2015/11/16 更新
ここに掲載されている資料は、兵庫県神崎郡市川町の広報誌「いちかわ」のぶらりいちかわ散歩道、及びそのコーナーの総集編である市川町教育委員会が編集・発行(平成18/3/31)の資料をベースに、加筆して作成しています
西川辺川北隣保のお地蔵様   -西川辺-
西川辺 市川町役場の北、播但連絡自動車道の高架を抜けた亀山山麓に、岩を削って吹き抜けの小堂が並んでいる。南の方は蓮弁の台座に、高さ78センチの丸彫座像の地蔵が載っている。その下方は三界萬霊塔になっている。その北の方は、弘法大師供養塔であるが、ともに天明4年の造立である。この年は天明大飢饉の二年目で、悪疫が流行した年である。どうもそれと、関係があるのではないかと思う。
    「石像遺物の神崎郡誌(上) 大沢政雄 著」より
関連 地蔵岩盤水(川北隣保のお地蔵さんの水)
西川辺川北隣保のお地蔵様  -西川辺-
役場から北へ約2m、播但自動車道の下をぬけてすぐ右側にお堂が2棟並んでいます。右側のお堂の中には、蓮の花弁をかたどった台座の上に、石彫のお地蔵さんが安置されています。その下の四角形の石には正面に「三界萬霊」という文字が刻まれ、三界寓霊塔と呼ばれる石碑になっています。左のお堂には、弘法大師の座像が安置されています。どちらも天明4年(1784)に造立されています。この年は天明大飢健の2年目で、悪病が流行した年だそうです。石像が連立されたことと関係があるのかもしれません。お堂の前には大きな用水路があり、豊かな水が流れています。この用水は市川に築かれた西川辺井堰から引かれています。この井堰は今から400年近く前、内藤治郎右衛門によって造られました。お堂の左側の少し高い場所に顕彰碑が建てられています。         (説明看板より)
 広報いちかわ2010年2月号 ぶらりいちかわ散歩道<286>

地蔵岩盤水          -西川辺-
役場の北、播但自動車道の高架を抜けたところに、西川辺川北隣保がお地蔵さまをお祀りしています。昔、このお地蔵さまの近くから山水が出ていたこともあり、川北隣保では、お地蔵さまに水場を作ろうという話になりました。そして、検討した結果、山水は利用しにくいため、井戸を掘ることになりました。この費用の-部には長年お地蔵さまに寄せられた浄財が使われました。昨年の6月、地下20mまで掘削し、ポンプを設置して本椙的な汲み上げが開始されました。最初は白濁していましたが、1時間ほどで透明の水になりました。その後、井戸やその周辺の消毒、紫外線消毒装置の増設を行い、12月に完成をみました。水質検査の結果は飲用として問題なく、現在は-般の方にも無料で提供しています。
     「地蔵岩盤水」ホームページよリ
 広報いちかわ2012年11月号 ぶらりいちかわ散歩道<319>


内藤氏顕彰碑と西川辺井   -西川辺-
役場から北へ約200m、国道312号線と播但自動車道が交差する付近の山を少し上がると、顕彰碑が建てられています。これは「内藤治郎右衛門」の功績を称えたものです。昔、西川辺周辺の田は、東川辺にある栗待池と小畑川の水だけが頼りだったため、しばしば旱魃に悩まされていたそうです。そこで治郎右衛門は市川に堰を造って水を引くことを考え、実行しました。それ以後、水不足で困ることはありませんでした。正保2年(1645)85歳で亡くなりましたが、井堰を眺めるところに葬ってほしいとの遺言のとおり、この地に墓が建てられました。現在、西川辺井は立派なコンクリートの井堰になっています。
                      『碑文拓本』より

この井堰は、1607年に造られたということである。さらに、この井堰は、以前は石積みだったのを昭和43年ごろにコンクリート製に改修されている。また、この井堰からの用水路は、西川辺はもとより、西川辺南、保喜、西田中、それ以外は不明まで水を運んでいる。そして、西川辺では、この用水路を「ゆみど」と呼んでいるが、用水路の意味だろう。「ゆみど」が、川北隣保のお地蔵様の所までか、用水路全域を指すのかは不明。にというわけでこの用水路には名前が無いようである。部分的には名が付いている溝もあようだが。例えば「くるまみぞ」。                   ...........(2015/10/29 追記)


井船山城    -西川辺-
井船山城は、文明元年(1469)に内藤右馬三郎(下野入道ともいう)が築城し、天文13年(1544)尼子勢が播磨に攻め込んだ時に落城したと伝えられています。また、天正7年(1579)頃には内藤衛門尉泰盛俊(宗金ともいう)の居城となった、とも伝えられています。右馬三郎は加西市満久町にある満久城を居城とする内藤氏の出身です。内藤氏はもともと関東出身の侍でした。赤松政則に従って戦功があり、満久山に築城しました。この井船山城の位置ですが、西川辺の天満神社から西へ100mほどの山中と考えられています。ここは、山の斜面が何段にも平地に整地されています。               『西播磨の城』より
  広報いちかわ2007年4月号 ぶらりいちかわ散歩道<252>

本城さん   -西川辺-
本城さんは、内藤右衛門尉泰盛俊(1556歿:桂徳院月峰浄圓大居士位)を祀った社。内藤家には、足利尊氏(室町幕府の開祖)の戦功記録が数点伝わっているという。内藤右衛門尉泰盛俊の墓が北の山中にあり、男、女、馬の三揃になっているという。この社は、播但自動車道ができる以前は、より山裾にあった。現在の社は、昭和55年に再建され、播但道開通のため移築されたもの。
松ヶ瀬神社跡   -西川辺-
川辺小学校から少し離れた北の田んぼの中に、ぽつんと大きな石灯籠が立っています。ここは、地域の人からは「松ヶ瀬さん」と呼ばれている松ヶ瀬神社跡です。松ヶ瀬神社は、村の天満神社の東に移築された(?)のでしょうか? 天満神社に社があります。秋祭りの時には必ず屋台が止まって祭礼します。
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明治3年とか明治13年あたりに大きな洪水があったそうです。その洪水で今の市川の流れになったとか。当時、松ヶ瀬さんのあたりは、市川が流れており(??)、瀬になっていたそうです。洪水で上流から社が流れ着きそれを祀り、松ヶ瀬さんとしたそうです。その後、大正時代となり神社統合化がすすみ、天満宮に社を移したんだそうです。(らしいという話で。)--この話、市川ではなく小畑川ではないのか??
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今(2012年)から200年ほど前(1800年初め)の神社に関する古文書には、松ヶ瀬神社の大きさや、回りに15本の木が生えていたとの記述があるので、その時代には松ヶ瀬大明神があったということでしょう。
亀山   -西川辺-
西暦720年頃に編纂された「播磨風土記」に「川辺の里」と記されている地域の一部である西川辺区の北に位置する亀の形をした山を「亀山」と呼んでいる。頭部の山と甲羅部の両方が「亀山」なのか甲羅部の山のみ「亀山」なのか不明。「大亀山」が正しい名のかもしれない。
   いくのネットへのリンク

水神さん     -西川辺-
毎年7月10日、市川町役場の北、市川の堤防近くに建てられているお社で、水神さんのお祭りが行われます。現在、このお祭りは西川辺の各隣保が交代でお世話をしています。 お社は以前は、もっと南の役場庁舎付近にありましたが、現在の庁舎建設により、北へ移築されました。50年程前のお祭りでは、周辺にたくさんの堤灯が灯され、芝居や映画が催されて多くの人で大変賑わったそうです。昔、このあたりは大雨の時に、市川の水が堤防の上を越えることがしばしばあったのでしょう。川を無事に治めたいという住民の願いから、水神さんが祀られてきました。
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最近、といってもここ10年~20年に「水神さん」と呼ぶようになったが、以前は祇園さん(ぎょんさん)と呼んでいた。どういう訳で「水神さん」と呼ぶようになったのだろう??。今でも、「祇園さん(ぎょんさん)」と呼ぶ人の方が多い。

川辺城   -西川辺東-
市川町スポーツセンターの裏山から、北へ伸びる尾根の一番高いところに川辺城の跡があります。標高は323m、頂上に幅約12m、長さ約50mの長い平坦地がつくられ、まわりにはそれを守るように堀や土塁、また帯状の平坦地がめぐっています。この城の城主は大野弾正忠氏といいます。赤松氏の幕下となり、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した建武の戟に武功をあげたということです。また、文和4年(1355)足利義詮が山名軍を打ち破った神南合戟(今の高槻市附近)で赤松一族と共に戦い、軍功をたてました。その後、大野七郎左衛門、岩崎六郎左衛門らが居城としたとあります。     「播磨鑑」より
    川辺城へのリンク
天満神社  -西川辺-
