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森のクマ


 俺はクマだ。
 名前はあるが、とりあえずは俗称である「クマ」でいい。
 俺は今、熊生に関わる深刻な問題に直面している。
 腹が減っているのだ。
 ここは俺たちが滅多に降りてこない、森の入り口のあたりだ。だが、徐々に食料が減ってきて、いつも俺たちが暮らしている一帯では食べ物にありつけなくなり、仕方なくこんな所まで出てきてしまったのだ。
 それというのも、人間が年々森を破壊しているせいだ。
 非常に腹立たしいことだが、そんなことより腹が減った。まずは直面している問題が先だ。
 この辺りは人間が通るための小道があり、道端には綺麗な花が咲いている。花を食べれば腹は膨れるとは思うが、味がないし、なにより腹が膨れるまで食べてしまうと、せっかく綺麗に咲いているこの辺りの花を全て食い散らかすことになる。
 俺は、自分がつくづく肉食動物だということを思い知った。
 目の前には俺をじっと凝視している可愛い女の子がいる。
 怖くて逃げたいはずなのだが、どうやら恐怖で足が動かないようだ。
 笑顔ならばもっと可愛いはずなのだが、俺と予期せぬところで出会ったことにより、怯え、一種パニック状態に陥っているようだ。
 そのピンクでフリル付きの洋服を着た三つ編みの女の子は、手に果物の入ったバスケットを下げていた。近くの森で摘んできたものだろう。
 俺がここに来た理由は、まさにそれらの果物を食べようというものだった。腹ごしらえにはなるし、栄養もある。
 だが、その女の子の美味しそうなこと・・・・。
 いや、駄目だ、そんなことをすれば道端の花が可哀想というような問題ではない。いくら俺がクマだからと言って、いくら目の前の子が柔らかくて美味しそうだからと言って・・・・。
 うっ、駄目だ、涎が勝手に・・・・。
 そうだ、大体ここは俺たちがウロウロしてはいけない場所なんだ。人間たちのエリアを侵してはいけない。まして、食欲を満たすなどどいうことは・・・・生肉・・・・久しく食べていないな・・・・最近は木の皮を食ったりして、何とも淋しい食事ばかりだ。
 急激に胃が食物を欲した。いけない、このままでは意思に関係なく、クマとしての本能であの子に噛り付いてしまう・・・・!
「お・・・・お嬢さん・・・・逃げなさい・・・・」
 俺は襲い来る欲求を制しながら、言葉を吐き出した。
「俺は・・・・君を食べる気はないんだが・・・・他のクマが出ないとも限らない・・・・早く森を出るんだ・・・・」
「・・・・」
 女の子は恐怖で喋れないのか、首を2、3回縦に振って後ろを向き歩き出そうとしたが、足がもつれて転んでしまった。
「痛っ」
 持っていたバスケットに入っていた果物が散らばる。俺は思わず駆け寄りそうになった足を止めた。今あの子の美味しそうな匂いを嗅いでしまえば、柔らかそうな肌に触れてしまったなら、この欲求はもう止められそうにない。女の子は慌てて果物を拾い集めようとするが、手につかずに更に焦り、また果物は転がる。泣きながら丸くて転がる果物を拾い集める仕草を見ていると、手伝ってあげたくて仕方がない。
 だが、我慢するしかない。それがあの子の命を救うことになるのだから・・・・。
 そうか。俺がこの隙に離れればいいのだ。何もあの子が行ってしまうのを待つ必要はない。
「うぉ・・・・」
 背を向けようとした俺は先ほどの女の子より派手に、音をたてて地面に倒れ込んだ。どうやら空腹の上にご馳走を目の前にして我慢してきたことで、俺の体は限界にきていたようだ。
 女の子はもう行ってしまっただろうか、そう思って俺は頭だけ動かして後ろを振り向いた。
「・・・・」
 果物を拾い集め、元のバスケットに納めた女の子がこっちをじっと見ていた。怯えた様子はもうなかった。
 何をしているんだ? 早くお家に帰りなさい。
「・・・・どうしたの? 大丈夫?」
 おい、俺はクマだぞ。食べられるぞ。早く向こうへ行け。
「どこか悪いの?」
「何でもない、早く・・・・行け」
 その時、俺の腹が音をたてた。
「お腹、空いてるの?」
 女の子は自分の持っているバスケットを見つめた。
「これ・・・・食べる?」
 そう言って、彼女は恐る恐る近付いてくる。
「く、来るな!それをくれるんならそこに置いてくれ。お前は向こうへ行け」
「でも、動けないんじゃ・・・・」
「そ、それ以上近付いたら、食うぞ!」
 俺の恫喝に驚いた女の子は体をビクっとさせ、また表情を強張らせた。そしてバスケットからせっかく拾い集めた果物を取り出して足元に置くと、ゆっくり後ろに下がった。
 また泣きそうな顔になった彼女を見て、自分に果物をくれようとした子に怒鳴ってしまったことを後悔した。だが、ああしなければ彼女は離れてくれなかっただろう。
「ありが・・・・とう」
 せめてものお礼を言った俺に、彼女は笑顔を見せた。
