2012/12/15大幅更新
横倉山十一面千手観世音菩薩-本尊15年ぶりに開帳  -谷-
市川町谷の横倉山観音堂の本尊が平成21年11月22日、15年ぶりに開帳された。住民ら約400人が参列し、近くの龍音寺の住職らが法要を行った。観音像の本開帳は33年に一度。今回は中間の年に行う開帳で、合わせて堂の屋根なども改修した。観音像は木造で高さ約1㍍。古文書や言い伝えによると、約1300年前に行基が彫ったとされる。当初は近くに立っていた延命寺に据えられてたが、約400年前、戦火により同寺は焼失。観音像は、その約80年後に住民らが見つけ、現在の位置に堂を建て、安置したという。法要には龍音寺のほか、福崎町や姫路市の寺からも僧侶が集まり読経。住民らは普段は拝めない秘仏に、静かに手を合わせた。岡本正幸区長(65)は「地区にとって思い入れのある像で、みんな非常に喜んでいた。末永く祭りたい」と話していた。         神戸新聞2009/11/23より
横倉山観音堂 -谷-
 振古川に沿って谷区の北西へ約1km、観音堂参道の道しるべから1kmほど坂道を登ったところに横倉観音堂があります。この山は法道仙人が開基されたもので、今から1300年前の名僧、行基菩薩の作といわれる千手観音が祀られています。お堂には、「その昔、スガ谷に七堂伽藍が備り、近郷近在にない霊地で、横倉山延命寺と唱えられていました。ところが、今から約400年前の天正年間に兵火にあい、無残にも一夜のこのうちに焼け落ちてしまいました。その際、この観世音菩薩は、横倉山の峯にある岩屋の中に飛び入り、火をおさけになっていたが、当時の人々は誰一人としてこの事を知らなかったそうです。それから、80年の歳月が流れ、正保(1644~1647)のころになると、毎月17日の夜になると決まってこの峰に光を放つ物があり、それがこの観世音菩薩であるとわかり、お堂を建立し、お祀りした。」と開基縁起がしるされています。現在のお堂は、昭和12年(1937)に建てられたもので、地元の人たちは、毎月9日、17日、21日の3日間は、手に手にお供え物を持ってお参りしています。参道も整備され、途中まで車で行けることもあって、ハイキングに訪れる人々も増えてきています。
横倉観音堂の千手観音像  -谷-
谷の集落の北西、参道を1kmほど登ると横倉観音堂があります。ここには、2体の千手観音像が安置されています。1体は1300年ほど前、行基菩薩の作と伝えられていますが、戦国時代の戦火にさらされたため傷ましいお姿をしています。もう1体は、江戸時代に作られた千手観音像で、今もきれいな姿を見ることができます。この像の台座には墨で文字が記されていました。それによると、この像が作られたのは寛文11年(1671)で、作者は明石郡神出(現在の神戸市西区神出町)に住む「藤原朝臣厚木民部治之」とその子「厚木太郎保省」のふたりです。仏像の中でも製作年や作者がわかるのは珍しいと言えます。そのうえ、端正な姿がほとんど傷まないで今に残されており、歴史的にも、美術的にも貴重な文化財として後世に伝えていく必要があります。


谷城跡  -谷- 
平成21年 市川町の重要文化財に指定される谷城は今から約600年前、赤松円心の孫にあたる永良則綱が築城したのが最初とされます。その後宿敵である但馬の山名氏に対する守りの要地とされ「残要の城」とも呼ばれました。築造された当時の姿がよく残っており、播磨地方の城の構造を知る上で貴重な遺跡であるため、市川町の重要文化財に指定されました。また、大歳神社から谷城跡を経由して横倉観音堂へ続く遊歩道が整備され、すばらしい眺望を楽しめるようになりました。
    谷城(永良城) へリンク
その2------------------------
 谷の八幡神社の北、標高206mの山頂に城跡があります。「谷城」と呼ばれていますが、別名「永良城」ともいわれます。文献によると、城主は永良近江守雅親とされています。雅親は宍粟郡長水城主の子孫で鶴居城山山頂に所在する稲荷山城と兼有して、赤松氏幕下として活躍していましたが、永禄3年(1560)別所氏との戦いで落城焼失したと伝えられています。現在残っている城跡は頂上に20m四方の本郭跡があり、その周囲に何段もの平坦地や土塁・掘割がとり囲み、複雑な形態を示しています。また、一部には石垣も残っており、当時はかなり重要な城であったことが想像されます。
谷しろやまの杜 ハイキングコースへのリンク
谷の日吉神社と「りく」の道  -谷-