西川辺の通称亀山のふもとに天満神社が鎮座しています。現在は播但道が目の前を通っていますが、昔は遠く福崎町方面まで、見わたせたことでしょう。神社の拝殿と本殿の間に立てられている石燈籠には寄進者として「須加院御紙漉所」という名が刻まれています。文政6年、今から150年以上前のものです。須加院には昔、実際に紙すき所がありました。文政4年(1821)姫路藩は膨大な財政赤字を改善するために藩札を発行することになり、宮辻弥次兵衛という紙すき師を招き、須加院に紙すき所を開設しました。遠く離れた西川辺天満神社に燈籠を寄進している理由としては、川辺周辺が紙の原半斗となるミツマタ・ガンピ等の産地であったことが考えられます。
高瀬舟舟着場  -西川辺-
江戸時代から明治初めにかけて、市川を利用した舟運がさかんに行われていました。自動車、鉄道のなかった時代には、舟運が最も効率のよい運送方法だったのです。運搬には高瀬舟が利用されました。舳先が高く上がり、浅瀬でも通れるように底が平らになっています。舟には3トンほどの荷物を積むことができ、上りは塩や海産物、下りは年貢米・材木・生野銀山の鉱石など満積していました。市川町内では川辺・甘地・屋形に舟着き場があ古りました。しかし、明治に入り、飾磨と生野銀山を結ぶ馬車道が市川沿いに開通し、そして、明治27年(1894)に播但鉄道が開通することによって、舟運は完全に終わりを告げることになります。
伊能忠敬の地図測量  -西川辺ほか-
江戸時代、伊能忠敬が全国を測量して正確な日本地図を作成したことは有名です。この測量隊が市川町にもやって来て測量を行なっています。当時の「測量日記」によれば、文化11年(1814)正月4日、姫路を出発した忠敬の本隊は加西へ向かい、永井甚佐衛門率いる支隊が市川を北上しました。8日朝から辻川・井ノロ村を測量し、西田中を経て西川辺村の庄屋佐十郎宅で昼食を取りました。その後、浅野を経て屋形の旅寵、井筒屋で宿泊しています。この後生野峠を越え、永井支隊は但馬街道の正確な地図を作成しました。
種痘分苗所      -西川辺・鶴居-
天然痘はウイルスで感染する恐ろしい病気で、死亡率が高く、幸いに治癒しても痘痕が残りました。歴史的にも世界各地で大流行した記録があります。しかし、1796年にジェンナーが発見した牛痘種痘法が有効な予防法となり、1980年、WHO(世界保健機構)により絶滅宣言が出されました。江戸時代の終り頃(1849年に日本にワクチンが輸入)、、緒方洪庵がこの方法を取り入れ、大阪の除痘館で種痘を行っていたのは有名です。しかし、大阪だけでなく、各地で天然痘の予防に奮闘した人がいたことは、あまり知られていません。牛痘苗は日本各地の町医者に分苗され、分苗所とよばれ、予防に大きな力を発揮しました。嘉永3年(1850)の記録を見ると分苗所として、「播州神東郡川辺村 中川脩斎」「播州鶴居村 後藤左仲」の名が見えます。この市川町にも恐ろしい天然痘と闘った人がいたのです。しかし、その江戸時代から続く中川医院も平成25年頃に閉院となりました。
文化センターの彫刻     -西川辺-
文化センターの入口に大きな彫刻が2基、設置されています。この彫刻は平成13年(2001)、「西播磨国際彫刻シンポジウムinKANZAKl」と呼ばれるプロジェクトによって作られました。「交流とコラボレ-ション(共同制作)」というテーマのもと、海外の彫刻家と日本人の彫刻家がペアを組んで作品を制作しました。そして、5組のペアの作品が郡内5町(当時)にそれぞれ設置されました。市川町の作品はオランダ人のHansReijndersさんと市川町出身の宮浦康暢さんの作品です。市川町の慣れ親しんだ風景をそのまま彫刻にと、「川につどう人々」をテーマに市川の流れをモチーフにした滑り台を配し、それを囲むように置かれた石には、人々が腰かけた跡がくっきりと刻まれています。
  広報いちかわ2007年4月号 ぶらりいちかわ散歩道<259>
生野レンガと銀の馬車道      -西川辺-
西川辺の民家で、改装のために地面を掘っていると古い赤レンガが出てきました。長さ23.5cm、横幅11cm、厚さ6cmで、重さは2.7kgです。少し欠けているので、元々は3kg程度であったと思われます。今のレンガと違い、ずっしりと重くしっかりとした硬さを持っています。表面には漢数字の「八」または、カタカナの「ハ」と読める刻印があります。このレンガは、明治3年よリフランス人の指導で作られた生野レンガです。銀の馬車道の開通にあたり、終着点である飾磨漕には倉庫や荷積場が造られました。この建築資材として、生野で約70万枚もの大量のレンガが作られ、馬車道で運搬されたことが記録に残っています。今回見つかったレンガは生野で作られ、銀の馬車道の何らかの資材に使われたのではないでしょうか。 (参考:銀の馬車道HP〕
  広報いちかわ2012年10月号 ぶらりいちかわ散歩道<318>
市川高校  -東川辺・西川辺-
市川高等学校は、市川町にある唯一の高校で、仏教系の私立高等学校。創立当初は市川町立の商業高校(昭和34年創立)であった。第79回選抜高等学校野球大会(平成19年度)に野球部が出場するなど、クラブ活動に力を入れており、1997年の高校総体では相撲部が団体で全国制覇を果たしている。また授業内容に「座禅」があるのも特徴である。

よりど谷古墳    -西川辺東-
市川町内には20以上の古墳が知られています。なかでもスポーツセンターから西川辺東にかけての山中にはたくさんの古墳が集中しています。ここは、よりど谷古墳群と呼ばれ、8基の古墳が見つかっています。古墳はいずれも丸い形をした円墳で、横穴式石室と呼ばれる石組の部屋が作られています。今から1500年ほど前に川辺周辺を支配していた豪族によって築かれたものと考えられます。この中で、築かれた当時のまま完全に残っている古墳が1つあります。古墳の内部には3畳ほどの広さで高さが2mの石室があります。これほど完全に石室が残っている古墳は珍しく、市川町の歴史を考える上で貴重です。

内田神社      -西川辺南-
西川辺のマックスバリューから100mほど南へいくと、内田神社が鎮座しています。由緒記によると、元亨元年9年(1321)、大山洪水と呼ばれる大きな洪水がありました。この洪水で千束山が流れ、この周辺が川原となりました。その後、内田徳之助が私財を投じて水田への開発を行いました。そのため、土地の名前が「内田」となり、その後に神社が建立され、「内田神社」と名付けられました。そして、昭和3年(1928)御大典を記念し村の氏神に祀り、現在に至っています。ちなみに、大山洪水の言い伝えは各地に残っています。北田中の薬師堂には大山洪水で流されてきた薬師如来の木像が「流れ薬師」と呼ばれお祀りされています。
 広報いちかわ2011年11月号 ぶらりいちかわ散歩道<307>

鉱山寮馬車道 -浅野、西川辺、他-
明治のはじめ頃、屋形~浅野~西川辺の市川沿いに馬車道が作られていました。倒幕を果たした明治政府は財源確保のため生野銀山を接取しました。フランス人技師コワニーを招き、洋式技術を導入したことにより出鉱量は飛躍的に増大していきます。ところが、鉱山で大量に使用する石灰・コークス等の運搬が追いつかない状況になったため、飾磨港から生野まで馬車道を新設することになりました。この道「マクアダム式」と呼ばれ、巾は4m。石で舗装されて下は30cmの厚さで土が突き固められていました。明治6年に着工し、3年後に完成しますが、これが明治政府による最初の国道と言われています。そして播但鉄道開通まで、生野銀山の物流を支えていました。
   公式サイトへのリンク
忠 魂 碑      -東川辺-
市川高校の校庭に、昭和17年(l942)に建立された忠魂碑があります。当時は川辺尋常高等小学校でした。建設には川辺村の多くの方が奉仕作業を行いました。小学校の児童が市川から川原石を運んだと伝えられています。時に刻まれた「忠魂」の文字は高橋三吉海軍大将によるものです。高橋大将は昭和9年(1034)から11年(1936)まで旧日本海軍の連合艦隊司令長官を務めた軍人です。海軍大学校同期の米内光政(後の首相)や後輩の山本五十六(後の連合艦隊司令長官)らと共に「日独伊三国協定」に消極的で、対米協調論者でした。市川町とは縁が深く、先祖が眠るお墓が屋形区内にあるため、年に2回は必ずお墓参りに訪れていました。この時の他にも、町内には第二次世界大戦に関係する歴史遺産が多く残されています。戦後60年以上を経た今も 改めて平和の大切さを実感します。
  広報いちかわ2008年8月号 ぶらりいちかわ散歩道<268>
向城山古墳と石切場跡     -東川辺-
東川辺の大通寺の北側にそびえる山の頂上近くの尾根に、向城山古墳があります。この古墳は、直径14mの円墳と考えられています。古墳には石室が作られているようで、大きな石が地面に露出しています。また、近くから須恵器(すえき)と呼ばれる土器の破片が見つかっています。古墳のある山は、南東に対面する山の頂上に山城があったことから、向城山(こうじょうぎん)という名で呼ばれています。
 また、古墳近くに「馬岩」と呼ばれる巨大な岩があります。この岩の一部に黎(たがね)と呼ばれる道具で石を割ろうとした跡が残されています。古墳に使う石材を切り出していたのかもしれません。古墳へは大通寺の裏から登る通があります。
 広報いちかわ2010年3月号 ぶらりいちかわ散歩道<287>
