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「AirLink」

 僕はまだ天使に会ったことはない。
 だけど、漠然と「天使の声って、きっとこんな感じなんだろうな」と思う。
 ひょっとしたら、そう思っているのは僕だけかもしれない。他の人には、ただちょっと可愛い声だけど、取り立てて特別な感じは受けないかもしれない。
 それならこの声は「僕だけの天使」だ。
 何となく、心の中に溶けるような、おだやかな声。ホッと和むような、陽だまりのような声。

「今日も聞いてくれてありがとう。また来週ね、バイバイ」
 腕時計を見ると、針はPM4:58を指している。いつもながら、きっちりと夕方5時2分前にあの声は僕にさよならを告げる。一週間後にまたここで会うという約束の「さよなら」・・・・。
 校内放送のスピーカーから流れる音楽が聞こえなくなっても、僕は暫く木の机の上に頬杖をついて今日の璃乃の喋ったことを反芻していた。
「実は今日、悲しいことがありました」
彼女はいつもよりちょっと低めのトーンでそう言った。それが今日の「放送」の始まりの一言だった。いつもは「こんにちは〜」「やっほ〜」「ども〜」という明るい声で始まる。初めて聞いた、悲しげな声だった。
「小鳥が、道の上で羽根をパタパタさせていました。見上げると、歩道橋の裏側に鳥の巣がありました。きっと、巣から落ちたんです。小鳥は落ちて怪我をしたのか、とっても苦しそうにもがいています。でも、私はただ見ているだけでどうすることもできませんでした。通り過ぎる人はその小鳥に見向きもしません。『助けて、助けて』って・・・・叫んでいるのに・・・・私は・・・・どうすることも・・・・できなくて・・・・」
 それは、僕が初めて聞いた璃乃の涙声だった。
 その気持ちは、とてもよく分かった。僕だって「助けたい」とは思うけど、いざとなるとそれができない。手当てなんてどうすればいいのか分からないし、それに手遅れだったら・・・・その辺りに置いていくわけにもいかず、埋めてやらなきゃいけない。そう、面倒なのだ。もし怪我が治ったとしても、その後の面倒を見れるのか自信がないし、親鳥と離れ離れになるのは可哀想だ、なんていう自分への言い訳を考えたりもする。でも、きっと璃乃はそんなことまでは考えていないんだろう。もっと純粋に、ただおろおろして行動を起こせなくて、そんな自分が悔しくて・・・・。
 気が付けば、僕の目も温かくなっていた。
 時計を見ると、既に番組が終わって10分経っている。僕はゆっくりと椅子から腰を上げた。ガタガタと、椅子の足と木の床の軋み合う音が、誰もいない教室に響き渡る。冬が少しずつ近付いてきたこの季節は、そんな音さえも乾いて聞こえた。そして陽の短いこの時期は、PM5時でも辺りは暗い。明かりも暖房もないこの教室はこれから冬に近付くにつれて、もっと寒く、暗くなってゆくだろう。
 でも、僕は確信する。12月になっても、1月になっても、冷たい雨が降っても、雪が降っても、日曜のPM4時になればここに来て、彼女の「番組」を聞くのだろう、と。

 廊下に出ると、足元を風が吹き抜けた。来週からは、もっと厚着をして来よう、と僕は思った。
 いつもならこのまま帰るところだけど、僕の心には今日の悲しげな璃乃がなかなか離れてくれなかった。何かを伝えたい。悲しみを少しでも減らしてあげたい・・・・。
 だけど、それは無理だ。璃乃は、僕に会ってはくれない。
 校内放送のスピーカーから流れてくる番組「璃乃のハートは空気色」のパーソナリティ、璃乃。苗字は知らないけど、名前は本名らしい。校内放送なんだから、彼女はこの学校の放送室にいるはずだけど、僕は彼女に会ったことがない。会いに行ったことはあったけど、放送室の扉を開けてはくれなかった。一度、出てくるまで待とうとしたことがあった(これが「出待ち」というやつだろうか)。だが、何時間経っても彼女は出てきてくれなかった。きっと顔を見られたくないんだろうと思い、さすがに悪いことをしている気になって僕はその場から離れた。次の週、番組内で「誰にも、知られたくないことってあるよね」とさりげなくクギを刺され、それ以来僕は放送室には近寄らないようにしている。
 今の僕には、璃乃の放送を、声を、歌を聞いているだけで充分だから。

