華座観前文


2009年2月28日大阪支部一泊研修会 講師 岡本英夫師


 

観経第七観華座観(2/11[15])をいただく。この華座観は浄土教の説くべき所ともいうべき大切な教えである。華座観は華座観の前文といわれる部分と華座観の観法の教えの部分とに分けられる。前文のところで韋提希は阿弥陀仏にあう。つまり信心成就する。これは韋提希に対して説かれる教えの最大の利益である。

華座観に至るまでの背景


観の教えが開かれる発端


釈迦が韋提希に観の教えを説く出発点は、韋提希の要請による。「唯願わくは佛日我を教えて清浄業処を観ぜしめたまえ」(2/4・7)「佛日」とは韋提希は佛への尊敬のおもいが増して佛を太陽、この世の最高のものにたとえて最高の教えを説いてくださる方として呼びかける。求めている内容は「清浄業処」である。ここで韋提希の考えている「清浄業処」は釈迦の「清浄業処」と異なるものである。韋提希の求めているものは「憂悩無き処」地獄・餓鬼・畜生・不善の聚・悪人のいないところである。如来の「清浄」とは真実である。しかしどちらも清浄という言葉であらわされる。真実が分らない者が現実との中でおこる苦しみの無い世界を求めるおもいが、釈迦との出会いによって真実にまで育てられていく。その大きなおはからいのプロセスが観経である。

光台現国


韋提希の要請に応じて
「爾時世尊、眉間から光を放ちたまふ 其の光金色にしてあまねく十方無量の世界を照し、還りて佛頂に住し化して金台となり、須弥山の如し」
そこにさまざまな諸仏の国を映し出され韋提希にお見せになった。韋提希はそれを見て映された諸仏の国から一つを選ぶのでなく、諸仏の国を輝かせているもとである阿弥陀仏の国に生まれることをねがった。釈迦は韋提希に自分で選ぶ自由をお与えになった。ひとは主体性をもって自分の決断と責任で選び取るから自分の道になる。そのときにひとは根源となる世界を選ぶことができる。善導大師は韋提が具体的に阿弥陀の浄土を選んだことを「別選」、自分で選んだことを「自選」といわれる。なぜひとにそれができるのか。親鸞聖人は御和讃(11/19[73])に「恩徳広大釈迦如来韋提夫人に勅してぞ 光台現国のそのなかに安楽世界をえらばしむ」韋提の自選は釈迦がなされたことといわれる。私たちをおおきく包む方なくては「我今極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと楽う」という自選はできない。そのことを恩徳広大とおっしゃっている。

釈迦への要請


「唯願わくは世尊、我に思惟を教え、我に正受を教えたまへ」(2/5)
この韋提の願いは同時に韋提希の問題点もあらわにしている。ひとが歩んでいくためには方向と力が必要である。彼女の求めたのは考え方と受け止め方つまり方向だけで、歩む力が自分にあるかどうかを問題にもしていない。それは当然自分にあるものと思っている。そこに韋提希の問題点がある。本当はひとには真実がわからないから真実に向かって歩む力はない。自分の中に真実がないことがわからないので、真実のはたらきをいただいていきるのではなく、自分の中に真実をうちたてて生きていこうとして、人生を空過する。真実の力がないということへの目覚めが人間の救いである。だから釈迦は韋提希に真実の力がないということを気付かせるための教えを組み込まれた。

教えの二重性


仏教の教えは要請によって説かれるのだがその中に、目覚めさせるための教えが混入されている。観経の定善観は韋提希の要請に応えて説かれるが、同時に目覚めさせる教えも説かれている。それで定善観を説かれるうちに韋提希のこころが育てられ自分自身がなにものであるかわかっていくのであるが、文字情報では同時に伝えることができないので散善(目覚めさせる教え)だけを別に取り出して説く形態をとるしかない。

仏の課題


仏の課題は韋提希に自己を知らしめることと阿弥陀仏にあわせることである。そのためにこころを砕かれ考え抜いて、教えを開いてくださった。
正宗分の初めに「汝及び衆生、応当に専心に念を一処に繋け西方を想ふべし」とある。「西方を想ふべし」というのが韋提希の要請への直接的なお応えである。韋提希は日没を見よといわれれば教えの通りに実行して浄土を見ることができると思っている。自分のうちに真実があると思っている。「専心に」といわれるのは、真実のない自己にめざめよという仏の教えである。韋提希が育てられていった様子が各所にみられる。仏をそしるのが正体であるから、真実の教えになじんでいくには時間がかかる。「若し是の地を観ずる者は八十億劫生死の罪を除く」(2/8)仏をそしる罪にめざめる。「若し此れを見る者は無量億効の極重悪業を除く」(2/11)仏を無視してやってきたことがすべてであったという自覚が生まれる。この時が阿弥陀の本願を正しくうけとめることのできる時である。そして華座観で阿弥陀仏に会い信心を成就する準備が整えられたときである。

