地蔵盆 -屋形-
子供を病気や災難から守る地蔵菩薩の縁日である地蔵盆には、子供たちが中心となって、集落の入り口や辻にある地蔵尊を竹囲いやちょうちんで飾りつけ、だんごやお菓子をお使えしてお祀りしていますが、特に有名なのが屋形の地蔵盆です。屋形では、上組、下組、中組、の3ヵ所で地蔵尊が祀られ、その内、北の上組地蔵堂の石仏には、享保10年(1725)正月と刻入され、今から約260年前のものといわれます。当時は石室の中で祀られていましたが、昭和16年(1941)に現在のお堂が建立されました。最初は北の1ヵ所で祀っていましたが、戸数が増えるにしたがって、集落の南端にある地蔵座像(延享4年建立)を迎えて南北2ヵ所で祀るようになり、さらに大正7・8年(1918・1919)頃から峠の自然石でできた地蔵像(昭和20年(1945)頃座像に変更)を迎えて中部で祀りはじめました。8月23日、24日の2日間は、盛大に地蔵祭が行われます。沿道には笹ちょうちんやボンポリが飾られ、軒先には直径40cm、長さ70cmの大きなちょうちんがさがり、盆踊りやカラオケ大会、福引など、賑やかな夏の夜のまつりが繰り広げられます。また、祭典の終了する24日の夜の11時頃になると、上組の地蔵堂の前で大きな数珠の輪をつくり、般若心経を唱え、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と数珠の輪を繰り、徐々に南下して中・下の地蔵尊に参詣します。この時、数珠のなかにはめた大玉を迎える毎に健康を願って頭に頂き、下の地蔵尊前で数珠繰りを終り家路につきます。
屋形陣屋跡 -屋形-
屋形陣屋は寛文2年(1662)、池田輝政の四男輝澄の子、政直が明治維新まで260年間10代にわたり徳川の旗本陣屋として居を構えた所で、絵図のように御殿、御家中屋敷、御門などで構成されていました。現在では、南北に通じる道路西側を残すのみで、すべて工業団地となってしまいました。飯盛山西麓には、明治27年(1894)、元城主の徳を慕って懐徳碑が建てられています。わずかに残す陣屋跡を大切に保存したいものです。
    屋形陣屋へリンク
石神神社 -屋形-
屋形集落の東、播但道のすぐ下に石神神社があります。神社の起源はいつ頃なのかはっきりわかりませんが、現在の本殿は承応3年(1654)に造立されたことが、棟札によって知ることができます。この神社には不思議な伝説があります。昔、屋形奥谷に毎夜怪光を放つものがありました。村人たちがこれを探し出したところ、こぶし大の夜光石でした。そこで祠を建てこの石を安置し、石神神社と呼ばれるようになりました。この不思議な石を祭礼してからは、村内に悪病が流行することもなく、五穀豊穣にめぐまれ、村は発展していきました。ところがいつの頃から御神体の夜光石がなくなっていました。盗んだ人は天罰を受けただろうと語り伝えられています。

鉱山寮馬車道 -屋形、浅野、西川辺、他-
明治のはじめ頃、屋形~浅野~西川辺の市川沿いに馬車道が作られていました。倒幕を果たした明治政府は財源確保のため生野銀山を接取しました。フランス人技師コワニーを招き、洋式技術を導入したことにより出鉱量は飛躍的に増大していきます。ところが、鉱山で大量に使用する石灰・コークス等の運搬が追いつかない状況になったため、飾磨港から生野まで馬車道を新設することになりました。この道「マクアダム式」と呼ばれ、巾は4m。石で舗装されて下は30cmの厚さで土が突き固められていました。明治6年に着工し、3年後に完成しますが、これが明治政府による最初の国道と言われています。そして播但鉄道開通まで、生野銀山の物流を支えていました。

初鹿野(はじかの) -屋形-
屋形北部に「初鹿野(地元の人達は「はしかの」と呼んでいる)」という地名がありますが、この地名は古く、いまから1300年ほど前に編集された「播磨国風土記」にその名が見られます。この本には初鹿野にまつわるおもしろい伝説があります。オオナムチノミコトとスクナヒコナノミコトという2人の神様がいましたが、仲が悪くて言い争い、その結着をつけるために競争をしました。重い荷物を背負って但馬路を下るマラソンです。そのうち疲れてしまい、がまんできなくて競争をやめてしまったのが「初鹿野」であったと言われています。また応神天皇が瀬加から生野へ狩を行ったとき、ここで多数の鹿の群れと出会いました。そのために「初鹿野」という地名が起ったという伝説もあります。
大汝命(大国主)と小比古尼命(スクナビコナ)
大汝命と小比古尼命との間で「粘土を担いで行くのと糞を我慢して行く、どちらが先に行けるか」という話になった。大汝命は糞を我慢して行き、小比古尼命は粘土を担いでいくこととなった。数日後、大汝命は「私は我慢できない」とその場で用を足してしまった。小比古尼命も笑いながら「疲れた」と粘土(ハニ)を岡に放り出した。このためハニ岡と呼ばれるようになった。また、大汝命が用を足したときに、笹が弾き上げて服についてしまった。このため波自賀村(はじかのむら)と呼ばれるようになった。この粘土と糞は石となって今もあるという。                 「播磨国風土記」 から
---------------------------------------------------------------
  埴の里の昔話  ひょうごの民話:兵庫県学校厚生会 より

郡役所 -屋形-
明治維新後、社会は急速に近代化していきますが、地方行政制度についても、以前の庄屋から、明治22年(1889)の町村制度実施までの間はめまぐるしく制度が変わっていきます。明治11年(1878)には郡区制によって、神東・神西郡の郡役所を屋形の宝樹寺に設置し、初代郡長に武門利済が任命されました。役所には他に書記官・用務員が数名配置されていたようです。当時は南は砥堀から北は生野町真弓まで管轄に入っていたため、距離的には屋形が中心であったようです。その後明治19年(1886)に郡役所は福崎町辻川に移転してしまいます。郡北部の村々は反対を唱え、兵庫県令(知事)等に嘆願しましたが、結局聞き入れてもらえませんでした。

生野義挙 -屋形-
幕末、尊王摸夷派の浪士たちが、討幕ののろしをあげるため生野と奈良で兵を挙げる事件が起きました。奈良では天誅組が五条代官所を襲いましたが、結局潰滅してしまいます。一方、福岡藩出身で奇兵隊総監の南八郎が中心となり、攘夷派の公家である澤宣嘉を総帥にすえ、浪士が組織されました。一行は、生野代官所を襲撃し、但馬の農兵隊と手を結ぶ計画でしたが、播磨上陸後に奈良挙兵の失敗が伝わると、決行を唱えるものと再起を期そうとする者に分かれてしまいます。浪士たちが勢揃いして、その論議を行った場所が屋形の旅館「三木屋」でした。決行組は生野代官所を占領し、討幕の火の手をあげましたが、結局鎮圧され、多数が自刃、獄死しました。
懐徳碑   -屋形-
江戸時代、市川町は姫路藩・福本藩、そして旗本池田氏の知行地の支配に分かれていました。旗本領は寛文6年(1666)に、池田三郎が福本薄から分家して、屋形に陣屋を設けたのが始まりです。池田氏の領地は、屋形・小室・千原・谷・田中・鶴居・澤・野村(現神河町)そして神崎と美佐の一部です。石高は3千石、旗本領としては大きい方です。人口は約2000人でした。この石碑は屋形飯盛山の西麓、非常に見はらしのいい所にもあります。ゆかりのある人たちの手で明治27年(1894)に建てられました。昔はこの石碑の前に拝殿式のりっばな休憩所があったそうですが、今では取りはずされています。
飯盛山の懐徳碑   -屋形-
屋形区の飯盛山の中腹に広場があり、大きな石碑が建てられています。この石碑は寛文6年(1666)から明治2年(1869)の版籍奉還まで続いた屋形藩を偲んで、ゆかりの人々によって明治27(1894)年に造られたものです。昨年(2007、平成19年)より、展形区の住民の方の手によって周辺の整備が行われています。この石碑のすぐ下には、明治時代に造られた日本初の高速道路と言われる「銀の馬車道」が通っていました。整備事業は「銀の馬車道」に関連する事業の一環として行われました。国道から登れるように約100mにわたって石段を設け、雑木は伐採して植栽を行っています。広場からは市川の流れ、屋形の集落、そして遠くは神河町方面まで見渡すことができます。ぜひ訪れてみてはいかがででしょうか。
    広報いちかわ2008年5月号 ぶらりいちかわ散歩道<265>より
屋形船着き場跡            -屋形-
江戸時代、市川では高瀬舟が行き来していました。高瀬舟とは高瀬(浅瀬のこと)を乗リ切れるように、底を平たく浅く造った川舟のことです。大きさは長さ約11m、幅約2mが標準で、4.5~9トンの荷物を載せることができました。もともと年貢米の輸送を目的に開発されました。市川流域の年貢米は高瀬舟で飾磨津の姫路藩飾磨御蔵に運ばれました。記録によると市川の高瀬舟は17艘ほどで、船着き場は市川町内では屋形・浅野・甘地・西川辺にあったと思われます。このうち、屋形舟着き場が今も残っています。屋形郵便局の東側に舟を引き込む掘り切りがあります。幅が約7mで石積みで造られています。ここで舟の荷物の積み下ろしをしていました。                  『BanCal』2002年夏号よリ
    広報いちかわ2007年10月号 ぶらりいちかわ散歩道<258>より

