この井堰は、1607年に造られたということである。さらに、この井堰は、以前は石積みだったのを昭和43年ごろにコンクリート製に改修されている。また、この井堰からの用水路は、西川辺はもとより、西川辺南、保喜、西田中、それ以外は不明まで水を運んでいる。そして、西川辺では、この用水路を「ゆみど」と呼んでいるが、用水路の意味だろう。「ゆみど」が、川北隣保のお地蔵様の所までか、用水路全域を指すのかは不明。にというわけでこの用水路には名前が無いようである。部分的には名が付いている溝もあようだが。例えば「くるまみぞ」。 ...........(2015/10/29 追記)
内藤利八 内藤利八氏は安政3年(1856)2月6日神東郡川辺村(現神崎郡市川町東川辺)で生まれる。幼時より学問を好み、寺子屋(長昌寺)の住職より漢学の指導を受ける一方、早くから自由民権運動に加わっていた地元の大先輩でもあり、寺子屋の師匠でもあった岩崎兵三郎氏から語学や近代政治思想などの幅広い知識を吸収していった。政治家としての利八氏はこうした学問研究の中でしだいに 育てられていった。明治5年(1872)学制施行と同時に村の小学校(市川町長昌寺に設置)の塾監となり、かたわら役場吏員として地租改正の仕事などをし、翌6年には戸長として村政に参加する。明治14年(1881)県会議員に当選、副議長の要職に就く。翌15年(1882)大隈重信の改進党に参画、同23年(1890)7月、地元の熱い期待を背に日本政治史上初の衆議院選挙に兵庫7区より出馬、改進党議員として当選を果たす。播州、但馬の開発と発展のために、播但鉄道の敷設に尽瘁し、明治25年(1892)に姫路~寺前間を開通させ、さらに同28年(1895)4月14日、飾磨~生野間(49、2キロ)の全線を開通させた。同鉄道は明治39年(1906)3月10日、和田山まで延長、山陰線と連絡させることができた。氏は地元の強い支持を得て、明治末年まで国会議員として国政に参画するかたわら、さきの播但鉄道敷設事業、さらに明治30年(1897)姫路水力電気会社を設立し、発電と配電事業を起こし、同38年(1905)関西電力寺前発電所を設立している。それらの事業に加えて、姫路商業銀行、飾磨銀行、播磨紡績等の会社創立に努めるなど、数々の業績を通じて播州一円の産業発展に大いに、貢献した。大正10年(1921)6月28日病歿、享年65歳。氏は、国政と事業を通じて、わが国の近代化と播州一円の開発と発展のために、私利私欲を捨て、自ら常に清貧に甘んじながら尽瘁した生涯と言えるであろう。ここにわれら町民こぞって、郷土の生んだ偉大な先覚者、内藤利八氏の多大の業績を心から讃えるとともに、長く後世に伝えるために顕彰碑を建立する。 平成3年3月 吉日 市川町----------------------------以上、甘地駅前にある内藤利八の顕彰碑から。この顕彰碑は、「ふるさと創生事業」の補助金の一部を使って作られたものである。