 僕が「ハートは空気色」を聞き初めたのは今年の夏だった。番組がいつから始まったのかは分からないけど、始まってまだそれほど経っていない、そんな気がした。
 きっかけは、たまたま日曜の夕方にこの校舎に入った時、何やら聞こえてくる声が耳から入って来たからだった。生徒の減少による統廃合の結果、廃校となったこの校舎に僕が足を踏み入れたのは、本当に偶然だった。この小学校の出身である僕は、たまたま近くを通りかかった時に懐かしさを覚え、見覚えのある校舎や体育館をただ見て回りたくなった、それだけのことだった。
 その時の僕は仕事のことで少し疲れていた。その耳に何となく心地よい声が聞こえてきた。初めは廃校となった校舎の中から聞こえてくる声に恐怖感を覚えたのだが、あまりに可愛い・・・・というか他愛もない話の内容に、警戒心は薄れていった。
 こんなに素敵な声、親しみある言葉で喋っている女の子が、危険な対象であるはずがない。
 ほとんど聞いてもいない彼女の話を聞いて、自分がどうしてそう思ったのか、よく分からない。でも、今ではその直感が正しかったとはっきり言える。
 今では彼女の番組は僕の生活の一部となっていた。

 僕の足は自然と放送室のある校舎に向いていた。璃乃の様子が気になったから。
 会いに来たわけではなかった。ただ初めて触れた彼女の「悲しみ」が忘れられなくて・・・・。
 放送室の前まで来て、僕は立ち止まった。
 もう番組が終わって20分は経つ。彼女はもう帰っただろうか。それとも、まだ中にいるのだろうか。耳を澄ましても、扉の向こうからは何も聞こえてこない。
 僕はノックをしてみることにした。まだ中に彼女がいるのなら、帰ればいい。
 コン、コン。
 だが、何も反応はなかった。少し待って、もう一度ノックしたが、結果は同じだった。ドアノブを回してみたが、動かない。鍵がかかっているのだろう。彼女はもう帰ったようだ。
 僕は手帳を取り出し、白紙ページを1枚破り取った。
「璃乃さん・・・・へ」
 僕は今日、番組を聞いて自分が思ったことをメモ用紙に書き綴り、放送室のドアの隙間から中に差し込んだ。
 僕の初めての「投稿」だった。

 すっかり暗くなった校舎を抜け、中庭に出た僕は「すなぶくろ君」に出会った。辺りには外灯もなく、お互いの顔を確認することはできない。でもこんな時間に、こんな場所に来ている人間はそうそういるものではない。まして小さな子供だから、彼に間違いはなかった。
 廃校になっているこの学校の校門は閉鎖されている。だから、出入りは中庭の周りに張られている金網の、破れている部分を利用する。ここが僕たちの出入り口になっているのだ。
 僕たちというのは、すなぶくろ君を含めた「ハートは空気色」のリスナーのことだ。
「暗くなったね」
 僕はすなぶくろ君に声をかけた。もちろん、これは本名ではない。いわゆるニックネームというやつだ。彼に初めて出会った時、彼はそう名乗った。本名を言いたくないのだろうと思い、僕も聞かなかった。聞く必要もなかった。
「とらぶるさんも、まだいたんですね」
 とらぶるさんとは、僕のことだ。お互い、本名は名乗っていない。
 彼に会ったのは、1ヶ月ほど前のことだ。いつものように僕が璃乃の番組を聞くためにこの校舎に入った時、何やら音が聞こえた。この校舎には自分1人だと思っていた僕は、その音に警戒心を覚えた。だが、その音の主は意外にも小学生だったのだ。
 この時からリスナー仲間が出来たわけだけど、僕たちはそれぞれ別の教室で番組を聞いている。すなぶくろ君が1人で聞きたいと言ったからだった。そういうわけで、僕たちは互いのことをあまり話さない。・・・・僕と彼との年齢差が10以上離れているわけだから、共通の話題がないということもあるだろうけど。
 今日もあまり話さないまま別れた。他のリスナーはもうとっくに帰ったのだろう。今日は会えなかったが、璃乃の番組を毎週ここに聞きに来る人は僕の他に2人いる。それぞれ別の教室で、1人っきりで1時間の番組を聞いて、帰る。それが僕たちの日曜日だった。
 月曜から土曜という日は、僕にとって日曜と日曜を繋ぐものでしかない。
 もちろん、仕事はちゃんとしている。だけど、特に感動も熱くなる出来事もなく、「難なく」「何となく」日々は過ぎていく。
 今までずっと平凡だった日々が、璃乃の番組を聞くようになってから少し変わった気がする。彼女の率直な感想、飾らない言葉、素直な話し方は、僕の耳に心地よかった。

