2015/11/16更新
ここに掲載されている資料は、兵庫県神崎郡市川町の広報誌「いちかわ」のぶらりいちかわ散歩道、及びそのコーナーの総集編である市川町教育委員会が編集・発行(平成18/3/31)の資料をベースに、加筆して作成しています。
岩戸神社 霜月まつりの神楽舞  -上牛尾-
下牛尾の岩戸神社では毎年、霜月まつりが行なわれます。この行事は岩戸神社の祭礼の中で最も重要なものとされています。秋の収穫を終え、五穀豊穣を感謝し、お祝いする意味があります。昔は祭礼だけでなく、公民館で芝居を行なうなど、大変賑わっていました。平成17年12月3日午後3時から行なわれ、巫女舞が奉納されました。奉納したのは加古川市在住の加古光会というグループで、故事に従って各地の神社で神楽舞を奉納する同好会の皆さまです。この日は“朝日舞”“豊栄舞”“浦安の舞”の3曲を舞いました。天の岩戸へお隠れになった天照大御神を祭神とする岩戸神社で舞が奉納され、神聖な気持ちになる一時でした。
 広報いちかわ2006年1月号 ぶらりいちかわ散歩道<237>

岩戸神社   -上牛尾-
上牛尾岩戸神社の境内には、高さ、幅共に15mほどの大岩石が神殿にせまり、拝殿の右方より高さ7~8mあまりの岩が屏風のように立ち、あたかも天の岩戸を建てたようです。拝殿の下には岩戸川の渓流が流れ、周囲の岩は苔むし、樹齢数百年の老木が生い繁り、その様は静閑で神秘的です。 神社は、正中元年(1324年)後醍醐天皇の時代に当時寺谷にあった福泉寺境内から現在地に移されたもので、延宝2年(1674年)姫路城主松平大和守自ら参拝、金を奉納し境内の風致を賞したということからも、当時は今も劣らぬ神域であったようです。度重なる新改築を経て、現在の本殿は寛政7年(1795年)に新築され、建造物の装飾彫刻は巧妙精微なものとして町文化財に指定されました。彫刻師は氷上郡相原町の久須善兵衛政精、中井丈五郎、中井丈吉で日光東照宮の彫刻を源流とする見事な力作です。 瀬加村誌には、「旧六月中は毎年毎宵日参の慣あり、これ昔悪疫流行のことあり、その終息祈願にこの事始めりという。六月十三日部落民こもりてお目待ちの勤をなす。」とあり、今も7月には同様の行事(日待祭)が夜遅くまで行われています。
岩戸神社 屋根裏の書き物     -上牛尾-
視在、上牛尾にある岩戸神社が修理されています。修理にあたって、屋根裏のたる木から墨で書かれた文字が発見されました。この文字は、寛政7年(1795)に、上牛尾村の潮兵左衛門によって書かれたもので、社殿を建てたときのことが記録されています。これによると、岩戸の山にさしまわり4.2m、長さ27mの槙の木がありました。この木一本で、本殿の柱や「緑板」「地覆板」「長押」「はぶ板」「こみ板」などすべてまかなったそうです。この文には「槙」と記してありますが、現在でいう槙の木のことではなく、昔は美しい木材のことを意味していました。実際に社殿を見ると、すばらしい欅(けやき)材で普請されています。
岩戸神社の山野草園      -上牛尾-
播磨富士と呼ばれる笠形山にはすばらしい自然が残っています。939mの標高を待つため、里山では見られない珍しい植物がたくさん自生しています。岩戸神社の山野草園では笠乾山で見られる希少な植物を見ることができます。岩戸神社の境内は巨大なスギに覆われて直射日光があたりにくく、湿度が高い環境が山野草に適しているようです。クマガイソウやショウジョウバカマなど、普段見ることができないものが育っています。数年前より地元の愛好家の方が少しずつ増やしていき、すばらしい山野草園になっています。

  広報いちかわ2006年6月号 ぶらりいちかわ散歩道<242>

クリンソウ(九輪草)    -上牛尾-
瀬加小学校牛尾分校には1年から4年までの児童が学んでいました。ここの校庭には有名なものがありました。それはクリンソウの群生です。今は岩戸神社の境内に移されています。クリンソウは湿地に生える多年草です。葉はすべて根元に集まって、その中心から1本の花茎が出ます。花茎は40~80cmで、先端に2~5段にわたって小さな花をたくさんつけます。名前のように9輪(段)に咲く花は珍しく、分校の花も7輪のものが多いようです。花の色は、白・黄・ピンクと多彩ですが、分校の群生はすべて濃いピンク色をしています。毎年6月中旬頃には、可憐な花を咲かせます。ぜひご覧ください。クリンソウと同種類の花は、ヨーロッパでもプリムラと呼ばれ親しまれています。

笠形神社   -上牛尾-
笠形神社は、約1300年前、孝徳天皇の時代に創建されたと伝えられ、瀬戸内海航行の護りとして崇敬をうけ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、徳川家康が肥前より帰港の途中、従臣を代参させたといわれます。 享保年代(1716年~1735年)には、塩谷の鳥居屋敷から神社まで一丁地蔵が並び、笠形寺の鐘楼、蔵王堂が建立再建されました。本堂の観音堂(今の拝殿)もその頃に建てられたものです。享保12年(1727)には、姫路城主榊原式部大輔が雨乞祈願のために領内4人の百姓を参拝させたと伝えられています。明治32年(1899)9月、観音堂は拝殿、西宮は本殿としてそれぞれ南向きから東向きに引廻され、現在の神社として配置が整えられました。また、建造物の装飾彫刻は巧妙精微なもので、日光東照宮の彫刻を源流とする江戸後期の特徴あるものです。 毎年2月19日には厄神さんが行われ、一年間の厄を払おうと多くの人が息をはずませ参拝しています。
昭和34年国宝姫路城の大修理の際、天守閣の心柱とするため笠形神社御神木であった大桧がこの地より運ばれました。この大桧があった場所には「国宝姫路城西心柱之跡」と記された石碑が建てられています。
笠 形 寺    -上牛尾-
笠形山南麓にある帰見山笠形山は白雉年間(650~654)に天竺(インド)の高僧である法道仙人がこの他を訪れたとき、笠形山の端麗な姿、その神々しさにうたれ、寺を造営したと伝えられています。その後、弘仁年間(810~824)に慈覚大師が堂塔伽藍を再興したとされ、笠形山の各所に多くの建物が建立されていたようです。山全体が播州の霊地として名高く、その中心が笠形寺でした。峰相記という古い書物にも名をとどめています。もともとお寺は笠形神社の場所にあり、神社の拝殿とされている建物が本堂でした。残念なことに、明治時代に火事により貴重な建物や仏像が失われてしまいした。今は蔵王堂に木造不動明王像、木造聖観音菩薩像をはじめとして、残された貴重な文化財が安置されています。
             『上牛尾の文化財』より
 広報いちかわ2009年11月号 ぶらりいちかわ散歩道<283>
姫路城天守閣心柱伐採跡 -上牛尾-
笠形神社の境内に姫路城の昭和の大修理の際、天守閣の心柱に使われた大ヒノキを伐採した跡があり、記念の石碑が建っています。この大修理では、心柱に使われる木は長さ24m以上、根本の径が1mほどのヒノキと決まっていました。当初、笠形のヒノキは長さ太さ共に申し分なかったのですが、地上16mあたりで少し曲がっていたために採用は保留となっていました。しかし、第1候補の徳島のヒノキは内部に空洞があるのがわかり不採用となり、次の候補であった木曽の国有林のヒノキは伐採後、軌道に乗せて搬出中に転落、折れてしまいました。結局、笠形のヒノキの曲がった部分を切り除き、折れた木曽のヒノキに継ぎ足すことになりました。 昭和34年(1959)9月15日、笠形ヒノキは雨のなか多くの人に祝引きされ、城に運び込まれました。
笠形寺の神像(しんぞう)    -上牛尾-
現在、笠形寺蔵王堂に安置されている「神像」が、県立歴史博物館の「特別展 ふるさとの神々」に出品されます。神像とは神の姿を現した木彫りの座像で、仏教と神道が融合して、生まれたと考えられています。笠形寺には12体の神像が伝えられています。1箇所に12体もの神像が残されているのは珍しく、重要な文化財として今回の特別展で展示されることになりました。是非ご覧ください。
「特別展 ふるさとの神々」
 日時:12月7日まで    場所:兵庫県立歴史博物館
 広報いちかわ2008年11月号 ぶらりいちかわ散歩道<271>
笠形神社 石垣の修理   -上牛尾-
笠形神社は、約1300年前、孝徳天皇の時代に創建されたと伝えられ、瀬戸内海航行の護りとして崇敬をうけ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、徳川家康が肥前より帰港の途中、従臣を代参させたといわれます。最近は、中高齢者の登山ブームで笠形山に登る人が多く、登山道の途中にある神社にお参りする人も増えています。神社の建物は江戸時代に造られ、町指定の重要文化財になっています。この建物の土台となる石垣や石段などが、長年の風雨で大きく崩れてしまっていました。このたび、市川町出身で現在浜松市在住の福岡輝巳さんのご尽力により修復きれました。美しくなった神社を一度ご覧ください。
  広報いちかわ2006年9月号 ぶらりいちかわ散歩道<245>
笠形寺の神像  -上牛尾-
昔、神仏混合の習慣が広まり、お寺の境内に神社が造られるようになりました。神社では礼拝の村象として、神の姿をした彫刻像が祀られました。これを「神像」といいます。神像は平安時代から鎌倉時代(約1,200年前から600年前)に、さかんに作られました。笠形寺の神像は平安時代に作られたものです。明治時代になって神仏が分離され、寺が山の麓に降りたとき、神像も他の仏像といっしょにお寺に安置されたものと思われます。平安時代の神像が10体以上もまとまって残っているのは、播磨地方では笠形寺だけです。非常に貴重な文化財です。
笠道(りゅうどう)と輝きの小径    -上牛尾-
