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タイトル


 35th Future 「透子inエミネント」


「わぁ・・・・」
 想像よりも遥かに大きい豪邸に、透子は目を見張った。
 透子の家も大きいのだが、目の前の家はそれ以上だ。増して、この邸宅が憂喜一人が住むものだと言うのだから、驚きだ。
 屋根周りなどに金色をあしらっているが成金的でも嫌味でもなく、シックな雰囲気である。透子は修学旅行で行った京都の寺院を思い出した。庭も大きく、池もある。門から玄関までは飛び石が配置されており、エミネントは魔法社会なのでファンタジーな世界を想像していた透子は正直、面食らっていた。憂喜に案内された豪邸は、まさに古き良き日本の一軒家そのものだった。
「どうした?」
 透子が玄関に突っ立ったまま動かないので、憂喜が声を掛けた。
「あ、ううん、お邪魔します」
 靴を脱ぎ、そろえる。ちなみに今は「ぽよぽよとこたん」の衣装ではなく、普段着に替えている。
 透子は和室の一つに通された。大きなテーブルと座布団しかなく、だだっ広くて落ち着かない。やがて憂喜がお茶と和菓子を運んできた。
「こんなものしかないが」
「ありがとう」
 目の前に出された茶碗と菓子受けも、何となく高価な物のような気がする。
 対面に憂喜が座る。正座だった。透子は正座が苦手なので少し脚を崩しているが、ロングスカートに隠れている。
「凄い家だね」
「正直、大き過ぎるかな」
 憂喜も落ち着かない素振りでお茶菓子に平楊枝を入れた。
「驚いているようだね」
「ええ、まさかこんなにエミネントが日本文化だったなんて」
「当たり前さ。エミネントは『本当の日本』なんだから」
「本当の日本?」
「それについては、いずれ話すとして・・・・」
 憂喜はお茶をすすり、茶碗を置いた。
「君はここのライフヘルパーってことで、いいのか?」
「それが一番いいって言ったのは鷲路君だよ? 余所者だから何かとやり辛いことも多いから、オブザーバーはライフヘルパーを雇えるから、ならないかって。そうしたら守ってあげられるからって」
「そう言ったが、君は自分で自分の身を守れる気もする」
「あたしはか弱い女の子だよ」
「そうか」
(あんなことをしておいて、よく言う・・・・)
 ここは憂喜がオブザーバーに襲名した際に送られた邸宅である。今日の朝から受任式があり、その後にプレゼントされた家を透子と共に見に来た、というわけだ。
 受任式でもここに来る間でも、透子はエミネントの和風さに驚かされた。洋風な家が乱立している今の日本に比べれば、確かにここは憂喜が言うように「本当の日本」なのかもしれないと思う。
「まず家具を揃えないとな・・・・」
「お父様は一緒に住まないの?」
「オブザーバーになった者は、独り立ちするものだ。尤も、僕のような若さでオブザーバーになった前例はないが」
「それって、自慢?」
「単なる事実だよ」
「じゃあ、ここに住むのは鷲路君一人?」
「君も住み込みだから、二人だ」
「二人・・・・きり?」
「何か問題があるのか?」
「え、う、ううん」
(そう言えば鷲路君、そういうことに関しては鈍感そう・・・・)
「何か面白かったかな」
「ううん、別に」
 つい笑みをこぼしてしまった透子だった。
(なに笑ってるの、あたし。でも鷲路君もこうして見れば普通の少年って感じなのに・・・・どうしてあんなに非情だったんだろう)
 なら君はその正義を貫け。僕は僕の正義において、君を抹殺しよう。
 憂喜が春也に言った言葉を思い出す。
(正義、か・・・・)
 正義を貫くのは素晴らしいことだ。だが価値観の違う、正義の存在場所の違う相手にとっては、融通の利かない正義は悪であるとも言える。互いが正義を貫こうとすれば、正義対正義の争いが起きる。どちらも自分が正しいと思っているのだから、妥協も折衝もなく、タチが悪い。いっそ「俺は悪だ」と名乗っている輩の方が潔く思える。
 透子がそんなことを考えていると、玄関で人の声がした。憂喜が立ち上がり出迎えた相手は、憂喜の父親だった。
「ん?」
 憂喜の父は透子の姿を見て、怪訝な表情をした。
「憂喜、どこのお嬢さんかな?」
「ああ、僕のライフヘルパーになる人だよ、父さん」
