アフリカ大陸の南東部にあるコモロ島で1938年に生きて発見されたシーラカンスは、
生きた化石と呼ばれている。
このシーラカンス、約1億1千年前ごろの発生と考えられているが、
化石発見当初は、
約6千5百万年前ごろに恐竜とともに絶滅したと考えられていた。
しかし、現在もマダガスカル島付近でも発見されつづけており、
その数200体余りに上る。
シーラカンスが生き延びられたのには訳がある。
大事なことはガラパゴス島を含むこの一帯の塩分濃度なのです。
太古の海は現在よりはるかに塩分濃度が低かったが、
この海域が今も尚、太古の塩分濃度の低さを維持していることこそが、
この太古の生物を生かし続けたのでした。
少年の日の発見。
傷ついたわが指をなめてその塩分を味わった時、
私にはあるヒラメキがあった。
私の体を流れているこの血液は、
海そのものではないかということを。
ただ、血中塩分濃度に対し(現代)の海中塩分濃度が濃すぎるという疑問があったのだが
シーラカンスがその答えを教えてくれたのでした。
海は、命の母であり、
その太古の海から出た生物であるはずの
人間もまた体内に母なる海を持ち続けているのだと。
それ以来、私は「血」を内なる海と感じ、そう呼び続けた。
川の水は腐らない。
流れているから。
海の水もまた腐りはしない。
波があるから。
循環し、新陳代謝を繰り返し、そうして酸素を補っているから。
腐るのは、溜め水だ。
行き場の無い水は腐るより他は無いのだ。
この行き場の無い溜め水でありながら腐らぬ水もある。
船に蓄えた飲み水だ。
それが数ヶ月の長きに渡ろうとも
波間を航海している船の上の水は決して腐りはしない。
船上の水は腐らないのです。
さて、私の体の中を流れる内なる海−溜め水はどうだろうか?
港−目標に向かっているうちは何とか腐らずにいられそうだということは、分かっている。
分かってはいるが
今の50歳の私の生きる目標というのは一体「何」なのだ?
これは咽喉元に自ら突きつけた刃だ。
B.ミルの「功利主義」的目標はいくつも乗り越え、
あるいは挫折し生きてはきたが、
ことここに至っては進退窮まるものがある。
1日は長いものだが、50年は余りにも短い。
腐らぬ精神を維持することが目的で無く
そのためには「感性」を研ぎ澄まし、
物の本質に肉薄し、
見果てぬ夢となろうとも
目標を探しつづけることこそが大切だと思う。