今年4月、林道「笠形線」が開通しました。この林道は福崎町大貫から釜坂峠、船坂峠を経由して、笠形山の東側を縦断し、多可町加美区まで延長:34.4mの道です。32年の歳月と70億円余りの事業費が投じられました。上牛尾岩戸集落のほぼ東方向にあたる林道沿いには広場が造られ、「笠通」と刻まれた記念碑が建立されています。この広場からは笠形山の雄姿を一望することができます。また、ここから「輝きの小径」が山頂へ続いています。この道は地元の「山好会」の皆さんによるもので、登ると市川町・加西市・多可町の3市町の境にでることができます。秋晴れの一日、訪れてみてはいかがでしょうか。
        参考:兵庫県治山林道協会H P
 広報いちかわ2008年10月号 ぶらりいちかわ散歩道<270>
行 者 堂     -上牛尾-
上牛尾半瀬地区内に、岡部川が大きく蛇行する場所があります。そして川が岩山にぶつかったところに行者堂があります。道路から3mほど階段を上がると、石を積んだ祠があり、中には役行者(えんのぎょうじゃ)が座った姿の石像が納められています。他には不動明王の石像と石燈籠があります。このお堂は地元の方々でお祀りされています。5月8日のハナの日と8月18日には供え物を持ち寄り、般若心経をあげます。昔は近くの田で護摩を焚いたこともあったそうです。

 広報いちかわ2006年12月号 ぶらりいちかわ散歩道<248>
猿 岩       -上牛尾-
上牛尾の岩戸神社から東の谷、千谷に林道が建設されています。この林道は基幹林道「笠道」と結ばれることになります。この林道の途中には「猿岩」と呼ばれる巨大な岩石が横たわっています。この岩がなぜ「猿岩」と呼ばれたのかは諸説があり、はっきりしません。いくつかを紹介します。
①岩の頂上が平らになっており、その形が猿に似ているため。
②昔、この付近に大きな猿が住みつき村人に迷惑をかけていた。この地を訪れた偉いお坊さんが法力により大猿を岩に封じ込めたという。
③この岩に猿の一群が住みついていた。小猿が遊ぶ姿が微笑ましく、梅岩の名がついた。
この岩に登ると、遠く岩戸の集落を見渡すことができます。すばらしい眺めです。
広報いちかわ2008年12月号 ぶらりいちかわ散歩道<272>
お守りさん    -上牛尾-
上牛尾の笠形会館から岡部川をはさんだ向かい側に、木製の祠がお祀りされています。この祠は「お守りさん」と呼ばれています。祠の中には棟札があり、「お守りさん」のいわれが書かれています。それによると、この祠に祀られているのは「喜多次郎」と呼ばれる方です。この方は長州(今の山口県)出身で、平安時代の中頃、この他で地域のために尽力しましたが、寛弘6年(1009)に亡くなりました。これ以上の詳しいことは伝えられていませんが、長年にわたって大切に守られてきました。 以前は100mほど北の山麓にあったものがこの地に遷座し、近所の方々によって祀られています。祭礼は4月3日に行われます。毎年この時期は笠形会館の桜が見事に咲き誇っています。
                      『郷のあゆみ』より
広報いちかわ2009年4月号 ぶらりいちかわ散歩道<276>                    
東所広場の地蔵さん      -上牛尾-
今、上牛尾と多可町上三原とは舟板トンネルで結ばれていますが、トンネルができる以前は上牛尾寺家から舟板峠を越える道がありました。この道と笠形寺へ向かう道との分岐点は「東所広場」と呼ばれています。ここに浮彫りの石のお地蔵さんが祀られています。高さが約70cm と少し小柄で、可愛いお顔をされています。お地蔵さんには「右 みはら 左 かさがた」と刻まれており、道しるべにもなっています。昔は徒歩や自転車で峠を越える人も多く、大切な役割を果たしていたことでしょう。トンネルが完成してから、この道を利用する自動車は少なくなりました。しかし、お地蔵さんは近隣の人たちに大切にされています。   『ふる里のかたりぺ』より
広報いちかわ2010年8月号 ぶらりいちかわ散歩道<292> 
塩谷十三仏種子(しゆじ)板碑群   -上牛尾-
昭和37年(1962)に発掘された塩谷の板碑は、今から約600年前につくられた石造品で、いずれも高さ1m前後の自然石を切ったもので、全体に形状は不揃いですが先端を三角形に切り、額部を造り出し、細く叩いた身部と切りっばなしの根部よりなっています。石材は帯青色の凝灰岩質で現地附近の産石です。 普通は、1石に十三仏すべてを刻みますが、この板碑は、1基ごとに1~2行の真言・五悌などを梵字で入れ、下部の左右や下の空間に簡単な銘文を陰刻しています。十三年忌碑(8号碑)には応永21年(1427年)と記してあり、これは全国的にも極めて稀なものです。当時は初七日から三十三年まで13基作られたはずですが、現在は8基しか残っていません。貴重な文化財として、県の文化財に指定されました。
笠形山のコウヤマキ -上牛尾-
このコウヤマキは、笠形寺の境内に高くそびえているもので、昭和52年(1977)に県の天然記念物に指定されました。 根回り8.8m、樹高20m、枝張りは東西に各6m、南に8mあり、樹勢も盛んな古木で、樹齢は450年と推定されます。この樹形は本来のものではなく、明治21年(1888)に笠形寺の庫裏が全焼した際、主幹も焼けてしまいましたが、その後再び繁茂し、現在のようになっています。コウヤマキは、常緑の喬木で、高さ40m前後にもなり、本州、四国、九州に広く分布しているもので、とくに長野県、和歌山県の山地に多く見られます。また、この木材は、水に強く、おけや船材に用いられ、樹皮は「まきはだ」と称し、水槽、船などの水漏れをふさぐのに使われていました。
 広報いちかわ1987年ころのぶらりいちかわ散歩道に掲載
笠形寺のコウヤマキ     -上牛尾-
さる9月6日、秋篠宮ご夫妻にお子さまが誕生し、お名前は「悠仁(ひさひと)」に決まり、身の回りの物に付けるお印が「高野槙」に定められたことは皆さんよくご存知だと思います。「高野槙」と聞いて思い出されるのは、兵庫県指定天然記念物「笠形寺のコウヤマキ」です。コウヤマキは常緑の針葉高木で、真言宗総本山のある高野山に多いのでこの名がつけられています。「木曽の五木」の一つに数えられる良木です。材は耐水性があるため、船舶用材や風呂桶などに重用されます。笠形寺のコウヤマキは、根回リ8.8m、樹高20m、樹齢450年と推定されている巨木です。地元の方こ大切に保存されてきました。一度ご覧ください。
  広報いちかわ2006年10月号 ぶらりいちかわ散歩道<246>
首なし地蔵     -下牛尾-
リフレッシュパーク市川から北へ延びる林道の最終地点に小さな石の祠があり、「首なし地蔵」と呼ばれる小さな石のお地蔵さんが安置されています。名前のとおり、首から上がなくなっています。また、お地蔵さんは手に繭を握っています。昭和の初め頃まで地元では養蚕を行っていました。養蚕業を営んでいた人が、事業の発展を願ってお祀りしたのでしょう。お地蔵さんの背中には建立した方の名前が刻まれています。明治時代の前半頃に活躍した方々です。お地蔵さんはこの頃に造られたのでしょう。お名前のうち一人は、染物屋を営んでいた方です。やはり養蚕と関係のある仕事です。言い伝えによると、このお地蔵さんまで登ってきてお参りすると、足や腰の痛みが消えると言われています。石の祠は、林道工事の時に工事関係者が築いてくれたそうです。
                         (地元の方のお話より)
  広報いちかわ2008年3月号 ぶらりいちかわ散歩道<263>
笠形山の植物    -上牛尾-
“播磨富士”と呼ばれる笠形山は標高939mを数え、その名に恥じない山容を誇っています。この山は自然の宝庫で、珍しい植物をたくさん見ることができます。 まず山麓の笠形寺には県の天然記念物に指定されているコウヤマキがあります。目通り4m、樹齢約450年の老木です。そして、中腹の笠形神社には御神木の大スギがそそり立っています。目通り9.5mの巨木で町指定天然記念物です。山頂近くになると春に真紅の花をつけるペニウダンが点々と見られ、5月には県下の秘宝アケボノツツジが淡紅色の花を開きます。また全国的に珍しいセッピコテンナンショウの分布域として有名です。クリンソウは現在笠形山では見られませんが、岩戸神社境内に移され、春には美しい花を咲かせます。
牛尾の構居(かまえ)    -上牛尾-
瀬加村誌によると、牛尾の構居は上牛尾・下牛尾の境付近にあって、城主は牛尾源次兵衛と記されています。源次兵衛は鶴居稲荷山城主、永良遠江守の家臣で、ともに赤松氏の家臣でした。永良民の領地となった牛尾659石を治めるために、牛尾庄に構居を造り、牛尾姓を名のりました。その後、赤松氏の衰退にともない、郷士となって岩戸に永住し、代々庄屋をつとめたとされています。この構居の場所ははっきりとは判明していませんが、岩戸と河内の境、通称ホーキダと呼ばれる附近と推定されています。 この牛尾氏は、天正11年(1583)、羽柴秀吉の築城のときに、普請奉行のもとで石を切り出す仕事に従事したことが古文書によって知られています。
天岩崎神社       -下牛尾-
下牛尾下岡に天岩峰神社が鎮座しています。菅原道真、天照大神、誉田別尊ほかの神々をお祀りしています。峰神社、岩神社、天満神社が合祀されて今の形になったそうです。この神社の境内を高い石垣が巡っています。この石垣は「俵積」(たわらづみ)と呼ばれる技法で積まれています。「俵積」は加エしない自然な玉石を利用して、面をほぼ垂直に肩先をそろえて積上げる手法です。安定感があり非常に優雅な印象を与えます。拝殿には太閤記の名場面を題材にした大きな絵馬が揚げられています。これは文久3年(1863)に氏子の方々によって奉納されたことが記されています。また、拝殿前には宝暦4年(1754)に建立された石灯籠もあり、長い歴史を物語っています。
  広報いちかわ2008年2月号 ぶらりいちかわ散歩道<262>
法道仙人(ほうどうせんにん)の伝説   -上牛尾 笠形寺-