 その日曜は、冷たい雨が降っていた。
 いつものようにPM3時50分には自分の教室に入る。傘を差したまま入ることのできない金網の出入り口を通ったので、上着が濡れてしまった。暖房のない教室で、僕は濡れた上着を脱いで番組が始まるのを待った。
「どうもです〜、璃乃です」
 いつもの璃乃の声がスピーカーから聞こえてきた。
「外は寒そうだね。私も、みんなと同じように寒さを感じてみたいな」
 寒さを感じてみたい?・・・・あぁ、きっと放送室は暖房が効いているんだな。暑いのかもしれない。
「あ、そうだ。今日は、お便りが来てます。えっと、ペンネームとらぶる君。ありがとね」
 えっ?
 僕?
「先週私が小鳥を助けられなくて・・・・っていう話をしたよね。その話について、励ましのお便りを頂きました」
 そして、先週僕が放送室のドアの隙間から差し込んだ1枚のメモの内容が読まれた。
 読まれたのだろう。
 その間、僕はボーっとしていた。自分の書いたものを璃乃が読んでいる。そのことで頭が一杯で、耳に入ってきているはずの声が頭まで届いていない、そんな感覚だった。
「励ましてくれてありがとう。これからも、私を見守っていて下さいね」
 それは、僕に向けられた言葉だった。
 今までは聞いているみんなに向けられていた璃乃の言葉が、その時は僕に向いている。僕だけに璃乃が喋ってくれている・・・・。
 その日の放送は、ほとんど上の空で聞いていたように思う。

 放送終了後、僕の教室のドアが開いた。他のリスナーがここに来ることは今まで一度もなかったので、突然開いたドアに僕はドキっとした。
 そこに立っていたのは、名前の知らない女の子だった。何度か見かけたことはあったけど、話を交わしたことは一度もない。だから、お互いの名前も知らなかった。
「とらぶるさん・・・・ですか?」
「そうだけど・・・・」
 その子は高校生くらいだろうか?僕の感覚で申し訳ないけど、特に可愛いというわけでもなく、可愛くないわけでもない、普通の女の子だった。普通って何なんだよ、と自分の心の中で突っ込みをいれていると、その子が僕に近づいてきた。
「すなぶくろ君に聞きました」
 何を聞いたんだろう?と思った。きっと、僕がここにいるということを聞いたんだろう。すなぶくろ君と僕は、お互いの教室を知っている。
「今日、お葉書が読まれましたよね。どうやって投稿したんですか?」
 僕はその質問に答えた。先週、放送室にメモを差し込んだことを。
「そうなんですか・・・・どうも」
 彼女はそれだけ言うと、一礼して教室を出て行った。きっと今日の放送を聞いて、自分も投稿したくなったのだと思う。投稿が読まれた僕のことを「羨ましい」と感じたのかもしれない。璃乃に伝えたいことがあったけど、投稿までは考えてなかったのが、今日のことでその思いが強くなったのかもしれない。
 急に肌寒さを感じ、僕はまだ濡れている上着を羽織って、教室を出た。
 放送中は、そんな寒さを全く感じなかったのに。
 自分の書いた文章が読まれて、寒さどころか暖かさを感じていた。

 その次の日、僕は熱を出した。
 やはり雨に濡れたまま、1時間以上も暖房のない教室にいたからだろう。
 でも、あの放送中は体が温かかった。自分の書いた文章を璃乃が読んで、感想を言ってくれた。璃乃への、今までにない「身近さ」を感じた。
 風邪はそんな幸せさへの、ちょっとした反発だったのかもしれない。
 熱は2日間下がらず、久々に寝込んでしまった。

 次の週は、先週の反省から厚着をして番組を聞いた。
 その日、「アミ」という女の子の投稿が読まれた。きっと、先週ここに来た女の子のペンネームだろう。
 内容は、親友だった女の子に彼を取られた・・・・その友達や彼にどう接していけばいいのだろう・・・・という、ありそうで現実にはあまりなさそうな話だった。璃乃はその話に対して真剣に答えようとしていたが、そういうことは当人とその周りの話であって、はっきり言って璃乃に聞くこと自体、間違っていると思う。どれだけ真剣に答えようが、所詮他人のアドバイスでしかない。彼女がよく考えて、彼女自身がいいと思ったアドバイスを「アミ」という子に与えたとしても、それが良い方向に向くか向かないかは誰にも分からない。もし璃乃のアドバイスによって上手くいかなかったとして、「アミ」って子がそれを璃乃のせいにするかもしれない。
 それでも璃乃は一生懸命、その質問に答えようとしていた。
「上手く答えられなくて、ごめんね」
 その投稿に対して、時間を15分割いた璃乃が最後に言った言葉だった。
 本当に申し訳なさそうに彼女は締めくくった。そんなに気にすることはないのに。誰だって、あんな質問に的確に答えられるはずがない。無責任に「奪い返せ」とか「応援してあげて」「よく話し合うべきだよ」と言ってしまうことができない、そんな璃乃の辛さと優しさが伝わってくる放送だった。

