地獄の沙汰も金次第
金閣寺(鹿苑寺)を見て回り、弘法大師作の石不動を過ぎると
最後の出口の所に、目立ちはしないが『荼枳尼天(だきにてん)』の祠(ほこら)
が左手にある。
荼枳尼天とは梵語(サンスクリット)ダキーニーの中国読みですが
ダキーニー(美女とも女鬼とも天女とも)は、元は悪神で人の死を6ヶ月前に知り
その心臓(肝説も)を食らうといわれたが、釈迦(しゃか)に出会い改心するも
アジア各地でいろいろな解釈や伝説が作られた善悪両面の心を持つ神さんだ。
徳川家康が天下を取るために結託したといわれるのもこの恐ろしい女神である。
この祠の前で立ち止まり、お客が一般観光の大人であれ
修学旅行の中学生であれ『荼枳尼天』と書かれた提灯を指差し
「読めますか?」とやる。
たいがいの人は読めないから、私の一方的な独演会が始まるという算段だ。
「だきにてんと読み、ひとが死んで三途の川をどこで渡ろうかと
思案しながら歩いていると、このおばぁさんが飛ぶがごとくにやって来て
死人が身に付けている着物を剥ぎ取ります。
そしてその着物を川岸の木に架けるのです。
もしも生前悪い事を繰り返していれば、悪い埃(ほこり)で着物は重たく
枝はしなって、着物が川の水で濡れますし
清く生きていれば着物は軽く水にも濡れません。
はてさて、このばぁさん、何のためにこんな事をするのでしょうか?
釈迦に出会うまでは死人の心臓(肝)を食らうために着物を剥いでいたようですが
ただ今では、閻魔大王の助手、閻魔の庁の裁判所の書記官というわけです。
この死人を、地獄に送るべきか、極楽に送るべきか判断する裁判の
裁判長たる大王も、あまりにたくさんの審理件数のためにてんてこ舞いで
多忙極まりない。 *( 閻魔=エンマ)
そこで、この荼枳尼天のおばぁさんが大王に耳打ちするというわけです。
着物が濡れたかどうだかをチクれば、それでおしまい。
死人の生前の行ないを記録した分厚い行動ファイルなど
読む必要なしというわけです。
ところが、私の着物の重さはよく分かりませんが
この金閣寺に来るたびに私は、こうして荼枳尼天にお参りして
些少なりともお賽銭を差し上げます。
地獄の沙汰も、またその前の沙汰(閻魔大王の裁判)もまた、金(賽銭)次第
という訳です。」 と説明します。
さすれば
ここで大概の人(当然、無神論者も)が、小銭を出して手を合わせます。
おかしいのは、ちょっと突っ張り気味の中学生までもが
神妙な顔で手を合わせることです。可愛いでしょう。
ただし、これはあくまでお話であって、表題の「地獄の沙汰も金次第」と言う
生活態度は、私にはまったく無縁であり
(それはお金とも無縁であるからでもありますが)
真実以外に人を動かすものはないと信じています。
02/06/19