播磨の寺院には、行基や弘法大師空海とならび、法道仙人により建立されたと伝えられる寺院がたくさんあります。市川町では、笠形寺が自雉年間(650年頃)法道仙人によって開かれたと伝えられています。このほか、郡内では神河町の法楽寺と福崎町の金剛城寺に同じような言い伝えが残されています。古い書物によると、次のように書かれています。法道仙人はインドの人で、雲に乗って播磨の法華山に降り立ちました。あるとき役人が租税の米を運搬している途中に、仙人は鉢を飛ばして施米を頼みました。役人がこれを断ると、米俵はすべて雁のように列をなして飛び去ってしまいました。役人は驚き、仙人に詫びました。すると仙人は、再び千石の米俵を飛ばして船に戻しました。法道仙人は伝説上の人物ですが、播磨を中心に大阪府や石川県などにもその名が伝わっています。
戦乱に散った歌人 檜本兼夫(ひのきもとかねお)   -その1-
皆さんは槍本兼夫という歌人をご存知でしょうか。彼は大正2年(1913)に市川町下牛尾河内に生まれています。若くから歌人前田夕暮に師事し、その才能を認められ、青年歌人として活躍しました。しかし、日中戦争に召集され、無念にも中国の武漢近くで戦死してしまいました。この時27歳の若さでした。彼のお墓はリフレッシュパーク市川から、上牛尾塩谷に抜ける林道沿いにあります。(リフレッシュパークりんご園のすぐ東側)お墓の前の老桜は昭和15年(1940)に師の前田夕暮が東京から訪れて植えたものです。今も短歌フアンのお墓参りが絶えず、つい先日
も九州から訪ねて来た人があったそうです。
     痩せ蛍まいこんできて 光りなし
        寂しくもあるか 夏の夜更けは
                        兼夫
戦乱に散った歌人 檜本兼夫(ひのきもとかねお??)  -その2-
檜本兼夫が文学に興味を持ちはじめたのは、瀬加小学校高等科の頃からでした。河内青年団文芸部を設立して同人誌「河鹿」(かじか)を発行したのを手始めに、軍隊に召集されるまでに、福崎や姫路で、「若人」「龍謄」(りんどう)という文芸誌を次々発行し、旺盛な創作活動を行いました。軍隊では、中国大陸で日中戟争に参加しましたが、戟場でも創作意欲は衰えず、たくさんの短歌を詠んでいます。その作品は「日本短歌」に掲載され、全国に宣伝されました。そして、全国1席の座を3ケ月続けて獲得し、一躍有名になりました。ところが、そのわずか半年後に彼は戦死してしまいました。花火のような一瞬の輝きでした。私たちは、若き才能を消し去ってしまった戦争を憎むとともに、市川町が生んだ歌人檜本兼夫の業績を後世に伝えていく必要があると思います。
   人の世の 哀楽の外に身を賭する
          すめらみくにの つはもの我は    兼夫
戦乱に散った歌人 檜本兼夫 -その3一
市川町下牛尾に生まれ、若くして戦場に散った歌人櫓本兼夫の生涯を2回にわたって紹介してきました。今回は彼が日中戦争の時、中国大陸の戦場で詠んだ歌を紹介し、その業績を偲びたいと思います。
晴れてゐるつめたい空、僕の頭の中にも故郷の空がある
果てしない夜の高梁畑、重砲の車柄のおとが
からから暗やみをたたいてゐる
はま茄子の枯れかかった塀ぎはで汗ふいてゐる海なりの音
何かただごとではない異変がおこるかも知れぬ
この夕日は静かすぎる
いつの日か再び逢はむ思ひこめて君送る日は寂しかりけり
俺の孤独はゴムまりのようにたたけばぼこぼこ故郷の音がする
遠く遠く雪原を去って行く一かたまりの兵士に見守られた骨壷
はりきった心が何庭までも歩かす
ポケットの手相弾がどっしり重い
たうたうと雪氷を呑んでおし流れ
いきなり俺をなぎ倒しにくる黄河
白い旗持った兵隊が陽に光っている
静かな静かな演習地帯の野茨の花               『槍本兼夫遺稿集』より
「矢塚の森」    -上牛尾-
今から400年ほど昔、豊臣秀吉の天下の頃の話です。秀吉は、京都に方広寺という大きなお寺を建て、大仏を安置することを計画しました。そのため全国から多くの大工やきこりが集められました。牛尾の村からも緒一郎という人が多くの職人を引き連れて京に出向きました。ある日、京の中山中納言が飼っている鷹が逃げ出してしまいました。鷹の足には紐が結び付けてあったのですが、それが御所の高い屋根にひっかかってしまい、飛び立てなくなりました。皆が因っていると、それを見た緒一郎は下から矢を射り、見事に鷹の足の紐を切りました。感謝した中納言は緒一郎に牛尾という名字と、方広寺上棟式の弓矢を送りました。牛尾の村に帰った後、その弓矢を埋納した場所が「矢塚の森」として今に伝えられています。          『瀬加村誌』より
珪化木   -上牛尾-
珪化木とは、いまから数千万年前、土の中に埋もれた樹木の細胞の中に、水に溶けたケイ酸が浸透して石となった化石です。この珪化木が笠形山の山中から発見されました。見つけたのは上牛尾の福岡寅夫さんで、「休み堂」すぐ下の林道そばに転がっていました。大きさは約20cmX40cmの楕円形で高さは約30cmです。表面は木肌の様子がみてとれます。またヤニ(樹脂)が出ている部分も化石になっています。 珪化木は非常に珍しい化石で、市川町の地質を知る上で貴重なものです。
笠形杉   -上牛尾-
笠形山の参道周辺から神社にかけては山の土質がよく、杉が育つのには条件の良い場所だそうです。それに加え、江戸時代は姫路藩領として、明治以降は国有林として保護されてきたため、たくさんの杉の巨木が育っていました。第2次大戟の終戟直前から戟後にかけて伐採され、杉板として高い評価を受け、「笠形杉」の名がとどろきました。ところで昔、写真の牛の角のようなものが山にたくさん落ちていました。これは樹齢300年以上の杉の巨木の枝が枯れて落ち、枝の根の赤身の部分だけが腐らずに残ったものです。自然にこのような形になるとは不思議です。これを持ち帰って花入れや飾り物として利用していました。
風呂屋谷  -上牛尾-
笠形寺に伝わる奉額に風呂屋谷にまつわる話が書かれています。風呂屋谷とは、笠形山の笠形神社のすぐ東側の谷です。額によると、天保8年(1837)牛尾村が飢饉にみまわれ、住民は大変因ってしまいました。そこで、人々は姫路の藩主に何とか助けて欲しいと願いでました。藩主はそれに応えて、笠形山の風呂屋谷に植林し、村の財産にすることを許しました。みんなたいそう喜んで、杉・檜の木1万本を植えたそうです。この時の喜びを、次のような歌で表しています。「有りがたき慈悲の探さは風呂屋にて民暖まる末の世までも」 また、この額を書いたのは、下牛尾河内の椋野道林という人で、寺子屋を開設していました。記念碑がいまも河内に建っています。
寺家の棚田  -上牛尾-
棚田とは、山の傾斜地を耕して階段状に造った水田のことです。日本では弥生時代に本格的に米作りを始めてから、2000年以上の年月が経っています。最初は湿地や、水が管理しやすい小さな谷などで始まり、治水技術の進歩と共に平野での大規模な栽培が可能になってきました。しかし、山間部において耕作面積を増やすためには、山の斜面を開発していく他ありません。その結果、複雑な山地の地形に沿った、細長い水田が積み重なっていくことになります。現在、日本各地に残る棚田は見事な景観をつくり、私たちを感動させるまでの迫力を持ちます。そして、先祖が残した素晴しい文化遺産として評価されています。寺家でも、ほ場整備のため面積は減りましたが、石垣で築かれた見事な棚田が残されています。
塩谷の六地蔵   -上牛尾-
上牛尾塩谷に県指定重要文化財の「塩谷十三仏種子板碑」があります。この石碑を雨から守るために覆屋を付ける工事が行われました。 柱を埋め込む穴を掘っていたところ、石の地蔵さんが出てきました。この十三仏板碑の9基は今から30年ほど前、この地に埋まっていたのが地元の方に発見され、掘り出されたものです。そのときに5体の石の地蔵が一緒に出てきました。今回の地蔵はそれと全く同じ形をしています。これで6体がそろい、「六地蔵」のかたちが整いました。「六地蔵」は六道(地獄道・餓鬼道等)のどこにいても救いの手をさしのべる六道政済のためにつくられました。この地蔵も十三仏板碑と同じ頃(約600年前)に造られたものと考えられます。
金の薬師如来像笠形山伝説 -上牛尾-
むかし、孝徳天皇の頃(650年頃)金色に輝く薬師如来像が、笠形山の頂上に現れました。像の身長はわずかに5cmほどですが、発する光はものすごく、曽根・大塩・高砂・明石方面まで照らしました。この光のために周辺の海は魚がまったく捕れなくなってしまい、漁師たちは大変因っていました。ところがある日、熊野権現が笠形山に現れ、草木を集めて薬師如来像を隠すと、光は止まってしまったそうです。その後、像は金蔵山(加美町)に飛び立ち、そこで安置され人々の尊敬を受けました。当時は、笠形山のいたる場所にお堂が築かれ、山全体が聖地として修行の場となっていました。いまでも山の奥深いところに、建物の礎石や古い壷の破片などを見つけることができます。
市川町の歌碑② 元田 林   -上牛尾・甘地-
甘地の清水は、弘法大師が錫杖で大地を叩くと忽然と湧き出したと言い伝えのある名水です。今も遠方から多くの人が水を汲みに来ます。 この清水のそばに元田林さんの歌碑があります。元田さんは、元田石灰株式会社を経営しながら趣味として短歌に親しみ、ふるさとを想い、称える歌をたくさん創作しています。笠形山登山口の大鳥居の横にも、笠形山を詠んだ歌碑があります。
       (表面)真清水に心を洗う世の人に
              大師の弘誓流れて尽きず
       (裏面)活しくも石もて畳む滝の水
              砂ゆるがせて水盛り上がる
カスミサンショウウオ  -上牛尾ほか-