華座観

信心成就


「諦聴諦聴善く之を思念せよ」(2/11)
これと同じ言葉が歩みが始まる前(2/6)に説かれる。はじめはまだ本願の教えが全く分ら無い状態で歩まなければならない。お話をきいてよかったと思いまた聞きたいと思う。それでも信心である。信心の始まりである。小さくて風で消えるようなものでも信心にちがいない。ついたり消えたりしながら火もろうそくもおおきく育っていく。信心はたまわるものである。信心の方がその人に成就しようとしている。信心は最初についたときから始まっている。育っていく過程が大切である。第1観から第6観までがその大きくなってく過程である。そしてついに第7観で消えない信心の成就(弥陀に会う)がされる。

除苦悩法


「佛当に汝が為に除苦悩法を分別解説すべし」(2/11)
佛は阿難及び韋提希にお告げになっているのに、ここの「汝」はなぜ単数であるのか。阿難はこれを聞いてどきっとしたことであろう。阿難は釈迦佛の従者としてついて来た。傍観者の気持ちがあったに違いない。しかし阿難も弥陀の本願によって救われるべき教えの対象なのである。この「汝」は阿難に対しても説かれている。
「除苦悩法」とは韋提希の「憂悩無き処を説きたまえ」(2/4)という要請に応える教えである。この問いを発したとき韋提希は自己を問わないままに他所に憂い無き世界を求めていた。自分の苦しむ原因は社会にあるとするのは私たち共通のおもいである。「苦」とは結果である。「惑」を因とし「業」が起こり「苦」という結果が生まれる。韋提希は最初は「苦」が除かれればよいと考えていた。しかし惑とは煩悩具足の凡夫であることから生じ「苦悩」の正体は仏智疑惑・誹謗正法の「罪」である。仏の「除苦悩法」とは「罪苦を除く法」であり苦悩の正体を明らかにすることである。救われるとはわが罪に目覚めることである。韋提希の最初に求めていたものと同じ言葉「除苦悩法」を使いながら仏は自己に目覚める教えを韋提希に与え続け、この段階の韋提希は自己に目覚め「無量億劫の極重悪業を除」かれている。今改めてこの言葉を仏にだされて韋提希は自分の求めていたものの正体を突きつけられ身の置き所もない思いがしたであろう。

分別解説


「汝等憶持して広く大衆の為に分別解説せよ」
仏教を広く人々に伝えることを流通という。釈迦が「分別解説」された、除苦悩法を阿難と韋提希に大衆に「分別解説」するように託される。仏法は釈迦が説こうと、阿難が説こうと、韋提希が説こうと同じように説くことができる。仏滅後2500年、仏教が伝わっているのは同じように説けたからである。「分別解説」と同じ言葉が使われていることが同じように説けることを保証している。