「なに?」
 憂喜の父は先程まで憂喜が座っていた透子の対面に腰を下ろすと、じっと透子の顔を見た。
「ふむ」
「あ、あの、初めまして・・・・」
 透子は崩していた脚を正し、背筋を伸ばした。
「憂喜よ・・・・」
「はい」
「どこからこんな美しい娘を見付けて来た? もったいぶらずに私に紹介しなさい」
「もったいぶる暇もなかったと思いますが」
 憂喜は父の隣に座ると、透子を紹介した。
「藤堂院透子さん。訳あって下界から連れて来たんだ」
「ほう、下界にもこんな可愛い娘がおるのか」
 透子には「下界」という言葉が耳障りだった。自分達の世界を見下している呼び名だと感じる。
「憂喜、私は構わないが、中には下界の者をこの世界に入れるだけで規律が乱れる、と考えている者もいる。ましてお前はエリートであるオブザーバーになったんだ。くれぐれも面倒なことにはならないように注意してくれ」
「ああ、分かってるよ」
 その後も憂喜の父親から色々な質問をされた透子だったが、もっと聞かれるだろうと思っていた自分達の世界のことについては不思議と質問されなかった。もちろん、透子がゆかりの仲間だということや、自分が助かる代わりにゆかりを撃ったことなどは伏せている。そんなことが知れたら、それこそ大問題だ。
「そうか、ライフヘルパーになぁ・・・・」
 父は少し苦い顔をした。
「何ですか、父さん」
「実はな、麻由ちゃんに言われておったんだ。憂喜がオブザーバーになったら、ライフヘルパーにしてくれってな」
「麻由がそんなことを? まさか父さん、気安く引き受けた、なんて言わないでしょうね」
「あいつは女の子に免疫がないので、ライフヘルパーにするなら幼馴染の麻由ちゃんしかいないんじゃないかな、と言った気がする」
「・・・・父さん、それでは麻由が勘違いしますよ。どうするんですか」
 憂喜が額に手を当ててため息をついた。
「いやまさか、お前が女の子を連れて来るとは夢にも思わなかったのでな。いやもちろん、私も麻由なんかより透子さんの方がいいと思うがね」
「それでなくてもあいつは思い込みが激しいからな・・・・」
 その親子のやり取りを聞いて、妙な話になってきたぞと透子は思った。
(何だかさぁ、ライフヘルパーと言うより恋人か婚約者みたいな話になってない?)


 憂喜の父親が帰ったのは、夜の九時を回っていた。このエミネントの時間の流れも元の世界と同じだった。
「遅くなったが、食事に行こう」
 と憂喜の提案で、外食することになった。真さらな家で、食料はここに来る時に買った和菓子の残りとお茶だけだった。
 夜の町は静かで、木や草の香りがして、まるで日本の田舎に来たようだった。
(どんな世界なんだろう、ここ・・・・)
 透子にはここが本当に異世界だとは思えなかった。
「ねぇ」
「ん?」
「鷲路君は・・・・」
「すまないが、名前の方で呼んでくれないだろうか」
「憂喜君、でいい?」
「ああ」
「じゃ憂喜君、魔法が使えるよね? 食べ物とか、わざわざ食べに行かなくても出せるんじゃないの?」
「この世界では魔法で食料を出すのは禁じられている」
「へぇ・・・・どうして?」
「食べ物だけじゃない。産業に関わるもの、つまり店で買える物は原則として、魔法で生み出してはいけない。いわば偽造に当たるからね」
「だから家具とかも全部買わなきゃ駄目なんだ。ふぅん、魔法で何でも出せるって思ったけど、結構厳しいんだ。ちなみに、偽造したらどうなるの?」
「犯罪を犯した者は極刑だ。親戚に秋刀魚を出してトランスソウルになった人がいた」
「はぇ〜、秋刀魚で・・・・」
「魔法の犯罪には厳しいんだ。魔法はその気になれば何でも出来る。だからこそ、罰則を厳しくしなければ世の中が乱れる。魔法を使っての傷害事件等は即刻ソウルトランスの刑だ」
「それ、前から気になっていたの。ソウルトランスって何? トランスソウルがマジカルアイテムだってのは聞いたけど・・・・」
「食べながらでいいかな?」
 憂喜は目的の料亭が見えて来たので、そう提案した。常連なのか、憂喜が何も言わなくても座敷に通された。畳の上に上がり、二人はテーブルを挟み向かい合わせに座る。
「ソウルトランスとは、魂のリサイクルだ」
 お手拭で手を拭いた憂喜が説明を始めた。
