誰かに触れるには、理由が必要だ。
理由がなければ触れることができない。
唯一理由が要らないのは、親族あるいは恋人だ。
ところで私の腕を掴むのはそのどちらでもない人だった。
そして友人でもない。
私を掴んで離さないのは赤の他人、私の上司だ。
どうしてこの人は私を逃がさないように掴んでいるのだろう。私は一刻も早く仕事を終わらせて帰ろうと思っているのに。もっとも、帰ると言っても寮はすぐ近くにあるし、予定がある訳でもない。それでも、一刻も早くこの人から離れたかった。
「ランスさま、何かご用でしょうか」
もしこの人を怒らせることがあれば、私は死んでしまうに違いない。
この人の怒りに触れて何人もの部下が消えていくのは日常茶飯事だった。今日も二人ほど、逃げるようにアジトを出て行く同僚を見かけた。
「用がなければ駄目ですか」
もちろんだ。私はあなたの部下であるが、手頃な玩具ではないのだから。
ランスさまは私の瞳を真っ直ぐに見つめ、腕を掴む手に力を込める。
腕が痛くなって「痛いです」と言ったけれど、ますます力は強くなるばかりだ。
「痛い、です」
これ以上強く捕まれたら腕がちぎれそうだった。だから禁じ手ではあったけれど、ランスさまの手を振り払った。
「私に逆らいましたね」
タブーを犯した罪は重い。
ランスさまは私を見つめたまま、「クビです」最悪のお言葉を吐きやがりました。
今までどんな任務でも愚痴を零さずひたすらに働いてきた。理不尽なことでも堪えてきた。
それが今日、上司の手を振りほどいただけでクビだ。
この人がいかに理不尽なのか知っていたつもりだったが、まだまだ甘かったらしい。
反論しても無駄なので、私は諦めて頷いた。
アポロさまにお願いして、他の幹部の下で働けるようにしてもらおう。こんなはみ出し者、今さら普通の生活なんて出来ないのだから。
握っていた書類をランスさまの机に置き、踵を返す。
するとまたランスさまが私の腕を掴んだ。
「ランスさま、何でしょうか」
今度は先程のように力は込められていない。
「あなたは私の部下でなくなった。だから様付けは必要ありません」
確かにランスさまの言う通りだ。
だとして、それがどうしたのだ。そんな些細なこと、どうでもいいじゃないか。
「どこへ行くつもりですか?
アポロに懇願しようと思っているなら無駄ですよ」
そうだ。アポロさまに頼もうなんて、私以外のクビになった人間なら誰でも思い付くだろう。毎日そんな人の相手が出来るほど、あの方はお暇じゃない。つまり、門前払いを喰らう可能性が非常に高かった。
「もし、あなたがまだ私の下で働きたいと思っているなら」
腕を引っ張られ、ランスさまとの距離がぐっと近くなる。
改めて見ると、この人は綺麗な顔立ちをしている。これで性格さえ悪くなければ皆が惚れる男だと言うのに。なんて勿体ない人なんだろう。
「私に理由なく触れられる、唯一の人間になりなさい」
ぱっ、と手が離される。
ランスさまの言葉の意味がすぐには理解できなくて間抜けな顔になってしまう。
理解なく誰かに触れられるのは、親族か恋人だけだ。つまりランスさまは私にそれを命じたのだ。
そんな告白、ずるいじゃないか。
「し、仕事を続けたいだけですから」
私がこの人を好きだということを認めるのが悔しくて―だって顔は良くても性格がひどいじゃないか―ひねくれた返事をした。そうしたら、
「素直じゃない子はクビですよ」
いささか本気の瞳が私を睨んでいた。
ムチとムチ
そう言われても、やさぐれた人間なんてすぐには素直になれません。 |