立壁大師堂(たてかべたいしどう) -屋形-
屋形の集落から北へ行くと澤橋がかかる附近に立壁と呼ばれる急な岩山があります。それを30mほど登ると、立壁大師と呼ばれるお堂が建てられています。堂のなかには石の厨子があり、大日如来と弘法大師が祀られています。この厨子には安永8年(1779)の銘があります。この大師堂の下には、屋形全域をうるおす潅漑用水が設けられており、その安全を祈願するために堂を建てられたものと思われます。毎月3日には信者の方々が、旗や幕で飾り、お祭りを行っています。また3月21日は、大祭の日となっています。全国的に、他の堤や井堰、湧水など、水に関係した場所には弘法大師が祀られることが多いようです。

屋形橋 -屋形・鶴居-
昭和8年(1933)、屋形と鶴居の間に新しい橋が架けられました。鉄筋コンクリート製で、アーチ式と呼ばれる最新式の斬新なデザインの橋でした。全長120m、幅5m、総工事費は5万円だったそうです。橋を吊り下げるためのアーチがふたつ取り付けられていました。現在でもそのうちのひとつが残っています。そして、工法も最新のものであったらしく、橋脚を造る時は潜水夫が川に潜って工事を行ったそうです。それがまた珍しいため、見物人が大勢おしよせたそうです。橋の欄干には鉄格子が付けられ、橋や川の名を書いたりっばな銘板やモニュメントもあったそうですが、第二次世界大戟中に軍需物資として供出してしまいました。現在、兵庫県の近代化遺産に登録されています。
初代屋形橋     -屋形-
江戸時代、屋形と鶴居の間の市川には渡し船が通っていました。明治時代になり、市川の西岸に播但鉄道の建設計画が持ち上がりました。鉄道が開通すると、今までの渡し船ではとても対応できなくなるため、市川両岸の屋形と鶴居が合議の上、橋の架設の請願を県知事に行ないました。明治26年(1893)のことです。初代の屋形橋は、全長120m、幅3.6mの黒ペンキ塗りの木造大橋であり、当時の神崎郡内では、砥堀・
豊富間の生野橋、福崎・田原間の神崎橋についで3番目の大橋でした。「屋形橋」という命名は、県知事によるものでした。その後、昭和8年(1933)、鉄筋コンクリート、アーチ型の当時としては最もモダンな第2代屋形橋が架けられ、現在に至っています。第2代屋形橋は、兵庫県近代化遺産に登録されています。  『ふるさと「やかた」の歴史』よリ
 広報いちかわ2009年12月号 ぶらりいちかわ散歩道<284>より

播但一撲  -屋形他-
明治政府の解放令に対する不満がつのり、明治4年(1871)10月、神崎郡・姫路市を中心に一揆が起こりました。約2000人の農民が竹槍、鉄砲を持って福崎町辻川の大庄屋三木屋を襲撃して土蔵に火を放ちました。この後農民は1万人にふくれあがり、大一揆となりました。一挟勢は姫路県庁へ押しかけましたが、鎮圧軍が大砲まで持ち出したため、多くの死傷者が出ました。一方、市川沿いに北へ向った一団は屋形の市川河原に結集し、生野県が派遣した役人白州文吾と従者の2名を殺害しました。さらに生野銀山の工場・事務所を焼きはらい、貢租軽減など八力条の確認書を取りつけました。
屋形小学校 -屋形-
屋形では江戸時代より、宝樹寺で寺子屋が開設されていましたが、明治5年(1872)政府より小学校令が発布されると、さっそく小学校が開設されました○場所は宝樹寺内で、校名は後進小学校と名付けられました。この周辺では最も早く設立された学校だったので、遠方から寄宿
して学ぶ子供もあったそうです。明治6年(1873)には、屋形小学校、9年(1876)には就正小学校と名が改められました。そして、明治17年(1884)には、洋式瓦茸2階建のモダンな校舎が建てられました。落成式には県令(県知事)の森岡昌純も参列したそうです。郡内でも先進であった屋形小学校も生徒数の減少などの理由で昭和36年(1961)に鶴別、学校に統合されました。   『ふるさとやかたの歴史』より

キツネをだました吾平さん -屋形-
昔からキツネにだまされたという話はよく聞きますが、屋形の吾平さんはまんまとキツネをだましたと言い伝えられています。屋形飯盛山の白ギツネは、暗夜に幽霊に化けて、人を驚かせたり、いろんなイタズラをして喜んでいました。吾平さんは、夕暮れに馬を引いて歩いていました。すると旅姿の女性が現れて馬に乗せてほしいと頼むのです。吾平さんは気の毒に思い、乗せてあげましたが、その女性のお尻にはなんとシツポがあるのです。吾平さんはそのシソポをつかまえて焼火箸を押しあててやりました。キツネは飛び上がって驚いて、飯盛山めざして逃げて行ったと
いうことです。       『ふるさと屋形の歴史』より

屋形の宿場 -屋形-
屋形は、生野峠を越して山陽道と山陰道とを結ぶルートに位置し、市川を渡る船渡しが設けられていたことから、宿場として発達しました。享保19年(1734)の『西国三十三所方角絵図』にも、「やかた」の名を見ることができます。西国巡礼の宿としてまた、生野銀山から大阪への、銀の運搬の中継地として、そうとう繁盛していたようです。記録によると、江戸時代の終わり頃には、小林屋、井筒屋、阿波屋、三木屋、大黒屋、川辺屋、戎屋、高木屋、青田宿、という宿屋がありました。この宿場は、幕末に勤皇の志士たちが決起した「生野義挙」、明治4年(1871)には「播但一揆」の舞台となり、歴史にその名を残すことになります。
陶器製の金次郎像 -屋形-
二宮尊徳(金次郎)は、江戸時代の農政家(篤農家)です。明治時代になって政府は、勤勉節約の模範人物として政策的に尊徳を顕彰し、国民の教化を図りました。昭和に入ると、小学校の校庭には薪を背負いながら読書をする、尊徳の少年時代の像が建ち、戟前の学校教育のシンボルともいえる存在でした。屋形小学校にも銅製の尊徳像がありましたが、太平洋戦争中に物資不足のために政府に供出されました。その代わりとして同じところに陶器製の像が置かれました。これは、岡山県和気郡の伊部窯で焼かれたものです。陶器製の像は非常に珍しいもので、現在、屋形の公民館に移され保管されています。
屋形郵便局 -屋形-
市川町内で最も早く設置された郵便局は屋形郵便局です。郡内では3番目の郵便局として、今から約120年前の明治7年、鶴居・甘地・川辺・瀬加地域の集配を業務に始まりました。当時は個人の居宅を局舎としていたそうです。その後、保険や貯金業務などが拡大され、大正時代には10数名の職員が働いていました。ところが、昭和11年(1936)に、集配業務が甘地局に移されることになり、地元住民の反対運動が起こりました。かなり大規模な運動であったらしく、東京の逓信省や大阪の逓信局に対する陳情書や抗議書が残っています。現在の局舎は昭和49年(1974)に移転、新築されています。  『ふるさと屋形の歴史』より