「リサイクル?」
「魔法犯罪者は、二度と犯罪を起こさないように即刻排除される。だが、ただ排除されるだけならこの世から消えてなくなるだけだ。だからその者の生前の記憶を消し、魂を身近な物に移す。出来上がった物がトランスソウルだ」
「えっ、じゃああたしの肩叩きも・・・・」
「元・犯罪者の魂が入っている」
「え〜・・・・」
 透子が嫌そうな顔をしたので、憂喜は「気にしなくていい」とフォローした。
「本来、魂そのものはみな純粋なんだよ。記憶を消してしまうから、自分の過去も悪しき心も全てクリアされる」
「そんなものなの?」
「トランスソウルは、生まれつき魔法の使えない人やまだ魔法を使えない子供達が魔法を使えるようにと恵神(めぐみ)様がお作りになられた物なんだ」
「めぐみ様?」
「この世界の象徴となっている方だ。犯罪者であっても、後生で人の役に立てるようにという恵神様の御慈悲でソウルトランスの刑が制定されたんだ」
 マジカルアイテムには人の魂が入っている。だから話が出来たのか、と透子は思った。
「色々聞いていい?」
「今日は初日だ。焦らなくてもゆっくり話すよ。食事が来た」
 食事が運ばれて来たので、話が中断してしまった。
 透子には聞きたいことが山ほどある。少しの間だけ静かに食事をして、再び透子が口を開いた。
「イニシエートをどうして憎むの? それはエミネントの人達みんななの?」
「・・・・食事の時に話す内容じゃないな。美味しくなくなる」
 憂喜に睨まれたので、話題を変えることにする。
「じゃあ、オブザーバーってなに? お父様がエリートだっておっしゃってたけど」
「オブザーバーは『監視者』・・・・世界を監視する役だ」
「監視?」
「世の中で何が起きているのか。環境の変化、生態系の変化、自然形態の変化・・・・あらゆる変化を監視する役目だ。そして時には犯罪者の監視も行う」
「このエミネントの?」
「いや、君達の世界の、だ」
「どうして? 異世界なのに監視するの?」
「・・・・その話をすると長くなる」
 憂喜はそう言って箸を進めた。あまりしつこいのは嫌がられると思い、透子はまた話題を変える。
「マジカルアイテム・・・あっと、トランスソウルだっけ?」
「どちらでもいい」
「私たちはトゥラビアで作られた物だと思ってた。これはどういうこと?」
「それも話せば長くなるな」
「じゃ、手っ取り早く」
「かつてメビウスロードを通り、トゥラビアに行った者がいた。その者はトゥラビア人が可愛いからと、自分の子供が持っていたトランスソウルを渡してしまった。トゥラビア人はその魔法に大変驚き、もっと欲しいと要求してきた。こうなることが危惧されていたので、異世界への持ち出しは禁止されていたんだ。幸いトゥラビア人は温和で、異世界への侵略等は考えていない種族だったので、主に生成に失敗したトランスソウルを分け与えたんだ」
「え〜、ひどい」
「彼らにはそれで充分だったし、そもそも貰おうという根性が気に入らない」
 それでトゥラビアには「欠陥品のマジカルアイテム」などという物が存在したのだ。
 エミネントからトゥラビアにもたらされたマジカルアイテムが、ゆかりや透子の手に渡ることとなった。今自分がこんな所にいるのも、元はと言えばマジカルアイテムを手に入れたからだ。透子はエミネントからトゥラビアにトランスソウルを持ち込んだ者を恨みたくなった。
「そのトランスソウルが君達の世界に持ち込まれたと聞き、管理局が君達を監視するようにと僕達を送り込んだ。魔法を手にした人類が、どのように魔法の力を使うのか・・・・僕にも興味があった」
「あれ? 憂喜君たちは、イニシエートがあたしたちの世界に入り込んだから討伐に来たって言ってなかった?」
 透子の問いに、憂喜の唇の端が歪む。「しまった」と顔に書いてあった。
「すまない、嘘をついた。僕らの本当の任務は、君達がトランスソウルをどう使うのかを監視することだった。オブザーバー試験期間だったので、それが終了するまでは本当のことが言えなかったんだ。嘘をついたことは謝る」
 憂喜が頭を下げる。
「そんなこと、どうでもいいよ」
「謝るついでに、と言っては何だが・・・・君は嘘をついていないよな?」
「え?」
(いけない、顔に出たかも?)