カスミサンショウウオは西日本に分布する体長10cmほどの小さなサンショウウオです。体色は緑がかった暗い褐色で、尾にははっきりとした黄色の線があります。通常は山で生活して昆虫などを食べていますが、春先には水田や浅い池で産卵します。この時によく人の目につくようです。近年、土地開発や汚水の流入によって急速に生息地が減少しています。レッドデータブック(絶滅の恐れがある野生生物のリスト)では、準絶滅危倶種に指定されています。市川町では、上牛尾岩戸の山裾にある湧き水の溜まりで産卵しているのが見つかっています。(『岩戸だより』No.10)また、昭和58年(1983)の自然環境調査では奥地区の池でも生息が確認されています。
寺家森稲荷神社・高森稲荷神社 -上牛尾-
上牛尾寺家、字西ノ谷の小高い山の中腹に祇園神社があります。この境内にふたつのお稲荷さんが並んで祀られています。この由緒については古くからの語り伝えがあります。「寺家森稲荷神社」の由緒…むかし、村に鉄砲持ちが多勢居た頃、ある人が山で猪か鹿かと思って撃つと、なんと白狐だったので驚き、稲荷大明神を祀ったそうです。「高森稲荷神社」の由緒…むかし、東の川の少し上に何の木か解らか一大木があり、村外の買受人がその大木を買って切りました。すると、その人は気持ちが悪くなってしまいました。そのためお稲荷様をお祀りしました。 以前はどちらも笠形寺蔵王堂の屋敷にあったものを移転しました。                『ふる里のかたりべ』より
鳥居広場の地蔵さん -上牛尾-
笠形神社の大鳥居がある広場に台座に座った地蔵さんの石像があります。台座の石には、「右 たかのこほり道 左 かさがたさん 享保九年(1724)上牛尾村」と刻まれています。ここから右へ曲がり、峠を越えると多可郡八千代町の大屋に出ます。この峠は大屋坂と呼ばれ、昔は頻繁に人の往来がありました。特に中町鍛冶屋の金毘羅さん、大屋の金蔵さんの祭礼には多くの人が通りました。村人の信仰が厚く、何時見てもたくさんのヨダレ掛をつけてもらい、暑さ寒さを防ぐため帽子をかぶせてもらっています。300年近くの間、人々の往来を見守ってきたお地蔵さんはふっくらとした丸顔で、本当に穏やかな顔をしています。                   『ふる里のかたりべ』より
忘れられた峠道「大屋坂」 -上牛尾-
大屋坂は上牛尾から八千代町の大屋に越す峠道です。笠形山の登山口である鳥居広場から東の方向へ向かうと峠道に入ります。途中に材木置き場の広場、「出雲坊」と呼ばれる旅のお坊さんのお墓があったところを越すと、だんだんと狭くなり、坂も急になってきます。頂上付近の尾根には凍りコンニャクの干場がありました。凍りコンニャクはこの付近の特産品です。また、周辺には「宮屋敷」「堂屋敷」という地名が残り、笠形寺に関係する建物があったと想像されます。自動車道がなかった頃、婚姻の行列がこの峠を越していきました。また、11月下旬の鍛冶屋の金毘羅まつりに参拝するたくさんの人がこの道を利用しました。この峠道は今では忘れ去られようとしています。               『峠坂道のすべて』より
 船坂トンネル  -上牛尾-
平成11年2月、市川町上牛尾と八千代町上三原とを結ぶ船坂トンネルが開通しました。全長656m、幅員11.25m、着工は平成8年6月で事業費は約20億円です。昭和49年に「県道八千代市川線船坂改修期成同盟」が結成され、熱心な運動の結果、平成7年に「交流ふれあいトンネル橋渠整備事業」として採択されました。トンネルが開通するまでは、くねくねと曲がった細い峠道が両町を結んでいました。この峠道にはたくさんの人の思い出が残されています。自転車で峠を越えて魚の行商に通った人、小学校の遠足で越えた人、峠を越えて嫁いできた人。峠は人々の暮らしを結んでいました。今、トンネルの効果によって、新しい形で地域の交流が活発になっています。                    『岩戸だより』より
笠形神社の大鳥居  -上牛尾-
笠形山の麓、上牛尾寺家の集落から山の中腹にある笠形神社への参道が伸びています。参道の入口は広場になっていて、笠形神社の大鳥居が建てられています。この鳥居は石造りで高さ約7m、幅約8.7m、春日造りという形式です。柱には「明治十七年(1884)四月吉日 神東郡上下牛尾村氏子中」と刻まれています。この鳥居を造る石材は下牛尾河内で切り出されました。これほど大きな石材を切り出すのは大変な作業であったと思います。そして寺家までの約5kmの間を木の台車に乗せ、村の若者の奉仕作業で1週間かけて引っばったそうです。建立されて約120年、今も笠形山登山の登り口として多くの人に親しまれています。  『ふる里のかたりべ』より
八朔神社(はっさくじんじゃ)  -上牛尾-
上牛尾寺家、笠形神社の大鳥居の近くに小さな石の社があり、「八朔神社」と呼ばれています。八朔の神様は田の神様で、農業の守り神です。水の恩恵に感謝し、時には雨乞いを祈ることもあったようです。昔は近くに八朔神を祀り祭礼する神社がなかったため、京都府大江町の元伊勢神社で祭礼をしていたそうです。明暦4年(1658年)、雨が降らず大旱魃に襲われたそうです。困った住民は元伊勢神社へ祈願に行き、参拝を終えて帰ろうとすると、鳥居の上に目を稲妻のように光らせた大蛇がいました。一同恐れひれ伏し、「8月朔日(1日)、笹囃の行列を行い、祭礼いたします。」と請願すると、ようやく大蛇は退きました。 その後、毎年9月1日(旧暦8月1日)13ヶ村による行列が奉納されるようになったそうです。
笠形会舘(旧牛尾分校) -上牛尾-
明治・大正時代、瀬加村には瀬加尋常高等小学校と牛尾尋常高等小学校の2校がありました。しかし、財政の効率化と村のまとまりを促すため統合することになり、大正6年(1917)に瀬加校と牛尾校の校舎を移築し、新しく瀬加尋常高等小学校がスタートしました。また、上牛尾地区の4年生以下の児童が通う分教場を設置することとなり、大正7年(1918)、牛尾校の校舎の一部を利用して、牛尾分教場がつくられました。大正7年の児童数は本校で470人、分教場で103人でした。その後、牛尾分校と名前を変え、100年近く地域の教育に貢献してきました。そして、このたび「笠形会館」として生まれ変わることになりました。
役所屋敷 -下牛尾-
下牛尾河内の谷の奥にヤクショヤシキと呼ばれている所があります。言い伝えによると、江戸時代、姫路藩の「人参役人」が開墾を行い、桑畑を経営して養蚕の事業を行っていたとされます。姫路藩酒井家は財政の破綻の危機にありました。家老河合道臣(寸翁)はこれを救うため、殖産興業につとめます。木綿の専売や東山焼・姫路染などの生産が活発に起こり、みごとに財政再建を果たします。この一環として、船津周辺の西光寺野に家臣を派遣して朝鮮人参の栽培をはじめ、薬用人参の精製に成功します。この家臣の役宅は「人参役所」と呼ばれていました。下牛尾河内の養蚕も「人参役所」が行った財政再建事業のひとつだったのでしょう。           『瀬加村誌』より
瀬加自動車株式会社   -上牛尾ほか-
瀬加自動車株式会社は昭和3年(1928)、瀬加と福崎駅を結ぶ乗合自動車の運行会社として発足しました。当時、世界的に普及したT型フォードを2台所有し、10人乗りに改造して使っていました。写真には運転手と車掌さんが写っています。出発駅は塩谷で、終点の福崎駅まで12箇所の停留所がありました。始発は5時50分、終着は午後7時で、1日3往復していました。終点まで約45分かかったそうです。塩谷から福崎駅までの運賃は45銭。けっして安くはありませんでした。路線は上田中から西川辺=西田中を経由するルートもあったようです。T型フォードは「せせらぎの湯・思い出博物館」で見ることができます。
笠形会館民具展示室  -上牛尾-
瀬加小学校牛尾分校が廃校となり、笠形会館として再スタートしました。この教室の1室が民具の展示室として生まれ変わります。教室の中に民家の一部を再現して、昔の農具や生活用具を展示しています。なつかしい物ばかりです。この民具は20年ほど前より、町民の皆さんから寄贈を受けたものです。非常にたくさんありますので一度に展示はできませんが、順次入れ替えをしていきたいと考えています。 どうぞご覧ください。
岩戸神社御神木   -上牛尾-
岩戸神社の本殿のすぐ横に御神木の杉の木があります。根回り7m、樹齢450年の大木です。周囲の巨岩とこの御神木が岩戸神社の神々しい雰囲気をつくり出していました。ところが、この大木が台風23号(平成16年)の強風にさらされ、途中より折れてしまいました。御神木以外にも境内の大木が何本も折れ、大変な被害でした。本殿が無事だったのがせめてもの放いです。折れた木は長さ2mの丸太に加工されて、地域の方によって再利用される予定です。
岩戸神社の大スギ -上牛尾-
上牛尾岩戸の岩戸神社本殿のすぐ横に、ご神木の大スギが立っていました。幹の周囲が7mもある巨木です。神社の周辺は巨岩や巨木が林立し、神々しい雰囲気をつくり出していますが、このご神木はひときわ目をひきました。しかし、残念なことに、昨年の強烈な台風で木の先端が折れてしまい、高さは25mほどになってしまいました。木の内部には大きな空洞があり、もし倒れて本殿(町指定重要文化財)を壊してしまうといけないので、根元から切り倒すことになりました。残った根の部分は屋根をつけて保存されます。
牛尾村風俗誌  -上牛尾・下牛尾-
市川町教育委員会では、「瀬加村之内牛尾村 風俗誌」という記録集を保管しています。この本は、大正元年(1912)に牛尾尋常高等小学校によって編集されました。内容は牛尾村の地理や歴史の解説、宗教・教育の状況、年中行事や慣習から人情、世相、迷信にいたるまで多岐にわたります。本に目を通して見ると、歴史の項では「国体を椎持し」とか「国威の大発揚」など、戦前特有の言葉が随所に見られます。教育の項では、明治29年(1896)の就学児童102人に比べ、明治45年(1912)が302人と、その増加ぶりを示して教育の普及を力説しています。また、年中行事では、「御日待」「魚島」「田祭」「虫送り」「八朔」「亥の子」など細かく挙げられており、今では無くなってしまった行事も紹介されていて興味深いです。おもしろいのは方言の項で、牛尾村の方言と標準語を比較しています。