 その日の帰り、中庭で「アミ」に出会った。
「私・・・・あんな相談、しなきゃよかった・・・・」
 そう彼女は僕に言った。
「辛そうな璃乃さんの声を聞いて、何であんなこと書いちゃったんだろうって・・・・」
 俯いたまま、泣きそうな声でアミはポツポツと喋った。僕はどんな声を掛ければいいんだろうか。
「だったら・・・・『ごめんなさい』って書いて、届ければいいんじゃないかな」
 と言おうとしたけど、璃乃はアミの投稿に真剣に、真面目に答えようとした。アミに対して「何でこんな質問するんだ」という気持ちにはならなかっただろう。そんな彼女に「あんな質問してごめんなさい」という言葉は必要なのだろうか?むしろ、言ってはいけない言葉じゃないだろうか?
 悩んだ末に、アミに対して僕が言ったことは次のようなことだった。
「君自身で、問題を解決すればいいんじゃない?その報告を今度、彼女にすればいい」
 僕は人に何かアドバイスできるような人間じゃないけど、年上ということもあり、ちょっと大人ぶってみたかったのだろう。アミは僕の言葉を聞いて、涙を溜めたまま頷いた。

 親友と彼を一度に失ったアミが、僕と同じように偶然耳にした璃乃の番組を聞くようになった。いつの間にか璃乃を友達のように思うようになって、毎週あの校舎に足を向けるようになった。アミはそう僕に話してくれた。
 たまに見かける彼女が、そんな寂しさを背負っていたなんて知らなかった。

 次の週は「すなぶくろ君」が読まれた。
 その話もアミのそれを凌ぐような真剣な話だった。それも璃乃を困らせる結果となった。
 すなぶくろ君は、この学校の生徒だった。それが学校の統廃合によって別の学校に行くことになり、そこで「いじめ」の対象にされたのだという。
 それこそ、璃乃に言ってどうなると言うのだろう。「頑張ってね」とか言って欲しいのだろうか。友達にも言えない、親にも言えない。そんなことを璃乃に言うなんて、筋違いというものだ。
 だけど、彼は小学生だ。そんなところまで考えてはいないだろう。ただ誰かに聞いて欲しかった。それで彼の心は少しでも救われるのだろう。その手助けを璃乃がする。また彼女はその投稿に対して真面目に、真剣に答える。そんな彼女がまた僕の心を痛くした。
「実は私もね、いじめられたことがあったんだよ」
 璃乃はそう言ったが、具体的にどんないじめにあったかは何も言わなかった。それが逆に、どれほど辛かったかということを僕に想像させる。言えないほど辛いこと。忘れかけていた悲しい出来事を、1通の手紙によって思い出してしまった・・・・。そんなことを考えていると、彼女の話し声がどこか悲しげに聞こえてきた。

 こんな風に、璃乃はいつでも何も障害がないかのように、僕の心のなかにスッと入ってくる。

 番組終了後、すなぶくろ君が僕の教室に来た。彼の顔は、所々青く腫れていた。昨日もいじめに合ったのだろう。僕はそのことについて聞くことはできなかった。
 その日、すなぶくろ君のペンネームの由来が分かった。いつも同級生に殴られる彼は、そのいじめグループの連中から「サンドバッグ」と呼ばれていたのだ。
 学校に行くのが辛い。彼もまた、璃乃の番組を聞くこの時間が現実から逃避できる、安心できる時間だと言った。
 彼もまた・・・・?今、確か僕はそう表現した。彼「も」というのは、誰のことだろう?自分のことなのだろうか。僕も日常から逃げているのだろうか?
「とらぶるさん、僕、辛かったよ。僕の手紙を読んで、どうすればいいか話してくれてる璃乃ちゃんの声を聞いて、まるで璃乃ちゃんが僕の代わりにいじめられてるみたいで、それで僕が、璃乃ちゃんをいじめてるみたいで、泣いちゃって、それで・・・・」  涙を流しながら僕に必死で何かを伝えようとするすなぶくろ君に対して、僕は何もしてあげられなかった。それが悔しくて、情けないけど涙が溢れてしまった。
 最近の僕は、以前にもまして感情的になっている気がした。