 透子はなるべく平静を装い、箸を進める。憂喜についた嘘は、パッと思いつくだけでも片手で足りない。
「ないと思うけど?」
「・・・・今ので、更に嘘が増えてなければいいんだが」
 透子はそれ以降、料理の味が分からなかった。


「ねぇ、ライフヘルパーって何をすればいいの?」
 食事を終えての帰り道、相変わらずのどかな風景だ。
「基本的には家事だな。料理、洗濯、掃除といったところか」
「全部出来ないよ、あたし」
「・・・・反撃の隙を与えないほどのストレートな返事だ」
「ありがと」
「褒めたわけではないが・・・・そうは言っても、少しは出来るんだろう?」
「う〜ん・・・・まぁ、少しは」
 透子の答えに「期待しないでおこう」と思った憂喜だった。
「いいさ・・・・君には僕の相手をしてくれたら、それでいい」
「えっ!?」
「な、何だ? 君と話をしていると面白い。話相手になってくれたらいいと思ったのだが・・・・」
「あ、あぁ、話し相手ね。あはは・・・・」
(あぁ、危ない危ない。相手だなんて言うから、アダルティな想像をしちゃったよ)
「ん?」
 透子の反応が理解できない憂喜だった。


 憂喜の邸宅に戻ると。憂喜が「しまった」と声を上げた。
「どうしたの?」
「布団がない」
「あたしなら座布団が三枚あれば寝れるよ?」
「いや、さすがにそれは・・・・家から持って来よう。すぐに戻る」
「あ・・・・」
 手を組んで目を閉じたと思うと一瞬の内に憂喜の姿が消えていた。
「空間転移・・・・か」
 無駄に広い邸宅に一人残された透子は、取り敢えず座布団の上に座った。
「彼はいざとなれば瞬間移動が出来るんだよねぇ。便利だなぁ」
 庭からは何種類もの虫の鳴き声が聞こえる。
 何となく、この生活ものんびりしていていいと透子は思った。彼女の老後の人生設計にはピッタリの環境だった。
 十分は経っただろうか、まだ憂喜は帰って来ない。
(・・・・ゆっくりしてられないんだけどなぁ)
 暇でも、見るテレビもない。
(この世界にもテレビってあるのかなぁ?)
 少なくとも、透子のいつも見ている番組は放送していないだろう。透子は頭が重く感じられたので、座布団の上で横になった。
(まだ熱があるのかな・・・・)
 あれから気が張っていたのか、気にならなかった風邪の具合が、ここに来てまた悪くなったようだ。
 それからしばらくして憂喜が布団を持って帰って来た。
「藤堂院さん?」
 布団を下ろし、透子の名を呼んでみるが返答がない。
「そう言えば、風邪をひいていたんだったな・・・・大丈夫か?」
 透子は答えず、目を覚ましそうになかった。
 こんな場合にどうすればいいのか、憂喜は分からなかった。
(頭を冷やせばいいと聞いたが・・・・)
 取り敢えず熱を測ろうと、憂喜は体温計を持って来た。
「・・・・」
 だが寝ている透子の熱を無理矢理測るわけにもいかない。どうすればいいのか分からず、憂喜は座り込んだ。
「そう言えば、桜川が看護婦を目指していたとか言っていたな・・・・」
 憂喜は自分の部屋に行き、端末を操作した。純和風の部屋にパソコンのような機械が置かれているのはどうにも違和感を感じるが、このエミネントでは一家に一台、このような端末がある。この家具が全くないオブザーバー就任記念に送られた邸宅にも、最初から最新鋭の端末が設置されていた。
「もしもし」
「桜川か? 僕だ」
「・・・・何か用?」
 咲紅の声は不機嫌そうだ。
「まだ機嫌が悪そうだな」
「当たり前でしょ。ユーキ君がそんな人だなんて思わなかった」
 エミネントに透子を連れて帰る際も、咲紅は機嫌が悪かった。その後、オブザーバーの就任式の後に憂喜が咲紅と話をしたが、その時は更に不機嫌な顔だった。
「藤堂院さんに姫宮さんと出雲さんを殺させておいて、平気な顔でよく彼女を連れて来たり出来るわね」
「平気な顔でここに来ると言ったのは藤堂院さん自身だ。僕もその点については少々驚いているのだが・・・・だからこそ、彼女に興味がある」
「ライフヘルパーなんて、嫌らしい」
「ちょっと待て、どうしてライフヘルパーが嫌らしいんだ? 家事手伝いだぞ。それにオブザーバーならライフヘルパーを持つことは必須だ」