無量寿仏空中住立


「是の語を説きたまふ時、無量寿仏空中に住立し、観世音・大勢至是の二大士左右に侍立せり、光明燦盛にして具に見るべからず、百千の閻浮檀金色も比と為すことを得ず」(2/11)
「是の語」というのは阿弥陀の本願を説く教え。お釈迦様が本願の教えを説かれるその「時」に教えのところに阿弥陀仏があらわれる。そういう「時」である。
「無量寿仏空中に住立し」
韋提というひとの上に救いが成立する。そのためには何が必要であるか。釈尊(で代表されるよき人、善智識)と阿弥陀のふたつがなくては人は救われない。二尊教といわれる。 この部分の善導の観経疏をみれば
「娑婆の化主 物(人物、私)の為の故に想いを西方に住(とど)むる」
釈迦は私を救うために、私を救う弥陀の本願力を想い続ける。
「安楽の慈尊 情(こころ)を知るが故に則ち東域に影臨む」
安楽は浄土、情は真情であり釈迦の心(韋提の心)、東域はこの世界、則は法則、影臨むとはただちにあらわれた、必ず対象のもとにあらわれる。本願は真実なるものの力である。抽象的なものでそのままではわかりにくい。釈迦が私に本願を届ける為に考え抜いて教えとして説かれる。本願は教えになって初めて私たちにわかるものとなる。それが善巧方便である。私が救われるには本願(救う力)と本願を説く具体的な教えの両方が必要である。
「二尊の許応(こおう)異なることなし」
許は、はかりごと。応は、かなう。釈尊の許(はかりごと)善巧方便と弥陀の応(応答)は韋提を救うためにされる。
「直ちに隠顕殊(しゅ)有ることをもって 正しく器朴の類万差(しゃ)なるに由て 互いに郢匠(えいしょう)たらしむことを致す」
器(人間)の朴(もとのままの姿)は千差万別である。郢匠とはいきのあった左官と大工のコンビの故事から取られており、殊とは見事ということで釈迦と弥陀の連携の見事な様をあらわす。「直ちに隠顕殊あり」とは釈迦隠れ弥陀顕わる。釈迦の説かれた教えの言葉が、発したとたん消えてそこに弥陀があらわれる。教えとは月をさす指である。教えを説かれたとたんその言葉が空間を占めて瞬間に阿弥陀があらわれ私たちが出会うことが出来る。教えを聞いてよかったとおもうのは阿弥陀に出会ったからである。教えを聞くとは阿弥陀仏にあうことである。「直ち」の直の字は、目の上に付く十は目の見える力を強化する印でLは土手であり徳を隠している。イが付くと値になるが、人に真正面に会うことである。内なる真実を人に向けて真正面に会おうとされる。だから人は阿弥陀仏向かう姿勢として真西を向くことが要求される。

信心成就の道理


虚仮不実の私の上に真実が成就する法則を親鸞聖人があきらかにされた。
「夫れ以みれば信楽を獲得することは如来選択の願心自り発起す(願)
  真心を開闡することは大聖矜哀の善巧方便従り顕彰せり(教)」(12/54 信巻 序文)
願心自らが願心を成就しようと発動する。釈迦が私たちをあわれんで善巧方便の教えより真実はあらわれる。釈迦は願を私たちにわかるよう教えとして開いてくださった。真実にあうためには互いに条件がある。私たちには私たちのすべきことがある。教えに従って歩むことである。釈迦が本願への具体的なあいかたを教えとして示された。その教えに従って歩んでいくことで弥陀にあうことができる。「一者至誠心」(11/19)私たちの歩み方の出発点であり生涯の歩みの底を流れる教えである。この教えに従って歩むことでひとは初めて目覚める。真実心があると思っていたのにないとわかる。観経はひとを目覚めさせる教えである。

観経正宗分の構造


観経の正宗分は定善13観と散善3観が説かれている。定善観は韋提致請の教である。韋提は方法(思惟と正受)を請い、力については問題にもしなかった。この問いで暴露された韋提の問題点は力がないのに自分にあると思っている。これが私たちの迷いのありかたである。真実がないのに自分にあると思っている。それが私たちの深い闇である。散善観は仏自開の教えである。韋提の請うことができない自分の間違いに目覚めさせる教えである。お経は文字で書かれているという構造上、韋提の求めた部分(定善観)と釈迦の願い(散善観)とが分けてあらわさざるをえないが、実際は定善観の教えの中に散善観(人を目覚めさせる教え)が少ししか顔を出さないが混ぜられている。
三福の教え(2/5)は力のないことに気付いて欲しい。凡夫であることに目覚めて欲しい。方法も力も与えて欲しいと願える韋提に変えるための教えである。第三観の成就で「八十億劫生死の罪を除く」(2/8)第六観で「無量億劫の極重悪業を除く」(2/11)と次第に韋提のこころが深められていく。
目覚めさせる教えのもとは大経の48願にある。自己への目覚めをさせたいというのが18願。19願(歩みをさせる願)と20願(歩みを徹底させる願)この2つによって18願が成就する。真実のはたらきの本願をわたしたちの生活の教えとしてあらわすことが方便である。なぜ私たちが目覚めていくことができるのかの道理を説くのが散善観である。

ひとの目覚める仕組み


散善観の教えは3つの層で出来ている

散善三観 九品(目覚めの歴程) 上品(上生中生下生) 中品 下品
善(私たちが生きていく現場・自分のできる仕事) 大乗善 小乗善 世間善 なし
心(三心) 至誠心を起こせ