内藤利八の生家  -東川辺-
内藤利八は東川辺に生まれた明治の政治家・実業家です。明治23年(1890)第1回の帝国議会選挙に当選した後、播但鉄道の建設や電力事業などを手がけ、播磨地方の経済発展につくしました。現在、利八の生家はありませんが、離れ座敷が東川辺の大通寺に移築され、客殿として残されています。建物は2階建てで、1階の座敷には当時の兵庫県知事から利八に宛てた手紙が額に納められてあげられています。日露戟争が開戟した時のもので、切迫した様子が伝わってきます。
広報いちかわ2004年3月号 ぶらりいちかわ散歩道<208>
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大通寺に1920年頃に移築されたこの離れ座敷も平成18(2006)に大通寺の住職である去来川氏の保存の訴えにも拘わらず、取り壊すこととなり座敷は、現存していない。残念である。
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利八は、東屋敷の分家5代目。東屋敷は、総本家の大庄屋内藤家より1760年頃に分家。東屋敷は、西川辺内藤醤油店・明治39年内國勧業博覧会三等賞牌受賞。西川辺の大庄屋内藤家は、酒屋を創業。

内藤利八
内藤利八氏は安政3年(1856)2月6日神東郡川辺村(現神崎郡市川町東川辺)で生まれる。幼時より学問を好み、寺子屋(長昌寺)の住職より漢学の指導を受ける一方、早くから自由民権運動に加わっていた地元の大先輩でもあり、寺子屋の師匠でもあった岩崎兵三郎氏から語学や近代政治思想などの幅広い知識を吸収していった。政治家としての利八氏はこうした学問研究の中でしだいに 育てられていった。明治5年(1872)学制施行と同時に村の小学校(市川町長昌寺に設置)の塾監となり、かたわら役場吏員として地租改正の仕事などをし、翌6年には戸長として村政に参加する。明治14年(1881)県会議員に当選、副議長の要職に就く。翌15年(1882)大隈重信の改進党に参画、同23年(1890)7月、地元の熱い期待を背に日本政治史上初の衆議院選挙に兵庫7区より出馬、改進党議員として当選を果たす。播州、但馬の開発と発展のために、播但鉄道の敷設に尽瘁し、明治25年(1892)に姫路~寺前間を開通させ、さらに同28年(1895)4月14日、飾磨~生野間(49、2キロ)の全線を開通させた。同鉄道は明治39年(1906)3月10日、和田山まで延長、山陰線と連絡させることができた。氏は地元の強い支持を得て、明治末年まで国会議員として国政に参画するかたわら、さきの播但鉄道敷設事業、さらに明治30年(1897)姫路水力電気会社を設立し、発電と配電事業を起こし、同38年(1905)関西電力寺前発電所を設立している。それらの事業に加えて、姫路商業銀行、飾磨銀行、播磨紡績等の会社創立に努めるなど、数々の業績を通じて播州一円の産業発展に大いに、貢献した。大正10年(1921)6月28日病歿、享年65歳。氏は、国政と事業を通じて、わが国の近代化と播州一円の開発と発展のために、私利私欲を捨て、自ら常に清貧に甘んじながら尽瘁した生涯と言えるであろう。ここにわれら町民こぞって、郷土の生んだ偉大な先覚者、内藤利八氏の多大の業績を心から讃えるとともに、長く後世に伝えるために顕彰碑を建立する。
   平成3年3月 吉日                   市川町
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以上、甘地駅前にある内藤利八の顕彰碑から。この顕彰碑は、「ふるさと創生事業」の補助金の一部を使って作られたものである。

内藤利八所蔵 儀礼刀   -東川辺-
内藤利八は安政3年(1856)当時の川辺村に生まれました。播但鉄道の創始者として播磨地方における経済開発に大きく貢献したと同時に、中央政界での活躍にも著しいものがありました。利八は大隈重信、犬養毅の立憲改進党に参加し、明治23年(1890)の第1回総選挙において当選しました。その後明治42年(1909)まで、4回衆議院に当選しています。写真の儀礼刀は利八が公職に就いていた間に、正装や礼装時の装飾用として使用されたものです。刀身は細身の模擬刀身仕込みで、柄も片手握りの純西洋式のサーベルです。全長は87cm、重さは820gです。現在、東川辺の大通寺に保管されています。
                  参考資料:『兵庫県大百科事典』
 広報いちかわ2011年8月号 ぶらりいちかわ散歩道<304>
中屋敷旧魂碑  -東川辺-
市川高校の敷地内にふたつの石碑が建っています。ひとつは「中屋敷旧魂碑」もうひとつは「鵜埜君之碑」です。どちらも明治12年(1879)に内藤孝信氏が建てたものです。「中屋敷旧魂碑」には、内藤氏の宅地は中屋敷と呼ばれ、元は青田半太夫の屋敷であった、と記されています。青田半太夫はこの地の豪族です。「鵜埜君之碑」は、神河町福本の鵜埜金兵衛氏のことを顕彰しています。鵜埜家は備前屋とも呼ばれ、福本藩の藩札を作っていたほどの大庄屋です。また、「福乃基(ふくのもと)」という銘柄の造り酒屋でもありました。
大通寺のサザンカ    -東川辺-
サザンカはツバキの一種で、学名をカメリア・サザンカといい、日本原産の植物です。花は秋の終りから初冬にかけて咲きます。春に咲くツバキは、花がかたまりになってポトリと落ちますが、サザンカは花びらが散ります。大通寺境内のサザンカは、高さ約10m、幹回りが1.5mに及ぶ巨樹で、町の天然記念物に指定されています。樹木全体に薄いピンク色の可憐な花をつけています。12月下旬頃より少しずつ花びらが散っていきます。
大通寺の号碑 -東川辺-
東川辺の大通寺の門前に大きな石の号碑が建てられています。60Cm角で高さは3mの花崗岩です。正面には「向城山大通寺」の号が刻まれています。横の面にはこの字を書いた永平寺の貫首である宮崎突保師の署名があります。この石は、京都の鴨川に架かる二条大橋のすぐ西にあった屋敷から運ばれてきました。この屋敷は最初、江戸時代初めの豪商角倉了以の別邸として建てられました。角倉了以は鴨川の水を利用した運河、高瀬川を開いたことで有名です。高瀬川の源流がこの邸宅の庭に取り込まれていました。その後、明治時代には山県有朋の別邸などになり、現在に至っています。この花崗岩は平成12年にこの屋敷から運ばれ、現在の地に建てられました。
コウホネ     -東川辺-
東川辺にある大通寺の本堂裏の池に「コウホネ」という珍しい花が咲いています。コウホネは日本原産のスイレン科の植物です。根茎が横に長く伸び、太くて白く、ちょうど手足の白骨のように見えるところから、コウホネ=川骨と呼ばれるようになったと言われています。コウホネは根茎に、ヌファリジンという物質を含んでいるため、昔から薬屋で「川骨(せんこつ)」と呼ばれ、強壮剤・止血薬として売られていました。兵庫県の希少動植物を紹介する「兵庫県版レッドデータブック」がこのほど改訂され、コウホネは絶滅危険度Cランクから危険度Aランクに引き上げられました。Aランクは、県内において絶滅の危機に瀕している種で、絶滅の恐れが最も高いことを示しています。大通寺では8月上旬頃まで、黄色い可憐な花が見られるそうです。
 広報いちかわ2010年7月号  ぶらりいちかわ散歩道<291>
烏瑟沙摩堂    -東川辺-
東川辺の大通寺の境内に、烏瑟沙摩堂(うすさまどう)と呼ばれる小さなお堂が建てられています。ここには烏瑟沙摩大明王という神さまがまつられています。この神さまは身体の下半身を守ってくれるとされ、特に子授けや安産などを願う女性達に厚く信仰されています。願い事をする時には、女性のシンボルといえるカンザシヤクシをお堂に納めます。お堂には、長い年月にわたって願い事を行ってきた、たくさんの女性のカンザシ・クシでいっぱいになっています。このお堂には、遠い昔から現在にいたるまで、女性の素朴でしかも切実な願いがこめられています。ここには時代を越えて共通する人間の心を見ることができるのではないのでしょうか。
白磁椀    -東川辺-
白磁は、白色の素地に灰と石を用いた透明性のある釉薬をかけて、高温で焼きあげた陶磁器です。今から約1300年ほど前に中国で作られるようになったのが始まりです。日本で作られるようになったのは、それから900年も後の江戸時代初期で、九州の有田で焼き始めたのが最初とされています。ただし、日本には中国から大量の白磁が輸入されていました。特に鎌倉、室町時代には中国(宋・明)との貿易が盛んに行なわれ、陶磁器類がたくさん輸入されました。輸入された陶磁器類は、貴重品として国内の有力者が所有するようになります。市川町では、東川辺の発掘調査でほぼ完全な白磁の椀が出土しました。神崎郡内でも初めての発見です。鎌倉時代、東川辺には大規模な集落があり、大変栄えていたようです。
花渕古墳と銅鉱石採掘跡     -東川辺-