「・・・・まぁ、そう思ってるならいいけど」
(女の子と二人きりなんだよ? ユーキ君は何とも思ってないのかな。ユーキ君なら・・・・うん、思ってないかもしれないけど)
 それ以上に、咲紅は透子の行動が理解出来ない。
(自分が助かる為なら友達や仲間を犠牲にするなんて、信じられない。その上、ノコノコと平気な顔でエミネントまでついて来るなんて。確かにオブザーバーになったユーキ君はエリートとして将来有望。彼に取り入っておけばこの世界でも未来が約束されることは間違いないわ。でも、藤堂院さんがそんなに計算高かったなんて・・・・)
 咲紅は透子を看病し、同情した自分が馬鹿馬鹿しく、裏切られた気分だった。
(確かに姫宮さんは罪人。だけど、だからって友達の姫宮さんを殺すなんて、私には絶対に出来ない。あの時、ハル君を見逃したように。犯罪者だからって仲間を、友達を、信じられる人を全て失っていいなんてことはないわ。ううん、だからこそ信じてくれる人が必要なのよ)
 更に咲紅は、今なお行方不明の春也のことも気になる。慣れない空間転移を行った彼は、下手をすると物質の中に転移して粉々になるか、海底に出現して溺れ死ぬか、はるか雲の上に出現して落下して墜落死する確率も少なくはない。ましてゆかりを連れて二人で転移するという無謀振りだ、空間の狭間に落ち、永遠に彷徨うことも考えられる。しかもあの怪我だ。転移を行ったことで身体に負担がかかり、致命傷になった可能性もある。
 咲紅は、春也が生存している可能性も低いと思っている。万が一生きていても、春也を捜しているエグゼキューター(執行者)の肩書きを持つ枯枝刀侍は魔力サーチ力に長けており、見付かるのは時間の問題だろう。
「桜川、そんなことより聞きたいことがある」
「なに? オブザーバーの鷲路憂喜様が私に聞くことなんてあるのかしら?」
「茶化さないで欲しい。藤堂院さんの具合が悪いようだ」
「だって、風邪をひいていたんだもの」
「どうすればいい? 君なら分かると思ったのだが」
「病院に連れて行けばいいわ」
「彼女にはパーソナルカードがない」
 エミネントの人々は各自、生まれてから死ぬまで一枚のパーソナルカードを有する。そのカードは身分証明、保険証、免許証、定期券やスーパーの会員証に至るまで様々な機能を有していて、携帯していない者は国民と認められない。つまりエミネントは、そのカードがないと何も出来ない世界だ。紛失すると、審査して発行までに一週間ほどかかる。パーソナルカード制は徹底されており、例えオブザーバーである憂喜が透子の身柄を保証しても、病院で治療を受けることは出来ない。
「それほど大した熱ではないと思うのだが」
「何度あるの?」
「寝ているので計れない」
「そっと体温計を挟むだけじゃない」
「そんな失礼なことは出来ない」
「今、どんな状態?」
「座布団の上で寝ている」
「はぁ・・・・じゃあ、取り敢えず布団に寝かせて、服は着替えた方がいいわね。風邪薬はある?」
「いや、この家に来たばかりで何もない」
「薬局に電話しておいてあげる。すぐ持って行ってくれるわ」
「頼む」
 憂喜は通話を切り居間に戻ったが、まだ透子は寝ていた。
(とにかく布団を敷くか)
 憂喜の手が光ると、先程実家から持って来た布団が宙に浮き、真っ直ぐに伸びて畳の上に降りた。次に透子の身体も十センチほど浮き上がり、ゆっくりと布団の上に移動する。憂喜は落とさないように注意しながらゆっくりと透子の身体を下ろした。
「布団に寝かせたぞ。次は・・・・着替えだったか」
 透子の着替えなど、ない。
 例えば憂喜の物を着せるとして、どうやって着替えさせればいいのか。
「・・・・」
 憂喜が固まっていると、玄関でチャイムが鳴った。出迎えると、咲紅が頼んでくれた薬屋の配達だった。
「ご注文のお薬です」
 薬屋の娘は小さな紙袋を差し出した。もう片方の手には大きな紙袋がある。
「麻由(まゆ)、君が来てくれたのか」
「うん」
 麻由は元気に頷き、ショートカットの髪を揺らして答えた。



36th Future に続く



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