「あたし、アイ。クマさん、元気になってね」
 その笑顔を見て、俺は食わなくてよかったと思った。

 本当は空腹で軽いはずなのだが、妙に体が重い。力が入らなくなっているのだろう。それでも何とかアイという子が置いていってくれた果物にたどり着いた俺は、地面に這いつくばったまま果汁を撒き散らせて噛り付いた。
 ・・・・美味い。普段は生肉に比べると劣る感じのする果物だが、今日だけは何よりも勝る気がした。空きっ腹に柑橘類の果汁が染みて少し痛かったが、ものの数秒で全ての果物が俺の胃袋に納まった。
 正直言って全然物足りないが、それは贅沢というののだ。しばらくすれば歩けるようになるだろう。そうすればまた、食料を探しに行けばいい。
 そうだ、贅沢を言えば折角摘んできた果物を俺にくれたあの子に申し訳ない。
 ・・・・そう言えば、あの子は俺に果物を全部渡してしまったんだ。全部平らげてから言うのも何だが、これで良かったのだろうか?もしかすると、お使いだったのかも知れない。手ぶらで帰って、家で怒られたりしないだろうか。怒られるのが嫌で、再び森の奥に摘みに行ったのかもしれない。だとしたら、俺の仲間に出会う可能性もある。
 みんな、腹を空かせているはずだ。俺ももう少しであの子を食べそうになった。
 ・・・・いやいや、待てよ。俺がそこまで心配する義理はない。この先どうなろうが、俺には関係ないはずだ。俺はあの子を食う代わりに果物を貰った。食っても良かったはずなのだ。俺はあの子の命を助けたのだ。恩を感じることはない。
 ・・・・ん?
 何かが光った。近付いてみると、アクセサリーのようなものだった。イヤリングとかいう奴だ。
 綺麗な純白の貝殻。あのアイという子が落としたのだろうか。
 転んだ時か、果物を拾っている時か。
 確かイヤリングは両耳に付けるものだ。だとすると、片方無くしたあの子は困っているだろう。
 だが、もうあの子は行ってしまった。もうここには来ないだろう。誰か他の人間が通りかかって拾っていくか、獣に踏まれて壊れてしまうか・・・・。
 もし、大切なものだとしたら・・・・?
 あの子が一生懸命自分で作ったものかもしれない。お母さんの形見かもしれない。
 別れ際のあの子の笑顔が浮かんだ。
 あの笑顔を壊したくなかった。
 俺はイヤリングを手に取ろうとしたが、ごつい俺の手では華奢な貝殻のそれは小さくて掴めないし、壊れてしまいそうだった。俺は口で拾い上げ、歯に挟むと割れてしまうので舌にくるんでおくことにした。
 ・・・・あの子が立ち去って随分経ったが、追いつくだろうか。
 体力は、おそらく回復していなかった。だが、俺の体は不思議と前へ、前へと動いてくれた。

 もう遭う事もないはずの俺が追いかけてきたら、あの子はどんな反応を示すだろう?驚くか、逃げ出すか。
 だが、その女の子の反応は予想外だった。
「あ、クマさん!」
 何と、嬉しそうな顔をしたのだ。
「もう大丈夫なの?」
「う・・・・」
 返事をしようとしたが、届け物のイヤリングを舌にくるんでいることを思い出し、それを地面に吐き出した。
「これ、落し物。君のだよね?」
「あ・・・・」
 女の子はイヤリングを見て、自分の両耳に手を持っていった。右の耳には同じ白いイヤリングが付いているが、左耳にはそれがない。
「ママの・・・・落としたんだ・・・・ありがとう」
 女の子はイヤリングを拾おうと、何の警戒もせず無防備に俺に近付いてきた。それを見て俺は慌てて後ろに下がった。空腹は満たされたわけではない。俺の食欲はここまで走ってきただけに、また強まっていた。
「ち、近付くなと言っただろう」
「ありがとう」
 アイはイヤリングを拾うと、また俺にお礼を言った。
「わ、悪いな。持てないから口に入れて来たので、唾液でベタベタだ」
「いいよ、そんなの」
 アイはフリルの付いたスカートの裾でイヤリングをさっと拭くと、左耳に付けた。アクセサリーなんて、アイには何となく似つかわしくない。きっと大切なものだろうが、俺はあえて聞かなかった。聞いたのは別のことだった。
「ここで何をしている?また果物を取りに行くのか?俺が全部食ってしまったから、また取りに行くのか?」
「そうしなきゃ・・・・いけないんだけど」
 俺が追いついた時アイは、少し森が途切れ、下を流れる川が見渡せるこの場所で暮れかけた空を見ていた。俺の予想した通り、手ぶらで家に帰れば叱られるのだろうか。
「俺に果物をくれたから・・・・」
 アイは黙ってブンブンと首を振った。俺はそれ以上聞くのをやめることにした。聞いたところで、クマの俺に何ができるというのだ。余計にアイが辛くなるだけだ。
「じゃあな」
 俺は長居は無用と思い、このまま立ち去ろうとした。
「あたし、誰かの役に立ちたかったんだ」
 背を向けた俺に、アイが言葉をかけた。
「良かった。クマさんが元気になって」
 どうしてそんな悲しい顔をするんだ?