カマヤのグロ -屋形-
屋形のバイパス沿いの少し西に、「カマヤのグロ」と呼ばれる薮があります。そこでは、東西60m、南北50mほどの土地が、高さ2mの土盛りで四角く囲まれています。言い伝えによれば、土盛りで囲まれた中には、戦国時代に屋敷があったそうです。ここには、武将赤松政則の内室が病気静養のために住んでいたとされています。実際「カマヤのグロ」が戟国時代に、敵からの防御のために屋敷の周囲に作られた土塁であることは間違いありません。かなりの有力者が住んでいたのでしょう。カマヤとは、構(かまえ=屋敷のこと)がなまったものと思われます。県下でも、これほどまでに完全な形で残っている例は少ないそうです。
屋形藩主の墓碑 -屋形-
屋形は旗本池田氏の領地の中心として、代官所が設けられ、10人ほどの家臣によって統治されていました。領主の池田氏は旗本ですので、江戸に住まいをしていて、屋形に来ることはほどんどなかったようです。領地は屋形の他に、小室・千原・谷・田中・鶴居・澤、野村それに神崎と美佐の一部で、石高は3千石でした。3千石は旗本としては上位の方であったようで、幕府内ではかなり重要な役をまかせられていました。寛文6年(1666)に福本薄から分家して以来、明治2年(1869)年の版籍奉還まで、10代の藩主がつづきました。10代の中で地元の屋形に墓碑があるのは、9代藩主池田銀吉政正だけです。墓は屋形宝樹寺の境内にあります。
鍛通工場(だんつうこうじょう) -屋形-
後藤丹次著「ふるさと屋形の歴史」によると、屋形に椴通工場があったそうです。般通とは、ペルシャ絨鍛のようなもので、数々の織込み糸を使って模様をつけた、敷物用の厚いパイル織物です。原産は、やはりペルシャ・インドで、日本には江戸時代に伝わりました。佐賀や堺、また赤穂などで、かなり盛んに生産されていたことは有名です。屋形の工場は、明治36・7年頃(1903・1904)、屋形字蛭町の県道沿いに建てられました。現在の屋形公民館の南側あたりです。不況の時代に、農家の副業として現金収入を得ることを目的に作られたそうです。当時、少年女工が10数人と大人2・3人で生産をしていたらしいことがわかっています。しかし、やがて日露戦争が勃発して日本の経済状況が悪化したため、工場は自然休業となりました。その後、工場は倉庫として使われたり、小作争議に使われたりしましたが、大正時代の初め頃に解体されました。

太郎太夫山 -屋形-
屋形には、むかし太郎太夫という豪族が住んでいたと伝えられています。今も「太郎太夫山」「太郎原」という地名が残っています。播但道市川北ランプから、東北方向の山がこう呼ばれています。この豪族は屋形に居を構えて、付近一帯を領地として年貢を取っていました。そして、飯盛山に城を築き、射的場、調練場、兵器庫などを設けていたそうです。ところで、屋形のバイパス沿いで竹薮になっているところが「カマヤのグロ」と呼ばれています。ここが太郎太夫の屋敷であったのに間違いないと思われます。家の周囲を高さ2~3mの土盛りで四角く取り囲み、敵の侵入を防いでいた武士の館跡です。屋形の地名の起源は、この太郎太夫の館(やかた)から起こっていると思います。  『ふるさと屋形の歴史』より

飯盛山城跡 -屋形-
飯盛山城は戟国時代、播磨の守護赤松満祐が但馬の山名宗全の攻略に備え、高橋備後守政親を城主として嘉吉年間(1441~1443)飯盛山頂に城を築き防備にあたったのが始まりです。赤松の敗戦で一時城はさびれましたが、間もなく山名勢の退陣により、城は復興して約100年間高橋一族の居城でした。飯盛山は屋形の南端に突出して袋の口を絞ったような格好の土地です。山頂は見張所として最良と言えます。頂上近くに20坪ほどの平坦な場所があり、ここに建物が建っていたと思われます。郡内への南進する山名勢を防備するのに「春日山」「寺前」「御嶽」「鶴居」の諸城が洩らした敵を食い止める役割があったのでしょう。なお、飯盛山は全山が花崗岩で成り立っており、岩石を用材として採掘していたこともあります。
    飯盛山城 ヘリンク

屋形バイパス  -屋形-
国道312号線は屋形の集落の中を通っていましたが、交通量の増大によって事故や建物の損傷が相次ぎました。地元はバイパスを熱望し、昭和51年(1976)に完成しています。これより100年ほど昔の明治6年(1873)、屋形にバイパスを作る計画がありました。この頃明治新政府は、生野銀山と飾磨港を結ぶ最新式の道路の建設に着手しました。当初、屋形付近は集落の中を通らず、今のバイパスとほぼ同じルートを通す計画でしたが、地元は強く反対しました。当時屋形は生野街道の宿場町で、旅館も6~7軒ありました。バイパスができることによって、村がさびれてしまうからです。再三嘆願書を出していますが、それによると「集落の中を通る従来の街道を広げるのでバイパスは中止してほしい。家屋の移動は地元の負担で行う。」としています。この熱意が実り、バイパスは取り止めになります。この道は「馬車道」と呼ばれ、物資の運搬に大活躍しました。

屋形の湧泉 -屋形-
昔、屋形の飯盛山付近より冷泉が湧き出ていました。腹痛などに効用があるとされ、江戸時代の頃、毎年7月の「土用の丑」の日には、近隣の村の人々はこの水を汲み入浴する習慣がありました。塩田温泉の炭酸泉と同様に良く効くとの評判でした。入浴すると持病の病気病(せんけやまい、腹痛のこと)がだんだんと良くなったという人の経験談が記録としてたくさん残されています。 明治18年(1885)には、屋形村ではこの湧水の成分分析を県に依頼しています。試験の結果、炭酸や硫酸塩などを含む単純泉であることが判明しましたが、いずれも含有量が微量のため医学的な効用については大きな期待はできない、とのことでした。周辺の住民に愛された冷泉ですが、現在では残念ながら場所がはっきりとわかりません。       屋形区所蔵の古文書より

円山断層と但馬街道 -屋形-
東西に伸びる山崎断層は有名ですが、市川町には南北に円山断層が走っています。姫路から北へ市川や円山川に沿って和田山まで達するものです。円山断層は規模の大きな断層ですが、それが形成されたのはかなり古く、形成後の再活動はほとんどありませんでした。そのため長年の侵食と堆積によって谷幅が広くなり、今では断層面を見ることはできないようです。この谷は古くから瀬戸内と日本海を結ぶ重要な交通路となり、但馬街道または生野街道と呼ばれました。生野銀山が開かれるといっそう多くの人や物の往来がさかんとなりました。屋形は市川舟運の起点でもあり、この街道の中で重要な宿場の一つでした。今から200年ほど昔、この付近を旅した『菱屋平七長崎紀行』によると、「人家五六十軒、宿屋・茶屋あり」と記されています。
上野泰庵(うえのたいあん) -屋形-
屋形にある宝樹寺の第20代住職を務めた上野泰庵(1871~1950)は今から100年前、南米に初めて仏教を広めました。ペルーに創建した「慈恩寺」は、今も日系人の心のよりどころとなっています。上野は神河町寺前出身。宝樹寺で修行をしていた1903年、他の2人とともに神戸からペルー行きの船に乗りました。1ケ月以上の航海の末に到着し、移民への布教活動をはじめました。上野は現地日系人の信頼を得て、4年後には慈恩寺を建立し、宗派を超えて広く信仰を集めました。1917年、宝樹寺の住職になるため帰国しますが、後継者の手で活動は続き、いまでもお盆やお彼岸には多くの人が訪れます。     神戸新聞記事より

ちゃわん山 -屋形-
屋形集落の東、高田工業の北あたりに「ちゃわん山」と呼ばれる場所があります。ここには昔、壷や茶碗を焼く窯がありました。以前、開墾をしたときに焼き物の破片がたくさん出てきたそうです。今でも破片などを拾うことができます。写真で紹介したものは、窯の中に効率よく製品を積み重ねるために使う窯道具(かまどうぐ)と呼ばれるものの一種で、別名トチンとも言われます。窯を使っていた時代はそんなに古くなく、江戸時代頃のものではないでしょうか。すぐ近くにあった屋形の陣屋と関係があるかもしれません。今では地中に埋まってしまい、詳しい実態を明らかにできないのが残念です。
後進(就正)小学校跡地  -屋形-
屋形の集落の中を走る県道沿いに、「後進(就正)小学校跡地」という標柱が立っています。明治初め頃の小学校の跡地です。明治5年(1872)に政府より小学校令が発布され、各地に小学校が設立されました。屋形では「後進小学校」という名称で、宝樹寺を校舎としてスタートしました。その後、明治6年には民家を購入して、「屋形小学校」と名を変えました。そして明治9年には浅野地区も学区となり「就正小学校」と再び名を変え、17年には新築の校舎が落成していますこの当時は、先生は2人でした。また、制度ができたばかりで、まだまだ就学率は低く、就学村象児童約140人のうち6~7割の児童が学んでいたようです。