目覚めの歴程が散善観の内容である。しかし定善観にも入っている。定善観の最後で韋提が仏にお礼申上げることができるのが目覚めの姿である。

「仏告阿難及韋提希上品上生者、若し衆生有りて彼の国に生ぜんと願ぜんものは三種の心を起こして即便往生する。」(2/21)
彼の国に生ぜんと願ぜん者は「念仏申せ」と、私たちは結論を知っている。しかしこれはうけとれない。ここで最初の何もわからない者への第一歩を与える。至誠心をもって一歩一歩歩んでいくことを通してのみ人はめざめる。
善導はここを「仏、阿難及韋提希上品上生者に告げる」と読まれた。最初は自分を大乗の善ができるという自己肯定でやっていく。心に至誠心を起こしてそれをベースにして大乗の善を行おうとする。自分の起こした至誠心は仮の真実心であるがそれを以って善を実行しようとすると、そのこころが、行った善を大乗の善であるとおもわせない。そこで出来ないという現実が仮の真実心を問い返してくる。そこで上品ではない自分だとわかり自覚が深まる。しかしひとつランクをさげればできるのではないかと、至誠心を奮い起こして次の善を実行しようとするが、起こした至誠心が本当に出来ているのか問い返してくる。そこでできないという現実を受入れざるを得ない。その現実が私の起こした至誠心の不純さを問い返してくる。このような自分のこころとは何者かと自己を問うようになる。何度も問い返し、ついに自分の現実に頭を下げる。

遇縁の凡夫


仏から見れば、人は善人悪人と固定したあり方ではなく、出会う縁によって善ができたりできなかったりする。上品とは大乗仏教の善ができるような縁にあった衆生である。何も善のできないのは何も善のできない縁にであった凡夫と見る。ひとはそれぞれその出会った縁を自己自身として生きている。しかしその正体はすべて凡夫である。縁を変えることは解決にならない。自己自身が凡夫であることに目覚めることこそ根本的な解決である。

至誠心が目覚めの原理


至誠心とはどういうことか。「必ず須らく真実心の中に作すべし」これが目覚めの原理である。人間は何とか逃げようとする。逃げられないようにたがをはめる。それが「経に伝はく一者至誠心」。真実心をもって歩む以外往生の道はない。仏言であるといただく。経は鏡となり私を照らす教えとなる。いわれたことを実行するという発想ではなく、私を照らす光として受け取って歩むのが教えの受け取り方である。
本願が教えとして説かれなければ、私たちは本願の心を受け取って歩んでいくことができない。第19願を釈迦が善巧方便された教えが「至誠心をおこせ」である。この教えによって人は歩み始めることができ、この釈迦のはかりごとによって遂に本願の心を受け取るようになる。
善導は至誠心を真実心におきかえた。

「一者至誠心。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず真実心の中になすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋邪偽奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといえども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心起行をなすものはたとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」(散善義)(参照12/59)

このように歩むとできないということがわかる。どうしてわかるのか。

「何を以っての故に正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、一念一刹那に至るまでも三業の所修みなこれ真実心なるによりてなり。」

法蔵菩薩の歩みは私を救う為の歩みである。法蔵菩薩が真実の心で歩まれて本当に私の救われる道をみいだされた。その法蔵菩薩の歩みに出会ってはじめて私の心の中にある不実に気付く。本当の真実に出会う、法蔵菩薩に出会うことが大切である。一方の私は菩薩の歩みに関知せず、自己を肯定して自分勝手に歩んでいる。私を救う為の法蔵の歩みに真実がある。その真実を横取りして自分の中にあるとしていた。最初に真実ということでそのコントラストがあきらかにされる。

「説是語時」華座観(2/11)
「説是語時というはまさしく明かす、この意のなかにつきてすなはちその七あり。一には二人に告勧する時を明かす。二には弥陀声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす。三には弥陀空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす。」

是の語を説きたまふ時


弥陀声に応じて即ち現じたまへば、往生を証得することを明す(応声即現)

何が私たちの救いの道なのか。阿弥陀が現れたということが本当の往生を得るということを表している。仏教で救いを得る方法は聖道門では私が仏の段階まで行く。浄土教では空中住立の仏となって私のところに阿弥陀が来る。それが人間の救いの根拠である。阿弥陀が現れるきっかけは教えを説く声に応じてである。聖典に書いてあるというだけでは私にとって教えではない。響くところにないと教えにならない。
「文字が立ち上がって私を呼んだ」(夜晃師)
このように文字が声となる。二河譬(12/64)に
「即ち釈迦已に滅したまひて後の人みたてまつらず、由教法ありて尋ぬべきに譬ふ、即ちこれを声の如しと譬ふるなり」
いろんな出来事から仏法のサインが出ている。耳を閉じてはいけない。その声に応じて阿弥陀が、韋提のもとに現れたところに大乗仏教の救いがある。救いを象徴する感動の場面である
。 「弥陀空にましまして立ちたまへるは、ただ心を廻らして正念にしてわが国にうまれんと願ずれば立ちどころに即ち生ずることを得」

