コンコン チキチン コンチキチ、
耳の底になんとなく聞こえてくるのは、気のせいかな。
新町を過ぎると右手に「月鉾」が見えてきた。
朝から始まった鉾立てではあるが、
午後を過ぎても出来上がり具合はまだ半分と言ったところだろうか。
四条通りを室町を越えて
さらに東へ行くと
今度は左手に「函谷鉾」が見えるが、
御稚児さんを乗せて
巡行の先頭を行く「長刀鉾」はさらに烏丸の通りの向こう側になる。
今日は、五十払い(ごとばらい)でそれなりの混雑を予想はしていても、
やはり、車はなかなか前に進ませてもらえない。
この「五十払い」だが、
実は、京都は比叡山ろくにある「赤山禅院」の縁日から始まったことを知る人は少ない。
それまで天皇の母親の実家を「里内裏」と呼んであちらこちらに移動していたのを、
江戸初中期になって、
南北朝時代の里内裏であった
東洞院土御門内裏を現在の「御所」の体裁に老中松平定信が整えたとされているが、
この御所と赤山さんの愛称で呼ばれる赤山禅院とは
京都表鬼門ラインで結ばれています。
御所の東北隅には「猿ケ辻」と呼ばれて鬼門除けの木彫りの猿が祀られ、
裃を身につけ御幣をもち赤山を睨みつけており、
赤山禅院のほうでは陶器製の猿が、
御所のほうを向いて祀られています。
この天台宗のお寺「赤山禅院」は人々から厚い信仰を受け、
願い事をかなえてくれる特に商売繁盛の寺として栄え、
集金日をこのお寺の縁日とする風習が
全国に広まったのが五十払いの始まりです。
戦後、「千日回峰」の行を二回も満願達成された酒井大阿闍梨にも
25日に行けば会えるかも?
釘を使わず、あの「辻廻し」をする巡行にも絶える強度を持ちながら、
芸術作品とも見間違えるほど美しく荒縄を巻きつけた長刀鉾の周りには、
カメラを手にした観光客とは別に、
大勢の小学生が紙と鉛筆を持って、
仕事をする鳶達に質問攻めをしているではないか。
あの調子で夕方までに出来上がるのだろうか。
それにしても、空模様が怪しくなってきたではないか。
梅雨が明けていない以上、降っておかしくはないし、
午後遅くに降り始めた雨は、とくにしつこいのだ。
昔の人は、
粋なもんだね、
そんな雨のことを「七つ半下がりの長雨」と呼んだ。
ところが、これには裏の意味があって
「中年を過ぎて覚えた女狂いは深間にはまる」ということらしい。
以外にも、
あんなに込んだ四条通だが
長刀鉾を過ぎたら車は少なく、空いていました。