He noticed her tears.
「ランス君、ここにサインしてくれる?」
「はい?」
「何も聞かずに早くして」
上司のは何も書かれていない用紙を差し出した。
ランスは問うように彼女を見たが何も返ってこない。
仕方なくランスは理由も分からぬままサインをし、そしてその用紙を渡すと、は満足げに笑っていた。
「ランス君て、やっぱり字が綺麗よね」
「ありがとうございます」
「でもバトルは下手よね」
にやりとが笑う。
貴女と比べれば、誰だって下手になりますよ。ランスは喉まで込み上げた言葉を無理矢理飲み込んだ。もしも言ってしまえば必ずバトルを申し込まれてしまう。
「ランス君、今からバトルしよっか」
「し、しかしまだ仕事が」
「これくらい大丈夫。それよりもランス君のレベルアップが大切よ」
嗚呼、これならば先程の言葉を吐き出せばよかった。
ランスはスキップしながら部屋を出る上司にため息を漏らした。
がポケモンをボールに戻す。傷一つない彼女のポケモンとは対照的に、ランスのポケモンはボロボロだった。
彼女が幹部になったのも、このずば抜けたバトルセンスが要因らしい。
それにしても、ランスはポケモンを戻しながら考える。
どうして突然バトルを申し出たのだろうか。外に出れば、彼女の実力に見合ったトレーナーがいるだろう。バトルならそういうトレーナーを捕まえれば良い。
「これでランス君も少しは強くなったかな」
企みめいた瞳だった。
これは間違いなく見返りを要求されるだろう。
「で、お願いなんだけど」
ほら、やはり。ランスは財布の残金を思い出し、今月も厳しい1ヶ月になりそうだとうなだれた。
「ランス君、クロウ君を呼んでくれる?」
それはよく晴れた日の午後だった。ランスは特に彼女の真意を考えることなくその男を呼びに行く。
彼は突然の呼び出しに驚きつつ、しかし挑戦的な瞳をぎらつかせての部屋へと入った。
まさかこの後思いもよらぬ展開になるなど、ランスは予想だにしなかった。
ただ、その予兆は確かにあった。男の反抗的な視線と、彼女の時折見せた憂いの視線。確かに、変化の兆しはあったのだ。
「何でしょうか」
「あなたに任務をあげる」
クロウがからの書類を受け取る。それはランスが狙っていた任務であった。成功すれば地位は確実に上がるであろうそれは、しかし非常に危険でもあった。
「何を今さら」
「そう、この任務を遂行する自信がないのね?」
書類を奪い返したがそれをランスに渡す。
「はい、よろしく」
クロウの顔が苛立ちで歪む。そして次の瞬間、
「貴様が幹部として威張れるのは今日までだ!」
男が彼女に言い放った。
「それ、私を陥れて幹部の座から引きずり落とすって企てでしょ?私が知らないと思って?」
負けじと彼女が言い返す。その言葉は突然思い浮かんだものではない。
つまり、ああ、彼女の言葉に嘘はない。ランスは目を見開き上司を見つめた。
「明日にでも処分かしら。そうしたらまさかクロウ君が幹部になるつもり?」
はにやにやと笑う。ちら、とその瞳がランスに向けられる。
僅かに、ほんの僅かに、泣きそうな瞳に見えた。彼女は何を言いたいのだろう。その一瞬で何を伝えようとしたのだろう。
「残念ね、君は幹部にはなれない」
冷たい瞳がクロウを射抜く。ランスは、彼女のあの視線に勝てた人間を見たことがなかった。有無を言わせぬ眼光と突き刺さる言葉に、誰も勝てやしまい。
「そんなはったり俺に」
「私、ランス君を推薦したのよ、次の幹部に」
ほら、サインしたでしょ。はにっこりと笑ってランスを見つめる。
「な、んだと……」
「相手の作戦が分かってるなら、対策ぐらいするでしょ。
さ、任務もこなせない無能な部下はいらないから、さっさと出て行って」
笑う顔はしかし、無機的な笑顔だった。
クロウがふらふらと部屋を出ると、が口を開いた。
「明日から、君が幹部」
「突然すぎます」
「ランス君なら」
「さん、」
ランスが上司の言葉を遮る。しかし掛ける言葉は砂のように流れ落ちる。
「バトルも前よりずっと上達して、仕事も素早くこなす。私みたいに我がまま言わないから、素敵な幹部になるわ」
「ねぇ、ランス君。
絶対に、潰さないで、ロケット団を。私の帰る場所、残しておいてよ」
それは、心の奥からの言葉だった。
(こんなにも近いのに、距離を感じる)
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