初鹿野地区の編入  -屋形-
屋形区の北部、初鹿野地区は江戸時代には柏尾村(現神河町)に属していました。しかし、飛地であったため明治時代になって地続きの福本村か屋形村への編入の話が持ち上がりました。柏尾村は据え置きを嘆願しますが、当時の飾磨県は福本村か屋形村のいずれかに編入することを決定し、話合いによって決めるよう指令しました。また、話合いがつかなかった場合は住民の意向を聞くための「入札」(今で言う住民投票)を行うことも合わせて指示しました。結局、井堰の関係や学校への通学等の理由により、屋形村に編入されることが話合いにより決定されました。 そして、明治9年(1876)5月22日に県が正式に認可しました。  『やさしい市川町の歴史』より

高田井堰     -屋 形-
屋形橋から150mほど下流に、高田井堰と呼ばれる近代的な堰が造られています。もともと、この場所には旧の高田井堰があり、さらに下流には野良井堰がありました。このふたつの井堰から取水した用水で谷・近平・千原・小谷・甘地地区にわたる広い地域の水田を潤していました。以前の井堰は土砂搬入や漏水防止のための管理、また洪水などによる修理保全に莫大な人員と費用がかかっていました。そして、昭和41年9月には大洪水により南井堰は決壊し、跡かたもなく流失してしまいました。これに対して、昭和42年12月には県営事業として近代的な井堰の建設に着エし、翌43年6月には統合高田頭首工として竣工しました。井堰の西岸には立派な記念碑が建てられています。       (記念碑碑文より)
 広報いちかわ2011年12月号 ぶらりいちかわ散歩道<308>より
サルガク遺跡             -澤-
播但線第2サルガク踏切から南へ伸びる県道長谷市川線の道路改良工事が行われた時に、地下から遺跡が発見されました。調査の結果、奈良時代(約1300~1230年前)や鎌倉時代(約830~680年前)の建物の跡が発見されました。それと同時に、たくさんの皿や甕などの土器が出土しています。この焼きものは比較的堅くて灰色をしており、須恵器(すえき)と呼ばれています。また、サルガウ遺跡に隣接した遺跡からは、奈良時代の土器に墨で字が書かれているものが発見されました。文字は「西」「田尻」「尾」などです。当時文字を使っていたのは役所関係の施設かお寺に限られていたので、役所関係の施設があった可能性が高いと考えられています。出土した品々は兵庫県教育委員会が大切に保管しています。 (遺跡調査報告書より)
 広報いちかわ2012年12月号 ぶらりいちかわ散歩道<319>より
加茂神社 -沢-
加茂神社は、平安時代に「加茂の里」荘園領地として栄え、明応5年(1496)、赤松政村播磨国守護職の時、当神社に社領を献じ崇敬し、また、文政8年(1825)、領主池田内記(創三郎)屋形藩主の時にも深く崇敬されました。神社は文化11年(1814)本殿を改築、明治7年拝殿、幣殿を改築、昭和30年(1955)には、現在の本殿、幣殿、拝殿を改築されたものです。当社鳥居は、毎年氏子老人会によって年末には真新しいしめ飾りが奉納され、新年を迎えています。   『猿田彦神社社誌』より
甦鶴神社(こうかくじんじゃ)   -沢-
市川町沢の山王さん(猿田彦神社)の本殿の北側には、甦鶴神社とよばれる小さな祠があります。この神社は元々、現在の鶴居中学校の場所にありました。今から60年ほど昔、第二次世界大戟中、日本国内は大変な物資不足となり、食糧さえ不足する事態になりました。そのため、どこの学校でも農園を持ち、イモやダイコンを作っていました。鶴居小学校では、現在の中学校の所で農園をつくり、甦鶴農園と名づけていました。小学校の児童たちは、勉強の時間をさいて作業に励んでいました。そして、豊作を祈って建てたのが延鶴神社でした。
新懇之碑 -沢-
沢橋から500mほど北に、大日堂という小さなお堂があります。お堂の南側に石碑が建てられています。これは江戸時代の新田開発の記念碑です。この大日堂の周辺は荒地でした。市川の氾濫によって、田畑にはならなかったようです。それで万延元年(1860)沢の堀甚左衛門が私財を出し開墾を行いました。当時、藩は年貢を増すため、新田開発を奨励していました。そして開発後は一定年間、年貢を減免しました。財力のある豪農・豪商はあちこちで新田の開発をし、さらに力を大きくしていきました。堀家は大変な豪農であったらしく、沢の加茂神社に立派を絵馬をたくさん奉納しています。また造り酒屋を営んでいたという詰も残っています。             『石造遺物の神崎郡誌』より
松福寺   -沢-
沢の猿田彦神社の境内に松福寺の跡とされる場所があります。松福寺は、猿田彦神社に付属して造られたお寺でした。創建は今から650年ほど前の南北時代です。高野山(真言宗)の赤松院の直属の寺として、代々本山より僧が派遣され、活動の拠点となっていました。赤松院は、今から750年ほど前の建立で、後醍醐天皇など南朝との関係が深かったそうです。また、赤松円心の厚い信仰を受け、円心の鎧兜や太刀が納められたと伝えられています。沢の周辺も、当時は赤松氏の領地であったため、赤松院の直属として松福寺が建立されたと思われます。その後、松福寺は江戸時代の中ごろには無住となり、明治時代には廃寺となりました。     『猿田彦神社社誌』より
猿田彦神社の宝篋印塔(ほうきょういんとう)   -沢-
沢の猿田彦神社(通称:山王さん)には、市川町で一番古い石像物があります。神社の本殿から左の方へまわると、大きな岩の陰に不動明王像が祀られています。その像の台として、40cmほどの四角い石が置かれています。これは、もともと宝篋印塔と呼ばれている供養塔の基礎の部分を利用したものです。この石の正面には、たいへんわかりにくいのですが、次のように刻まれています。
   康永三申年
   二月八日
   一結衆 敬白
康永3年は西暦1344年、日本が南朝と北朝に分かれていた頃です。一結衆というのは、この塔を造るために集まった信仰を同じくする人たちの事です。この年号は市川町内の石像物で一番古くたいへん貴重なものです。ちなみに、二番目に古いのは、東川辺の大通寺にある宝篋印塔で、康應元年(1389)の年号があります。
澤の構(下沢城) -沢-
沢の大真空の工場の北側に構(かまえ)と呼ばれる場所があります。構とは、戦国時代の侍の屋敷のことです。この一角には、構稲荷と呼ばれる神社があります。もともとはこの屋敷の守護神として建てられました。その縁起によると、ここは下澤城とも呼ばれ、戦国時代に屋形に城をかまえた赤松伊豆守時政の下屋敷とされています。屋敷のまわりには堀や塀を巡らせて敵の侵入を防いでいました。先日、県道長谷・市川線の工事に伴って、遺跡の発掘調査が実施され、実際に水田の下から当時の堀の跡が見つかりました。現在残っている水路は堀のなごりです。堀は約80m四方に巡っていたと考えられます。内側には相当大きな建物があったようです。
