涅槃: 梵語ニルワ―ナ(Nirvana)。滅度、円寂等と訳す。迷妄を断ちて、寂滅無為の理を窮め、法身の証〈さとり〉を開く事。
感想
12/78(52)又云く真心徹到して苦の娑婆を厭ひ楽の無為を欣て永く常楽に帰すべし但無為之境軽爾として即ち階ふ可からず苦悩の娑婆輙然として離ことを得に由し無し金剛之志を発すに非ず自りは永く生死之元を絶たむや若し親(まのあたり)慈尊に従ひたてまつら不は何ぞ能く斯の長き歎きを免れむと
山辺赤沼より字解と現代語訳
- 娑婆: 娑婆世界のこと。梵語サハ(Saha)娑婆、娑訶等と音訳し、勘忍土、忍土等と訳す。外界にありては、寒暑、天変地異の難に堪え、内には煩悩悪業の苦みを忍ばねばならぬ処という意味にて、此の世を忍土という。
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無為: 為作造作を離れたる寂静境。
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軽爾: 爾は助字。軽々しくの意。
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輙然: 忽ち、又は立ちどころにの意。
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慈尊: 慈悲ある世尊。今は阿弥陀如来を指す。
又『序分義』に宣うよう。他力回向の真心が一度〈ひとたび〉我が胸にいたりとどいて下さるれば、自然に苦悩〈くるしみ〉の娑婆を厭い、常楽の浄土を願う心になり、永く身心の悩みを離れて、涅槃の常楽を得ることが出来るのである。然し、この無為の都たる真実報土は、軽々しくのぼることの出来るものではない。仏法の通途からいえば、八地以上の菩薩でなければ参ることの出来ない処である。苦悩の娑婆も、一足飛びに離れることの出来るものではない。一善を積まず、一業を断ぜざる私共は、他力金剛の信心を頂くでなければ、どうしてこの生死の本源を断じて出離することが出来ようぞ。親しく弥陀の願力に依るでなければ、どうしてこの生死の数を離れることが出来ようぞ。
又『定善義』に宣うよう。他力金剛の信心は、如来の御手許で御成就なされたものであるから、煩悩の雑り気のない無漏清浄のものである。それであるから、決して破壊〈こわれ〉るということはないのである。
感想
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前の文と同じ内容をいっているが軽爾や輙然など言葉がむずかしい
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親をまのあたりと読む
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金剛の真心をいただいたらどのような現実の中でも生きていけるといわれるが本当にそうなるのだろうか
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生活しているときにたしかに真実や清浄を問題にしていない。
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行動基準として善悪を問題にするが、真実を問題にするとはどうすることなのだろう
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こういうことをすれば「人として」許されないことだとか「人倫の道」にはずれるとかは思う。
「如来に対して」と考えていない
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仏法を聞こうとすることがかえって周囲との軋轢を生む。周囲の声に心がくじける。
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周りと問題が起きない状態が問題がないとはいえない
12/78(53)又云く金剛と言ふは即ち是れ無漏之体也 已上
無漏: 漏は煩悩の義。煩悩の汚れなき事。
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煩悩は自分では隠しているつもりでも漏れて周りにまるわかりなのだと
12/78(54)信〈まこと〉に知んぬ。至心信楽欲生そのことば異りといへども、その意これひとつなり。何をもっての故に、三心すでに疑蓋まじわることなし。かるがゆえに真実の一心、これを金剛の真心となづく。金剛の真心これを真実の信心となづく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主はじめに我一心とのたまえり。また如彼名義欲如実修行相応故とのたまえり。
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「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」は二つめの名号が称名となっていれば理解しやすいのだが。称名とされなかったのはなぜだろう。
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私が疑っているから信心が成就しない。信心が私に成就しないということは名号が成就しないということ。それは如来にとってどれほどのかなしみだろう。
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三心釈に入ってから一年でやっと結釈にたどり着いた。目を通したというレベルではあるが達成感がある。
『浄土文類聚抄』の三心釈の部分の通読
感想
- つかえそうな内容だけれどこの一年いただいてきたことで拒絶感なく読めた。
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如来と衆生の対比がよくわかる。
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曽我先生の本に現実からの問いかけと如来からの呼びかけの交わるところに身をおいて聞法するというようなことばがあったが、それをおもいおこさせる
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疑いのないということが三心の共通点。
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至心信楽欲生が如来と衆生の両面から説かれている。この三心が如来と衆生の接点になっているということがわかるように、説いてくださっている。
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仏法のお話は一度聞いたからもう十分とはならない。
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普通の学習の知識は一度勉強したら身につく。しかし仏法は何年も聞いているが南無阿弥陀仏は何かと訊ねられた時にいまだに一言で明快に答えることができない。
次回は『浄土文類聚抄』の「証」に入ります