 それから年末が来て、年が明け、寒い日々が続いていた。
 新しい年を迎えても僕たち「ハートは空気色」のリスナーは日曜になるとこの学校に足を運ぶ。
 この数週間の間に、僕の投稿は読まれていない。アミやすなぶくろ君は4回ほど読まれている。璃乃は1通の葉書にとても長い時間を使う。番組の構成は、「璃乃の勝手に星占い」等のコーナー、璃乃の歌をかける時間など、レギュラーコーナーで一杯のため、読まれる葉書は週に1通のみだった。
 そして、僕は他の人の葉書が読まれる度に、嫉妬している自分に気付いた。
 自分の投稿が読まれている時は、彼女と直接対話をしているような気分になれる。当然、他の人の葉書が読まれている時はその人と璃乃が1対1で話しているような気分になる。
 璃乃を取られてしまうような感覚・・・・。
 取られる? 取られるって何だ?
 璃乃は、僕だけのものじゃない。リスナーみんなのものだ。
 いや、それも違う。彼女は誰のものでもない。
 僕は、このところ急激に彼女のことを知りたいとおもうようになっていた。年齢も知らない、出身地も知らない、誕生日も、血液型も、身長も、そして・・・・顔も。
 彼女の声を聞くだけで満足していた最初の頃の気持ちは、どこに行ったんだろう?
 僕は、璃乃のことを・・・・?。

 その日、アミが見かけない人を連れて校舎にやってきた。璃乃に相談したことのある、親友とその彼・・・・アミの元彼の2人だった。
 自分自身で解決したんだろう。3人は楽しそうに会話をしながらアミの教室に入って行った。あるいは、璃乃にそのことを報告するのかもしれない。
 僕はなぜか、知らない人たちに番組を聞いて欲しくないような気になった。リスナーが増えるのはいいことだ。それなのに、僕は何を考えているんだろう。

 思った通り、今日の放送ではアミの後日談が読まれた。2週続けてアミの投稿が読まれ、面白くなかった。平凡な生活を送っている僕には、アミのような刺激のある話がない。何でもいいから、璃乃と話がしたかった。
 帰り際、アミとその一行に出会った。アミは僕を見てお辞儀をした。
「リスナーさんだよ。とらぶるさんっていうの」
 アミは僕のことを友達とその彼に紹介した。僕と彼らは互いに自己紹介をした。
「なぁ、あの璃乃って子に会いたいよなぁ」
 彼が、アミに言った。アミは困った顔で、「誰とも会わないんだよ」と説明した。
 僕は何も知らないくせに・・・・と心の中でその彼を疎ましく思った。
「へぇ、何で会わないんだろうな。声は可愛いけど、実はすげぇ顔だったりして」
 ズキン。
 僕の中で、何かが激しく動いた気がした。
「じゃ、また」
 僕は表面だけ取り繕って、金網を潜って校舎を後にした。
 さっき心の中で動いたのはきっと「怒り」だったのだろう。
 あのままいると、あいつを殴ってしまいそうだった。実際、僕は人を殴ったことがない。だけど、あれは多分「殴ってやりたい」という衝動だったと思う。
 高校生のガキ相手に、何を熱くなっているんだ。
 でも、あいつの言葉は許せなかった。璃乃を侮辱したんだ。
 それと同時に、「もしかして・・・・」と思っていた自分がそこにいた。璃乃が誰とも会わないのは、顔に自信がないからなのかもしれない、と。
 でも、それがどうしたんだ?
 声が好きだ。歌が好きだ。話し方、考え方、感覚、その他色々なこと全てが。そんな彼女を好きになったんだ。見かけなんて、たいした問題じゃない。

 ・・・・好きになった・・・・のか。

 その日から、僕は璃乃を意識するようになった。いや、ずっと前から意識していたのかもしれない。自分が意識していることを、意識するようになった。
 ちょっとしたことでも真剣に、真面目になる彼女。だけど、どこか間が抜けているトーク。優しく、時には激しく僕の心に何かを伝えてくる。
 年齢や外見じゃない。僕は璃乃の「心」が好きだ。
 神様なんて信じていないけど、そんなことを毎日考えていた僕に罰が与えられたのだろうか。次の日曜日に、どうしても抜けられない仕事が入ってしまった。今までにも同じようなことがあって何とか切り抜けてきたけど、今回ばかりはどうしようもなかった。代わりに頼める人がいない仕事だった。
 ラジオ放送とは違い、タイマー録音しておくことができない。ラジカセで録音を頼もうにも他のリスナーとの連絡手段はない。住所や電話番号を全く知らないのだ。僕はお互いにコミュニケーションを取っておかなかったことを後悔した。
 土曜日に僕は古いラジカセを引っ張り出し、校舎に向かった。アミにでも録音を頼んでおこうと思ったのだ。アミの教室にテープを入れたラジカセと録音をお願いする書置きを置いた。それでももしアミが明日、何らかの事情で来れなかったとしたら・・・・僕はすなぶくろ君の教室にも「アミがいない時はよろしく」とラジカセの操作説明を書いた紙を机に置いた。

