聞思の会(34)録
第34回聞思の会2010年1月14日@奈良
島地聖典12/77(49)(50)『教行信証』信巻 欲生釈
善導大師の釈文
光明寺の和尚の云く、又回向発願して生るる者は必ず決定真実心の中に回向したまへる願を須いて得生の想を作す。此の心深く信せること金剛の若くなるになほよて一切の異見異学別解別行の人等之為に動乱破壊せられず。唯是決定して一心に捉て正直に進て彼の人の語を聞ことを得ざれ即進退の心有りて怯弱を生じ回顧すれば道に落ちて即ち往生之大益を失する也 已上
(山辺赤沼より)
怯弱: 弱いおじけ心。憶病の心。
『散善義』の文によりて回向発願心を明かさるる一段である。
【講義】光明寺善導和尚は『散善義』に示し給うよう。扨て安楽浄土へ思いを向けて往生を遂げたいと願うものは、阿弥陀如来が、真実心を以て、これも衆生のため、あれも衆生のためと、善根功徳を悉く衆生に回向して、浄土へ往生させたいと思召す大悲の願心を頂いて、往生疑いないという決定心を得るがよい。この決定心の堅いことは恰も金剛の如く、学問見解を異にしている外道や聖道門の人達や、信仰修養を異にしている人達のために信仰を乱されたり、壊られたりするようなことはないのである。それであるから押し切って一心に、願力に打ち任せ、傍目〈わきめ〉を振らず、正直に極楽浄土へと進んで、彼の異学異見別解別行の人達の語を耳に入れてはならぬ。もし信ずるが如く信ぜざるが如く、進んだり退いたりして、願力にとりすがることが出来ず、もぢもぢして、傍見をして、道から落ちるようなことがあれば、往生の大利益を失うて仕舞うのである。
感想
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12/61で一度いただいたところである。
ここまでの流れは「欲生は回向心」「回向とは浄土論にあるように如来の大悲心成就」「回向に往相と還相の二種がある」『教化地は本願力の回向があるから実現する」
回向という言葉は共通だが回向発願。これ以後「金剛」という言葉が繰返し出てくる。
- 彼の人の言葉とは誰の言葉か。彼の人とは普通仏をさすものと思うが。送り仮名をみれば「聞くことを得ざれ」となっているから聞くなという命令形。私に聞いてはいけないと禁止される。聞いてはいけないのは異見異学別解別行の人の言葉。
- 聞くべき言葉と聞いてはいけない言葉と見分けがつくのだろうか。
- 見分けがつかないから動乱する
- 真実を問題にしない人が異で、真実を問題にしているのだが方法が別の人がいる。
- 別解とはお互いに真実を求めていても違う解釈がおこる
- 異や別はこの場合外にあると考えるのか。自分の中にこのような問題があると教えられているが。
- 会座は自分で行くものではない。人から誘われていくものと誰かいっていた。
- 働きかけは外からされる。
讃嘆
- 往生、願生、得生と生がつく。生まれてきたこと、死んでいくことの意味がわからない。そのことが自覚的でない人間のあり方。得生とは生まれたことの意味を得ることとおもえる。自分ではわからないものを真実心の中に回向されることによってわかるようになる。私自身が真実がない。わかっていないということがわかってきた。教育部会に参加して、積極的受動性で真実に臨みたいと思った。
- この心は金剛のようで異学や別解によって壊されるものではないといわれる。しかし私に対するメッセージは異学や別解を聞くなといわれている。教えを聞いたときは浄土に往生したいとおもってもその想いは、人から何かいわれることをまたず、聞いた感動が薄れたとたん往生浄土などはありえないのではないかと懐疑的になり揺れ動き壊れる。真実心の中に回向したまへる願をもちいて得生のをなすとはどういうことなのか。
- 真実の教えを聞いてもそれが異見別解としてしか受け取れない。そうなるにはどうしたらいいのかという発想にすぐなってしまう。
- 次の二河譬の釈では何をあかされるのか。白道の安全な渡り方が書いていないかという目でつい探してしまう。金剛の真心を獲得すればよさそうだからそれを頑張ってみようという魂胆から逃れられない。
12/77(50)真に知んぬ二河の譬喩の中に「白道四五寸」と言ふは「白道」とは「白」之言は黒に対するなり也。「白」は即ち是れ選択摂取之白業住相回向之浄業なり「黒」は即ち是れ無明煩悩之黒業二乗人天之雑善なり「道」之言は路に対するなり「道」は則ち是れ本願一実之直道大般涅槃無上之大道なり「路」は則ち是れ二乗三乗万善諸行之小路なり「四五寸」と言ふは衆生の四大五陰に喩ふるなり言「能生清浄願心」と言ふは金剛真心を獲得するなり本願力回向大信心海故に破壊す可からず之を金剛の如しと喩ふるなり
字解:山辺赤沼より
- 白業: 善業のこと。
黒業: 悪業のこと。
- 二乗人天:人乗、天乗の二乗をいう。乗は運載の義。人間教、天上教のこと。これらの教に運載せられて、人間、天上の果報を獲る故に此の名あり。
- 本願一実直道:本願は第十八願。一実は唯一真実の義。人天三乗等の教えにあらずして、唯一絶対の一乗教ということ。直通はスグ道、捷径〈ちかみち〉。一乗真実の本願の捷径〈ちかみち〉といふ意。
- 大般涅槃: 梵語マハ−、パリニルワーナ(Maha-Parinirvana)。大滅度と訳す。大乗の証果をいう。小乗の灰身滅智の消極的の証〈さと〉りに対して、積極的、活動的の証果をいう。
- 三乗:声聞、縁覚、菩薩の三乗教をいう。乗は上の義に同じ。
- 四大:身体という程の意。
- 五陰:新訳には五蘊。色(物質)、受(感覚)、想(事物を一々見分けてその名称等を想い浮べる精神)、行(四十六心所の中、上の受、想の二心所を除いたる他の四十四心所の総称)、識(六識心王)。吾等の肉体精神を指す。
蘊は積聚の義、吾等の個人格は、是れ等の五つの仮に因縁によりて和合したものであることを示す。
『愚禿抄』14/32(131)に「白とは則ち是れ六度万行定散也これ則ち自力小善の路也」とあった。その部分の解説が山辺赤沼には次のようにされている。
(ウェブ上から引いたものをそのまま転記)
【余義】一。此の下の白道釈は『愚禿鈔』下十八丁の白道釈と比較するに、多少の相違がある。併し相違というよりも、『禿鈔』は晩年の御作であるから、此の下の足らざる所を補われたと見る方が適当であると思う。
此の下に「白」を釈して「選択摂取の白業」等といいて弘願他力の浄業としてあるが、『禿鈔』には、六度万行等の自力の小善路としてある。これはこの下に白道に対して、白路の釈がないから、『禿鈔』に補われたのである。今両書の白道釈を総合して考えるに、三つの場合がある。
一、白道。白は選択摂取の白業、道は本願一実の大道(当巻)
二、黒道。黒は無明煩悩の黒業これは因に就いて云う(当巻)。道は六趣四生等の黒悪道をいふ。これは果に就いていう。(禿鈔)
三、白路。白は、六度万行等の自力の小善珞(禿鈔)、路は、二乗三乗万善諸行の小路(当
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巻)。只白と路を別々に釈したので、そのものがらは自力諸善である。