「ああ・・・・俺は君に助けれた。立派に役にたったよ」
「うん・・・・」
「気をつけて帰れよ。この辺りは俺以外にもクマがいる可能性がある。出会ったら最後、食われるぞ」
「・・・・」
 泣きそうな顔になった彼女を見て、俺は取り繕うために続けて話しかけた。
「そう言えば、ここで俺に会った時、どうしてすぐに俺だと分かった?人間から見れば俺たちクマなんてどれも同じだろう?」
「すぐわかったよ」
 彼女は、なぜ分かったかは言わなかった。
「クマさんて・・・・大きくて怖いけど、本当は優しいんだね・・・・」
「おい、クマがみんな俺みたいな奴だと思うなよ。お前みたいに可愛くて美味そうな子供はすぐに食われるぞ。・・・・俺だって本当は・・・・」
「・・・・」
「お、俺はもう行くぞ。お前も早く帰れ。お母さんが晩飯作って待ってるぞ」
 しまった、自分で「晩飯」なんて単語を言うとは、不覚・・・・。ますます腹の虫がおさまらなくなってきた・・・・。
「アイの御飯は、お家にはないよ」
「・・・・なぜだ?」
「・・・・」
「俺が果物を食ってしまったからか?そんなことで晩飯を抜かれるのか?それが分かっていて、なぜ俺に全部くれたんだ?」
「だから、誰かの役に立ちたかったんだよ」
「そんな馬鹿なことがあるか。俺のせいでお前が叱られるなんて」
「あたしのせいだよ。あたしが、クマさんにあげたんだよ」
 俺が一緒に行って説明してやる、というわけにはいかないし・・・・俺はどうすればいいんだ?
「せめて・・・・クマに襲われたって言うんだ。果物を食べてる隙に逃げてきたって言うんだ。そうしたら・・・・」
「どうせ、いないから。家には誰も」
「・・・・いない?」
「お母さんも、お姉ちゃんも、お出かけしてるから」
「娘を放っておいてか?危険な森に1人で果物を取りに行かせてか?そんな親がいるのか?」
「クマさん、お母さんはいる?」
「あ?ああ・・・・」
「あたしのお母さんはね、本当のママじゃないんだよ。お姉ちゃんも・・・・」
「・・・・」
 俺は何と受け応えしていいのか分からなかった。返す言葉に詰まった俺は、彼女の話をただ聞くことしかできなかった。
「今日は町で舞踏会があるんだよ。綺麗なお洋服を着て、みんなで踊るんだ。お母さんとお姉ちゃんはそこに行ったんだ」
 いつからか、アイの頬を涙が伝っていた。
 俺たちはしばらくそうしていた。アイは一向に帰る気配を見せない。あるいは・・・・帰りたくないのかもしれない。
 俺は断られるのを覚悟でアイに言ってみた。
「舞踏会、行きたかったか?」
 アイはゆっくり頷いた。
「良かったら俺と・・・・踊ってくれないか」
「・・・・?」
「あ、いや・・・・その、イヤリングを届けたお礼にだな、一緒に踊ってくれって言ってるんだが・・・・嫌だろうな、俺、クマだもんな」
「・・・・アイでいいの?」
「アイがいいんだ」
 アイは涙に濡れた顔で微笑んでくれた。そして、俺に近付いてくる。
「ごめんな、俺、でかいから・・・・立ち上がったら一緒に踊れない。座ったままでいいか?」
「うん」
 実は・・・・俺はもう立ち上がる気力がなかったのだ。
 アイが差し伸べた手に、俺はそっと手を重ねた。彼女の手は小さくて、力を入れると折れてしまいそうだった。アイは俺の手の指を1本、ギュっと握りしめた。
「さぁ、踊りましょう」
「いや、実は・・・・踊ってくれ、なんて言ったものの、俺はどうすればいいのか分からないんだ」
「あたしもよく知らないの」
 そう言ってアイは手を掲げてくるりと回った。
「上手じゃないか」
「ほんと?」
 スカートをひらめかせて踊るアイを俺はじっと見ているだけだったが、そんなアイを見ている内に何だか一緒に踊っている気分になってきた。
 綺麗で、可愛くて、柔らかそうで、美味しそうで・・・・。
 はっ。
 知らない内に俺の口から涎が垂れていた。
 悲しかった。
 どうして俺はクマなんだろう。どうして俺はこの子を食料として見ているんだろう。
 だが、俺はクマでこの子は人間だ。
