聞思の会(33)録

第33回聞思の会2009年12月10日@京田辺


テキスト:島地聖典『教行信証』信巻 欲生心釈 曇鸞大師の文証

12/76(46)論註

浄土論にいわく、いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首と為て大悲心を成就することを得たまへるが故にとのたまへり。回向に二種の相あり、一には往相、二には還相なり。往相は、おのれが功徳を以って一切衆生に回施したまひて、作願して共に、かの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。還相は、彼の土に生じおわりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向へしめたまふなり。もしは往、もしは還、皆衆生を抜きて生死海を渡せむが為にとのたまへり。この故に回向為首得成就大悲心故とのたまえり。已上

往相回向還相回向について
欲生釈に出されていた回向。本願成就文の至心回向。この回向とはどのようなことであるかの説明がされているかと期待して読む。

「回向なさるというのはどのようなことか。一切苦悩の衆生を捨てないで、心に常に願をなす。」

作願すらくとは、作願するというのは。以下はその理由になる。

「回向を首として大悲心を成就なさったからである。」

「回向に二種の相がある。往相と還相である。」

相と回向される内容とは同じものと考えていいのだろうか。回向されるということはこのようなすがたが私の上にあらわれることなのだろうか。

「往相は、自分の功徳を一切の衆生に回施なさって」

(敬語だから主語は如来か法蔵菩薩)

「作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生をおさせになる。」

(これも主語は如来か法蔵菩薩)

功徳も回施も作願も往生させるのもすべて如来。では、これが私に回向された場合、私にはどのようにこの相が発現するのだろう。回向とは何が届けられ何が私の上に成立するのか。往生をおさせになるというところに応じて往生するのが、私に発現する相であるのか。

還相は、「彼の土に生じおわりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して」

(ここまでは敬語ではないので主語は衆生もしくは菩薩道を歩む人と考えていいのだろうか。)

「共に仏道に向へしめたまふなり」

(仏道に向かわしめるのは如来)

往相が如来のはたらき中心なのに比べ、還相では衆生の行為が出されている。このような行動をできるようになるというのだろうか。

細川先生の『回向の宗教』(p114)には、

「弥陀の回向成就して往相還相二つなりこれらの回向によりてこそ信行ともに得しむなれ」 弥陀の回向が成就した。その回向の内容は往相回向と還相回向。往、自利のものと、還、利他のものとの二つが回向の内容である。私はこの和讃というものを長い間誤解していました。弥陀の回向、それは南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏の回向が届くと私の上に往相回向と還相回向の二つが成就するのだと、そういう和讃だと思っていた。

私がそのようになれるのではないかと、確かに思っている。念仏申したらそのような徳がいただけるのではないかとしっかり期待している。

「そうじゃないんです。これは、弥陀の回向成就する、その内容は弥陀の往相の徳と還相のはたらきとがその回向の内容なのである。弥陀の回向成就して往相還相二つなり。如来の回向の内容を言っている。如来の回向とは何かというと如から来たって私に至り届く、それが回向、至り届くこと、それが回向なのです。如来が自らの往相と還相の徳のすべてを引っ提げて南無阿弥陀仏として私に至り届く、それが如来の回向、だから弥陀の回向成就して往相還相二つなりという。如来の回向の内容として二つある。」

曇鸞大師の御文でも先生のお話でもこれほど言葉を尽くして説いていただきながら、申し訳なくも雲をつかむようにしか受け止めることができない。しかし実際に往相還相が人の上に現れていると感じることがある。

秋のJBAへ参加した人の御讃嘆より

「見ることは超えること」という題目であった。職場のさまざまな人間関係を仏道として真正面から時間をかけて取り組まれたさまざまな例を出してくださった。その一つの例として受入れがたい他人と自分が同じ問題を持っていたということを知らされることによって、柔軟に対応できるようになったという。講師のお話に、仏を中心をして生きる人の現実との具体的な取り組みの姿を示していただいた。

参加された方からのその讃嘆をうかがって、私もその成果と、そこに至る取り組みの真摯さに感銘をうけた。本当にわが身を知らされながら、深い人間関係を築いていく道があるのだと示していただいて、還相回向が人の身に成就する証拠をいただいたように思った。