 トナダ→戸棚   デニ→銭  インピッ→鉛筆  ダシキ→座敷
 ヘバリ→ひばり  エペ→指  オサギ→兎   クチビラ→唇
 ホ一夕ロ→蛍  マクレル→落ちる
三原坂(船坂峠)    -上牛尾-
上牛尾の寺家と八千代町の三原との間は、平成11年に開通した船坂トンネルで結ばれていますが、それ以前は「三原坂」と呼ばれる、曲がりくねった細い峠道で行き来していました。昔はこの道しかなく、三原で病人が出ると、人が担いで坂道を登り岩戸の医者まで運んだそうです。また、自転車に豆腐や肉を積んで売りに来る人もありました。子ども達が荷車の後ろを押して坂を登り、おこづかいをもらうこともあったそうです。現在の道は昭和10年(1935)に新設されたもので、幅は3.5mです。工事ではたくさんの地元の人が働いたそうです。            『ふるさとのかたりべ』より
不動の滝   -下牛尾-
瀬加谷を9kmほど奥にはいった下牛尾忍辱(にんにく)に、不動の滝があります。高さ10m、さほど高くはありませんが、水は岩の間を滑るように流れ、その素朴な美しさに目を見張ります。春たけなわの4月の中旬には、山の斜面に数十本の桜が見事に開花し、滝とよく調和して訪れる人々の心を和ませ、楽しませてくれます。 かたわらには、明治18年(1885)ごろに建立された後、昭和29年(1954)に建て替えられたお堂があります。お堂の中には、2体の不動明王が祀られ、その中の一体には宝暦3年(1753)と刻まれていて、開眼の時期をうかがわせます。昭和初期までは、参道の両脇に、3~4人が一度にはいれる木製の大きな男風呂と女風呂があって、土用の丑の日にこの風呂に湯を沸かし、よもぎや石菖を入れて老若男女をとわず丑湯につかったそうです。今日では、当時を偲ばせる行事はありませんが、毎月28日の縁日には、地元の人たちがお堂にお参りしています。
永通寺の薬師如来 -下牛尾-
永通寺の本尊、薬師如来の縁起は古く、戦国動乱の頃にさかのぼります。豊臣秀吉の中国攻めの時、三木城攻防に敗れた別所氏の残党が多くこの地にのがれてきました。土地の住民になった後も病難に苦しむものが多かったため、享保2年(1717)、永通寺4世元峰和尚が庶民の協力を得て、京の仏師木阿弥に薬師如来を造形させました。それが現在までまもられています。当時は下牛尾河内にありましたが、明治42年(1909)、村内に散在している地蔵堂や阿弥陀堂を現在の場所に合祀しました。本尊の薬師如来は人々を病から救う仏であるため、今でも健康を願う人たちに厚く信仰されています。
大橋供養塔     -下牛尾-
瀬加の谷を貫き、市川へそそぐ岡部川には、大小50本以上の橋が架けられています。下牛尾の下同大橋という比較的大きな橋があります。 この橋のたもとには珍しい石碑が建てられています。碑には「大橋供養塔元文三午年三月吉日立」と刻まれています。元文3午年は西暦1738年、今から270年も前のものです。碑が建てられた時のいきさつは今となってはわかりません。岡部川の大洪水になどによって橋が流され、その橋を供養し、なぐさめるために造られたものではないでしょうか。元文年間に摂津地方で大洪水があったと記録されています。この地方でも大きな災害があったのでしょう。地元の方の話では、碑のおかげでこの附近では不思議と川に関連した事故が起きないそうです。
虫送リ  -下牛尾・甘地-
「虫送り」の伝統行事が行われました。甘地では人々は竹のたいまつを持って、氏神の八幡神社に集まり、行列をつくって出発します。先頭は「サネモリ人形」で、その後に旗・鉦・太鼓が続きます。この行事は稲を食い荒らす害虫を火で退治するために、昔からどこの村でも行われていましたが、今では郡内でも数箇所しか残っていません。「サネモリ人形」とは、馬に乗った武将斉藤実盛を形どったものです。実盛は稲の切株につまづいて倒れ敵に討たれたため、その恨みでイナゴなどの害虫となったと信じられました。たいまつを持った行列は「イネのムシやゴーシヤラク」「サネモリや先だちや」とかけ声をかけ、最後は村のはずれの川ですべてを焼いて終ります。
大河内神社 -下牛尾-
下牛尾河内の谷の中程に大河内神社があります。祭神は石長姫命・天照大神で、本殿は一間社流造です。明治40年(1907)、他の神社を合祀し、社名を大将軍神から大河内神社と改めました。この拝殿には、何枚かの絵馬が掲げられており、なかでも「日露戦争大略」と題された絵馬は珍しいものです。これは日露戦争に陸軍の兵士として従軍した中居庄蔵さんが出兵してから帰還するまでの経過を日付入りで細かく書き残し奉納したものです。また、境内にあるケヤキの木は巨大です。これほどまでに立派なケヤキは市川町はおろか、播磨地方でも数少ないでしょう。境内を造成したときに根本が数メートル埋まったそうですから本来はもっと大きな木であったはずです。
モリアオガ工ル -下牛尾-
モリアオガエルは体長7~8cm、体は鮮やかな緑色で、ちょうどアマガエルを大きくしたような感じです。このカエルは日本だけに生息しています。4~6月には、池のほとりにある木の水面の上に張り出した枝の先に、真っ白い泡に包まれた卵を産みつけます。モリアオガエルのメスは数が極端に少ないため、1匹のメスに2匹から3匹のオスが飛びつきます。卵からふ化してオタマジャクシになると、下の池に落ちて成長します。下牛尾河内のリフレッシュパーク市川にある奥谷池では、毎年たくさんのモリアオガエルの卵を見ることができます。池の周りの木の枝には、15cmほどの白い泡のかたまりがいっぱいぶら下がります。モリアオガエルは数が少ないため、天然記念物に指定されている生息地もあります。
天岩峯神社   -下牛尾-
下午尾下問のイヤ谷と呼ばれる所に天岩峯神社が鎮座しています。 明治41年(1908)に峰神社と岩神社が合祀され、この名称となったそうです。境内には、直径1m30cmもの巨大な鉄釜があり、今は水を貯めて防火用水にしています。拝殿には、文久3年(1863)に描かれた太功記の各段の絵馬があげられています。また、石垣は「俵積み」と呼ばれる珍しい石積みです。
広畑九郎兵衞顕彰碑  -下牛尾-
下牛尾のリフレッシュパーク市川から200mほど奥に行くと、広畑九郎兵衞の顕彰碑があります。九郎兵衛は江戸時代、上牛尾半瀬に生まれた人です。当時、年貢に追われていた人々にとって、新しい田を開発することは、それだけ生活にゆとりができるため、重大なことでした。宝暦元年(1751)、彼は藩の許しを得て、下牛尾河内地区で新田の開発にとりかかりました。そして、7年もの歳月をかけて2町5反(約25,000m)の開発に成功しました。この功績をたたえ、明治37年(1904)顕彰碑が建てられ、昭和60年(1985)には今の地に移転、新築されました。また、ここは東と北に通じる道の分岐点にあたるため、顕彰碑の横に小さな石の道しるべがあります。それには、「左 めうの、右 かなくら」と刻まれています。「めうの」は神河町根宇野、「かなくら」は加美町の金蔵寺のことです。舟坂峠を越えて通が通じていたのでしょう。
瀬加郵便取扱所          -上瀬加-
明治5年(1872)郵便制度が開始され、瀬加村は屋形郵便局、あるいは辻川郵便局の区域に入っていました。しかし、昭和3年(1928)に瀬加郵便取扱所が開設され、瀬加村の郵便物や為替、貯金を扱うようになりました。場所は現在の市川瀬加郵便局よリ300mほど東でした。大正15年(1926)頃、瀬加では学校郵便というユニークな制度がありました。各集落に学校郵便函が設置され、小学校児童が登校のときに函のなかの郵便物を集めて学校に持っていきます。学校では宛先ごとに分類して、学校郵便のスタンプを押します。そして、子ども達は下校時に自宅近くに宛てられた郵便物を持ち帰り、配達していました。
                 『瀬加村誌』よリ
 広報いちかわ2009年10月号 ぶらりいちかわ散歩道<282>
愛 宕 山 (あたごやま)      -上瀬加-
昭和8年(1933)に発行された『瀬加村誌』には、瀬加を代表する名勝地が7箇所紹介されています。「天下の名勝笠形山」「行楽の地岩戸」「忍辱不動の滝」「日光寺」「雄大な加茂地池」「瀬加松茸」に並び、「上瀬加の愛宕山」が挙げられています。村誌は、「最も手軽に登ることができ、展望の価値が大きい」とし、「頂上からは、瀬加の家並み、銀色に光る馬場池、天満神社の森、遠くには播但線の汽車が吐き出す白い煙を眺めることができる」と称えています。また、「6月7日(旧暦)から7日間行われる祇園祭では、参道の両側に幾百個の提灯が青竹の先に吊され、全山が美しく飾られる」と紹介されています。この祇園祭は現在も十柱神社において盛大に行われています。
 広報いちかわ2009年7月号 ぶらりいちかわ散歩道<279>
十柱神社   -上瀬加-
明治41年(1908)、上瀬加の山頂にあった八坂神社を中腹に移して拝殿を新築しました。そこに、地区内にあった9柱の神々を迎えて合祀して「十柱神社」と名付けられました。毎年、夏には祇園祭が盛大に催されます。このたび十柱神社に新しく合祀が行われました。集落の北にある山頂に祀られていた稲荷神社が移されることになりました。去る3月27日の深夜、神職や役員さんの手で厳かに事がはこばれました。神様は白い布で覆われ、山を下り、村人が見守る中、無事に十柱神社に祀られました。
 広報いちかわ2006年7月号 ぶらりいちかわ散歩道<243>

市川町観光ガイドブック(市川町商工会 H27.10)から
十柱(とはしら)神社辰年の干支飾り   -上瀬加ー