 集落の西の山の中腹に、日吉神社が鎮座しています。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)です。この神社はたいへん霊験があらたかで、向かいの浅野の道で心よからぬ者が馬車を引いていると、馬が腹痛を起こして通れなくなるとの言い伝えがあります。 また、山裾には幅2mほどの道があり、近平・甘地方面への大切な道でした。昭和の初め頃までは、この道を通って小学校まで通っていました。この道は、赤穂藩筆頭家老大石内蔵助の妻「りく」さんが、豊岡への里帰りに使っていたそうです。赤穂から書写を通って福崎町板坂の応聖寺で泊まり、田口、奥、近平を経て、谷の不動岩で腰をおろして休憩し、さらに北へ向かったそうです。         『谷の歴史』よリ
広報いちかわ2008年6月号 ぶらりいちかわ散歩道<266>掲載
金毘羅神社と稲荷神社      -谷-
 谷の大歳神社から谷城の跡がある城山に登っていると、途中に金毘羅神社と稲荷神社が現れます。金毘羅神社は元々山頂にありましたが、谷城が落城してから現在地に移されたそうです。以前は泉の山麓にかけて参道が設けられており、戦時中の百社参りでは、近郷だけでなく、寺前・粟賀方面からも多くの参拝者がありました。社殿の前には天保の頃(約170年前)の石灯ろうがあります。稲荷神社は赤松屋敷の地神だったと思われます。拝殿には古くからの絵馬が奉納されています。また、鳥居には明和年間(約240年前)の鳥居があり、苦から村の住民に厚く信仰されていたことがうかがわれます。この社殿をこえ、少し急な山道をしばらく登ると谷城に到着します。                   『谷の歴史』より

広報いちかわ2009年6月号 ぶらりいちかわ散歩道<278>掲載
柳谷池    -谷-
 谷の集落の奥まった所にグラウンドがあり、その北約500mの所に「柳谷池」があります。この池が最初に作られたのは江戸時代です。この付近に広がる土地を新田開発するために、屋形村の善右衛門ら3人が開墾責任者となリエ事が行われました。そして、10年の歳月をかけ、天保14年(1833)に完成しています。その後、昭和初めのエ事でほぼ現在の形になり、約15町の面積の田の水源となっています。このときのエ事の記念埠が建てられています。昔からこの池は谷区の生活用水の根源として重要でした。渇水期には水を落とし、各家の井戸を潤しました。明治・大正・昭和を通じて、谷区住民全体で貯水量をふやす努力をしてきた大切な池です。   『谷の歴史』より
広報いちかわ2009年2月号 ぶらりいちかわ散歩道<274>掲載
大歳神社のフウラン  -谷-
 町指定天然記念物のフウラン(風蘭)が、今年も白い花をいっぱい咲かせました。このフウランは、谷の大歳神社境内のムクの木の幹に群生しています。開花時期は7月頃で葉の根元から花芽が伸び出して、3~10cmの細い花茎の先に、甘い芳香を漂わせる花を咲かせます。花は径約1.5cm、長い距が尻尾のように伸びます。地上約15mの高い所に群生し、ムクの木の葉が茂っていることもあって細かく観察できず、特有の芳香も味わえないのが残念ですが、このように人里近くで野生のフウランが群生するのは珍しいことです。
谷の埋蔵金  -谷-
最近、谷で昔のお金が地中から発見されました。「四つ堂」と呼ばれるお地蔵さんの近くで、まったくの偶然でした。お金は「開元通宝」「天聖元宝」「天禧通宝」など、中国で作られたもので、全部で21枚ありました。今から800~400年前の鎌倉・室町時代には、日本ではお金が作られていませんでした。かわりに中国(当時は宋・元・明と呼ばれた)から大量の銭が輸入され、流通していました。これらの銭は壷などにたくさん入った状態で、しばしば地中から発見されます。何かの儀式で埋めたのか、それとも昔の貯金だったのかもしれません。
延命寺跡   -谷-
谷の横倉観音堂よりまだ200mほど奥の山腹に延命寺というお寺がありました。このお寺は法道仙人の開基で本尊の千手観音菩薩は行基の作と伝えられています。草茸屋根の七堂伽藍を誇っていたそうです。寺と谷城は尾根筋で行き来ができるために関係が深く、平時は兵の道場であり、また有事の際は兵糧補給地であったと思われます。その後、秀吉の播州攻めの際に城とともに焼き討ちされ、建物は全焼しましたが、本尊は横倉山に傷つきながら難を逃れ、現在も観音堂に安置されています。今も山中の寺の跡には平坦な土地が残っており、当時の姿がしのばれます。また、寺の近くには「とがの井」と呼ばれる井戸があり、渇水になれば雨乞いの行事が行われていました。
                            『谷の言い伝え記録』より
力石   -谷-
