歎異抄後序 御己証の表白


2009年5月10日 京都歎異抄の会 講師 堤日出雄師

0.歎異抄

歎異とは、親鸞聖人によってあきらかにされた信心念仏の教えと異なることを嘆く。 嘆くとは、一般に批判するとは自分を正しいとして相手のまちがいをせめることであるが、ここでは歎は悲嘆である。まちがっている相手を深く悲しむ。てらだまさかず氏は『歎異抄のはなし』(難波別院発行)の中で、「唯円の耳の底にとどまって離れない言葉とは、彼自身が親鸞聖人に誤りを歎異されたことではないか、」と述べている。
親鸞聖人によってあきらかにされた信心念仏の教えとは、南無阿弥陀仏の教えを聞いてそこにこめられた阿弥陀如来のおこころを聞き開くことである。欲生我国:阿弥陀如来の本願は衆生を仏の世界の住人にさせたいというものである。そのためのたった一つの方法が如来の真実をいただくことである。至心信楽:如来のまことの心、至心を以って我々の上に他力の信が届けられる。これが届くとわが身には真実まことがないことがあきらかにされる。逆にこれがわかることが如来の真実が届いた証拠である。自己肯定・自己過信のこころが如来の信楽を拒絶する。真実なるものが全くないという私の正体があきらかになることが仏の働きである。そのとき仏の真実が私を満たしてくれる。私の上に仏の真実がどのように届くかというと名号となって届く。聞其名号:如来真実の全てを名号で与える。これが親鸞聖人の信心念仏の教えであるのに、この教えと異なったことをいう人たちが出てきた。それを悲しんで唯円は歎異した。

1.後序について

歎異抄は前序、師訓編(第1章から第10章)、異義編(第11章から第18章)、後序でなっている。後序には親鸞聖人のエピソードが3つあげられそれぞれに唯円のおもいがのべられている。一つ目は「故聖人の御物語に」(23/12の5行目)。「信心一異の争論」といわれる。親鸞聖人が34歳ぐらい吉水の教団に入って4年ぐらいの頃、「自分の信心と法然聖人の信心は同じものである」と発言した。他の先輩弟子との争論になり、法然上人が「如来よりたまわる信心なり」と決着をつけられたという内容である。二つ目は「聖人のつねの仰せには」(23/13の5行目)より。三つ目は「聖人の仰せには」(23/13の11行目)より。今回は2つ目の箇所を頂く。

2.聖人の仰せ(御己証の表白)

「聖人のつねの仰せには」

聖人がつねにおっしゃっておられた言葉。これは聖人ご自身が本願にあって救われた讃嘆。己証という。己証は、自分勝手なおもいではなく教えの裏付け(教証)をもつ。

(1)本願の成就

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば」

案ずるとは聞思する、繰り返しいただいて考える。仏法は聞いた言葉を現実をとおしていただくことが大切。聞とは聞いた教えをわが身をとおしてうなずくこと。
劫とは永遠といってもいいくらいの長い時間。しかし五劫と数字で限定されているのは本願の働きをすでに成就されたから。五劫もの長い時間をかけて成就してくださった私達に本願を届けるための方法は、名号の成就であった。南無阿弥陀仏を成就すること。それが私達が本願にであう鍵である。しかしそれが私のもとに届く、つまり私の自覚になるための法蔵菩薩の修行は永劫、終わりがない。

「ひとえに親鸞一人がためなりけり」

一人はここでは「ひとり」ではなく「いちにん」である。仏法はいちにんの上に成就する。如来の呼びかけは「十方衆生よ」であるが受け止めるのは私いちにんである。そこに実現するのはひとりひとりの目覚めである。二河譬には「汝一心正念ただちに来たれ」とこの私が呼ばれている。仏法は覚道といわれるようにひとりひとりの上に目覚めを成就する法である。逆にわが身の目覚めをくぐらなければ仏法は成就しない。
お釈迦様は機に応じて教えを説かれる対機説法をされた。しかし同じ説法を同じ場所で聞いていた人たちがそれぞれにこのたびの説法は私一人のためのものであったと讃嘆したという。釈迦の説法は普遍性を持っている。すべて業の異なる人間なのにみんなに届くのは、人間としての迷い、苦悩は万人共通だからである。「いちにん」はあらゆるひとと共にあるいちにんである。人間は自分と他人の間に垣根をつくるが、人間としての座は共通である。
本願の成就する場所は私いちにんである。私いちにんに成就することが万人に届く法であることの証明となる。金子大栄先生は「すべての救われる道であるからわが身が救われ、わが身が救われることによってすべての救われる道であることが照明される」と述べられている。