市川高校サッカー場の北側の山に、テレビ塔が立っています。この付近で最近、古墳が4基発見されました。1,500年ほど前の豪族の墓です。いずれも20mほどの円形で、高さ2~3mの土が積み上げられています。1mほどの石を組んで、石室を造っている古項もあります。これらの古項は、地名から、花渕古墳と名付けられました。また、ここより500mほど北の山麓に、小さな稲荷神社があります。この付近には銅鉱石があったらしく、昔に試し掘りをした跡があります。あまり良質の鉱石ではなかったらしく、本格的な採掘はされませんでした。市川町では、西小畑の「奥山鉱山」が江戸時代に本格的に操業されていました。今でも採掘跡のトンネルが残っています。
源 為朝の絵馬    -東川辺-
医学の発達していなかった江戸時代、庖癒(天然痘)は死亡率が高く、子供たちにとってもっとも恐れられた病気でした。種痘による予防法が確立されるまでは、有効な治療法がまったくありませんでした。そのため痘瘡にかからないことを願って絵馬が神社に奉納されました。これには源為朝が鬼と力比べをしている絵が措かれました。為朝は平安時代の武将で豪勇を誇っていました。為朝の力をもって、庖癒を退治してほしいとの願いが込められているのでしょう。市川町では東川辺の八幡神社にあげられています。奉納したのは、村の子供連中です。
大通寺の妙鉢(みょうばち) -東川辺-
妙鉢とはちいさなシンバルのような仏具で、2枚を打ち合わせるように音を出します。大通寺に伝わる妙鉢には銘文が刻まれています。干時延寶三乙卯年霜月吉日 天下一筑後大掾氏重作これにより、延寶3年(1675)、氏重によって作られたことがわかります。この氏垂とは藤原氏重のことで、有名な刀鍛冶でした。手柄山鍛冶と呼ばれ、初代・2代は氏重、3代以降は氏繁と名乗っています。以来幕末まで多くの雄刀を世に出し、手柄山の名声を天下に知らしめました。多くの刀が残されており、廣峰神社に奉納されている刀は重要文化財に指定されています。このような名工の手による妙鉢が市川町に現在も伝えられています。
農繁期託児所 -東川辺ほか-
むかし、保育所などがなかった時代、田植えや稲刈りで農作業が忙しい時に、村の子供たちを預かる、臨時の託児所が設置されていました。「神崎郡誌」によると、昭和に入ってから、広く採用され始め、昭和15年(1940)頃から著しく発達したそうです。寺院・神社や公会堂などで開設され、郡内のほとんどの村に託児所があったそうです。東川辺の大通寺には、この当時の旗が残されています。畳1枚分ほどの大きな旗で、「慈愛旗 農繁期託児所 朝日新聞社事業団寄贈」と書いてあります。大通寺の託児所が優良施設として表彰されたとき寄贈されたものです。
西田中村井堰と高高瀬舟    -西田中-
江戸時代、市川では高瀬船が行き来して年貢米などを運んでいました。高瀬船は当時の貴重な運搬手段でした。しかし、問題もありました。市川には川の水を田に引くために、川水を堰き止める井堰が造られていました。井堰があると高瀬船は通行できません。そのため、通船するときは井堰の一部を切って、船道をつけていました。天保5年(1834)、西田中村から姫路藩に嘆願書が出されています。「通船するたびに井堰を切るので、村の者が修理をしなけれはならず、因っています。高瀬船の通行を中止してください。」という内容です。しかし、この嘆願は聞き入れられなかったようです。その後も高瀬船が年貢米を運んだ記録が残っています。
 広報いちかわ2010年6月号  ぶらりいちかわ散歩道<290>
西光寺野疎水路第7号トンネル   -西田中-
西光寺野疎水路は下瀬如から福崎町西光寺野まで、総延長8.8キロに及ぶ壮大な用水路です。大正元(1912)年11月からエ事が始まり、大正4(1915)年4月に竣工式を迎えました。この用水路にはトンネルが8か所(合計1372m)、水道橋が5か所(合計74m)、埋め立て暗渠が4か所(合計243m)もあり、難工事の連続でした。8か所のトンネルのうち、第7号トンネルの入口が西田中落合にあります。このトンネルは全長が492mもあり、福崎町北野に貫けています。やっと人が通れるほどの狭いトンネルをすべて人力で掘って行きました。トンネルエ事では崩落による犠牲者も出ています。この疎水のおかげで西光寺野の300ヘクタール以上の土地が開墾されました。   『私たちの神崎郡』ほか
 広報いちかわ2007年7月号  ぶらりいちかわ散歩道<255>
後藤八郎左兵衛門 -西田中-
西田中の光明寺境内に義民後藤八郎左兵衛門の墓碑が建っています。今から250年ほど前の江戸時代の頃、当時の田中村は姫路藩の領地でしたが、きびしい年貢に苦しんでいました。これを見かねた八郎左兵衛門は一策を講じます。村の田すべてに水を引き込みドロ田にしてしまい、これを藩の役人に見せました。役人は田が洪水にみまわれたと勘違いして年貢を大幅に減免したため、村人は大いに救われたそうです。しかし、この策略が奉行所にしれてしまい、八郎左兵衛門には国外追放の処分が下り、元文3年(1738)没しています。これ以後人々は「八郎左兵衛門さん」と呼び親しみ、祠を作ってまつってきました。現在は西田中の市川近くに祠が移されています。
八郎はん祭リ     -西田中-
江戸時代の中頃、村は厳しい年貢の取り立てに苦しんでいました。このままでは飢え死にするという思いから、後藤八郎左衛門は一策を講じます。収穫前の田に水を引きドロ田にして役人に見せ、年貢の大幅減免に成功しました。村は救われたのですが、このことが知れてしまい、八郎左衛門は国外追放となり元文3年(1738)に亡くなりました。
その後、村人によって長年お祀りされていましたが、このたび、西田中公民館の敷地の一角に、新しく石の祠が建てられました。8月4日の夜には第1回の「八郎はん祭り」が行われました。祠の前には提灯やのばりが立てられ、八郎左衛門の徳がしのばれました。また、子ども会をはじめ、各種団体から夜店が出され、市川音頭の総踊りやビンゴゲームなどを楽しみました。
   広報いちかわ2007年9月号  ぶらりいちかわ散歩道<257>
一撲の抜け穴 -西田中-
西田中の光明寺から50mほど東において、宅地の工事中に地中から石積の横穴が発見されました。穴は幅が約40cm、高さが約60cmで、ほぼ水平に伸びていました。そして、左右上下とも、10~20cmの丸い石がきれいに積まれています。地元の言い伝えでは、「江戸時代の百姓一揆のとき、一揆のリーダーたちが役人の取締りから逃れるため、お寺から地下の抜け穴を掘っていた。」とされています。今回見つかった穴が一揆の抜け穴ではないかと、大きな話題となりました。また、これに関連するのかもしれませんが、光明寺境内には義民後藤八郎左衛門の墓碑があります。江戸時代、村は厳しい年貢に苦しんでいましたが、八郎左衛門は一策を講じます。村の田に水を引き込んで洪水に見せかけ、年貢を大幅に減免させました。このことが知れ、八郎左衛門には国外追放の処分が下りました。
浄宗寺の六字名号     -保喜-
保喜の浄宗寺には蓮如上人・突如上人の筆による六字名号(南無阿弥陀仏の六文字)の軸が伝わっています。蓮如上人は応永22年(1415)生まれ、浄土真宗本願寺第8世になりました。越前吉崎に坊舎をたて、京都山科に本願寺を再興するなど、教団隆盛の基礎を築きました。実如上人は蓮如上人の子息で、本願寺第9世。父が拡大した教団の整備と護持につとめました。蓮如上人は吉崎を出た後、摂津・丹波・播磨に布教に入り、各地に足跡を残しています。市川町神崎にも「蓮如上人お亀済度の聖蹟」と伝えられる六字名号を刻んだ大きな石が残されています。浄宗寺の六字名号もこの布教活動と深い関係があるものと思われます。
江州音頭      -保喜-
8月には、町内のあちこちで盆踊りが開催されました。現在はいずれの盆踊りも「炭鉱節」がスピーカーから流れているようです。昭和の中頃まで盆踊りは地域の若者を中心として、非常に熱気にあふれていました。そして音頭は播州音頭、江州音頭が主流でした。江州音頭のルーツはよくわかりませんが、市川流域で特に流行りました。「音頭取り」が交代でやぐらに登り、一つの物語を延々と歌い上げます。物語の題材は浄瑠璃からとったものが多く、「鈴木主水」「安珍清姫日高川」「お夏清十郎」などがありました。保喜では村おこし事業の一環として、平成15年より盆踊りに音頭取りによる江州音頭を復活させています。今年も8月14日に盛大に行われました。たこ焼きやかき氷などのお店が出て、くじ引き大会では大変盛り上がりました。そしてやぐらの上からは江州音頭の歌声が流れ、夜がふけるまで踊りの輪が絶えませんでした。 参考:『市川流域・市川町の盆踊りと音頭集』今井草子より
  広報いちかわ2008年9月号 ぶらりいちかわ散歩道<269>
庚 申 堂      -保 喜-
保喜の山裾に瀬加の加茂地の池から福崎の西光寺へ水を送る水路が通っています。その水路の山側に「庚申堂(こうしんどう)」というお堂がありました。昔から歯の神様と言い伝えられています。近隣の村からも、たくさんの人がお参りに来ていました。毎年5月8日には、おはぎ等を作ってお供えし、浄宗寺のご院住さまにお経をあげていただきます。お堂の前では、子どもたちが相撲をとり、お祭りを行っていました。今は、音のお堂が古くなり、元の場所にお年寄りの憩いの家を建て、その中へおまつりされています。お堂の中には、3体の石のお地蔵さんが大切に安置されています。
  広報いちかわ2010年9月号 ぶらりいちかわ散歩道<293>
奉 安 殿(ほうあんでん)     -保 喜-