 力石とは、直径30~60cm程の楕円形をした石で、それを持ち上げて力競べをします。今も谷大歳神社の境内に置かれています。多くは河原石を利用して、石の表面に重さを刻みつけたものもあります。石の重さは20貫(75kg)から40貫(150kg)ぐらいまで、いろんな重さがありました。力競べは氏神の例祭などに行い、出場する若者は日頃から練習を重ね、その日に備えました。持ち上げるのには、素手で行う場合と、縄を編んだ補助具を使う場合があったようです。まず、石を膝の上まで上げ次に腹から胸にゆすり上げ、最後に肩に持ち上げます。そして、体が伸びたら成功です。     『淡路の力石』より
谷大歳神社のシイ(椎)の木 -谷-
 シイの木は常緑の高木で、関東以西の日本に広く分布しています。6月ごろに花が咲き、秋には1cmほどの丸くて先がとがった実が熟します。この実は食用になり、食料の乏しかった戟時中には子どもたちの貴重なおやつとなっていました。谷の大歳神社にはシイの巨木があります。根元の周囲は約5m、樹高は40mを超えています。シイの木は日本の暖帯林に自生する重要な樹木で、東日本のブナの木に対比されます。大歳神社周辺には、本来の日本の森の姿が手つかずに残っています。
城山観音古道  -谷-
 市川町谷で、史跡を結ぶ古い道が遊歩道として整備されています。道は、大歳神社・谷城跡横倉観音堂を結んでいます。谷城跡は現在樹木が伐採されていますので、本丸跡や土塁、堀切などを見ることができます。この城は、戦国時代の典型的な山城で、しかも保存状態が非常によいため、貴重な文化財として、姫路城郭研究センターにおいても高く評価されています。また、横倉観音堂では、平成6年に33年ぶりのご開帳が行われました。5月3日の夕方、千手観音像が信者に背負われて、谷の竜音寺まで運ばれて法要が行われます。そして、4日の夕方にはまた観音堂に帰りました。
固寧倉の木額 -谷-
 固寧倉は文化6年(1809)飾西郡町村の大庄屋衣笠八十右衛門の建議によって、姫路藩主酒井忠通が施行したもので、飢饉・風水害などの非常時に備えて食料を貯蔵する倉庫のことです。天保14年(1843)までに、藩内92カ所に創設され、天宝の飢饉では、大きな役割を果たしました。「固寧倉」の名は、中国の古典『書経』に「民は惟れ邦の本、本固ければ邦寧し」とあるのをとっています。額の字は江戸幕府の学者の林檉宇のもので、これを木額に彫り写したものです。
 2009年現在、この額は笠形会館の資料室に保管されていました。
四つ空地蔵    -谷-
 谷の集落のなか、振古川のそばに高さ1m程の地蔵尊の石像が建てられていました。 石には、「明和三年」「念佛講中」と刻まれています。今からちょうど240年前に作られたものです。当時、谷には念佛というお講があり、村人たちから信仰されていたのでしょう。最近りっばなお堂が建立され、盛大に落慶式が行われました。地蔵尊は、堂の中に安置されています。40年程前までは、カヤ置きのお堂があったそうです。また、お堂の前には周辺から集められた五輪塔などの石塔が並べられています。古いものでは、戟国時代の頃のものもあります。もしかしたら、討ち死にしてしまった谷城の侍のための供養塔かもしれません。
金毘羅神社と稲荷神社          -谷-
谷の大歳神社から谷城の跡がある城山に登っていると、途中に金毘羅神社と稲荷神社が現れます。金毘羅神社は元々山頂にありましたが、谷城が落城してから現在地に移されたそうです。以前は東の山麓にかけて参道が設けられており、戦時中の百社参りでは、近郷だけでなく、寺前・粟賀方面からも多くの奉拝者がありました。社殿の前には天保の頃(約170年前)の石灯ろうがあります。稲荷神社は赤松屋敷の地神だったと思われます。拝殿には古くからの絵馬が奉納されています。また、鳥居には明和年間(約240年前)の鳥居があり、昔から村の住民に厚く信仰されていたことがうかがわれます。この社殿をこえ、少し急な山道をしばらく登ると谷城に到着します。
                          『谷の歴史』 より
  広報いちかわ2009年6月号 ぶらりいちかわ散歩道<278>

振 古 川             -谷 ほか-
振古川は市川町北西部の500m級の山塊に源を発して、町南部の甘地地内で市川と合流しています。上流部は山間を流れる渓流となっていて、中下流は水田地帯を流れる穏やかな流れとなっています。流域は市川町の南北に長く伸び、その延長は岡部川、小畑川に次ぐ長さです。数年前、川の環境調査が行われ、貴重な生物が確認されています。レッドリストの絶滅危惧種に指定されている貴重種である「オヤニラミ」「ナガレホトケドジョウ」などの魚類や、「ビワアシエダトビケラ」「コオイムシ」などの昆虫です。 また、この時の調査では発見されなかったのですが、特別天然記念物「オオサンショウウオ」が生息している可能性も指摘されています。このように、振古川は素晴らしい自然環境を残していることが明らかになり主した。