上瀬加の有志の皆さんが、今年の干支である辰年にちなんで5m以上もある巨大な龍の干支飾りを作成しました。初詣に多くの方に参詣してもらい、地域がにぎわうようにとの願いを込めて1か月以上かけて作り上げました。龍のように波打った桐の木を芯にして、しめ縄用の背丈の長いワラを使って体を作っています。特に頭の角や牙、胴休のウロコやたて髪は迫力満点です。この干支飾りは、十柱神社の参道入り口に飾られています。ぜひご覧ください。
 広報いちかわ2012年1月号 ぶらりいちかわ散歩道<309>
十柱神社巳年の干支飾り   -上瀬加一
上瀬加のふれあい倶楽部をはじめとする有志の皆さんが、今年の干支である巳年にちなんで10m以上もある巨大なへどの干支飾りを作成しました。初詣に多くの方に参詣してもらい、地域がにぎわうようにとの願いを込めて1か月以上かけて作り上げました。 木製の骨組みに幅約1cm、長さ約3mの竹を隙間なく結び付けて形を作ります。その上に、しめ縄用の背丈の長いワラを使って体を作っています。見事に波打つ胴体、大きく開かれた□は迫力満点です。この干支飾りは、十柱神社の参道入リロに飾られています。ぜひご覧ください。
 広報いちかわ2013年1月号 ぶらりいちかわ散歩道<321>
上瀬加浄水場    -上瀬加-
 昭和43年(1968)、加西市では異常渇水のため水不足に悩まされ、水源確保の努カをしましたが効果が得られませんでした。そのため最後の手段として水道事業を開始したばかりの市川町に対して水の分譲を要請しました。その結果、市川町の簡易水道から加西市へ1日1000トンを「友情の水」として分水することになりました。しかし、加西市の水需要の増加は分水量の限度をはるかに超えたため、用水供給事業としての許可を取り、上瀬加地区に浄水場を新設することになりました。送水本管の埋設工事を行い、昭和45年には浄水場が完成し、加西市へ送る水の量は1日5100トンに増えました。
             『清流 上瀬加の昔を尋ねて』より
 広報いちかわ2011年7月号 ぶらりいちかわ散歩道<303>
釜 坂 峠      -上瀬加-
市川町上瀬加と加西市若井町との境界にある釜坂峠は、頂上まで幅2mの道路で頂上付近は特に狭く急勾配でした。にもかかわらず、峠道を利用して往来する人が非常に多いため、改良工事を望む声が日に日に大きくなりました。昭和39年には「県道西田中・泉・滝野線改良促進期成同盟会」が結成され、積極的な陳情活動を行いました。そして、ついに昭和41年、陸上自衛隊101建設大隊によってエ事が開始されました。自衛隊員は西在田中学校(若井町)の古い校舎を宿舎にし、大型機械を駆使してエ事を行いました。まず若井町側からエ事が開始され、昭和42年1月からは上瀬加側のエ事が行われました。そしてその年の4月8日に完成し、盛大に竣工式が行われました。改良工事は、延長l800mに及び、エ事費は約450万円と伝えられています。
                    『清流 上瀬加の昔を尋ねて』よリ
  広報いちかわ2008年1月号 ぶらりいちかわ散歩道<261>
観音寺大日堂    -上瀬加-
上瀬加御室の観音寺の境内に大日堂と呼ばれるお堂が建てられており、中には大日如来像が安置されています。この大日如来像には由束があります。それによるとこの像は、昔、孝徳天皇の勅願により法華山一乗寺(現加西市)を開いた法憧仙人によって作られました。大化元年(645年)上瀬加近隣に大日如来を信心する者があり、その者が法憧仙人に教えをいただき、大日如来像をお迎えした。とのことです。
 それ以後、霊験あらたかで、牛馬の病難をお救いくださるとの評判で、多くの崇拝を集めました。           『瀬加の里』より
  広報いちかわ2007年2月号 ぶらりいちかわ散歩道<250>
クゴ城祉    -上瀬加-
クゴ城址は、上瀬加工業団地内の標高約120mの尾根の先端にあり、尾根北側裾を岡部川が流れています。平坦地は以前、水田として利用されていました。 昭和59年(1984)に、工業用地となるため確認調査が行われ、多くの溝、柱穴、柵、掘立柱建物などが確認されました。 現在、この写真のような姿は見ることはできませんが、かろうじて土塁、空壕など一部保存されており城跡を偲ぶことができます。クゴ城址の対岸には、同時期の瀬加山城跡が存在しており、これらが、近接する自然地形を利用した軍事的な大きな役割をしていたことがうかがわれます。また、これら城主として赤松氏の家臣が住んでいましたが、天正年間(1573~1591)に豊臣秀吉の播州攻めの際につぎつぎと落城したものと伝えられています。(瀬加山城跡は嘉昔年間(1441~1443)に築城され、城主は赤松の一族大田道祖、同源太夫の父子でした。)      『瀬加村誌』より
     クゴの構へリンク
夫婦岩    -上瀬加-
岡部川を御室橋から少し下がった所に岩場があり、深い淵になっている所があります。ここは地元の人々から夫婦岩と呼ばれていますが、この名の起こりについては悲しい物語があります。今から約400年前、上瀬加には太田道阻と名のる武士が城を築き、勢力をふるっていました。その家臣に青柳四郎兵衛という20才の若武者がおり、絹枝という娘と出会い、互いに好意を寄せるようになりました。しかし、天正4年(1576)、豊臣秀吉の播州攻めが始まり、瀬加の城も大軍に囲まれ、家臣たちは次々と討死していく中、四郎兵衛と絹枝の二人も力つき、これが最後と岡部川の岸で刺し違えて死んでしまったそうです。これ以後村人たちは二人をしのび、夫婦岩と呼ぶようになったとのことです。      『瀬加村誌』より
    夫婦岩(瀬加山城落城悲話) へリンク
戸安の廻国塔 -上瀬加-
上瀬加戸安の公民館の東に廻国塔と呼ばれる石碑が建っています。これは法華経を全国の66か所の霊場に納めたことを記念して建てられたものです。建てられたのは寛政8年(1796)、霊場を廻った人は「田安様御領地下総之国 垣郡 海村 市兵衛」と刻まれています。下総は現在の千葉県付近、村の名前ははっきりと読み取れませんでした。そして、石碑を建てた人は、「丹後加佐郡大山村浄圓、播州印南郡 村善西、阿州名西郡上山村役次郎」の3人です。「大山村」とは現在の京都府舞鶴市大山、「上山村」とは徳島県名西郡神山町のことです。なぜ市川町とは遠く離れた人々によって石碑が建てられたのか、よくわかりません。
戸安焼堂跡   -上瀬加-
上瀬加は戸安の旧集会所の建物のあたりに、むかし小さなお堂が建っていたそうです。このお堂には石の地蔵尊が示巳られてあり、「焼堂の地蔵」と呼ばれていました。このお地蔵さんには不思議な言伝えがあります。下牛尾の忍辱(にんにく)山の頂上にお堂があり、石の地蔵尊が安置されていました。ところが300年ほど前に山火事が起きて、堂が焼け落ちてしまいました。この時、地蔵さんが姿を消してしまい、どうしたわけか上瀬加戸安のこの場所に立っていたそうです。村人たちはここにお堂を立て、手厚くお面巳りしました。そして誰が言い始めたともなく、このお堂のことを「焼堂」と呼ぶようになったそうです。
市川町の歌碑① 木村眞康(きむらしんこう) -上瀬加・北田中-
北田中、石妙寺の境内に木村眞康の歌碑が立てられています。眞康は、明治39年(1906)市川町上瀬加で生まれました。小学校卒業後、大阪で働きながら学び、帰郷して瀬加村営バス会社に就職。活発に短歌の創作活動を行い、文芸誌「閑鶏集」の発行や同人組織「龍謄社」の創立に尽力しました。また、歌人前田夕暮門下となり、日本歌人クラブの会員になるなど、全国的にも活躍しました。昭和20年(1945)には「文学圏社」を創立、機関紙「文学圏」は現在も発行され、500号を超えています。市川町の方もたくさん同人として参加されています。石妙寺は文学圏社の活動の拠点でした。
         雪しろくおきたるままに春たちし
               はりま高嶺に光る陽のいろ    眞康
観音寺(松林庵)   -上瀬加-
上瀬加御室の観音寺は、古くから松林庵と呼ばれていました。明治時代に堂を修理した際に記述された来歴書によれば、宝暦年間(約250年前)岩崎治左衛門という人が仏門に帰依し、名を了然とあらため庵室を建立したのが始まりとされます。その後、元治元年(1864)には、孟春庵主全悦という尼僧が観音堂を再建して庵に住み、近隣の子女数百名に裁縫を伝授したことから、中興の尼として敬われています。 また、安置されている大日如来像は、加西市にある法華山一乗寺の開祖、法憧仙人の作とされます。牛や馬など家畜の病難を救うとされ、厚く信仰されています。
瀬加村道路改修碑 -上瀬加-
兵庫西農協瀬加支店横の県道沿いに石碑が建っています。これは明治時代、瀬加村の村道を改修した記念碑です。この道は上田中から岡部川に沿って、多可郡に至る約12kmの道です。明治になって産業が発達するとともに、交通量も飛躍的に増大し、整備の必要に迫られました。明治32年(1899)、村議会において改修案が可決され、当時のお金で約1万円(内2割が補助金)の工事費、そして2年の期間をかけて完成しました。碑には、当時の村長の竹内槌蔵・牛尾源策、建設委員20人の名とともに郡参事員として内藤利八(第1回帝国議会議員、川辺出身)の名も刻まれています。また、設計は鶴居村の尾崎大童良でした。
瀬加山城址(稲荷神社) -上瀬加-
上瀬加戸安集落の北側の山頂に「瀬加山城」と呼ばれる城跡があります。この城は赤松氏の一族、太田道祖とその息子源太夫が居城していたと伝えられています。太田氏は瀬加の庄と蔭山の庄を領有して勢力を誇っていましたが、置塩城の赤松氏の没落とともに衰退していったようです。その城跡に今は稲荷神社が鎮座しています。昭和25年(1950)頃までは青年団が相撲をとって賑わっていました。現在は5月5日の子どもの日に子ども達が花相撲をとっています。             『清流 上瀬加の昔を尋ねて』より
       瀬加山城(瀬加砦)  へリンク
太子祭  -上瀬加-