 いつも生放送で聞いている「ハートは空気色」。週に一度、1時間だけ聴くことのできる璃乃の声。それをたった1回聞けないだけで、どうしてこんなに淋しいんだろう。
 時計が気になって仕方がない。気にしたって、どうしようもないのに。
 もうすぐ番組が始まる。他のみんなは聞いているんだろうか。また、アミはあいつらを連れてきているんだろうか。僕が聞けないのに、璃乃のことを何もしらないあいつらが聞いている。
 何でこんなに悔しいんだろう。
 璃乃の声が聞きたい。璃乃に会いたい・・・・。

 次の日の月曜日に、僕は校舎に向かった。仕事が終わると同時に僕は会社を飛び出し、電車に飛び乗り、ネクタイ姿で走った。
 少しでも早く璃乃の声を聞きたい。昨日の番組ではどんなことを喋ったのか、どんな歌がかかったのか、笑ったのか、泣いたのか。他のリスナーが知っていて自分がしらないことがある。焦燥感が僕の足の運びを早くした。
 しかし・・・・。
 ラジカセは、教室にはなかった。アミの教室にも、すなぶくろ君の教室にも、僕の教室にも。きっと1週間置いておくと誰かに取られるかもしれないと思ったアミが持って帰ったのだろう。僕が今日、ここに取りに来たことを知らずに。
 書置きに、書いておけばよかった。せめてテープだけでもここに残しておいて欲しかった。
 昨日の放送は、次の日曜まで聞けなくなった。

 何て長い1週間だったろう。
 僕はこの一週間、璃乃のことが好きなんだということを嫌というほど思い知った。
 いつもより1時間も早く校舎に着いた僕は、アミが来るのを待った。アミが早く来てくれたら、今日の放送までに先週分を聴くことができる。
 誰かが来た。アミか?と思ったが、どうやら校門の辺りで何かを話している。2〜3人はいるようだった。年配の男の人と、後は若い男のようだ。工事がどうとか、そんな話声が聞こえた。
「あ、とらぶるさん」
 そうしている内にアミが来た。お待ちかねの、ラジカセを持って。
「今からならまだ50分ある。早く聴かせてくれっ」
 僕はアミからラジカセを受取ろうとした。その時、アミの顔が歪んだ。
「アミ?」
「おわっ・・・・ちゃう・・・・」
「え?」
「終わっちゃうんだよ、今日が『ハートは空気色』の最終回なんだよ!」
 アミが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。
 僕は泣きつづけるアミをずっと見ていた。
「嘘・・・・だろ」
 やっと動いた僕の口が発した言葉は弱々しく、風の音にさえ消されそうだった。
「そんなこと、一言も言ってなかったじゃないか・・・・」
「先週・・・・番組の最後に・・・・璃乃さんが・・・・とらぶるさん、先週はいなかったから・・・・」
 アミは泣きじゃくりながらそう告げた。嘘や冗談じゃないことはその様子から明白だった。

 突然のことで頭が一杯になっていた僕は、先週の放送を聞く余裕もないままにPM4時を迎えた。
「こんにちは、璃乃で〜す」
 いつもと変わりない、明るい璃乃の声だった。やっぱり最終回なんて冗談だろう、という安堵感が僕の体に降りたのは、ほんの一瞬だった。
「先週もお伝えした通り、この番組は今日でみなさんとサヨナラです」
 璃乃の口からはっきりとその言葉を聞いた時。
 頭の上に何か重いものが落ちてきたような、そんな衝撃を受けた。
「でも、璃乃のお喋りを聞いてくれるみんながいる限り、いつかみんなの所に帰ってきます。絶対に、これはさよならじゃないよ」
 そのまま、何事もなかったかのように番組はいつものペースで始まり、進んでいった。先週の最終回予告を聞いたアミやすなぶくろ君は「おわらないで」という手紙を出したと言っていたが、彼らの手紙は番組で紹介されることなくエンディングを迎えた。
「今まで私のきままなお喋りに付き合ってくれて、ありがとう。また、会おうね」
 PM4時58分、いつものように音楽が途切れた。
 僕は暫く待っていた。また、璃乃の声がスピーカーから聞こえてくるんじゃないか、と。
 ガラス窓を叩く風の音だけが閑散とした教室に響いていた。