保喜の集落の南側の山を少し登ったところに、お年寄りの憩いの家があります。憩いの家にむかう道の途中に「奉安殿」の建物があります。奉安殿は、第2次世界大戦前に天皇・皇后両陛下の写真と教育勅語を納めていた建物です。敦青物語が制定された1910年代より奉安殿建設が始まり、小学校では1935年頃に建設が活発化したとされています。式典の際には、職員生徒全員で両陛下の写真に最敬礼し、教育勅語が朗読されました。また、登下校時に前を通過する際にも、服装を正して最敬礼するように定められていました。戦争が終わった後、昭和20年(1945)12月15日にGHQ(連合国総司令部)から指令が出され、奉安殿は廃止されました。この奉安殿は川辺尋常高等小学校(現在の市川高等学校の場所にありました)に建設されたものですが、終戦後に現在の場所に移されました。
 広報いちかわ2010年11月号 ぶらりいちかわ散歩道<295>
松井計蔵(まついけいぞう)氏顕彰碑  -保 喜-
保喜公民館の北側、県道に面した場所に松井計蔵氏を顕彰する石碑が建立されています。保喜では、昭和の初め集落内に東西南北に走る幅4m以上の道路が建設され、昭和4年(1929)5月には、村の中心部に立派なコンクリート製の橋「中橋」が架けられました。この道路と橋は、村の発展向上に大きく貢献しました。この建設に功労のあった松井計蔵氏を顕彰するため、住民の総意により碑が建てられました。昭和38年の集中豪雨の時、岡部川に架けられた橋は中橋を除いてすべて木製の橋でした。洪水によりすべての木橋が流され、中橋でせき止められました。そのため、保喜の集落は大きな被害を受けました。橋の南側の堤防はえぐり取られましたが、中橋だけは流れずに残りました。
 広報いちかわ2011年4月号 ぶらりいちかわ散歩道<300>
金毘羅さん -北田中-
北田中スポーツセンターの裏山に金毘羅さんがまつられています。参道は石段で整備され、親切に杖まで用意されています。5分ほど木陰の中を登ると、享保10年(1725)に造立された常夜燈が現われ、奥に金毘羅さんの小さな社があります。社は山の岩盤とつながっており、扉を開くと岩には「金毘羅大神宮」の大きな文字が刻まれています。いつ頃のものかわかりませんが古くから地元の信仰を集めていたに違いありません。山頂には川辺城と呼ばれる城跡があります。平坦地の周囲に空濠がめぐっており、その下には出城もあります。三方が見わたせる絶好の地です。城主は赤松の幕下、大野弾政忠氏でこの金毘羅宮をことのほか強く信仰していたそうです。
流れ薬師    -北田中-
北田中の集落のなかに薬師堂が建てられています。なかには「流れ薬師」と呼ばれる薬師如来が祀られています。薬師像は高さ1m足らずの木製の座像です。傷みが激しく、全身の表面が朽ちてしまって、顔や服装などほとんど判別できません。言い伝えによると、今から600年以上前の鎌倉時代に大山洪水と呼ばれる大洪水が起こりました。その時に市川の氾濫とともに流れついたのが、この薬師さんです。村人達はここに堂を建てて、丁重にお祀りしたそうです。それ以後、この仏さんは「流れ薬師さん」と呼び親しまれました。特に目の病気にご利益があるとされて、多くの参拝者で賑わったそうです。
製筵機発明人   -北田中-
市川町北田中の薬師堂から少し北の道端に、顕彰碑が建てられています。碑の表には「製筵機発明人 木村常吉君記念碑」、裏には「大正十四年(1925)十月 依副業増進効建之」と記されています。当時の農家はいろいろな副業を持ち、現金収入の手段としていました。そのなかでも筵(むしろ)、叺(かます)の製造は日清・日露戦争時の軍用として飛躍的に需用が増え、戦争後も肥料用として国内において広く使用されました。大正10年(1921)の資料では、郡内で生産戸数6,300戸、年間生産400万枚(当時の金額で1,200万円)にも昇り、郡内随一の産業となっていました。当時の農商務省からも、農家の絶好の副業として高く評価され、学校の教科書にも載ったほどでした。
上月平左衛門と石妙寺     -北田中-
宝永5年(1708)、新野(現神河町)の大庄屋であった上月平左衛門は、福本藩の百姓の代表として年貢減免の嘆願を行い、また神崎郡・飾磨郡界に広がる亀ケ壷の山林への入会権を守るなど大きな功績を残しました。百姓たちは平左衛門の功績をたたえ、義民として手厚く弔いました。今も命日にはおまつりをしています。この後、平左衛門の次男安左衛門は北田中に、四男佐右衛門は西川辺に住みました。そして佐右衛門の孫中川見硯は医師でしたが、石妙寺開山の日健上人が熊本本妙寺に移ったため第2代住職を務めました。石妙寺には、安左衛門の墓碑が建てられています。
上月平左衛門物語「首切り地蔵」-伝承話:神崎郡神河町 旧、神崎郡神崎町
市川町の歌碑① 木村眞康(きむらしんこう) -北田中-
北田中、石妙寺の境内に木村眞康の歌碑が立てられています。眞康は、明治39年(1906)市川町上瀬加で生まれました。小学校卒業後、大阪で働きながら学び、帰郷して瀬加村営バス会社に就職。活発に短歌の創作活動を行い、文芸誌「閑鶏集」の発行や同人組織「龍謄社」の創立に尽力しました。また、歌人前田夕暮門下となり、日本歌人クラブの会員になるなど、全国的にも活躍しました。昭和20年(1945)には「文学圏社」を創立、機関紙「文学圏」は現在も発行され、500号を超えています。市川町の方もたくさん同人として参加されています。石妙寺は、文学圏社の活動の拠点でした。
    雪しろくおきたるままに春たちし
    はりま高嶺に光る陽のいろ     眞康
大ノ木さん     -上田中-
上田中の公民館の向かい側に、高さ2mほどの石のお堂が建っています。石に刻まれている文字によると、ここには樹齢数百年を経た椋(むく)の大木と祭神があったそうです。木は幹廻りが8m、高さが22mもありました。 村人たちに「大ノ木さん(おいのきさん)」と呼ばれ、大変親しまれていました。毎年11月23日には村人たちによってお祭りがされていたそうです。ところが明治43年(1871)8月16日に台風によって、この椋の大木が根本より折れてしまいました。その後、大正6年(1917)3月に村人たちが後世に伝えようとここに石の堂を建立したそうです。
上田中の獅子舞    -上田中-
上田中の獅子舞は、宝永5年(1708)頃に始まったとされ、10月の秋祭りには氏神の諏訪神社に奉納されます。第2次世界大戟後、獅子の舞い手がいなくなり途絶えていましたが、昭和50年代に保存会を結成し、復活しました。獅子は雄獅子で荒々しく舞うのが特徴です。獅子に二人、太鼓一人、笛数人、「ばやし子」に子ども数人がつとめています。舞は8
種類ありましたが、現在4種類しか復活していません。舞は「甘地の獅子舞」と共通のものがあり、伊勢の太神楽系の獅子舞と思われます。今後は、残りの舞を一つでも多く復活させ、後継者を養成することが課題となっています。平成12年、長年の活動が評価され、甘地獅子舞保存会と共に文化庁より補助金が交付されました。
諏訪神社    -上田中-
上田中の諏訪神社は、もともと西田中字杉谷というところにあったそうです。ところが、今から約650年前の市川の大洪水のために被害を受け、現在地に移されました。この洪水は神河町大山で大きな山崩れがあったため、大山洪水と呼ばれています。江戸時代には代々の姫路藩主と崇敬が厚く、特に酒井雅楽頭は毎年の例祭に姫路総社の能楽師を派遣していたそうです。姫路城主の代参者は、舟で市川を上り、西田中で降りて神社まで歩きました。その道すじには現在でも石燈籠が残っています。本殿は一間社流造と呼ばれる形で、切妻の屋根に向拝という庇がつきます。
大日さん          -上田中-
上田中の南、岡部川を渡って山を50mほど登ると大きな岩が現れ、その窪みに祠がつくられています。中には2つの石像が安置されています。ひとつは大日如来の座像です。像の様に「上田中邨中」と刻まれており、上田中の人々が建立したことがわかります。もうひとつも座像で、台座に「小山大権現」と刻まれています。また、祠の扉には「大日如来様御真言 おんあびらうんけんそわか」と墨で書かれており、近隣の方々の厚い信仰を受けているようです。この祠は、大日さんと呼ばれているそうです。

 広報いちかわ2010年12月号 ぶらりいちかわ散歩道<296>
厄 神 斎      -上田中-
上田中の諏訪神社の境内に「厄神斎」をお祀りする杜が建てられ、毎年盛大にお祭りが行われています。今年は2月13日(日)に行われます。これには由来があります。明治のころ、この付近に毎夜お化け幽霊が出るという場所がありました。ある日の夜、上田中の永勝寺の和尚さんが檀家のお参りを終えてそこを通りかかると、白髪で長くて白い髭をたくわえた老人が現れました。この老人は「わしは厄神斎である。この付近の村人が病気や災難で因っているので、これを救ってやりたい。ここに社を建て、祈願すれば諸々の災難を除いてやる。」と告げてどこかへ去って行きました。さっそく村人は社を建て、願い事を祈るようになりました。そしてこの他は厄神山と呼ばれるようになりました。後に、杜は報訪神社の境内に移され、人々の厚い信仰を集めています。
                   「厄神斎の由来」より