固寧倉(こねいそう)  -沢-
沢、延寿寺の西100m程のところに観音堂があり、境内に蔵が建っています。その屋根の鬼瓦の裏面に「固寧倉鬼瓦 天保13年」(1842)と墨で書いてあるのが発見されました。これによって、この倉が固寧倉として使われていたことが明らかになりました。福崎町に残っている固寧倉とくらべても、形や大きさがそっくりです。固寧倉は、文化6年(1809)飾西郡の大庄屋衣笠八十右衛門の建議によって、姫路藩家老の河合寸翁が施行したのが始まりで、飢饉・風水害などの非常時に備えて食料などを貯蔵する倉庫のことです。各村々に作られ、天保の飢饉では大きな役割を果たしたといわれています。固寧倉の名は、中国の古典『書経』に「民は惟れ邦の本、本固けやすれば邦寧し」とあるのをとっています。
猿田彦神社  -沢-
沢の西方の山麓、神河町との境近くに猿田彦神社が鎮座しています。 昔、この付近は新野庄と呼ばれ、「播磨国風土記」に登場するように早くからひらけた場所でした。神社は古くから崇敬を集めており、明応年間(約500年前)には播磨国守護職赤松政村が領地を寄進した記録があります。また明暦3年(1657)、義民として有名な上月平左衛門が願主となり、本殿が造営されています。社殿の左には「御敷岩」と呼ばれる大きな岩があります。大汝命(オオナムチノミコト)と少彦根命(スクナヒコナノミコト)がこの岩の上から村々を見下ろして、まつりごとの相談をしたと言い伝えられています。
元禄八年のお地蔵さん  -沢-
市川町沢、木村昭一さん宅の南に高さ約50cmの石のお地蔵さんが立っています。石には「元禄八年」(1695)の年号が刻まれています。今から310年も昔に作られました。市川町に残っている石の地蔵の中で一番古いと思われます。このお地蔵さんには言い伝えがあります。昔、幼い娘さんが亡くなりました。家族の人たちは遠いお墓に葬るのはかわいそうで、自宅近くにお地蔵さんをつくり、供養したそうです。
山王1号墳   -沢-
市川町と神河町とのちょうど町境、県道長谷・市川線の西側に山王1号墳と名付けられた古墳があります。直径15m、高さ4m以上ある円形の古墳です。今からおよそ1500年前に造られたと考えられています。古墳の中には大きな石を積んで、四角い部屋を作っています。石室と呼ばれるこの部屋は長さ10m、幅2m、高さ3m以上の大きなものです。入口が開いているので中に入ることができます。ここに豪族を葬り、同時に剣や勾玉(まがたま)などを一緒に納めていたはずですが、発掘調査が行われていませんので詳細は不明です。
鶴居用水   -沢・美佐・鶴居-
今も昔も米作りに水は一番大切なのものです。川にはたくさんの井堰が作られ、用水路に水を引き込んでいます。神河町比延の小田原井堰から引かれた水は、長く延びた用水路を経て、遠く鶴居まで流れて広い範囲の田を潤しています。美佐山への入口付近に「岡が鼻」と言う場所があり、ここから用水路の支流が美佐地区へ広がっています。昔、日照りのときは水をめぐる争いが起こりました。どこの村にも平等に水が行き渡るように、水の引き込みについては、水を利用する時間が決められて、厳重に管理されていました。
祇園さん   -沢-
市川町には各地に祇園神社が祀られています。沢にも観音堂・固寧倉(こねいそう)と隣接して祇園さんがあり、昔から子ども達だけで祀っています。堂の棟札には「再建祇園判天王御社 昭和四七年三月九日」とあります。牛頭天王は広峰榔の祭神です。農業の守り神として、昔は各家にお札が配られていした。8月に中学生が観音堂に集まって祭りの準備をします。大きな燈籠に紙を張り、絵を描いて参道に立てます。祭日には堂の正面にきな提灯を取り付け、福引やかき氷など楽しい催しが開催されます。
澤公民館(鶴居尋常高等小学校講堂)   -澤-
昭和20年(1945)、老朽化が進んだ鶴居尋常高等小学校の校舎は解体され、新しい校舎に建て替えられることになりました。澤区には当時、大きな公民館がなかったため、講堂、職員室、校長室などがある西校舎を譲り受け、現在の場所に移築しました。竣工は昭和25年(1950)でした。当時は講堂と舞台、日本間が2部屋ありましたが、後に舞台と日本間は取り壊されました。
講堂の建物は、内装などは新しくなりましたが、石を積んだ土台もふくめて当時のままで残っています。鶴居尋常高等小学校の多くの児童が卒業式を行い、巣立っていった思い出の建築物です。
        『鶴居地区お宝発見(題材・歴史探訪)』より
 広報いちかわ2010年4月号 ぶらりいちかわ散歩道<288>より
山の神    -美佐-
「山の神」とは、林業関係や鉱山業者など山で働く人たちに多く信仰されている神で、恐ろしい女神と考えられています。市川町内でもたくさん信仰されていたようです。小畑の天満神社には「山神宮」と善かれた燈籠がありますし、「山の神」という地名が残っている所がしばしばみうけられます。写真で紹介したのは美佐の健康広場公園のそばにある山の神です。大きな桧がおい繁り、下には長さ5m、幅2mの石組が残されています。そこには、真新しい御神酒が供えられていました。今も手厚く祀られているようです。ところで、この山の神の石組はどうも古代の古墳の跡のようです。横穴式石室の石だけが残っているものと思われます。
亀が壺   -美佐ほか-
鶴居と美佐の間を流れる甲良川を遡り、“十三まがり”と呼ばれる急な坂を越え、夢前町側へしばらく下ります。そこには「亀が壷」と呼ばれる見事な滝があります。滝は高さ30m弱で、2段になって落ちていきます。その段になっている岩には、滝の水によって直径3m、深さ2mあまりの大きな穴ができています。昔、日照りの時、滝壷に牛の生首を入れると水神の怒りをかい、大雨が降ると言い伝えられていました。この周辺の山では、神崎郡の鶴居村など11箇所が郡境を越えてたきぎなどを取ることが許されています。亀が壷から30分程下ると、大きな岩に「是より北、亀ケ坪、左右見通、十一ケ村入会」と字が刻まれています。
美佐山  -美佐-
美佐の健康広場公園から西へ入った谷は美佐山と呼ばれています。夢前町との境まで約3km、中央を甲良川が流れています。その流れに谷は深く削り取られ、流域には大きな岩が露出しています。川の流れは急で、小さな滝もあり、魅力的な渓谷美を作り出しています。この付近は花崗岩の地質のため、川の流域以外にも山のあちこちで巨岩が露出しています。この花崗岩は赤みを帯びており、きれいに磨くと美しいピンク色になります。むかし山の草木は、燃料などに使うため貴重なものでした。そのため、伐採の権利(入会権)をめぐってしばしば争いが起きています。美佐山においても入会権を記した絵図が残されています。美佐山の西は飾磨郡になりますが、江戸時代から鶴居など神崎郡の旧11ヵ村は、郡境を越えて入会権をもっています。これには新野村の庄屋「上月平左衛門」の活躍がありました。村人たちはこれを感謝して毎年8月にお祀をしています。

