石川丈山は、1583年今の愛知県安城市に生まれ、旧は歴とした徳川家の旗本で
若くしていくつもの功を上げたが、大坂夏の陣にて『軍規違反』
(出陣!の合図を待たずして飛びだし敵将の首二つをもぎ取るも
抜け駆けの汚名を着ることになった)
の為に徳川家を辞しその後、再度岡山に仕官する。
さらに、その職をも辞して後
剃髪して藤原惺窩(せいか)の門人となり漢詩人として著名となる。
59歳(1642年)のときに一乗寺に隠居所を建て
晩年(1672年没89歳)を京都で過ごした。
この隠居所に、林羅山と相談して盛唐を中心に漢詩人36人を選び
狩野探幽に肖像画を描いてもらい
自らは漢詩部分を描いて部屋に掲げた。
このことから、この隠居所が詩仙堂と呼ばれる事になり
ここで多くの文人と交わって余生を過ごした。
 この詩仙堂の庭の東の隅に、丈山が発明したとされる鹿威(ししおどし)の一種である
添水(そうず)が今もある。
    注:(鹿威には他に脅し銃、案山子、鳴子などがある)
 添水というのは、斜めに置いた竹筒の中心を固定して
その竹筒に水を注ぐようになっており
水が一杯になったら、その重みで上になっていた注ぎ口の方が
傾き始め、下に降りたら水を排出し
再び元の位置に戻るように仕掛けた装置で
元の位置に戻るときに地面に置かれた石に
空洞になった竹筒が勢いよく当たり
「カーン」と甲高い声を上げる。
その音で鹿や猪などの野生動物などが近付かぬように
工夫されているもので
実物を見た人は多いと思われる。
 360年の時を経て、その添水に使用されている竹筒は現在で何代目になるのだろうか?
ずいぶんの数になるに違いない。
ところが竹筒が激突して「カーン」と音の鳴る部分にある石はと言うと
一代ものであるのだろう、驚くほどのへこみがあり
直径十数センチの竹筒の大部分が納まるほどなのだ。
 雨垂れよりも強烈ではあるけれど、竹であっても360年もの間叩き続ければ
たとえ相手が石(岩)でも穴を穿つのにはびっくりさせられる。
 
 この詩仙堂の添水を目の当たりにすると、当然のように一つの考えが頭に浮かんでくる。
強いじょうぶな石(岩)でも竹筒で叩けば、こんな風に大きく形が変わるなら
自分のような頑固者の石頭も何度も叩けば是正されるのではないかと。
また、大それた夢や願いも念じ続ければ叶うのではないかと。
 初めてこの添水を見たときは、素直にそう思った。
しかし、何度も通ううちに、そうはいかないのが現実のような気もしてくる。

 変形したへこんだ石の形は竹筒にとっては理想の形であっても
石自身にとっては必ずしも美しい形であるとは限らないからだ。
強制された形が自己の理想とするものであればよいが
他人の思惑であればなおさら注意してみる必要がある。
夢や願いが念ずるだけで叶うものではない。
また、その夢や願いが本当に自分の魂からの叫びであるのかどうかも
点検してみる必要がある。
 自分が自分であるためには
いくら頭を叩かれようが
決して変わることのない頑迷さも
時には必要な気がする。

 庭を散策して詩仙堂の部屋に戻ると
ダイアナ妃の、つばの広い帽子に
大きな日の丸を意識した赤い水玉のワンピース姿の写真が飾られている。
そして、
その横には
竹筒が壁に架けてあり
俳句が掘られている。
  「 心せよ
       月の丸さも
            ただ一夜 」と。
 柔軟であらねばならない。
 時に、頑迷であらねばならない。
 しかし、傲慢であってはいけない。

ただ美しいだけでなく
色々と考えさせられる詩仙堂だが
あれ、雨が降ってきたのかな?
  庭の奥には
 「  さ丹つらふ 
        紅葉に 
          雨の詩仙堂 」の句もある。



          注,さ丹つらふ(読み:さにつろう)→乙女の頬が恥じらいでポッと赤くなる様。
                                紅葉にかかる枕詞(まくらことば)
 
    雨垂れ石を(うが)穿つ
              03/01/25