表題の諺は、栴檀(せんだん)とは白檀の別名で、大木にならずともまだ二葉が出ただけの幼い頃からすでに充分に芳(かぐわ)しくて大器は小さいころからその片りんを見せるという意味だ。
「大器晩成」と言うのはこの全く逆の意味で、小さいころは凡庸でも修練を積めば必ず大人物になれるということらしい。
さて、どっちが本当であろうか。
それともどちらも本当のことかもしれません。
「幼いころは神童と呼ばれ二十歳過ぎればただの人」と言われることが多くて、幼いころに大器の片りんと見えたものは存外あだ花だったということもある。
そもそも大器とは何ぞや?という命題があってこそ、次の議論へと発展するものだろう。
『美』と言う字は羊と言う字の下に大きいと書き、『麗』と言う字は鹿の角が立派なさまを表現しており
中国人においては大きな羊や立派な角を持つ鹿などを美しいと感じたということが分かるが
古き日本人たちは今で言ううところの「美」を『詳し』『清し』などと表現した。
幼い赤ちゃんの手が小さいながらも大人とそっくりで完成していながら可愛いさまを「いと詳し」などと言い
澄んだ空気や水などをみて「いと清し」などと言った。
大陸の人と島国の人と何を美しいと感じるかはその表現どうり微妙に違うだろうが、根本のところでは
違いがないと思われる。
生きとし生けるものすべてが己の命を永らえる物こそ「美」と感じ、己の命を危うくするものを『「穢れ』と
呼んだ。
古代の日本語では、結婚式やお祭りなどのめでたい日をハレと言い、普段の日常の日をケと言い
「穢れ」とは「ケ枯れ」であり、ケ(毎日の営み)を危うく枯らす物こそ美の真反対の穢れと言うことになる。
見るもの、聞くもの、触れるもの、感じるもの、思うもの、すべてで美しいものを欲しそれはとりもなおさず
命永らえるそのものである。
それらを獲得したものを、あるいは継続してその心境にあるものをこそ大器と呼ぶのだろうか。
しかし、般若心経では『五薀皆空(ごうんかいくう)』と言い、
四苦八苦で言うところの八番目の苦は『五薀盛苦(ごうんじょうく)』と言われる。
*五蘊:色受想行識の五つを持って五蘊と呼ぶが、それらは皆、空であり
それらが盛んな人は苦であるという。
実に何とも難しいのである。
意味がでなく大器たりうることがである。
山を毎週歩いていて美しい自然の絶景にしばしば出あう。
きっとこの美しい景色の自然を子孫に残すことこそ、自分も含めて命永らえることだと思った。
それを感動的な発見だとも思ったりもした。
しかし、お釈迦さまは色受想行識すべてを空しくしなさいとおっしゃっている。
絶景の中で、ただ梅干しのおにぎりをほおばれと。
それこそが大器の道だろうか。
否、それすらも考えるな。
いいえ、考えるなということも思うな、と。
栴檀は双葉より芳し
07 10/2