諏訪神社    -美佐-
美佐の西、美佐山への入り口の少し北に諏訪神社が鎮座しています。この付近は昔、新野庄に属しており、古くから開発されていたようです。諏訪神社は元暦元年(1184)諏訪大社の神職が遠く信州より分霊を勧請したのが始まりとされています。また、文治2年(1186)諏訪本社より白鳥が飛来し、美佐の諏訪神社に降り立ったとも伝えられています。時代がさがり、明応2年(1493)には播磨国守護赤松政村より社領10石の寄進を受け、江戸時代になると、享保13年(1728)福本藩領主より3石の寄進を受けるなど、広く崇敬を集めていたようです。また、拝殿には江戸時代終わり頃の絵師、百斎義信(ひゃくさいよしのぶ)が措いた「牛若丸と烏天狗の図」のすばらしい絵馬が掲げられています。               『猿田彦神社誌』より
大中山  -美佐・鶴居-
市川町の北西部、夢前町との境に大中山があります。標高は662.3mで、この付近の最高峰です。この山は市川の支流甲良川と夢前川支流河原川を分ける分水嶺でもあります。この山の名は明治17年(1884)の『皇国地誌編纂資料』にも載っており、近年では『続兵庫の山』『播磨山の地名を歩く』などの本にも紹介されています。本では特にこの山の稜線の美しさが賞賛され、「直線的に伸びやかにせり上がり、清らかさと静けさが漂っている」と表現されています。沢橋付近から西の方向を見ると美しい稜線を眺めることができます。山頂から1kmほど北に峠があり、亀ケ壷の滝に向かうにはここを越えることになります。現在は林道が整備され、峠まで車で行くことができます。
鶴居十石舟唄      -鶴居ほか一
鶴居十石舟唄は、かつて市川町で唄われていた民謡で、市川の船運に使われていた十石舟を唄っています。姫路市在住の民謡歌手 土井暗一朗さんによって再現されました。現在、鶴居十石舟唄保存会によって受け継がれています。
鶴居十石舟唄(-番、三番)
 ヤレーサーノ エー  〔ヨイサーノサー〕
 流れにナー  〔ハアードッコイショー〕
 竿さしゃナー 十石舟が  〔コーリャセー〕
 着いたところは  〔コーリャセー〕
 飾磨の津とエー
       ヤレーサーノ エー  〔ヨイサーノサー〕
       鶴居のナー  〔ハアードッコイショー〕
       里からナー 十石舟よ  (コーリャセー〕
       早瀬まかせてエー  〔コーリャセー〕
       操って行くとエー
 広報いちかわ2012年3月号 ぶらりいちかわ散歩道<311>より
城山登山道       -鶴居-
鶴居区の西にそびえる標高mの山頂に城の跡が残されています。稲荷山城と呼ばれ、山頂から尾根伝いに150mにもわたって何段もの平らな地面が連なり、大規模な城であったことが伺われます。この城跡を顕彰するため地元の鶴居区の住民有志によって、「城山城址の会」が結成されました。会では、誰でも気軽に城跡に登れるように、昨年10月より本格的に登山道の整備を開始しました。昨年末には全長1100m、高低差300mの登山道の整備が終わり、40~60分で頂上まで登ることができるようになりました。頂上からは六甲山の山並みをはじめ、明石大橋、鳴門大橋まで見渡すことができます。一度、登ってみてはいかがでしょうか。
 広報いちかわ2009年3月号 ぶらりいちかわ散歩道<275>より
JR鶴居駅    -鶴居-
JR鶴居駅は市川町北部の玄関口として、多くの通学・通勤者に利用されています。鶴居駅は播但鉄道の開通とともに営業を開始しました。播但鉄道は東川辺の内藤利人らの尽力により、明治27年7月に姫路=寺前間が竣エし、7月26日から運転が開始されました。この時に営業していた駅は、飾磨・姫路・野里・香呂・福崎・甘地・鶴居・寺前でした。駅の設置場所をめぐって鶴居村は誘致運動を行いました。駅の位置については、当初は鶴居村に内定していましたが、明治26年11月頃になって鶴居駅を取りやめ、甘地村に変更する動きが出ました。鶴居村の住民にとっては大変不便になってしまいます。鶴居村は、福崎駅との間隔からいっても土地の実況から見ても鶴居駅が最適であると申し入れ、最終的に鶴居駅・甘地駅両駅が実現しました。  「Ban Cul」2002年夏号よリ
 広報いちかわ2007年12月号 ぶらりいちかわ散歩道<260>より
鶴居の長持 -鶴居-
長持とは、衣類・調度などを入れておく長方形の蓋のある箱で、多く運搬用に用いられたものです。鶴居の長持は、秋祭りの屋台とともに奉納されたもので、この長持の歴史は、屋台の歴史とほぼ同じと思われます。屋台の古い太鼓を調べてみると江戸時代後期寛政6年(1794年)と書かれており、当時より屋台と同様に長持も出されていたものと考えられます。昭和16年の小室天満神社の竣工式など神社、寺の祭礼時には、屋台といっしょに参加していました。その後、数年は後継者がなく途絶えていましたが、昭和53年に鶴居長持保存会を結成し、郷土の伝続を守り伝えています。この長持は、祭りのご馳走やお酒を運ぶもので、前後4人ずつ長持竿を担ぎ、まわりの唄手が長持唄を歌います。また拍子のよい道中文句〔丁とれ、判とれ、息子には嫁とれ、良い嫁とったら一生得だよ、エッチョ、ドッコイ、ドッコイ、ドッコイ‥‥‥〕に足を揃えて村中を担ぎまわり、最後は稲荷神社へ宮入り、奉納します。長持を末長く保存するため、年寄りから若いものまでいっしょになり、毎年10月に秋祭りを行っています。ぜひ一度ご覧ください。
青銅製経簡  -鶴居-
経筒は、市川町揮の山王神社の上、神河町との町境の見はらしのよい尾根で発見されました。この経筒は、高さ24cm、直径12cmで、約800年前のものと推定され、腐食せずほぼ完全な形で発掘されました。なかには紙に書かれた経文が炭化して一握りほどの黒い固まりとなって残っていました。10世紀末の平安中期、国内では末法思想が高まるとともに、経塚信仰がおこりました。人々の不安と恐怖は、当時想像を絶するもので、このとき未来仏である弥勅菩薩の再来まで、経典を書写して功徳を積み、それを土中に埋めることで一層の功徳を得ようと、ひたすら埋経で極楽往生しようと祈る風習が起こりました。経筒はその経文を入れた容器でした。
                           今井太郎氏蔵
皿池    -鶴居-
『鶴女房』の昔話はみなさんご存じだと思います。「若者が傷ついた鶴を助けたところ、鶴は美しい女に姿をかえ、女房となって布を織る」という話で、全国で語り継がれています。ところで、この話では、正体を見られた鶴が飛び去った地が、「播磨国皿ヶ池」とされています。昔話の研究家によれば、この話は書写山を本拠地としていた盲目の琵琶法師の集団が全国に伝えた可能性が高く、法師が語るとき、書写山の近隣にあった「皿池」の名を使って多少の創作を加えたかもしれないということです。その場合、書写山と鶴居と何か特別の関係があったのかもしれません。いずれも想像の域を出ませんが、「皿池」は「鶴女房」のルーツとも思われます。
東郷源左衛門   -鶴居-
明治椎新の頃、この市川町で命を失った薩摩藩士がいました。鶴居広徳寺境内に小さな石碑が1基建てられています。その碑には「鹿児島県士族 東郷源左衛門」と記されています。銘文によると、東郷は明治7年(1874)に生野銀山の管理の命令を受け、現地に赴くことになったようです。当時の交通手段としては飾磨港まで船を使い、あとは市川沿いに陸路をとったと思われます。ところが、鶴居まで来た時市川が大水で屋形へ渡ることができませんでした。宿に足止めされているうちに病気を患ってしまい、無念にもなくなってしまいます。東郷という人物についてこれ以上わかりませんが、西郷隆盛の西南戟争の資金調達が任務であったという推測もあります。
鶴居の清水  -鶴居-
鶴居駅から約200m西へ行ったところに、清水がこんこんと湧き出ています。地元では鶴居の清水と呼び、そばには「日の元地蔵」という文字が刻まれた石の地蔵尊がまつられています。このあたりは市川の流れによって形づくられた河岸段丘という台地になっており、古代の遺跡の多い所として知られています。この台地の下を流れている地下水が、この場所で清水となって湧き出ているようです。ところで、戦国時代の学者、芦屋道海という人が著た『播州巡考聞書』という書物によると、「永良の鶴井の名水、円心くまれし…」と書かれてあります。評判が高く、あの名将が赤松円心も汲んで飲んだと伝えられています。
道路元標    -鶴居-
明冶政府はあらゆる面で近代化を進めましたが、これまでの街道の里程の計算があまりにも不正確であったために、主要な都市に基準となる石柱を建てて、道路の距離を計りました。東京なら日本橋、京都では三条大橋に建てられました。その後、町村道の距離も計ることになり、大正9年(1920)に全国すべての町村に「○○村道路元標」が建てられました。25cm角、高さ60cm程の石柱です。当時の記録では、旧川辺村で西川辺柿ノ木178、旧瀬加村では上牛尾岩根159、旧甘地村では甘地中島52、旧鶴居村では鶴居桧戸32に建てられたことになっています。現在も残っているのは、「鶴居村道路元標」だけのようです。鶴居駅前交差点の北西角にあります。
鶴居小学校校歌  -鶴居-
市川町出身の最も有名な人はだれか?といえば、多くの人が脚本家の橋本忍さんを思い起こすはずです。橋本さんは大正7年(1918)市川町鶴居に生まれ、第二次世界大戟後、黒澤明監督とコンビで、多くの名作を生み出しました。「羅生門」「生きる」「七人の侍」など題名をあげればきりがありません。つい最近も「私は貝になりたい」がテレビで放映されています。故郷の鶴居小学校の校歌は、橋本さん自身が作詞をしています。一番のみ紹介します。