本願名号成就

選択本願の「選択」とは南無阿弥陀仏の名号を「選らんで」届けようとされたことである。私達は自分の力が及ばないと知らされたとき「ただ念仏」と念仏を選ぶ。これは第20願への転回である。しかし念仏申す身になっていつのまにか念仏を私有化する。まいらせごころで念仏申し、こんなはずではないはずだと思い悩む。しかし念仏を選らんだことはそのままが阿弥陀の選びであった。その名号をもって本願を届けようとされたのである。
名を与えられるとは、名に託してメッセージが伝えられる。親鸞聖人の教えにであった人は聖人の名前をきくだけで親鸞聖人のおこころが伝わる。また名は呼ぶためにある。これで呼びかける働きが成就される。真実なるものの呼びかけを名に聞き、私はその名をよんで応えることができる。住岡夜晃先生のことばに「夏が来て上着をぬいだ。夏がぬがせたのだ。」脱いだのは私であるが脱がせたのは夏である。
自分を超えた世界を「他」と表現するよりない。我々はすべて自分の都合で世界を見ていく。この思いを破るものが「他」である。病気、他人など自分の思いどおりにならないのが「他」である。しかし「他」が「他」のままでは救いにならない。「他」なるもの(本願、仏のはたらき)が具体的に私そのものになって私の生きる力(いのち)となる。そこに救いがある。
ひとは暮らしも環境も遺伝も様々である。しかし仏教での大事なことは仏のさとりの智慧によって人間とは何であるかをあきらかにされたことである。人は生活環境も遺伝もそれぞれ異なる。理解し通じ合うのがむずかしい。しかし人間のいちばん底に共通のものが隠れている。それを見失わないことが大切である。

親鸞いちにんが

「ため」

親鸞いちにんのために本願を起こされた、そのいちにんとは「そくばくの業を持ちける身」である。ここで「ため」というのが重要な言葉である。

「阿闍世の為に涅槃に入らず」

(12/100『教行信証』信巻末『涅槃経』)涅槃に入るとは釈迦の御晩年に、一代教を説き終えもう人生を終ってよいというとき、父を殺した罪の意識にさいなまれて苦しんでいる阿闍世のために命が終われない。衆生をたすける為に命がおわれないというのが無量寿のこころである。

歎異抄の中の親鸞御自身のお言葉をみると

「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」

(23/1『歎異抄』第1章) 罪悪深重煩悩熾盛がいちにんの内容である。我執があるゆえ煩悩が盛んである。これが人間のすがた。すでに罪をおかしてきた。たすからない存在と仏の智慧によってあきらかにされる。仏の智慧だけがあきらかにできる。その私をたすけるために本願を起こされた。仏はこのような存在を引き受けたといわざるをえない。どうしようもない存在と運命を共にする決断をされた。

「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」

(23/4『歎異抄』第9章) われらとはわたしとおなじ悲しみ業をもつ人間存在そのもの。わたしときりはなせない存在であることをあらわす。かくの如きとはすぐに愚痴の心がでてくるわれ、縁によって煩悩がおこる私。唯円は念仏申しても意欲がわかないという問題に悩む。教えを聞いてうなづいたようでも現実にいろんな問題が起こりこれではだめだと思う。これがかくの如きのわれらである。このような私がすでに収め取られている。

「さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」と御述懐さふらひしことを、

「そくばく」とは若干とかかれることもある。干の字は一と十からなる。あるいは一のごとくあるいは十のごとくと数がさだまらない。もしくは数が多くて数え切れないという意味である。 「業」とは身口意の三業で生活そのものである。聞法を始めると、まず過去の私の起こしたことに対して愚かなことであったとわかる。過去の業縁の中に自分の正体があきらかにされる。それが自分の姿を知るということである。(宿命智通)その私の罪業を数えあげていくならば、次から次へといくらでもでてきて数えつくせない。それがそくばくの業を持った身である。
「たすけんと思し召したちける」 このたつは「立つ」である。そくばくの業をもっている私をたすけずにはおかないと立ち上がった。浄土真宗のご本尊は立像である。観経の華座観に現れる仏は立っておられる。(2/11)衆生を救う為には、じっと座っておられず立ち上がられた。

ここまでが親鸞の信心の告白の部分である。これに続く文は唯円のうけとめの部分である。

「今また案ずるに善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没み常に流転して、出離の縁あること無き身と知れ」といふ金言にすこしも違はせおはしまさず」