阿弥陀に出会った韋提に起こったことは、廻心・正念・願生我国である。これが揃って「立即得生」となる。廻心とは私は仏に対して間違っていたと心を翻す。仏を無視し自己の真実を肯定していた私と目覚める。お詫びがある。回心懺悔が信心である。正念とは念仏である。願生彼国でなく我国となっているのは阿弥陀の国こそ我が本国である。彼の国を我が国として生きる身になった。これが救われて生きる生涯の歩みの内容である。第18願の本願文に「欲生我国」とある。これは阿弥陀がおっしゃっている我国だから阿弥陀の浄土である。成就文には願生彼国とある。これは信心成就した人の上におこる(私たちの方から)彼国に生まれようとする願いである。

問答


聖道門の考えを打ち砕くための問答がここに置かれる。自分が歩んで仏のところへいくのか。それとも仏が私のところへくるのか。何を明らかにすればその結着がつくのか。

「問うて曰く、仏徳尊高なり。輒然として軽挙すべからず。既に能く本願を捨てず来たって大悲に応ぜば何が故ぞ端坐して機に赴かざるや」
阿弥陀仏のお徳は大変高いものである。かんたんにもちあげるべきではない。本願を捨てずに大悲に応ずる仏が阿弥陀仏で、真如はすでに大悲に応えてあらわれた。浄土門では真如の世界から私たちを救うために現れた仏様が阿弥陀仏であると受け止めるが、聖道門の考え方では、真如の大悲が来たって阿弥陀仏となってあらわれる。阿弥陀仏は大悲にかなってあらわれたものである。形としては端坐しておられる。どういうわけで座ったままで赴くことをしないのか。徳の高い方が凡夫のためになぜ立ち上がっていかれるのか。座ったままで凡夫くらい救う力があるはずだ。

聖道門の考えの誤りはどこにあるのか
@ 仏徳尊高の意味が間違っている。私を救う為の真実なのに私と切り離されている。
A 人間存在についての認識が間違っている。たかがひとりの凡夫を救う為に仏が立ち上がっていく必要があるかという問いには、ちょっとで救われるくらいのしろものではないことに気がつかない。

「答えて曰く、此は如来別に密意あることを明かす。娑婆は苦海なり。雑悪と同じく居して八苦相い焼く。動もすれば違反を成じ詐り親しむに笑を含む」
なぜ自分の方から韋提希のもとへ行かれたかといえば、阿弥陀如来に深いお心があってのことである。それを無視して批判してはいけない。人間の世は苦しみである。悪人と同じところに住んでいる。さまざまな苦しみでお互いを焼きあっている。こういう状況でみんなが苦しんでいるから助け合っていかねばならないであろうに、助け合いということは捨ててしまって詐わり親しんで、相手を引き摺り下ろし相手が落ちるのを見て無上の喜びを覚える。笑みを含むというのは、私たちは人の足を引っ張ることに無上の喜びを覚えて、これさえあれば仏なしでやっていけると思っている。

「六賊常に随いて」目耳鼻舌身意の感覚器官を我見が支配しているので、感覚器官が賊となってしまう。
「三悪の火坑臨々として入らんと欲す」
三悪道の苦しみの世界を火が燃え盛っているほら穴にたとえる。本人は自覚症状はないが客観的にみればそこに自分で入ろうとしている。そのような者に対して真実の仏が救けにいくしかない。
「若し足を挙げて以って迷いを救わずば、業繋の牢なにに由てか勉るることを得ん」
業とは人間の行為すべて。人は何をしようともしたことが結局自分を縛る。すべて我見をもとにしているから。蚕繭の自縛するがごとしとたとえられる。
「斯の義のための故に立ちながら撮りて即ち行く」
立撮即行 撮はつまむ。かろうじて穴にはいるところをつまむことができた。人間存在とはこのようなものであるというのが善導の人間理解である。自己がどのようなものかわかることで、仏が自分の方に来たって救うという救われ方しかないと結着がつく。