 僕は自分で何をしたいか分からないまま、廊下を走っていた。
 行く先は分かっている。放送室しかなかった。
「きゃっ!」
 廊下を曲った時、誰かにぶつかりそうになった。アミだった。
「とらぶるさん・・・・どこへ・・・・?まさか・・・・」
 僕はアミを無視して走り出そうとした。
「待って!璃乃さんに会いに行くつもりですか!?会ってどうするんですか!?」
 分からない。分からないけど、今行かないと後悔しそうだった。
「璃乃さん、言ってました。いつかまた、きっと会えるって」
「いつかって、いつだよ・・・・」
 僕はアミがまだ何かいいかけるのを振り切って走り出した。
「とらぶるさん、ずるいです。だって、先週の放送、聞いてないんだもん。あたし、今日が最終回だって聞いて、この1週間ずっと泣いてたんだからね・・・・」

 普段滅多に走らない僕は、息を切らせて放送室の前に立っていた。
 何て言うんだ?「やめないで」か?
 それとも・・・・僕のこの気持ちか?
 僕の息遣いの音だけが聞こえていた。放送室の中からは、何も聞こえない。
 僕はドアをノックした。・・・・返事はない。
「璃乃さん、いるんでしょう」
 あまり大きな声じゃかなったけど、聞こえていないはずはない。それとも、番組が終わってすぐに帰ってしまったんだろうか。
「璃乃・・・・」
「とらぶる・・・・君?」
 ドアの向こうから微かな、しかし聞き間違えようのない声が聞こえた。
「璃乃さん」
 スピーカーを通さない璃乃の声は、普段に増して綺麗な声に感じた。
「どうして・・・・番組やめちゃうんですか」
「・・・・仕方ないの」
 その悲しげな声に、僕の憤りは急激に収まっていった。璃乃も悲しいんだ、と。
「この校舎・・・・明日から解体が始まるの」
「えっ・・・・」
 そうか・・・・廃校になり、そのままになっていたこの学校の校舎が、取り壊しになるんだ。この学校の跡地に、何か別の建物が建つのだろう。
「だから、もうできないんだよ・・・・」
 そうだ。俺はいきなり番組が終了することに驚き、終わることを璃乃のせいにしていた。璃乃が勝手に番組をやめてしまうんだ、そう思っていた。
「だったら・・・・もう聞けないんですね、『ハートは空気色』・・・・」
「聞けるよ。聞いてくれるみんながいる限り、いつかきっと・・・・」
 いつかきっと、か。
 先週の番組を聞けなくて、それだけで淋しかった僕が、その「いつか」を待っていることができるのだろうか。この1週間感じていた淋しさがいつまで続くか分からない、そんな状態に僕は耐えられるのだろうか。
 そんな自信は・・・・ない。
「いつかじゃ駄目なんだ!」
 僕は放送室のドアノブを掴んで、思い切り引っ張った。鍵が掛かっているらしく、動かない。
 僕は、璃乃と会えなくなるのは嫌だ!
 今まで、毎週ずっと会っていたのに、これからはそれがなくなってしまう。
 僕は、璃乃が・・・・。
「やめて、とらぶる君!」
 どうしたんだろう、僕は。
 そうして必死にドアを開けようとしているんだろう。
「手紙で言ってくれたじゃない、私の声を聞くだけで、お喋りを聞くだけで幸せな気持ちになれるって。私、嬉しかったよ。だから、お願い・・・・」
 どうしてなんだろう。
 璃乃が悲しんでいる。なのに、俺はドアを開けようとしている。
「とらぶる君!駄目!」
 そうだ。僕は、璃乃を好きになってしまったんだ。
 声を聞くだけじゃ、お喋りを聞くだけじゃ嫌なんだ。
「本当の私は、とらぶる君の思っているような、想像してるような女の子じゃないかもしれないんだよ」
 それは何?外見ってこと?
「それもあるし、性格とか・・・・」
 性格なんて、繕おうと思ってできるものじゃない。まして、半年も番組を聞いてきたんだ。ずっと嘘を付けるなんて、ありえない!
「私は・・・・今の関係が好き・・・・それじゃダメなの?」
 どうしてなんだ?
 僕がリスナーで、璃乃がパーソナリティだから?
 璃乃だって、恋もするだろう。誰かと出会って、恋をする。
 僕は璃乃と番組を通して知り合った。互いを知るきっかけがリスナーとパーソナリティという立場だっただけなのに、どうして会ってはいけないんだ?
 それなら、僕は璃乃の番組を聞きたくなかった。別のきっかけで、もっと普通に出会って、話をしたかった。恋をしたかった。
 それなのに・・・・。
「そうなの・・・・」
 璃乃の声が一層淋しさを孕んだ。
「とらぶる君、私の番組・・・・もっと好きでいてくれてるって思ってたのに」
 璃乃を好きだから聞いていたんだ!璃乃の声が聞けるなら、どんな番組だっていい、どんな場所でも、どんな時間でも・・・・!