 広報いちかわ2011年2月号 ぶらりいちかわ散歩道<298>      
石妙寺鐘楼門(せきみょうじしょうろうもん) -北田中-
スポーツセンターの南隣にある石妙寺には、立派な鐘楼門が建てられています。この鐘楼門は元々、福崎町山崎の妙法寺に元禄15年(1702)に創建されたものです。昭和20年代後半になり鐘楼門が老朽化し雨漏りがひどくなり、建替えられることになり主した。そこで、古い山門の移転先として石妙寺が選ばれることになりました。当時郡内日蓮宗寺院で山Fヨがなかったのは石妙寺だけでした。また、石妙寺は開山の日健上人が妙法寺第十世であり、両寺院はご縁の深い関係でした。梵鐘は以前には明和年間(1746-1771)のものがありましたが、第二次世界大戦に供出したため、昭和45年(1971)再鋳されました。鐘楼門は創建当時の建物で、本量院日遶上人筆の棟木や寄付者名の幕板があり鬼瓦等も残っており、文化財としても貴重な建造物です。また、寺院境内には、樹齢60~70年の枝垂れ桜があり、3月~4月にかけて見事に開花します。是非ごらん下さい。
                  「石妙寺鐘楼門の由来」より
 広報いちかわ2011年3月号 ぶらりいちかわ散歩道<299>     
秋葉大権現    -浅野-
静岡県秋葉山は秋葉山大権現と呼ばれ、防火鎮護の神として各地で厚い信仰を受けています。市川町では浅野の大歳神社裏の山中に社が建立されており、一社として祀られている例としては町内で唯一のものです。境内には「秋葉大権硯」と刻まれた大きな石碑が立っており、裏には「遠州参詣供養塔」台座には「宝暦九年、神東西郡講中連名」と記されています。いまから200年余り前、神崎郡内各地に秋葉講が行われており、講の人々が直接秋葉山へ参詣して勧請したことがわかります。当時秋葉信仰は東日本が中心で西日本では珍しかったようです。毎年4月25日には祭礼が行われ、昔は相撲や演芸などで大変賑わったそうです。
大歳神社正遷座祭   -浅野-
浅野地区の氏神である大歳神社では、本殿屋根の葺き替え工事に伴い、3月13日に御神体を仮宮である秋葉神社に移転する儀式が行われました。秋葉神社は秋葉大権現をお祀りし、防火鎮護の神として厚い信仰を受けています。その後、屋根葺き替えが終了し、4月29日に御神体の正遷座祭が執り行われました。宮司、区長、氏子役員が秋葉神社に参詣し、式典を行った後、御神体を移します。ひとりが榊を持って先頭に立ち、御神体を箱に移して4人がかりで担ぎます。そして他の者が祭具、供物一式を持ち大歳神社まで運び、無事、本社・本殿に納めました。
 広報いちかわ2012年6月号 ぶらりいちかわ散歩道<314>
200年前の俳人たち  -浅野・下瀬加-
下瀬加の庚申堂と浅野の大歳神社には「俳額」と呼ばれるものが掲げられています。これは江戸時代に地元の氏子たちが詠んだ俳句を書き留めて奉納したものです。江戸時代でも、中頃から後半にかけては、庶民にも趣味を楽しむ余裕ができてきたようです。なかでも俳句は人気があったらしく、百近い句が記されています。俳額には村人たちを指導した先生の名があります。丹頂堂寒瓜と丹頂堂守三という人物です。どちらも姫路増位山にあった風羅堂の当主でした。風羅堂というのは寒瓜の父井上千山が、あの奥の細道の松尾芭蕉の蓑・笠を持ち帰り安置したのが始まりです。この風羅堂を中心に播磨の俳語は大変さかんになります。
石工角屋善兵衛    -浅野-
浅野大歳神社の石鳥居には、造られた年代と造った石工の名前がきちんと刻まれています。鳥居の柱の部分に、表側には「大歳大明神華表(鳥居のこと)」「文化四丁卯年十一月吉日(1807)」、そして裏には「石工姫路角屋善兵衛」という字が読みとれます。この角屋善兵衛という石工については、はっきりとしたことは判りません。ただ、姫路の古文書にも名前が出てきますので、当時は石工として、かなり名を成した人物だと思われます。市川町では、昔の鳥居はたいてい加西の高重石か、高砂の竜山石が使われるのですが、浅野の鳥居は花崗岩で造られています。非常にしっかりとした造りのため、200年近くたった今でも痛んだところはありません。
小畑区の盆踊り  -小畑-
盆踊りは、仏教の孟蘭盆の行事と、平安時代に空也上人によって始められた念仏踊りが結びついて始まったといわれ、精霊を迎えて死者を供養する行事として長く受け継がれてきました。8月の盆月には町内各地で盆踊りが行われます。小畑区でも、8月14日に市川町公民館の運動場で盛大に行われました。準備や当日の運営は子ども会の会員さんが行います。中央にやくらが組まれ、色とりどりの提灯が飾られた会場では、模擬店やゲームコーナーもあり、子どもたちが楽しむ姿が見られました。そして、市川音頭と炭坑節を踊った後、ビンゴ大会で締めくくられました。小畑区の住民の皆さんの絆を深める-日となりました。
広報いちかわ2012年9月号  ぶらりいちかわ散歩道<317>
たっちゅうさん    -小畑-
西暦1200年頃、四国の真言宗善通寺の末寺として寒谷山(さぶたにやま、経塚山とも言う)に永勝庵(本尊、子安地蔵尊)が創建されました。その後、3度の火災にあい、延宝8年(1680)には、赤松円心9代末孫開基家として曹洞宗永勝山法雲寺(本尊、延命地蔵尊)が再建れました。 現在、境内には「たっちゅうさん」と呼ばれる石造の地蔵尊がお祀りされています。大きな立像で「享保2年(1717)建立」と刻まれています。経塚山より境内に移転されたそうです。今も多くの人々に厚く信仰されています。
                 (法雲寺資料より)
広報いちかわ2011年10月号  ぶらりいちかわ散歩道<306>
砥石ヶ端(といしがはな)天神坂   -小畑・浅野-
浅野と小畑を結ぶ道は「天神坂」と呼ばれています。小畑天満神社の前を通るために、この名がついたのでしょう。ここには、おもしろい言い伝えがあります。毎年11月になると、日本国中の神さまが出雲大社に集まることになっています。小畑天満神社の神さまも、この坂を越えて出雲へ向うわけですが、坂の頂上から少し浅野の下ったところに砥石の材料となる石が山からむき出しになっています。神さまはここで包丁を砥いでから、出雲へ行きます。そして、全国から集まった神様たちの料理番となって、腕をふるうそうです。浅野には砥石に適した石がたくさん出ていたそうです。
広報いちかわ2011年5月号  ぶらりいちかわ散歩道<301>
孫谷グラウンド    -浅 野-
浅野集落の北側の高台に孫谷グラウンドがあります。この場所は第二次世界大戦時中、終戦後の食糧不足の時代は畑として利用され、サツマイモや野菜を育てていました。食糧難が解消された頃より元のグラウンドに復活しました。年1回は浅野区の運動会が催され、老若男女がスポーツやゲームを楽しみました。その後、全国的にゲートボールがブームになり、市川町でも多くのチームが結成されてゲームを楽しむようになりました。この頃にグラウンドはゲートボール場に変身しました。有志が枯松を伐採し、業者に依頼して拡張を行い、全8ホールの見事なコートが完成しました。現在では町の大会など、大きな大会が開催され、多くの方に親しまれています。
                     『ふるさと浅野の歴史』より
広報いちかわ2009年5月号  ぶらりいちかわ散歩道<277>     
波切不動(なみきりふどう)さん    -小 畑-
小畑から浅野へ抜ける坂道の途中、フォレスト市川ゴルフクラブ入り口付近に波切不動さんがお祀りされています。西番806年、弘法大師(空海)が遣唐使として唐の国で仏教を学び、船で帰国する途中に大嵐に遭いました。船が難破しかかった時に、師である恵果和尚から頂いた霊木を彫り上げた不動明王に無事を祈願されたそうです。すると不動明王が船の帆先に立たれ、右手に持った利剣で押し寄せる波を切り裂かれました。そのおかげで、弘法大師空海は無事に日本に帰国することができたそうです。その波切不動明王は今も高野山南院の本尊として大切にお祀りされています。それ以降、海難除け、航海安全、また諸願成就を祈って、波切不動明王は全国でお祀りされています。
広報いちかわ2011年6月号  ぶらりいちかわ散歩道<302> 
小畑天満神社の御神輿         -小畑-
播州ではいよいよ秋祭りのシーズンを迎えます。小畑天満神社では、秋の祭礼で御神輿の巡幸(天皇が各地を旅行されること)が行われます。本宮の朝、神社において神職による神事が行われ、その後地区の役員さんによって御神輿の巡幸が始まります。御神輿の後ろには神社の紋が入った旗やサカキ、矢などを持った人が続きます。以前は担いでいましたが、距離が長いため今は台車に乗せられています。御神輿は西小畑の八重畑神社へ行き、そのあと南小畑の九鬼橋のたもとにある御旅所まで南下します。ここで神事を執り行い、御神輿を先頭に布団屋台、子ども神輿が続き、天満神社に向かい、宮人りになります。御神輿は3台あり、古い御神輿を修復しようという計画があります。
広報いちかわ2010年10月号  ぶらりいちかわ散歩道<294>
古民家 岸上邸      -小畑-
