

5月の連休が過ぎる頃には、きっとこのひどいアレルギー性鼻炎も治っているはずだ。
それを期待して、もう少し辛抱しよう。
成人の日が過ぎた頃から鼻がむず痒くなってはくるが、僕の場合は、4月頃から本格化する。
主な症状は、目のかゆみ、鼻水、間断無く続くクッシャミ等々。他の身体的不快は、それこそ枚挙に暇が無いほどであっちやこっちに場所を移動しながら変調をきたす。
遅めの本格化は「ヒノキ花粉によるアレルギーだ!」と、花粉症通の人に教えられても「ヒノキ花粉はスギ花粉よりもサイズが小さいらしいよ」と、解説されても僕の症状がいっこうによくなるわけではない。
一体全体、大昔から「花粉症」なんて言うへんちくりんな病気があったのだろうか?
花粉アレルギーに限らずアレルギー全般の不快な諸症状は抗原抗体反応によるものらしいが、聞く所によれば、第二次世界大戦後徐々に生活環境が清潔になったことがこのこのアレルギー反応の素因を作り出しているらしい。かつて生活環境が現在ほど清潔でなかった頃はばい菌などの細菌の撃退に使われていた免疫物質が、清潔な生活環境内ではばい菌などの細菌がすっかり影をひそめた為に必要が無くなりそれらに変わって登場した免疫物質がアレルギー源となりやすい物質(花粉やダニ、ハウスダスト、そば、等々)に対して攻撃を行うらしい。 このアレルギー反応の素因は既に乳幼児の時期に決定されるらしいが
その時期に適度な非清潔な環境にあった人ほどアレルギー体質になりにくいという皮肉な現象をもたらすらしい。
また一方では、旺盛なる植林事業による自然林から人口植林への転換こそが、今日深刻な社会現象とまでになっている「花粉症」の大きな要因であるらしい。自然林では、一本の杉の木が成長するために必要な土壌面積は自然に確保されるが、人口の植林では経済効率を優先するために、はるかに濃密に植樹される。このことは、人口植林された杉にとっては生命を永らえるには劣悪な環境であり「種の保存」にとっては危機的状況だと判断してしまうのです。従って、「種の保存」の為に子孫を残そうとして必要以上の大量なる花粉を飛ばすのだそうです。
その他、道路面の舗装や複合汚染等々、一時代前には無かった種々の要因が重なってのことらしい。
それに付けても、日本政府のこの「花粉症」に対する無策ぶりにはあきれ返るばかりだ。この数ヶ月間にわたり引き起こされる「花粉症」による経済的損失を何兆円と見積もればよいだろうか。将来は毎日食べるお米に何らかの「花粉症」を克服する物質を添加してただ今の厄介物の「花粉症」から国民を解放するすべを模索中らしいが、あまりにも悠長なお話ではないだろうか。
今一つ、新型肺炎の重症急性呼吸器症候群=SARSが、中国、香港を中心として猛威を振るっておりいっこうに衰えぬ感染者の拡大と死者の増加が深刻に懸念される。一説では、感染力がインフルエンザ以下だとも言われてはいるものの日本に上陸することも予想しておかなければならない。
この病気の原因はコロナウイルスの一種とも言われているが、この手のウイルスに効く筈の抗生
物質が効果がないといわれることが一番深刻な問題だ。死者が多いのもこのためだが、手洗いやうがい、マスクの着用に、そして自分の口や鼻に手で触れないなどの予防法を聞くだけでは、ますます不安になるばかりだ。
ところで細菌やウイルスと抗生物質との関係で言えば、病院内感染症に見られるように最初には効果があった「抗生剤」も病原菌の方にも徐々に耐性が出来、やがて効かなくなるらしい。SARSの原因もこれらの抗生物質に耐性のあるウイルスの複合体だと考えられているらしい。
人類は生命のミクロの世界であるDNAをほぼ90%解明し、生命のマクロの世界である宇宙の事もほぼ解明して来た。未だ、その生命がどこから来てどこへ行くのかは分らないにせよ、人類の歴史と呼ぶべき物はこの強大な自然(地球環境)と戦い、幾多の難関を克服することにより生命を永らえてきた歴史、いわゆるフロンティア・スピリッツ(開拓魂)の歴史と言っても過言ではない。言葉を変えて言えば、文明と言うべき物だ。
ポリ塩化ビフェニール=PCBと言われる物質がある。加工が容易(加工温度が低い)で安価でとても丈夫な物質だ。
石油から人類の知恵が生み出した最高傑作の一品だ。
ただし、あまりにも丈夫に作りすぎたために自然分解することが困難で、カネミ油症の原因物質であったり
燃やせば猛毒のダイオキシンを発生させたりする。
これを安全に分解させる方法を模索しても、人知に於いては不能であるばかりなのだが、ただ一つ、バクテリアによる分解(バクテリアにPCBを食べさせて無害な土を排出してもらう)が有効であることが分った。
この教訓は、人類の文明に対する1つの転換を啓示する。
人類における文様の発達に上記3つの何かを暗示する挿話を重ね合わせることができる。
始め、人類が何かを作る。文明の始まりだ。
大地にある石ころはそこにある限りあくまで自然物であるが、一旦何かを叩き割る物として人がそれを手にすれば道具と呼ばれる。
その石を割ったり削ったりして加工すればなおさらだ。
粘土を焼き固めて、水を汲む器(うつわ)なども作り始める頃にはそのことに人類が気付き始めた。
自然界にあるものはデザインとしてそれだけで非の打ち所の無い完璧な物であるのに対し、人口の物はデザインとして不完全で、特に何も描かれていない器の表面などには「空白恐怖」さえ感じた。そこで、その空白を埋めるべく指跡をつけたり、縄目を押し付けたり、へらで引っかいたりした。
いわゆる文様の始まりである。
人の作った物は、完璧に思えるものこそ不完全である。
そのことをよく理解して如何にすれば自然と共存することが出来得るかを探し求め続けなければならない。
間違っても、文明が人類にいつまでも繁栄をもたらすなどと考えてはならないのだ。
竹の花の開花には、今も謎が多い。
咲くときには、日本中の竹がそれこそ一斉に咲くらしいが
孟宗竹は67年に1回咲くとか、真竹は120年に1回咲くとか言われるがどうも不確かだ。
竹はイネ科の作物で、長い年月の後、1度だけ開花して稲穂に似た実を付けたその年に枯れる。
だから、人間の寿命にも例えられるが、もう一つ言われることがある。
『竹の花が咲いたら,
ねずみが大発生する』と。
何十年ぶりかで一斉に花を付けた竹は、ねずみ達に豊富な食料を提供する。
それまで自然界でえさとの関係において適正にバランスを保っていたねずみの生息数は
竹が与えてくれる大量の食料の為に異常な繁殖力でえさに見合う大量の生息数に変化するのだ。
こうして大発生したねずみだが、実を付けて後に枯れる竹は
もはやそれ以上の食料を与えてはくれない。
そのことに直面したねずみ達は、元の適正な生息数に戻るために集団行動に出る。
死に場所を求めて海に向かって集団で大移動するのだ。
こうしたねずみ達の有り様を想像する時、大集団で移動することの気味悪さと同時に
集団で海に入っていく哀れさを感じずにはいられない。
僕は身震いさえしてしまう。
しかし、これはどうも、ねずみだけの話ではなさそうで
文明による繁栄も必ず裏があることを具体的に感じられる今日では
僕達人類にも当てはまりそうな気がして
僕の身震いはさらにつづくのだった。
03/04/26
竹の花が咲いたら…。 高 知 ニ キ