  あさみどり 城山に
  春がすみたち
  南野や 田畑のあぜに
  わらびや つくし
  すくすく芽ばえる
  校舎の 上から見れば一望に
  平和で のどか あかるくて
  こののどかさと 明るさを
  われらの学びの 旨とせん       『バンガル』より転載
原治右衛門   -鶴居-
市川町内の古い家には、「原治右衛門」と刻印された瓦がしばしば見かけられます。原始右衛門は今から200年近く前、江戸時代の中頃、文化・文政期に活躍した瓦師です。姫路城下の龍野町に店を構え、姫路藩の御用瓦師を務めていました。その後、市川町の鶴居に移り住み、瓦を作り続けました。この付近に良い粘土があったためと思われます。代々、治右衛門の名が受け継がれ、明治時代まで生産が続けられたそうです。
河岸段丘     -鶴居ほか-
市川の流域の中で、市川町から姫路市の船津あたりまでは、「河岸段丘」という地形が見られることで有名です。河岸段丘とは、河川の流路に沿って地面に大きな段差ができて崖になっている地形のことです。崖の高さは高いところでは十数メートルにもなります。これは、長い年月をかけて川の水が地面を削り取ったためにできた地形です。段丘の下は、昔は河原であったことを示しています。市川町内では、鶴居の老人福祉センターから鶴居中学校まで、奥の蓮泉寺のすぐ東側、また、播但道市川南ランプの東側などで顕著に見られます。      『ふくさき史話』より
広徳寺  -鶴居-
鶴居の公民館の隣に広徳寺というお寺があります。山号は永良山、宗派は臨済宗妙心寺派、本尊は釈迦如来です。この寺の創建は古く、今から440年前の永禄3年(1560年)です。開基は赤松円心の子孫で、谷の永良城・鶴居の稲荷山城の城主、永良遠江守雅親と伝えられています。姫路市野里の慶雲寺に卓錐宗覚和尚という高僧がいたのですが、永良雅親が深く帰依していました。そして、雅親が逝去するに及んで和尚が永良庄今井(現在の市川町神崎)に堂宇を建立したのが始まりです。その後、明和元年(1764年)現在の地に寺の建設を初め、11世浄州首座と12世海宗和尚の時代を経て明和8年(1771年)に落成しました。
広徳寺の五輪塔  -鶴居-
広徳寺と鶴居公民館との間に小さな墓地があり、五輪塔がたくさん立っています。五輪塔は亡くなった人の供養をするために造られました。その中で一番大きな塔は高さが75cmあります。この塔はその端正な形から考えて、南北朝時代(今から約670~600年前)に作られたと思われます。また、広徳寺の西の山頂には稲荷山城や谷城(永良城)が築かれています。これらの城が作られたのも南北朝時代です。初代城主は赤松円心の孫、永良三郎則綱(のりつな)です。そして、その子、孫が代々城主を受け継ぎ、播磨の北の守りとして重要な位地を占めていました。広徳寺が赤松氏と深い関係があったことから、この五輪塔が稲荷山城・谷城の城主の墓塔ではないかという説があります。   『石造遺物の神崎郡誌』より
地名の起源「鶴居」   -鶴居-
地名はそれぞれいろんな理由があって付けられています。鶴居の地名の起源については「近村めぐり一歩記」という古い書物に次のように書かれています。一条天皇のとき(986~1010)、神崎郡に三足の鶴が舞降りた。それ以後ここは「鶴井」と呼ばれるようになった。ついで、永延2年(98)亀山の小山から三足の亀が出たので「鶴井-亀山」と並び称されたという。本徳寺の後亭がその小山の跡という。古文書をみると昔は「鶴井」とも書かれたようです。本徳寺というのは飾磨の亀山本徳寺のことです。ここは浄土真宗の播磨布教の拠点であったことで有名です。「後亭」については今は不明ですが、現在お寺には「霊亀の庭」と呼ばれる庭が残っています。
福渡新田(ふくわたりしんでん)  -神崎-
江戸時代、幕府や藩は税収増加のため、新田開発を盛んに奨励しました。市川町の神崎にも福渡新田と呼ばれる開発地があります。ここは、江戸時代の初め頃、1650年前後に開墾されたと考えられています。その後、姫路藩領から福本藩領に移り、最終的には屋形の池田旗本領になりました。「福渡新田」の名の起こりは、福本藩主が福本から渡ってきて開発した新田であることによります。村高は86石あまり。享和2年(1802)この村を通った旅人の菱屋平七は旅行記に「福渡村、人家四五十軒、茶屋なし」と記しています。また、宝永七年(1710)この村の文左衛門が直訴を行い、切り捨てられたという記録があります。明治11年(1878)、今井村と合併して神崎村となりました。
祇園八坂神社      -神 崎-
ふれあい市川大橋の西側の信号からすぐ北に、祇園八坂神社が建てられています。去る7月9日・10日の夜、お祭りが行われました。2日間、夜10時頃まで奉拝者で賑わいました。宵闇のなか、拝殿や参道にはたくさんの燈ろうや提灯が灯され、参拝する人たちを明るく照らし出していました。昔は氏子の各軒先にも手づくりの燈ろうが吊るされ、境内には夜店も出ていたそうです。神社では昔、「せんたん参り」をしていました。村の誰かが病気になると、みんなが神社に集まり、病気の回復を祈ってお百度参りをします。また、「祇園さんの幟」というものがあって、氏子の家を1日ずつ廻ります。幟を受け取った家の人は祇園さんにお参りして、幟を隣の家に渡します。このお参りは現在も続けられています。
 広報いちかわ2007年8月号 ぶらりいちかわ散歩道<256>より
大森神社     -神 崎-
神崎の南部、JR播但線に近いところに大森神社が鎮座しています。この付近は江戸時代には今井村と呼ばれていました。初めは姫路藩に属していましたが、後に福本藩領になり、最後は屋形の旗本池田氏領に属していました。明治時代になり、明治10年(1877)に、福渡新田(ふくわたりしんでん)村と合併して神崎村となり、現在に至っています。大森神社は今井村の産土神として、地域住民から深く崇敬されていました。拝殿の前には大正6年 (1917)に奉納された狛犬が一対、境内には昭和12年(1937)の社殿改築記念碑が建立されています。また、正面には平成2年(1990)に建立された立派な鳥居がそびえ立っています。
 広報いちかわ2009年8月号 ぶらりいちかわ散歩道<280>より
小室天満神社 -小室-
小室天満神社には、境内に樹高30m、直径2mの大クスノキ(町指定天然記念物)があり、地上8mのところより20mにも張り出した枝が拝殿を覆っているさまは見事なものです。この天満神社の創立年月及び沿革については不詳ですが、神崎郡誌では天暦元年(947年)頃と記載されています。むかし、市川氾檻(大山洪水、1322年)の際、現在地より南の近平までにも社殿が流され、一旦はその地に奉斎された後、再び現地に移されました。近平大梵寺の西から谷に通ずる道路わきに灯寵があり、天満宮と刻まれていて、一時鎮座のあったことがうかがわれます。現社殿は昭和16年(1941)に改築されたもので、竣工の際には、鶴居村、甘地村の全域と寺前村の新野、野村からもにぎにぎしく屋台が繰り出し、盛大に式典がなされました。当時の氏子は15ヵ村にも及び境内には粟賀町中村天神講中より奉納とした灯寵の一部が残っており、広い範囲にわたっての信徒があったようです。明治6年(1873)には、郷社に名をつらねた由緒ある神社です。境内には大クスノキに匹敵する大イチョウがあり秋の紅葉は目をみはるばかりです。この二大木は神社の象徴として鑑賞に値するものです。
おかげ燈龍   -小室-
小室天満神社の境内に寄進者の「御影踊連中」「天保三年四月吉日」と刻まれた燈寵が立っています。今から150年前の天保年間に伊勢神宮への参詣が爆発的に流行し、その数500万人とも言われ「おかげ参り」と呼ばれています。これと同時に近畿地方の村々では「おかげ踊り」が流行しました。村人がそろいの衣装を身につけ、酒を飲み総出で練り歩きます。田植えもせずに踊り続けた記録も残っています。人々がこれほど熱中した理由は、幕府・領主に村する不平・不満の爆発であったようです。「おかげ踊り」は加西市まで流行したことが知られていましたが、この燈寵によって市川町でも踊ったことが確認されました。
小室の舟渡し -小室-
現在のようにたくさんの橋がなかった時代には、市川には、あちこちに舟渡し場がありました。市川町内には、鶴居-屋形間、小室、甘地-西川辺間の3ケ所の渡し場がありました。小室では、両岸に太い綱を渡して、舟頭はそれをたぐって舟を動かしていました。舟は長さ4m50cm、幅30cmぐらいの大きさで、底は浅く平坦になっていました。この舟には5~6人は乗れたようですが、一度にそんなに多くのお客さんが乗ることは希でした。舟頭は、小室の村の人たちが交代であたり、子供にまかされることもありました。この渡しは、西国三十三所の巡礼の人たちが多く利用していたようです。(円教寺から、成相寺への巡礼道がこの附近を通っていました。)
高札場   -小室ほか-
江戸時代、幕府は法令を人々に知らせるために、立札に書いて各村々に掲示しました。この立札は高札と呼ばれ、横約1m、縦約40cmの板に、お触れを墨書していました。村ではこの高札を掲げる場所が決まっており、そこは高札場と呼ばれていました。当時の村の絵図を見ると、必ず高札場が描かれています。市川町内では次の3か所がわかっています。
  ・鶴居村 老人福祉センター付近
  ・下津村 沢公民館の南側
  ・小室村 小室火の見櫓付近
