聞思の会(31)録

第31回聞思の会2009年10月1日@京田辺


会の記録及び公開の方法についての見直しの話し合い

21回から30回まで会話をメモして、会の様子を記録しホームページに掲載したのは、会に興味を持っているが参加の出来ない方達に、会の様子を伝えるのに適した形と考えてのことであった。回数を重ねるうち、このような本音に近い会話をネット上に掲載するのは無防備ではないかという疑問が出た。私自身はできるだけ手を加えない形に残していくことにこだわった。しかし実際に発言を多くしている人から、手を加えない無責任な発言を誰が見るか分らないネット上にあげれば、どのように受け取られるか分らないので問題ではないかという意見が出された。

さらに会話をそのまま掲載することにどのような意味があるのかという疑問がだされた。もっと考えを整理して出すべきで、整理されないままのものを出してこの中から相手に読み取らせるのは無責任ではないかという意見である。

今回は個人の活動としてホームページ用の記録に取り組むことが、メンバーの意思を十分に考慮せず全員を巻き込む形で行われていた。それを苦痛に感じる人が出たことで問題が明らかにされた。

以上のような経過があったので、今回より会話体でない形式の記録を試みる。

率直な話し合いが出来たことに一同満足できた。本当に自分の事が一番見えないことを実感した。

テキスト:『教行信証』信巻12/75(44)

是を以って本願の欲生心成就の文『経』に言はく至心に回向したまへり彼の国に生ぜんと願せば、即ち往生を得、不退転に住せん唯五逆と正法を誹謗するとをば除く、と。已上

「至心に回向したまへり」

第18願の本願成就文は信巻の中の五箇所に出されている。

「願生彼国」

親鸞聖人は『一念多念証文』19/2に「をさめとりたまふ時即ち時日をも隔てず正定聚の位につき定まるを往生を得」と書かれている。光明団の先生方からも「往生浄土とは方向性を与えられて生きること」とお聞かせいただいている。しかし生きる意味を求めるとは、死にも無化されない生きる意味であるから、死の問題を抜きに考えることは出来ない。観経には「命欲終時」「臨命終時」と説かれているのをみてから、仏を見て蓮華の中に座し極楽世界に生まれるのは死んだ後のことかと思う。今回は「お彼岸」のすぐ後であったので、「彼」に死や死者を連想する話題になった。

「浄土とは」

このような生死観を聞くと心が温まる。私が親にしてもらってきた愛情を子供達に伝えて行きたい。多くの人に掛けてもらった恩をお返ししていきたいと思う心になる。死が無駄にならないのがうれしい。共同体の中で生まれ育それを次の世代に伝えていく。このような生死観にとても共感する。浄土もこのようなものであるかのイメージがある。しかしこのモデルでは仏はどこにいらっしゃるのだろうか。またこのモデルでは生と死はまるでつながっているかのように思える。何か足りないと思う。浄土の土は屍骸で出来ていない。

「生きる意味とは」

菩薩道だなと感動する。こうありたいと思う。しかしこの他者の中に気に入らない人を入れることができない。

「死者に対する想い。いろいろな人の言葉から」

生きている人が救われなければ、死んだ人も救われない。

「共に生きる世界」

次回は引き続き欲生釈の引文12/75(45)から