市川町小畑(小畑御船)にある古い民家の再生が進んでいます。この民家は約150年ほど前に建てられました。間取りは昔の家の特赦をよく残しています。まず玄関を入ると土間があり、左手には座敷が「田の字型」に四間配置されています。長く無人となっていたために傷みが進んでいたのですが、所有者の岸上さんが改修を始めました。改修は大掛かりなもので、屋根は完全に葺きなおしを行います。屋根はカヤで葺きます。カヤは耐久性に優れているため、縄文時代から屋根の材料に利用されてきました。現在、京都府南丹市美山町よリカヤ葺き屋根専門の職人の方が来て作業が行われ、6月末には美しいカヤ葺き屋根が完成します。美山町では今も約250軒のカヤ葺きの民家が残っています。自然景観と、カヤ葺き民家がうまく調和して、日本の農村の原風景ともいうぺき風情があり、文化庁の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定きれています。
広報いちかわ2008年7月号  ぶらりいちかわ散歩道<267>
市川町公民館(旧小畑小学校)  -小畑-
明治5年(1872)、明治新政府によって学制が発布されると、小畑村では法雲寺を仮校舎として法雲学校と呼ばれる小学校がスタートしました。明治13年(1880)校舎が新築され、明治18年(1885)には弘明小学校(東川辺)小畑支校となりました。明治20年(1887)教育令の改正により、小畑簡易小学校となり、同25年(1892)に小畑尋常小学校となりました。修業年数は4年で、1学年1学級の編成でした。記録によると明治25年頃の児童数は約25人です。この当時はまだ就学率が低かったようです。明治42年(1909)に100人を超え、昭和34~35年度には161人で、児童数のピークを迎えました。小畑小学校は130年以上地域の教育に貢献してきました。そして、このたび市川町公民館として生まれ変わることになりました。
   広報いちかわ2008年4月号 ぶらりいちかわ散歩道<264>
小畑の古墳        -小畑-
市川町内には現在わかっているだけで、28個の古墳があります。比較的多く見つかっているのは、沢区、西川辺東区、東川辺区内です。小畑区内では今まで古墳はひとつも無かったのですが、このたび、古墳と思われるものが確認されました。場所は小畑小学校の西側、天満神社の裏山の頂上です。そこには地表に石が表れていて、中心部が少し窪んでいます。遺体を葬っていた石室が陥没した可能性があります。また、頂上へ登る途中にも丸い形をした、円墳らしきものが2個あります。発掘調査をしていないので確証はありませんが、地表に表れた形から考えると可能性が高いと思われます。ところで、不思議な事ですが、瀬加地区ではまだ古墳が見つかっていません。造られなかったとは考えられません。いずれ見つかることでしょう。
   広報いちかわ2007年6月号 ぶらりいちかわ散歩道<254>
観霊水 -小畑-
小畑御舟の谷の奥深いところに観音堂があります。堂の内には立派な厨子が置かれ、十一面観音が祀られています。最近、堂を新築したときに、厨子も解体修理しました。すると、木材に墨で次の文が書かれていました。
     享保十年
     加西郡宇仁谷大工村大工
     藤原朝臣 神田氏理平次仕
享保10年は1725年、約270年前です。大工村とは現在の加西市北部の大工町にあたり、神田氏は寺社建築を専門とする集団で、大工村を本拠として各地で活躍されています。また堂の前には「観霊水」と呼ばれる湧水があります。非常においしい水として広く知られており、遠方からも水を求めに来るそうです。
東小畑の薬師堂 -小畑-
 束小畑の中ほどに東の山へ登る林道があります。これを約300mほど登ると、西の方に突き出た尾根の南斜面に、薬師如来像をお祭りした三間四方の寄せ棟造りの薬師堂があります。本尊の薬師如来像は、室町時代(1328~1573年)に脇仏、十二善神像は、江戸時代中期(1700~1800年頃)に製作されたものと推定されます。お堂は、棟札によると、創建は江戸時代の享保8年(1723年)で、現在の場所よりかなり上の方にあったようです。現在の場所に移転、再建されたのは、明治6年(1873)で、その後、一部改築されていますが、主な部分はもとのまま使われています。お堂には、非常に優れた細工がほどこされた須弥壇や龍の彫刻、また、玉の一つ一つに経文の書かれた素朴な大数疎も残されています。
亀甲竹    -小畑-
市川町東小畑の法雲寺から200mほど先へ行くと亀甲竹と呼ばれる珍しい竹が群生しています。この竹は、節間が交互にふくれて、側面から見ると節がジグザグ状になって見えます。これが亀の甲に似ているのでこの名前がついています。亀甲竹はもともと、孟宗竹(モウソウテク)と同じ種類の竹ですが、突然変異によって出現したものだそうです。芽のある側の節間が伸びて、ない側があまり伸びなかった結果こうなります。孟宗竹は江戸時代の中ごろ、中国から薩摩藩に渡来したのが始まりと伝えられています。孟宗竹の名の由来は、冬の寒い中、母のために筍を取りに行った孝行な子供の名「孟宗」からとられています。
西小畑の五輪塔    -小畑-
仏教の教えによると、宇宙の生成要素は、地・水・火・風・空の五大とされています。それを表わしたのが五輪塔です。一番下の四角い石が地、次の丸いのが水、屋根の形のが火、そのうえが風・空となっています。この塔は亡き人の供養や墓石として作られました。鎌倉時代から戦国時代には、主に武士によって建立されたようです。市川町でも各地にたくさんの五輪塔が残されていますが、一番大きなものが西小畑の奥、大師池というため池のほとりにあります。高さ1m50cm、すべての部分が破損もなくよく残っています。元々は、もっと南にあったそうですが、工事のためにここに移転されました。塔の下からは、骨をいれた壷がでたと伝えられています。 この塔の形から考えると、作られたのは今から約500年ほど前の戟国時代と思われます。「赤松藩備作城記」という古い書物によると、小畑には赤松氏の家臣粟生田内膳正晴が小畑城に居城した、と記されています。この五輪塔と何か関係があるのかもしれません。
八重畑神社     -小畑-
西小畑の谷の一番奥に八重畑神社があります。境内に建立されている石碑によると、この付近は昔「川辺郷八重畑荘」と呼ばれていました。そしてここを所領していたのが「今川貞世了俊」(1326-1414)でした。了俊(りょうしゅん)は足利幕府の要職を務めた人物で、25年間にわたり九州を支配していました。歌人としても有名です。神社の起源は応永8年(1401)まで遡り、応永18年(1411)には八重畑神社としての形ができました。祭神は八王子大権現です。毎年、秋祭りには小畑天満神社を出発した屋台がここまでやってきます。写真撮影に訪れたときは、一対の白梅・紅梅が美しく咲いていました。
御船坂    -小畑-
小畑地区の南小畑と御船を結ぶ峠道は御船坂と呼ばれます。この道は昭和37年(1962)に拡幅工事が行われました。工事にあたったのは、愛知県豊川市に駐屯する陸上自衛隊第101建設大隊です。3ケ月の工事の末、峠は大規模な堀割に変わり、幅4mの道路が完成しました。この工事ではスコップやジョレンを持った地元の婦人会の人たちの活躍ぶりが伝えられています。峠の中ほどにある記念碑のそばには歌碑が建てられています。
  村人のねがいかないて今日もまた
  えがおで通うみふねざか
波切不動さん   -小畑-
小畑と浅野を結ぶ天神坂の頂上付近、フォレスト市川ゴルフ倶楽部の入口付近に波切不動明王をまつるお堂が立っています。西暦806年、弘法大師が唐から帰国途中に嵐に遭い、船が難破しかけました。そのとき、師と仰いでいた恵果和尚から授かった霊木に「不動明王」を刻んで祈念すると、不動尊は大火炎を発し、右手に持つ「利剣」で波を切り裂いて船を安全に導いたといわれています。この像は「波切不動明王」と呼ばれ、現在は高野山南院に安置されています。小畑の波切不動尊は地元の住民に厚くおまつりされており、平成7年にはお堂が新築されています。
小畑天満神社   -小畑-
小畑小学校の西側に天満神社があります。祭神は菅原道真です。昔は大宮天神社と呼ばれていました。天正7年(1579)に書かれた『大宮天神社神事次第』によると、「練テノ相撲」「獅子舞」「田楽踊」「竜音舞」「流鏑馬」などが行われていたことがわかります。江戸時代、姫路藩主の崇敬が厚く、現在の姫路市砥堀に鳥居を設けて遥拝したとされます。また、祭礼には必ず代参させて、敬意を表すために西田中で下馬させて参詣させたと伝えられています。本殿は寛文10年(1670)道立の棟札があります。
大宮天神社神事次第    -小畑-
小畑の天満神社で古い昔に行われていた神事を書き残した文書が残っています。それは、天正7(1579)年に書かれた「大宮天神社神事次第」です。大宮天神社とは今の天満神社のことです。そのー部を紹介します。
・管弦僧三人  ・社務職二人  ・ーツ者(ひとつもの)
・神子ノ渡(かみこのわたし)   ・練テノ相撲  ・獅子舞二頭
・田楽踊(でんがくおどり) ・龍王舞(りゅうおうまい)
・流鏑馬(やぶさめ)  ・神輿