いずれも、村の集会所や倉のそばにあり、村の中心的な場所に位置していました。現在でも町内には、キリシタン禁止の高札や、明治維新の太政官からの高札が残されています。
小室天満神社の「なで牛」    -小室-
小室天満神社には、菅原道真が祀られています。道真は今から1100年ほど前、平安時代の学者で右大臣を務めた人物です。突然九州の太宰府に左遷され、失意のうちに亡くなり、その霊は雷神となって都の人々を悩ませたそうです。その後、道真は学問に優れていたため、勉学の神として祀られました。小室天満神社にも道真が子供たちに学問を教えている絵馬があります。また、本殿の右側には、大きな牛が寝そべっている姿の石製の像が置かれています。この牛は、「なで牛」と呼ばれ、なでれば良いことがあると言われています。永年なでられていたため、石の表面はつるつるになっています。この石には「安政2年(1855)氏子中」と刻まれています。市川町でこのような「なで牛」が置かれているのは小室天満神社だけです。
日露戦争記念の常夜燈   -小室-
明治37~38年(1904~1905)、日本とロシアとの戟争によって、日本側に10万人余りの戦死者がでました。小室天満神社の拝殿の前には、日露戟争を記念した石の常夜燈が1対建てられています。この燈寵には神社の氏子である15村(小室・田中・神崎・鶴居・美佐・澤・甘地・坂戸・奥・小谷・谷・千原・近平・野村・新野)の出身者で、兵士として日露戟争を戦った人や、不幸にして亡くなった人たち全員の名前が刻まれています。従軍した人が187人、戦死した人が21人を数えます。ちなみに市川町全体では、日露戦争で37人の方が亡くなっています。江戸時代までは戦をするのは武士の仕事でしたが、明治5年(1872)に徴兵令が制定されてからは20歳以上の男子みんなが兵籍に入ることになりました。天満神社の氏子の村々にも、戦争は非常に大きな影響を与えました。現在の平和な時代を大切にしたいと思います。
護生寺の鐘    -田中-
市川町田中の護生寺は、赤松円心の孫にあたる赤松師範が創建したと伝えられ、600年以上の歴史を持っています。当時、この附近は赤松氏の勢力下で、鶴居や谷の城主は永良遠江守雅地親といい、赤松氏の家臣でした。この護生寺には、永和2年(1376)に鋳造された非常に古く、りっばな銅鐘がありました。ところが1467年に応仁の乱が始まり、全国の武将は二つに分かれて長いいくさが続きました。この時に東軍赤松氏と西軍大内政弘が戟い、赤松氏が負けてしまいます。そして鐘は大内氏に持ち帰られてしまいました。現在、その鐘は広島県三次市の三勝寺に寺宝として伝わっています。また、歴史的価値が高いため、県の重要文化財に指定されています。
永良荘   -田中、谷、神崎、近平、他-
現在の近平・千原・小室・田中・谷・神崎あたりは、今から700~800年前は「永良荘」と呼ばれる荘園でした。荘園とは、有力な豪族や寺社の私有地のことです。当時の古い記録によると「基康」という名の地頭(領主)がいたことがわかっています。また、一時は姫路の広峰神社の所有地になっていたことも記録に残っています。荘園になるところは、この当時に大規模な新田開発がされた場合が多く、永良荘附近も平坦な広い土地があり、開発に適した場所であったのかもしれません。また、ここでは「条里制」の跡が見られます。条里制とは、古代に行われた土地区画制度で碁盤の目状に水田を区画整備しました。
薬師堂    -小室-
小室天満神社の東に小さなお堂があります。ここは薬師堂と呼ばれており、内には一体の薬師如来がまつられています。木造で全長封Cmとさほど大きくありません。この像の背面に次の文が墨で善かれています。
一国六捨六部常姦意晴上人建修慶長五庚子年七月十二日
慶長5年とは、西暦1600年、関ケ原の合戦があった年です。今から400年近く前に造られたものです。その昔には、行者が法華経を全国66箇所の霊場に納めるため、各地を廻ってました。これを66部廻国と言います。その行者の「意晴上人」がこの仏像を造ったことがわかります。意晴上人が「常姦」、今の茨城県の人で、全国を廻る途中に小室にたち寄ったようです。
天神さんの馬場    -小室-
昔から、馬は神の乗り物として、神聖な動物とされてきました。また、雨乞など呪術・儀礼にも使われてきました。そして、神社には馬を走らせる馬場が設けられることが多く、ここでは祭のときに馬駆け(競馬)・やぶさめ(馬を走らせながら矢を射る)が行われました。小室の天満神社にも「天神さんの馬場」と呼ばれている場所があります。石鳥居の南側、鐘つき堂からまっすぐ西へ約60m、幅数mが馬場の跡と思われます。馬場の南側には石垣が今も残っています。今から400年ほど前、この周辺は赤松一族の永良則縄の支配地でした。則縄が天満神社にやぶさめの神事を寄進したということも想像できます。        古家伊太郎氏談
キショウブの群生   -小室-
小室の町民グラウンド東側の市川の河原に、ショウブの群生が美しい花を咲かせています。この群生は、幅10m、長さ100mにも及びます。花はあざやかな黄色で、正式名はキショウブといいます。黄色い菖蒲という意味です。キショウブはアヤメ科の多年草でヨーロッパが原産です。日本には明治30年(1897)頃に輸入されています。丈夫な性質のため、野生化して各地の湿地や池畔に広く繁殖しています。町内では、小室のほかに屋形橋周辺でも群生が見られます。
蓮如上人(れんにょうしょうにん)お亀済度の聖蹟 -神崎-
神崎にある蓮如上人お亀済度の聖蹟には、表面に「南無阿弥陀仏」、左右に「元文五甲庚正月二十有五日」と「願主福渡邑念仏講中」と刻んである大石がおまつりしてあります。この石は、延徳3年(1491年)蓮如上人が丹播地方を御巡化され、この郷でお休みになったときのいわれのあるもので、「飯盛山付近の市川の(ドンド)という淵から、福渡(今の神崎)の雁の巣屋の家内お亀という人が嫉妬の邪心から蛇体となり、この淵に住んで人を呪って通行人をだましている」という話を郷人に聞かれた蓮如上人が、「現世はこのまま果てても来世は人間となり、仏法を聞き開き往生成仏を遂げよ」教え尊かれ、大石三世一仏の御尊像を書き、この淵に投げ入れられた。その翌朝、上人の御教化によって一人の女の人が現れ、西方亀ケ壷に往生をつげたといわれています。その後、元文(1736~1740)のころ、ドンド淵の川の中に光る物があるというので、引き上げると蓮如上人が善かれた大石が現れ、このままにしておくと、文字が流れてしまわないかと心配して彫刻してここにまつられたといわれています。
市川町の沿革
明治維新後、政府は行政区画の再編を行いますが、制度が頻繁に変わりました。当初、江戸時代の藩のなごりがあったため、町南部は姫路県、北部は生野県、美佐と神崎の福渡地区は鳥取県に属していました。明治4(1871)年には飾磨県に統一され、瀬加・川辺は第9大区第4小区、甘地・鶴居は第10大区第2/ト区と呼ばれました。明治11(1878)年には今井村と福渡村が合併して神崎村に、東小畑村と西小畑村が合併して小畑村となっています。その後、明治13(1880)年に戸長役場という制度に変わり、ほぼ旧村の形ができました。ただ、屋形と浅野が一つの村として戸長役場を持っていたので、5ケ村となります。明治22(1889)年には町村制が実施され、旧4ケ村が成立します。そして昭和30年7月、4ケ村が合併して市川町が生まれました。写真の永勝寺(上田中)には、戸長役場が置かれました。
寺子屋
明治までの庶民の教育は寺子屋で行われていました。ふつう8~9歳から入学し、3~4年間学ぶ子どもが多かったようです。学習は、習字・読本が主で、それに珠算が加わりました。読本は先生の居間に一人ずつ呼び出されて教えてもらったそうです。「神崎郡誌」によると、市川町内で寺子屋が開設されていたのは次の場所です。
 長昌寺、賓樹寺、法雲寺、盛林寺、大通寺、光明寺、
 石妙寺、永勝寺、浄宗寺、笠形寺、福泉寺、永通寺、
 福林寺、走法寺、朝日寺、光囲寺、大梵寺、教正寺、
 龍音寺、観音寺。
神東・神西三十三観音巡礼
 現在、四国八十八所や西国三十三所の巡礼が盛んに行われていますが、昔、神崎郡でも、市川の東と西でそれぞれ三十三所の観音巡礼が行われていたことをご存じでしょうか。
 明和5年(1768)に発行された「播陽神東郡観世音三十三所詠歌」
という本と安永4年(1775)の「播州路神西県観世音三十三所詠歌」
という本が残っています。この本によると、市川町の関係では、次のお寺の名があります。
◎神東 22番 下瀬加 月光寺   23番 上瀬加 松林庵
      24番 下牛尾 正楽寺   25番 下牛尾 永通寺
      26番 岩 戸 福泉寺    27番 上牛尾 笠形寺
      28番 小 畑 法雲寺    29番 東川辺 盛林寺
      30番 西川辺 大亀山   31番 屋 形 宝樹寺
◎神西 10番 奥 村 観音寺    11番 坂 戸 文殊院
      12番 甘 地 積清寺    13番 近 平 大梵寺
      14番 大 谷 大日寺    15番 千 原 薬師庵
      16番 谷 村 龍音寺    17番 田 中 護生寺
      18番 鶴 居 廣徳寺    19番 美 佐 西福庵
      20番 下 澤 薬師庵    21番 下 澤 松福寺
 当時の巡礼は、信仰とともに娯楽の少なかった庶民の楽しみの一つでした。各地でミニチュア版の巡礼コースがたくさん作られ、多くの人々のお参りで賑わいました。