「・・・・ごめんね・・・・」

 バタン!
 急にドアが開き、力任せに引っ張っていた僕は廊下に転びそうになった。
 手に持っていたドアノブは、既に壊れていた。僕が壊したんじゃない、こんな力は僕にはない。初めから、壊れていたんだ。
 それなら、なぜ開かなかったんだろう。
「璃乃・・・・?」
 僕はドアの開け放たれた放送室の中を覗いた。

 何もなかった。

 あるのは、足元に散らばった紙切れや手紙・・・・僕たちが「投稿」したものだ。今までの投稿が全てそこに落ちていた。

 そして・・・・誰もいなかった。

 窓もない。入り口以外のドアもない。
 床にただ、黒い染みが広がっているだけの、狭い部屋だった。
 璃乃は、どこに行ったんだろう?
 いや、どこにも行けるはずがない。
 行けるとすれば、それは・・・・。

 その夜は珍しく雪が降った。
「でも、璃乃のお喋りを聞いてくれるみんながいる限り、いつかみんなの所に帰ってきます。絶対に、これはさよならじゃないよ」
 今日の番組で聞いた璃乃の言葉が頭の中から離れなかった。
 きっと、そうなんだろう。
 璃乃の声を聞きたいと思う人の所に、彼女は帰ってくるんだろう。
 僕は、どうしてあんなことをしたんだろう。
 どうして無理に会う必要があったんだろう。
 それは・・・・好きになったからだ。
 いや・・・・最初から好きだったはずだ。ただ、最初の頃・・・・番組を聞き始めた頃の好きと、ちょっと違ってしまったんだ。
 カーテンを開けて雪を見ていた僕は、身震いしてカーテンを閉めた。
 ふと思いつき、アミが録音してくれた先週分の「ハートは空気色」を聞くことにした。ゴー、という音が目立つ。ラジカセのマイクなんて感度がしれているから、仕方のないことだった。
「やっほ〜、元気かな?璃乃です」
 ・・・・元気じゃないよ。
「今日のお便りは、とらぶる君からです。いつもありがとうね」
 えっ・・・・。
「今日、僕はこの番組を聞いていません。仕事で、遠いところにいるからです。きっと、聞きたくて聞きたくて、ウズウズしているんだろうなぁ。いつも聞いている璃乃さんの声が聞けないなんて、淋しいです。・・・・だって。とらぶる君、お仕事なんだね」
 そうなんだ・・・・だから今、こうして聞いてるんだよ。
「それじゃ、今日は私、遠くにいるとらぶる君に聞こえるように元気な声で喋るからね。それに、璃乃の言葉はきっととらぶる君に届くよ。だって、私のハートは電波を通してみんなと繋がってるんだから!」

 璃・・・・乃・・・・。

 馬鹿だ、僕は。
 こんなにも、繋がってるじゃないか。僕と璃乃は、ずっと繋がってたんじゃないか。
 手紙を通して。マイクを通して。言葉を通して。電波を通して。
 また、会えたかもしれないのに。
 僕が璃乃の声を聞きたいって望んでいたら、きっといつか璃乃にまた会えたのに。
 馬鹿だ、馬鹿だ、大馬鹿だ。

「そうなの・・・・とらぶる君、私の番組・・・・もっと好きでいてくれてるって思ってたのに」
 悲しげな璃乃の言葉が頭に浮かぶ。
 涙が、溢れた。
 ごめん・・・・ごめん、璃乃。

 ごめんなさい・・・・。

 校舎の解体が始まった。派手な音を立てて崩れてゆく体育館。
 土埃の向こうには、旧校舎の姿があった。あの中に、放送室がある。やがて、そこにも工事車両が入り、壊されてゆく。新しい近代的な建物が建ち、こんな学校の、こんな校舎があったことなんて、みんな少しずつ忘れていくのだろう。
 でも僕は、君のことを忘れない。
 君の声が聞きたい。君の番組が聞きたい。・・・・そして、今日のことを謝りたい。
 願っていれば、きっとまた璃乃の番組が聞けるはずだ。
 何ヵ月後か、何年後かは分からない。でも、待っている。待ち続ける。

「絶対に、これはさよならじゃないよ」
 君の言葉を信じているから。

AirLink END

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