わが身を振り返って、なんと卑怯な生き方をしてきたものと思う。自分の命や身やおもいを守るため右往左往してばかりであった。私も決然とまわりにたちむかいたい。柔軟に対処して、言うべきことをいい、聞くべきことを聞き、黙すべきときに黙す生き方をしたいものだ。

ここで私の求めているのは、成果であることに気付いた。講師先生は何年も問題と取り組まれた。私はその姿に感銘を受けつつやはりその成果に目がいく。そのような成果があるなら耐えても空しくはないというか、あてのないことならしたくないという心が動く。講師先生は問題を自分の仏道の歩みとして実践されている。そこには他人へのおもねりや成果へのはからいはない。だから私の心を揺り動かす。

往は全て如来からの回向。往生の道をたまわったら歩まずにはいられない。それが

「彼の土に生じおわりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して」。

この世界でさまざまな人とのつながりの中で、自分と言うものを明らかにしていくことが、

「一切衆生を教化して」

そのまま周りの人へのつながりを回復しようとする働きかけになっている。この生き方に触れた周りの人たちは大きな世界があることにふれることができる生きた例を見せていただいた。

「彼の土に生じおわりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入」

するのは私の身以外にない。仏からの往相回向をいただいた上はそういう生き方をする以外にない。この苦労な部分は法蔵菩薩にまかせて私は後ろに引っ込んでいて成果だけいただきたい。でも

「一切衆生を教化して共に仏道に向へしめ」

るのは仏しかない。

今のところ、ここの敬語の使い分けはこのようにいただいた。

12/76(47)論註

またいはく、浄入願心とは、論にいはく、「またさきに観察荘厳仏土功徳成就と、荘廃仏功徳成就と、荘厳菩薩功徳成就とをときつ。この三種の成就は願心をもて荘厳したまへるなり。知る応し。」応知とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄願心の荘厳したまふ所なるによりて、因浄なるがゆえに果浄なり、因なくして他の因の有るには非ずと知るべしとなり、と。已上

回向の話からいきなり「浄」「荘厳・・功徳成就」「清浄願心」の話に変わった。回向とどうつながるのだろう。とりあえず欲生釈12/75(43)に「真実の回向心なく清浄の回向心なし」とあるので回向が清浄であることがおさえられている。荘厳と回向の関連については今後の課題ということにする。

12/76(48)論註

また論にいはく、「出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身をしめして、生死の薗、煩悩の林のなかに廻入して、神通に遊戯し、教化地にいたる。本願力の回向をもってのゆえに、これを出第五門となづくとのたまえり。已上

五念門

五念門は浄土論の解義分の初めに出てくる

「もし善男子、善女人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。」

1礼拝門、2讃嘆門、3作願門、4観察門、5回向門

五功徳門

五功徳門は浄土論の終わりに出される

「また五種の門ありて漸次に五種の功徳を成就す、知るべし」

1近門、2大会衆門、3宅門、4屋門、5園林遊戯地門

1から4までは入の功徳を成就し、5は出の功徳を成就する

五念門と五功徳門はそれぞれ対応しており、方法とその成就が表されている。
ここで引かれているのは、出第五門の部分。
12/76(46)の引文は五念門の回向門。

三つの引文で何を語る
この三つの引文をみると、回向門と園林遊戯地門の間に入浄願心が置かれている。「一切苦悩の衆生を捨てずして」「本四十八願等の清浄願心の荘厳」「本願力の回向をもってのゆえに」などの句にどきりとする。往生の行として提示された回向門の成就は本願力のはたらきなしにはありえないという意味だろうか。

それ以外の門
ちなみに浄土論の中には五念門と五功徳門以外にも門が出ている。
大義門(功徳成就)、菩提門、智慧門、慈悲門、方便門、
論註には大乗門がでてきている

園林遊戯地とは、

論註には「遊戯」の意味が二つあげられている。

一には自在の義。

菩薩が衆生を度することが、「難からざること遊戯するがごとし」

二には度無所度の義。

西本願寺の聖典(七高僧編)の脚注には「とらわれを離れた菩薩は、衆生を済度していても済度しているという思いのないことをいう」とでている。 論註には「菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて所有なし。無量の衆生を度すといえども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度するを示すこと遊戯するがごとし。」とらわれのないという文脈からそれるかもしれないが、「一衆生として滅度を得るものなし」といわれると「一衆生」として痛い。菩薩は成果や見返りが何もないのに、悠然とすべきことをされているように受け取れた。