上瀬加の福林寺は天福元年(1233)の創建と伝えられる、大変歴史のあるお寺です。ご本尊は阿弥陀如来ですが、本堂の西には聖徳太子像が安置されており、8月22日には毎年盛大にお祭りが行われます。22日は聖徳太子の命日です。当日、聖徳太子像がお堂の外に示巳られ、参拝者がお参りします。また、境内にはヤグラが組まれ、みんなで盆踊りを楽しみます。花火も上がり、市川町を代表する夏祭りのひとつです。     参考:『清流 上瀬加の昔を尋ねて』
十  石     -下瀬加-
下瀬加瓜生田地区の西南の山頂に砦がありました。言い伝えによると、川辺城(河嶋城)の城主大野五郎左衛門の家臣である藤原氏が10石の支配地を貰い、駐屯していたということです。そのために「十石」と呼ばれました。川辺城は大野弾正忠氏によって築城されました。文和4年(1355)、足利義詮が山名軍を打ち破った神南合戦で赤松一族と共に戦い、軍功をたてて一族の元を築きました。川辺城は大野氏の後、岩崎太郎左衛門が城主となり永禄年間(1560頃)廃城になったと言われています。十石はその後、置塩城からの命により名を高埋城と改め、家臣も入れ替わって砦を守っていましたが、川辺城と運命をともにしたようです。                「播磨の郷」よリ
   広報いちかわ2007年5月号  ぶらりいちかわ散歩道<253>
庚申望    -下瀬加-
瀬加庚申堂の縁起は瀬加村史によると、正親町天皇の天正(1573~1591)の頃、薩摩藩主島津氏の菩提寺の住職快辯法師が回国の途中、各国を巡り下瀬加佐伯次郎太夫方に仮寓しました。佐伯氏は厚く帰依し草庵を造り居住させましたが、81歳の高齢をもって入寂されました。その後快辯師の俗弟子小左衛門の子、仁蔵という人が、ある夜、快辯師が「われは則帝釈天の位を得ているから、われが住んだ跡に堂字を建てて祀れよ、諸人の念願を成就せん」といわれたので仁蔵は堂宇を建立し快辯師を則帝釈天として奉祀しました。それらが今の庚申堂であるといわれています。兵庫県では、百姓や養蚕の神さんだと考える人もいれば、一方では百病をなおす方とか、病気よけ、災難よけ、火の守り神とか言い伝えはさまざま。ここ下瀬加の庚申さんは「イボの神さん」として有名で天井には格子・水玉・花模様、さまざまな色の幾万とも知れぬくくりザルが揺れています。みな、願いのかなったお礼にあげたものです。毎年初庚申には遠方より多くの人々が訪れ、内護摩などの催しでにぎわいます。
浦安の舞   -下瀬加-
天満神社では、毎年10月の秋祭りに下瀬加・上瀬加より子ども神輿を繰り出し、氏子少女らによって「浦安の舞」が奉納されます。浦安の「うら」は「心」、「やす」は「やすらか」をいい、心の安らかという意味で心安らかな様子をいいます。日本書紀に「むかし、いざなぎのみこと、その国を名付けていわく、大和は浦安の国」とあり、浦安の国といわれたのは、海に囲まれ、平和で自然が美しく気候もおだやかであったからだそうです。この舞は、“天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとく波たたぬよう”と天皇の御歌に作曲、作舞され、昭和15年(1940)、全国の神社で奉納されたものです。天満神社は、姫路藩主から毎年9月20日の大祭には能楽の奉納が行われていて、明治初年頃まで続いていたそうです。                      『瀬加村誌』より
200年前の俳人たち  -下瀬加・浅野-
下瀬加の庚申堂と浅野の大歳神社には「俳額」と呼ばれるものが掲げられています。これは江戸時代に地元の氏子たちが詠んだ俳句を書き留めて奉納したものです。江戸時代でも、中頃から後半にかけては、庶民にも趣味を楽しむ余裕ができてきたようです。なかでも俳句は人気があったらしく、百近い句が記されています。俳額には村人たちを指導した先生の名があります。丹頂堂寒瓜と丹頂堂守三という人物です。どちらも姫路増位山にあった風羅堂の当主でした。風羅堂というのは寒瓜の父井上千山が、あの奥の細道の松尾芭蕉の蓑・笠を持ち帰り安置したのが始まりです。この風羅堂を中心に播磨の俳語は大変さかんになります。
筆子塚        -下瀬加ほか-
江戸時代の後半以降は庶民のあいだにも学問の気運が高まり、多くの寺子屋や手習塾がつくられました。市川町でも20箇所の寺子屋があったことが記録されています。ここではひらがな・カタカナをはじめ、人名漢字や手紙証文の書き方などが教えられ、中には「百姓往来」「商売往来」等の教科書を使い、高度な学習を行った者もいます。少数ですが、女子も通っており、「百人一首」「女今川」など女子専用の教科書もありました。生徒達は「筆子」または「寺子」と呼ばれ「筆子中」という集まりを作っていました。筆子達が先生の死を悼み建立したのが「筆子塚」です。市川町でも瀬加・奥をはじめ、多数見ることができます。
宝本地蔵 佐伯次郎太夫   -下瀬加-
下瀬加、加茂地の集落の入り口附近に、「堂本地蔵」と呼ばれる2mを越す大きな石碑が建てられています。碑には「大乗妙典六十六部扶桑廻国供養所 瀬加之住 佐伯次郎太夫 宝永8年」と刻まれています。今から280年前、瀬加の佐伯次郎太夫という人物が日本全国を歩き、各地で経典を奉納した記念塔です。東北から九州まで、まる3年かけて巡ったと伝えられています。次郎太夫はよほど信仰心の厚い人だったらしく、この他にも上瀬加の福林寺や加茂地の墓地に同様の記念塔を4基も建てています。また諸国を行脚していた快耕(かいペん)法師を招いて教えを受け、下瀬加の庚申堂の元を築いた人物としても知られています。
加茂地(かもじだに)谷伝説 金の山ユリ  -下瀬加-
昔、加茂地谷に千代という美しい娘がおりました。父は村の若者達に「村の奥の寒門山の頂上に咲いている金の山ユリを採ってきたものを娘の婿にしたい」と話しました。しかし、寒門山には大きな白蛇が住んでいると伝えられているため、皆怖れをなしてしまいました。しばらくすると、美しい若者がピカピカ光る金の山ユリを持って千代の前にあらわれました。その若者は毎夜、人目を忍んで会いに来るようになりました。これを不審に思った乳母が針で若者を突きさしました。若者はもがき苦しみ、逃げて行きます。それを追いかけると、金の山ユリの花が一面に咲く寒門山の頂上でした。そこには昇天した大きな白蛇が横たわっていました。
赤子橋     -下瀬加-
下瀬加の岡部川と御船川が合流する附近に赤子橋と呼ばれる橋が架かっています。この橋には不思議な言い伝えが残っています。ある時、川の中から赤ん坊の泣き声が聞こえるようになりました。村人たちはたまらずに川の中へ入っていくと、ひとつの石が泣いているではありませんか。人々は驚き、赤ん坊の供養をして、その石をお祀りしました。それは、現在も下瀬加天満神社の本殿の北側に石神様として祀られ、どんな事でも一つだけは願い事をかなえてくれるそうです。
下瀬加の天神さん    -下瀬加-
下瀬加の天満神社には菅原道真が祭られています。古くから厚く信仰されていたようで、慶長6年(1601)には姫路城主の池田三左衛門より、社領として10石を永代寄進されています。また、毎年9月の大祭には能楽の奉納があり、明治になるまで続いていたそうです。そして、境内には古い歴史を物語る石造物があります。そのひとつは石鳥居です。境内南側にある小さな鳥居は、元禄14年(1701)に造られています。これは町内で一番古い鳥居です。もうひとつは拝殿の後にある石灯寵です。これは元禄5年(1692)に下瀬加の氏子たちによって建立されました。これも町内で最も古い石灯寵です。
西光寺池     -下瀬加-
福崎町の西光寺野は台地のために水利が難しく、開墾が行われませんでした。松や雑木が茂る寂しい所で、狐が出たという話がたくさん残されています。大正元年(1912)には、西光寺の開発のため、岡部川から引水することとなりました。下瀬加瓜生田から5kmあまりの距離を、疎水路を造って西光寺野のため池に貯水しました。その後、岡部川からの引水だけでは不十分となり、下瀬加加茂地に巨大な池を造ることになりました。昭和3年(1928)から工事が行われ、まる2年の月日と11万円の工事費がかかりました。当時の瀬加村の年間予算額が3万8千円ですから、膨大な工事費でした。この池は完成後「西光寺池」と名づけられました。
岡部川-笠形断層    -下瀬加ほか-
断層とは、地層の割れ目のことで、そこでは何回も地震が起ったことを示しています。阪神・淡路大震災では、断層が数メートル動いたことはご存じのとおりです。市川町周辺では山崎断層が有名ですが、最近では瀬加の谷と加美町の杉原谷を結ぶ断層が存在することがわかっています。岡部川ー笠形断層と呼ばれています。ところで、地震の記録を見ると市川町では、古くは貞観10年(868年)の播磨大地震(マグニチュード7.2)から今まで5~6度の大地震を経験しています。とくに文久4年(1864年)3月6日には、市川町上瀬加を震源地とするマグニチュード6.3の大地震が起っています。市川町は、地質が非常に強固なため、地震に対しては比較的強いそうです。         文化協会講演会より
篠間が原の狐    -下瀬加-
幾百年かの昔、下瀬加の鬼谷付近は人家が一軒もなく、小笹が生い茂っていました。ここは篠間が原と呼ばれ、狐や狸の棲み家となっていたそうです。ある日、下瀬加御舟の佐次兵衛さんがここを通りかかると1匹の白狐を見つけました。白狐は水たまりの中から青い藻を引き上げて頭に乗せたかと思うと、二十歳ばかりの美しい娘に化けました。そして、土饅頭をお餅に変え、重箱につめて歩きだしました。佐次兵衛さんがあとをつけると、自狐は田中の仁兵衛さんの家へ入っていき、そこの娘になりすましていました。そうとは知らない仁兵衛さんは、娘に化けた狐が持ってきた土饅頭のお餅をうれしそうに食べていたそうです。       『瀬加村史』より
高峰山城     -下瀬加-