唯円は親鸞のこの御述懐のことばを、善導の機の深信と等しい、とうけとめている。

機の深信


教行信証12/59に

「深心と言ふは即ち是れ深信の心なり。亦二種あり。一つには決定して深く「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没み常に流転して、出離の縁あること無し」と信ず(機の深信)。二つには決定して深く「彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまふ、疑無く慮無彼の願力に乗ずれば、定んで往生することを得」と信ず(法の深信)。」


とある。

『観無量寿経』(2/21)に三心の教えが説かれる。浄土に生まれたいと願うものは3つの心をおこしなさい。「一者至誠心。二者深心。三者回向発願心」と番号がついている。最初は至誠心すなわちまごころをもって善にとりくみなさい。善を行うことができても愚痴の心がおきるのをどうしようもない。まごころがあるかという問いの前に「ない」と答えざるをえない。至誠心の歩みを通してわが身に真実心がないと知るのが、深心である。

機(衆生)の深信とは、浄土真宗によってどのような目覚めが起こるかをあらわす内容である。 「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫」私はすでに罪をおかしてきた。「罪悪生死の凡夫」、仏に照らされてみると、はるかな過去から自分には間違いがないと深く自己肯定し、相手が悪いとせめて生きてきた。自我の煩悩に迷い、「曠劫よりこのかた常に没み常に流転して」長い間何度生まれ変わっても、仏法に出会えずむなしく過ぎてきた。未来に照らされても「出離の縁あること無し」どこかであると思いたい気持ちを無しと全否定される。過去はいけなかったがせめで未来はしっかりやっていけるだろうと思うのが人間であるが、このような私が救われるてがかりは全くない、と照らされてわかる。

「現に」これは現在の自覚である。今の私の中身をみれば過去に照らすと深い迷妄、未来に照らすとどこまでいっても煩悩を離れることができない。それは「私の存在そのものが仏法を拒んでいる」としかおもえない。私が反仏教的な存在であるところまでおさえこむ。私達は自分の力で我執の煩悩を抱えた自分をなんとかしたいと思っている。しかしどのような私の努力をもってしても自我の我執を超えた世界に、真実の世界にはいることはできない。それがはっきりわかり、頭をさげて申し訳ないというよりほかない。それを親鸞聖人は「地獄は一定住みかぞかし」といわれた。

本願の教えに出遇うとは仏の智慧によってわが身を徹底的に照らされること。それには繰返し教えを聞くしかない。煩悩具足のわれに本当に目が覚める事。それがすくいである。 我執の塊である私。そういう私であることに本当に目がさめたことがすくいである。それは仏の智慧によってあきらかにされた。あきらかになったのは仏の智慧が届いた証拠。仏によっておさめられている。機の深信が成立したことがすくいである。

法の深信

法の深信は機の深信によって本願にであったことを確認することばである。機の深信があって次に法の深信があるのではない。すでに本願に乗託しているわが身であった。私がゼロになったとき如来の働きが百パーセント届く私がうまれた。「彼の願力に乗ずれば、定んで往生することを得」機の深信ですくわれる手がかりも無いわが身であるとわかったことが、すでに本願力に乗託しているわが身であった。これが法の深信のわが身である。彼の願力に乗託する以外に無い、それ以外にないとわかったことが、すでにすくわれている、すでに乗託されているとわかる。私に何かができると思っている間は、如来は完全に働くことが出来ない。正信偈(10/7)に「我も亦彼の摂取の中に在れども煩悩眼を障へて見たてまつらずと雖も大悲倦きこと無くして常に我を照らしたまふ」煩悩はキレーシャといい内なる妨害者という意味である。大悲が常に照らしていることがわからないのは煩悩のせいである。

仏法における救い

仏法ですくわれるとは如来とであうことである。如来といっても実体的なものではなく、真実のはたらきである。仏を信じるとは仏を向こうにおいて信じ込むことではない。如来とであうとは本願とであうことである。本願とであうとは、私が、本願をおこしたこころと出会うことである。なぜ本願は起こされたのか。本願を起こさしめた因はわが身である。本願をおこさずにいられないようなわが身である。そのわが身にであうことである。その私は仏法を無視し仏法にそむく存在である。表向きは仏法を喜んでいるようにみえながら仏法を名利のため利用する私。本願にそむくような私が正体である。わたしは本願にあえるしろものではない。そのような私が本願にあえる方法がたった一つある。
「本願にそむくような私であったと正体にきづいてお詫びをするという一点において本願に出会う」と延塚知道先生はおっしゃっている。広瀬杲先生は「本願におうたということは本願に反逆する私におうたということ」とおっしゃっている。本願にあったということは有頂天になることではない。仏を利用するような私を既に見抜かれたうえで起こされた本願である。その正体を知らせる為に唯除の機を設けられた。救われる資格の無い私にめざめてくれとのおこころである。