管弦僧とは笛や笙を演奏する僧です。ーツ者とは祭りの行列の中心人物です。練テノ相撲は神事としての相撲であり、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するために行います。また、田楽踊とは五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し、田作りから刈入れまでの稲作過程を模擬的に演じる豊作予祝の神事芸能です。龍王舞は浄舞とも呼ばれ、鼻高の面をつけて祭礼に登場します。福崎町の熊野神社、余田大歳神社では今も秋の祭礼で奉納されています。流鏑馬まで行われていたことを考えると、当時の大宮天神社神事の充実ぶりに驚かされます。
広報いちかわ2012年7月号  ぶらりいちかわ散歩道<315>
小畑天満神社の鳥居    -小畑-
小畑の天満神社は菅原道真公をお祀りしています。古くは大宮天神社と呼ばれていました。江戸時代は姫路藩主の崇敬が深く、祭礼の時は必ず代参させていたそうです。神社の境内には石作りの鳥居がふたつ並んで建てられています。ひとつは本来の参道にあり、もうひとつは参道をはずれ、その右側に建てられています。右側の鳥居には「文化十一季(年の意味1814)郷内氏子中」と刻まれています。この鳥居は元々、天満神社の宮元と伝承されている東川辺区の仏田橋付近に建てられていましたが、明治30年頃の小畑川の大洪水により倒壊してしまいました。そのため、天満神社に移築されることになりましたが、小畑川の洪水のため浅野区を通り、天神坂を越えて運ばれたそうです。
 広報いちかわ2011年1月号 ぶらりいちかわ散歩道<297>
南小畑の地蔵堂  -小畑-
南小畑の中程、小畑川の西側に地蔵堂が建てられています。毎年8月の地蔵盆には盛大にお祭りが行われます。堂の中にはたくさんの石造の地蔵像が納められています。立っているお姿や座っているお姿の像で、きれいな前かけをかけてもらっています。この中でひとつ地蔵名号碑と呼ばれる角柱型の石造物があり、正面には「南無地蔵菩薩」左側に「享和元酉十二月」と刻まれています。享和元年は西暦1801年にあたり、今から200年程前に造られた珍しい物です。
                 『石造遺物の神崎郡誌』より
奥山鉱山   -西小畑-
生野銀山は古い歴史をもち、全国的に有名ですが、市川町小畑に鉱山があったことを知る人は少ないようです。奥山鉱山と呼ばれ、『神崎郡誌』によると、「西小畑にある鉱山で、徳川時代に採掘したものらしく、精製工場跡と伝えるところにはコークス・銅鉱のくずが散在しており、坑道等をとどめるにすぎない」と紹介されています。また、鉱山の存在を裏づける資料として、小畑天満神社の境内の『山神宮』の石碑があります。道立されたのは元治元年(1864)で、寄進者には銀山役人守谷久八郎、槌頭の丑松ほか31名の名が刻まれており、奥山鉱山を開発した人々と思われます。奥山鉱山の昔のにぎわいがしのばれます。
大師堂    -西小畑-
西小畑の一番奥に溜め池があり、そのそばに弘法大師を祀る小さなお堂があります。弘法大師は池や泉など水と関係した場所に祀られることが多いようです。お堂の中には、加西市に産する凝灰岩で作られた浮彫の弘法大師像が安置されています。高さは約1mです。この石像には「安永六(1766)酉八月西小畑村」という字が刻まれています。今から200年以上前、江戸時代の中頃に作られたものです。今も毎月21日(弘法大師の命日)には西小畑地区の人たちがお堂に集まり、お経をあげて飲食をともにします。1月21日の初大師の日には特に盛大に行われ、以前は大規模な護摩法要もされていました。
寺子屋
明治までの庶民の教育は寺子屋で行われていました。ふつう8~9歳から入学し、3~4年間学ぶ子どもが多かったようです。学習は、習字・読本が主で、それに疎算が加わりました。読本は先生の居間に一人ずつ呼び出されて教えてもらったそうです。「神崎郡誌」によると、市川町内で寺子屋が開設されていたのは次の場所です。長昌寺、質樹寺、法雲寺、盛林寺、大通寺、光明寺、石妙寺、永勝寺、浄宗寺、笠形寺、福泉寺、永通寺、福林寺、走法寺、朝日寺、光囲寺、大梵寺、教正寺、龍音寺、観音寺。
市川町の沿革
明治維新後、政府は行政区画の再編を行いますが、制度が頻繁に変わりました。当初、江戸時代の藩のなごりがあったため、町南部は姫路県、北部は生野県、美佐と神崎の福渡地区は鳥取県に属していました。明治4(1871)年には飾磨県に統一され、瀬加・川辺は第9大区第4小区、甘地・鶴居は第10大区第2/ト区と呼ばれました。明治11(1878)年には今井村と福渡村が合併して神崎村に、東小畑村と西小畑村が合併して小畑村となっています。その後、明治13(1880)年に戸長役場という制度に変わり、ほぼ旧村の形ができました。ただ、屋形と浅野が一つの村として戸長役場を持っていたので、5ケ村となります。明治22(1889)年には町村制が実施され、旧4ケ村が成立します。そして昭和30年7月、4ケ村が合併して市川町が生まれました。写真の永勝寺(上田中)には、戸長役場が置かれました。
神東・神西三十三観音巡礼
 現在、四国八十八所や西国三十三所の巡礼が盛んに行われていますが、昔、神崎郡でも、市川の東と西でそれぞれ三十三所の観音巡礼が行われていたことをご存じでしょうか。
 明和5年(1768)に発行された「播陽神東郡観世音三十三所詠歌」
という本と安永4年(1775)の「播州路神西県観世音三十三所詠歌」
という本が残っています。この本によると、市川町の関係では、次のお寺の名があります。
◎神東 22番 下瀬加 月光寺   23番 上瀬加 松林庵
      24番 下牛尾 正楽寺   25番 下牛尾 永通寺
      26番 岩 戸 福泉寺    27番 上牛尾 笠形寺
      28番 小 畑 法雲寺    29番 東川辺 盛林寺
      30番 西川辺 大亀山   31番 屋 形 宝樹寺
◎神西 10番 奥 村 観音寺    11番 坂 戸 文殊院
      12番 甘 地 積清寺    13番 近 平 大梵寺
      14番 大 谷 大日寺    15番 千 原 薬師庵
      16番 谷 村 龍音寺    17番 田 中 護生寺
      18番 鶴 居 廣徳寺    19番 美 佐 西福庵
      20番 下 澤 薬師庵    21番 下 澤 松福寺
 当時の巡礼は、信仰とともに娯楽の少なかった庶民の楽しみの一つでした。各地でミニチュア版の巡礼コースがたくさん作られ、多くの人々のお参りで賑わいました。
市 川
 市川は、朝来市生野町の三国岳(855m)付近を水源とし、姫路市飾磨区妻鹿で播磨灘に注いでいます。市川の河谷は但馬へ通じる交通路で、古くから「但馬街道」として利用されていました。 市川は、昔、上流では生野川、中流では神前川、小川(おがわ)、苧(からむし)川と呼ばれていました。その後、中世に播磨の国府があったころ、姫路市花田町のあたりに市があり、「播磨の市」と名付けられていました。この「市」の名をとって「市川」と呼ばれるようになったと伝えられています。また、市川には多様な生きものが生息しています。そのなかには、国指定特別天然記念物のオオサンショウウオをはじめ、モリアオガエルやカワセミなど絶滅が心配される生き物が50種類以上見つかっています。
  『人 生きもの 川づくり 市川』より
広報いちかわ2010年1月号  ぶらりいちかわ散歩道<285>
播但連絡道路
市川町の中央を南北に播但連絡道路が迫っています。この通路は中播磨と南但馬とをほぼ-直線に結ぷ通路で、兵庫県内の幹線道路網「高速道六基幹軸」のうち、「播磨但馬軸」として計画された路線です。延長約65kmの地域高規格通路とよばれる通路で、兵庫県道路公社が管理・運営しています。通路は昭和48(1973)年に着工し、昭和50年に市川北ランプまでが開通し、昭和57年には神崎北ランプまでが開通しました。全線開通は平成12(2000)年になります。区間内には市川サービスエリアをはじめとして、サービスエリアが4か析、パーキングエリアが3か所あり、全線を利用した場合、料金は普通車で1400円です。播但道は、兵庫県iの瀬戸内側と日本海側を最短で結ぶ重要な道路となっています。
広報いちかわ2012年2月号  ぶらりいちかわ散歩道<310>
国産ゴルフクラブ発祥の地
昭和3(1928)年頃、兵庫県工業試験場三木分場にアイアンヘッドが研究材料として持ち込まれました。その担当研究員のー人に松岡文治さんという人がいました。松岡さんは当時の川辺村の鍛冶工 森田清太郎さんにアイアンヘッド製作を依頼しました。当時はアイアン製作のための資料もなく、何度も試行錯誤を重ね、ついに刀鍛冶(かたなかじ)の技術を応用した鍛造(たんぞう)製法による国産初のアイアンヘッドが完成、昭和5年に量産化に成功しました。開発にかかった歳月は実に3年、日本のアイアンヘッドはこの市川町で産声をあげました。第二次世界大戦中はゴルフ器具の製造が禁止されていましたが、昭和25(1950)年頃から再開されました。この頃から製造メーカーも増え始め、昭和30年代に到来したゴルフブームにより、-気に生産量が増加、昭和40年代には全国のアイアンヘッドの7割を姫路地域で生産したといわれ、地場産業として定着しました。
            (市川町商工会ホームぺ一ジより)
広報いちかわ2012年4月号  ぶらりいちかわ散歩道<312>