 元はと言えば、俺たちの安住の地を破壊したのは人間だ。俺たちは自然界のルールの中で暮らしてきた。本来なら人間のいるこんな場所まで食料を求めてさ迷い歩くことはなかったはずなのだ。こうなったのは人間のせいだ。食べ物を奪ったその人間を食べて、何が悪いんだ。
 俺は、きっとこの子を食べなければこのまま死ぬ。
 この子だって、家に帰りたくないって言ったじゃないか。
 もう、きっと夢も希望もないんだろう。生きていくことが辛いんだろう。
 それなら、いっそ・・・・。
 そこまで考えて、俺は先ほどのアイ以上に涙を流していることに気付いた。それ以上に涎も垂れていたが・・・・。
「・・・・」
 そんな俺を、アイは踊りを止めて見つめていた。そして、ニッコリ微笑んでこう言った。
「食べて、いいよ」
 それは俺が一番欲していた言葉で、同時に一番聞きたくなかった言葉だった。了承を得たのだ、もう喰らいついていいのだ。鮮血を滴らせ、柔らかい生肉を口一杯に頬張れるのだ。空っぽの胃を満たすことができるのだ。
 目の前にいるのは、自然のルールを壊した憎き人間だ。食べてしまえ、それで俺は助かるのだ。
「どうしたの。食べたいんでしょ、あたしを」
 食うんだ、丸ごと。骨まで、バリバリと。
「このままだと、食べづらい?服、脱ごうか?」
 彼女の手が上着のボタンにかかる。
「あたしね・・・・クマさんが来なかったら、川に飛び込もうって思ってたの。だから、いいんだよ」
 彼女は死ぬ気だった。なら、その命を俺の命を救う糧にすればいい。
 でも・・・・。
 目の前にいるこの子は、森を破壊するような人間ではない。奴らと同類なはずがない。それが分かっていながら、俺は色々と言い訳を付けてこの子を食べようとしている。この子を食べて、生き延びたところで・・・・この子の命と引き換えに生き長らえたところで、俺はずっとこの子を食べたという罪を背負って生きていくことになるだろう。
「だ・・・・めだ・・・・生きていれば、きっといいことがある・・・・死んでしまったら、そこで終わりなんだぞ・・・・」
 俺は言葉を搾り出した。おそらく今の俺はひどい顔をしているに違いない。目は血走り、口はだらしなく開いたまま、涎を垂らしている。最後にこんな醜い顔をアイに見られたくなかった。
 最後って・・・・もちろん、俺はこのまま飢え死にするからだ。
「俺の分まで生きろ、アイ・・・・」
「クマさん・・・・」
 俺の目の前に、柔らかそうな肉がある。白くて、綺麗な肉が。
 アイが泣いている。
 辛いんだな・・・・俺が、楽にしてやる・・・・。
 鼻の先にアイがいる。美味そうな匂いが鼻腔を通って来た。
 俺の剥き出しになった牙がアイの目前に迫った。
「いやぁ〜!」
 アイの叫びと同時に、パンという乾いた音の後に俺の背中に熱いものが侵入してきた。
 何だ?
 続いて首のあたりに痛みが走った。
 撃たれたのだ。撃ったのはおそらく、この辺りに住む猟師だろう。
 俺はアイを押しつぶさないよう、最後の力を振り絞って横向きに地面に伏した。
「お〜い、お嬢ちゃん、大丈夫か!」
 俺を撃ったであろう男の声が遠くに聞こえた。
 肉食動物とは、何て罪深いんだろう。
 俺がせめて草食動物なら、アイと仲良くなれたのかな・・・・。
「クマさん・・・・」
 俺はアイが最後に、食われるのが嫌だと叫んだことが嬉しかった。
 彼女は、生きることを望んだのだ。
 彼女の前には未来が広がっている。願わくは、その未来をこの目で見たかった。
 俺、死にたくないよ、アイ・・・・。
 俺が上手に踊れるようになったら、また一緒に踊ってくれよ・・・・。
 目の前がスゥっと暗くなった。

 ・・・・・・・・。
 それは夢の中だったのだろうか。
 それとも、あの世という世界から見た光景だったのだろうか。
 少し成長したアイが山道を歩いていた。俺と彼女が出会った場所だ。
 楽しそうな、綺麗な歌声が森の中に響いていた。

 ある日 森の中 クマさんに 出会った・・・・。

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