「観世音・大勢至是の二大士左右に侍立せり」(2/11)
観世音=慈悲。世の音とは私たちの声。存在のそこの叫びを聞き取る。大勢至=智慧。阿弥陀仏・観世音菩薩・大勢至菩薩は並列にあるのではない。大悲の真実がまします。救うことを願うのが慈悲である。それを実際に働きかけて実現するものが智慧である。智慧の働き、厳しさによって救う。慈悲と智慧はひとつのもの。阿弥陀にあうとは慈悲と智慧の働きを受けることである。聖人は、仏からの願いとして働きかけようとしている状態の時が勢志菩薩、私の上に智慧が至り届いた時に勢至菩薩と書き分けている。
何故菩薩か。歩み続けるのが菩薩の精神である。どこまでも真実に向かって歩んでいる人が、私に声をかけて共に歩もうと勧める。その人に出会って自分も歩もうと思う。生涯をかけて慈悲と智慧を求める働きをするのが菩薩である。阿弥陀・大悲の真実の内容としては智慧と慈悲で働きとしては菩薩である。私を歩ませるものが私に先立って歩み私を勧めてくださる。その働きを受ける身になった。

「光明熾盛にして具に見る可からず」
私が見るということがなくなって光がこの空間の中心になる。仏によって見られている。
「百千の閻浮檀金色も比と為すことを得ず」
世間の金色と次元が異なる。このような働きを受ける韋提希にかわった。

「時に韋提希無量寿仏を見たてまつり已りて」
已りは完了。信心が成就した。そのときに韋提希の取った行為は、釈迦に対して「接足作禮し」た。
「韋提は實に是れ垢凡の女質なり、いふべきに足らず。」
垢は煩悩。質はすがた、表面にあらわれているもの。韋提は煩悩具足の凡夫そのものであり、言うまでもない。(そこから動いてはいけない)今、凡夫にはできようもない深々とした御礼をした。接足作禮とは相手の足を自分の頭に乗せる礼である。これは凡夫にできることではない。なぜできたのか。
「聖力冥に加して彼の仏現じたまふ時、稽首を蒙ることを得」冥はくらい。こちらからはっきりとみえない。仏の世界は私からわからない。それをくらい、冥という。私たちにわからない阿弥陀の深い世界。阿弥陀の方に深い考えがある。暗い中で阿弥陀の力が韋提に加えられて、如来が現れたとき、阿弥陀から稽首という姿勢がとれる人間にしていただいた。稽首する身になったということは韋提希の長い求道の中でどういう意味があるのか。

「斯れ乃ち、序には浄国に臨んで喜歎して以て自ら勝ゆることなし」序文の段階で浄土を前にして喜びにあふれた段階があった。(光台現国2/4)阿弥陀仏の処に生まれんと楽ふ。これが韋提希の出発点である。この段階では自己が何であるかがわかっていなかった。三福の教えで目覚めはじめる。「今乃ち正しく弥陀を覩たてまつりて更に益心開け忍を悟る」忍とは無生法忍・信心。今正しく弥陀をみて忍を得る。
正宗分を終わった後得益分(2/29)では阿弥陀にあうことと阿弥陀の国に生まれたいと願うことがかかれている。信心は次第に育てられて大きくなる。最初は風ですぐ消えるような火であっても信心であることにはまちがいない。細川先生は聞法の最初の段階の若い人たちの気の赴くまま語り合う場を提供して育ててくださった。最初は火がついたり消えたりするが、小さいからつまらないものではない。火のほうが私につきたがっている。

韋提希はどこまでいくのか。


韋提希はお礼を申上げるところでおわらない。「仏に白して言さく世尊我今仏力に因るが故に無量寿仏及び二菩薩を見たてまつることを得たり。未来の衆生当に云何して無量寿仏及び二菩薩を見たてまつるべき。」(2/11)お礼の直後に起こることは未来の衆生をおもう。未来の衆生にも自分と同じように阿弥陀仏にあってもらいたいとおもう。「まさしく夫人し、物のために疑いを陳べて後の問いを生ずる事を明かす」仏恩を領荷す。大事なものとして荷う。受け取るだけでなく荷って立つ。
この観経での韋提希へ真実を届けるための教えのもとには法蔵菩薩の誓願がある。

人間の考えでは信心を得て終わりであるが、そうなる自分を知らされて仏恩を領荷するのが仏にであったものの姿である。 ホームへ戻る