高峰山城は、市川町下瀬加と加西市の境にある深山(標高420m)の山頂に築かれた山城です。この城は今から約650年前、赤松円心の家臣武田信濃守藤原保之によって築城されました。城はその後200年以上続き、7代城主伊豆孫四郎祐国の時、羽柴秀吉の播磨攻めによって落城しました。城は、山頂にたて50m、よこ30mほどの平坦地を造って本丸とし、周囲に石垣や空堀を巡らせて守っていました。尾根の所々には出城を持っていたようです。城跡からは市川の下流域はもちろん、加西市や小野市周辺まで見渡すことができます。
月光寺の焼け飛び観音   -下瀬加-
下瀬加瓜生田の山中に月光寺というお堂がありました。ご本尊は十一面観世音菩薩でした。ところが今から250年ほど前に出火してしまい、何も取り出すことができずに跡かたもなく焼け落ちてしまったそうです。それから2~3年後、四郎左ヱ門という人が山に薪を取りに行く途中、池の中に何か浮かんでいるのを不審に思い、近寄って引き上げました。すると驚いたことにそれは、度々お参りして見覚えのある月光寺のご本尊でした。すぐ持ち帰り、堂を建て安置しました。その後誰言うとなく、焼け飛びの観音との名が広まり、たくさんの人が参詣したそうです。今は、朝日寺の境内に移されています。
朝日寺の巨大数珠  -下瀬加-
下瀬加の朝日寺の本堂に巨大な数疎が出現しました。長さはなんと8mで、天井に滑車を取り付けて吊り下げられています。この大きな数珠は硬い桜の木で作られていて、回すたびに玉がぶつかってカン、カンと澄んだ音を鳴らします。本来、数殊は人間の煩悩を取り去るとされています。昔は、どこの村でも「数珠繰り」が行われていました。毎年8月の地蔵盆の時に、お寺や最寄りのお堂にたくさんの人が集まり、念仏を唱えながら長い数珠をひとつひとつ繰っていく行事です。この起源は、平安時代(900年ほど前)空也上人が広めた念仏踊りと言われ、非常に古くから続く風習です。今も屋形地区などで残っています。朝日寺では、9月23日と3月21日に「数疎繰り」の行事が行われる予定です。足を運んでみてはいかがでしょうか。
日光寺山頂の初日の出   -下瀬加-
市川町下瀬加と福崎町の町境に日光寺山があります。標高は408.8m。山頂からの眺望に優れ、市川中流域から遠く姫路平野の臨海部や六甲山まで見渡せます。また、ここからは笠形山の頂上から山全体の雄姿を見ることができます。山頂から福崎側にやや下った平坦部には金色山日光寺があります。この寺は大化元年(645)、法道仙人の開基とされる真言宗の名刹です。姫路城の祈願所として歴代城主の崇敬を集めていました。また、山中には日光寺とともに月光寺があったことが伝えられています。今から250年程前に火事で失われてしまいました。本尊の十一面観世音菩薩は「焼け飛び観音」と呼ばれ、現在は下瀬加の朝日寺に安置されています。
行者さん  -下瀬加-
下瀬加の西、川辺との間に城山と呼ばれる山があります。急な山道を15分ほど登ると、山頂近くに「行者さん」を祀る祠があります。10m近い巨岩の下、わずかに窪みができた場所に2体の石仏が安置されています。1体は「役行者(えんのぎょうじゃ)」、もう1体は「大日如来(だいにちにょらい)」です。いずれも「寛政三年」(1791)の刻銘があります。毎年、4月3日には下瀬加の鬼谷・宮ノ前・大門の3地区の住民によって祭礼が行われています。祠まで登って般若心経をあげ、下山してからは麓で子ども相撲や餅まきが行われます。大日如来は牛の守り神として敬われています。昔、機械がない時代には牛は貴重な労働力でした。麓には遥拝のための石があり、そこへ牛を連れてきてお参りしていたそうです。
西光寺野疎水  -下瀬加-
西光寺野は福崎町から姫路市にかけての328ヘクタールの広大な土地です。昔から耕作地として有望視されていましたが、開発は失敗の連続でした。明治時代に入り、政府の食糧増産政策が進められると、西光寺野開発の気運が盛り上がってきました。そこで着目されたのが岡部川です。下瀬加の瓜生田に取水口を開き、総延長8.8mに及ぶ疎水路を建設するという大プロジェクトです。しかし、岡部川流域の住民には反村意見が強くありました。「肝心の岡部川が干上がってしまう」「集落の上を流れる疎水があふれたらどうするのか」という深刻な問題です。これに村して、冬季における取水、安全対策と補償などの約束をし、協力を求めました。町境付近では山を貫くトンネルを掘りました。総延長1,372m。トンネル工事は困難で、崩落による犠牲者も出ています。大正4年(1915)、4年に及ぶ工事の末に疎水路は完成し、岡部川からの力強い流れに沿道からは大きな歓声が上がりました。            『バンカル』夏号より
倍得稲荷さん   -瀬加-
昔、小さなお稲荷さんの祠を背負った男が、瀬加の谷へやってきました。「このお稲荷さんは『倍得稲荷さん』といって、お供えをすると必ず明くる朝には倍になって戻ってくるという、ありがたいお稲荷さんだ。」と言いました。初めは誰も信じませんでしたが、ある人がそれでも・・・と1銭だけそお一つと供えてみたところ、明くる朝には2銭になっていました。ほかの人たちもまねして、2銭3銭と供えました。すると、みんな倍になって戻ってきました。その話を聞いた欲の深い男が、1円を供えてみました。明くる朝には2円になっていました。喜んだ欲深男は今度は10円を供えました。でも、次の日の朝早く行ってみると、お供えした10円どころか祠さえ見当たらず、男もろともどろんしてどこにもいなかったそうです。
上田中-笠形里道改修碑  -瀬加-
明治時代、瀬加の道は昔ながらの狭い道でした。道路幅は2mたらずで、荷車が通れる程度のものでした。やがて、交通量の増大と共に不便となり、明治32年(1899)瀬加村村長の竹内槌蔵は道路改修を決意しました。道幅は、上田中境から岩戸までは2間(約3.6m)、岩戸から寺家までは1間半(約2.7m)とし、翌33年に全線が改修されました。工事費の総額は、8,949円でした。この道はその後、大正11年(1922)に再度改修され、この工事で岩戸から寺家までの道が現在のように直線に付け替えられました。これに対しては、若干の反村もあったようです。この改修に伴う工事費は10,200円、土地買上費が10,600円でした。大正12年には、全線が県道に編入されました。
瀬加山の松茸 -瀬加-
松茸はキシメジ科のキノコで、アカマツの根に寄生し、成熟すると独特の芳香を放ちます。今ではその希少価値から高価な値がつきますが、一昔前はもっと庶民的で身近なものだったようです。昭和8年(1933)に出版された『瀬加村誌』には、瀬加村の名勝として「瀬加山の松茸」が挙げられています。「秋の行楽の中でキノコ狩ほど面白いものはない」と記されているように、当時から住民の楽しみの一つでした。採った松茸をその場で調理して食べるのは格別だったでしょう。松茸山の権利は入札で決定します。入札の総額は、当時のお金で2万円を越えていました。瀬加村の松茸は毎年豊作で「松茸山で損をした話は聞かない」と記されています。そして、松茸の最盛期には、毎日トラックで神戸方面の市場へ出荷されたそうです。今では想像できないことです。
播磨古所歌寄集    -笠形山・岡部川-
現在、短歌・俳句は多くの人々に親しまれ、市川町でも文化協会主催の短歌会・句会が行われています。江戸時代の昔も、今におとらず庶民の間で流行していたらしく、たくさんの歌集が残されています。昔、播磨の名所を詠んだ歌集から笠形山・岡部川の歌を紹介します。
播磨古所歌寄集 嵯峨山隼人
 ◇てる日にも山の姿ハおもしろや雨ハふらねど笠がたとしれ
播磨古所集 大尾兵庫
 ◇岡部川あつミの昔跡たへず今も祭に笠をかざヽん
播磨名処今昔集 富春
 ◇旅人ハきて打過るかさがたの山にハぬげる空蝉のきぬ
播磨名処筆海  如瓶
 ◇笠かたの山人むらすしぐれ哉
          暁松子
 ◇かさがたの雪や梅ちる世の二月
セッピコテンナンシヨウ  -笠形山一
サトイモ科のテンナンショウは、アジアを中心に分布して日本では30数種が知られています。終戦後、近畿植物同好会が雪彦山で新種のテンナンショウを発見しました。それは、京都大学教授の北村四郎氏によってセッピコテンナンショウと名付けられました。テンナンショウは、涼しくて湿っぼい林の下にはえる多年草で、生活力は強くありません。なかなか広がらないので、分布地域は非常に限られます。セッピコテンナンショウは今まで、雪彦山と笠形山の2か所でしか見つかっていません。しかも、雪彦山ではすでに絶滅したともいわれています。
神東・神西三十三観音巡礼
 現在、四国八十八所や西国三十三所の巡礼が盛んに行われていますが、昔、神崎郡でも、市川の東と西でそれぞれ三十三所の観音巡礼が行われていたことをご存じでしょうか。
 明和5年(1768)に発行された「播陽神東郡観世音三十三所詠歌」
という本と安永4年(1775)の「播州路神西県観世音三十三所詠歌」
という本が残っています。この本によると、市川町の関係では、次のお寺の名があります。
◎神東 22番 下瀬加 月光寺   23番 上瀬加 松林庵
      24番 下牛尾 正楽寺   25番 下牛尾 永通寺
      26番 岩 戸 福泉寺    27番 上牛尾 笠形寺
      28番 小 畑 法雲寺    29番 東川辺 盛林寺
      30番 西川辺 大亀山   31番 屋 形 宝樹寺
◎神西 10番 奥 村 観音寺    11番 坂 戸 文殊院
      12番 甘 地 積清寺    13番 近 平 大梵寺
      14番 大 谷 大日寺    15番 千 原 薬師庵
      16番 谷 村 龍音寺    17番 田 中 護生寺
      18番 鶴 居 廣徳寺    19番 美 佐 西福庵
      20番 下 澤 薬師庵    21番 下 澤 松福寺
 当時の巡礼は、信仰とともに娯楽の少なかった庶民の楽しみの一つでした。各地でミニチュア版の巡礼コースがたくさん作られ、多くの人々のお参りで賑わいました。