            『市川水系振古川環境調査報告書』より
  広報いちかわ2010年5月号 ぶらりいちかわ散歩道<289>
大 梵 寺   -近平-
 甘地小学校の北側に横嶺山大梵寺が建てられています。宗派は臨済宗妙心寺派です。創建は慶長19年(1614)で、最初は西の山中にありましたが、寛文9年(1669)頃に現在の場所に移りました。
 江戸時代の中ごろには頑極和尚が住職の任につきます。この方は臨済宗中興の祖として名高い白隠禅師の弟子として修行を行いました。そして禅師が生涯を閉じた後、禅師の骨舎利を携えて大梵寺に来ました。骨舎利は代々お寺に大切に伝えられてきましたが、2006年末には境内に碑が建立されて納められました。また、最近の調査によって、大梵寺の半鐘が三木市の新町公民館に保管されていることがわかりました。刻書によると、この鐘は享保10年(1733)に寄進されています。
  広報いちかわ2007年3月号 ぶらりいちかわ散歩道<251>
近平の大谷古墳   -近平-
 大谷古墳は近平の大谷神社から南へ約100mの山中にあります。古墳は直径約15mの円墳で、全長9mの横穴式石室が築かれています。大谷古墳では遺体は石の棺に入れ、葬られていました。今でも棺の底石と蓋石が石室内に残されています。石棺の大きさは長さ1m20cm、幅60cmですので、身を折り曲げて葬られたのかもしれません。石は凝灰岩と呼ばれるもので、加西市から運ばれてきたことが明らかにされています。石棺を使う埋葬方法は、今話題の藤ノ木古噴と共通しています。出土品については、過去に盗掘を受けているため壷などの土器しか残されていませんでした。古墳が築かれたのは今から1400年前頃と考えられています。
大梵寺の五輪塔   -近平-
 五輪塔は、古いお寺などで必ず見ることができるほど、たくさん造られています。鎌倉時代以降に武士が好んで道立しています。五輪塔は5つの部分からできており、各部は地輪、水輪、火輪、風輪、空輸と呼ばれます。これは仏教思想の宇宙を表しています。市川町でもたくさんありますが、1mを超す大型のものは大梵寺と西小畑の2基しかありません。特に大梵寺の五輪塔は全体的にどっしりと重厚な形をしており、鎌倉時代の作に間違いありません。石材は花尚岩です。他地域で専門の石工によって造られ、市川町に運ばれたものに違いありません。当時の第一級品であったと思われます。
永良荘   -近平、他-
 現在の近平・千原・小室・田中・谷・神崎あたりは、今から700~800年前は「永良荘」と呼ばれる荘園でした。荘園とは、有力な豪族や寺社の私有地のことです。当時の古い記録によると「基康」という名の地頭(領主)がいたことがわかっています。また、一時は姫路の広峰神社の所有地になっていたことも記録に残っています。荘園になるところは、この当時に大規模な新田開発がされた場合が多く、永良荘附近も平坦な広い土地があり、開発に適した場所であったのかもしれません。また、ここでは「条里制」の跡が見られます。条里制とは、古代に行われた土地区画制度で碁盤の目状に水田を区画整備しました。

JR播但線  -甘地-
 播但線の始まりは、皆さんご存知のように内藤利人民によって開設された播但鉄道です。明治17年(1884)、日本鉄道が上野一前橋間の営業を始め、高い利益をあげていたことから、明治20年代には全国的な私鉄設立ブームがまき起こりました。播但鉄道も明治27年(1894)、姫路一寺前間、28年(1895)に生野まで開通しています。この路線の場合旅客だけでなく、生野銀山への物資の輸送によって採算の見込みがあったものと思われます。開設にあたっては、煙害を心配した住民の反村によって市川東岸を通る計画が西岸に変更になったという話が伝わっています。この播但線も、明治36年(1903)に山陽鉄道㈱に買収され、明治39年(1906)には「鉄道国有法」によって、国有鉄道の一路線となりました。



甘地の獅子舞   -甘地-
 県の無形文化財に指定されている、甘地八幡神社の獅子舞は、旧船津村字宮ノ元(現在の姫路市船津町)の八幡神社から伝わった奉納獅子舞で天正年間(1573年~91年)以前のものといわれます。獅子には、本獅子(雌獅子)と毛獅子(雄獅子)があり、毛獅子には頭から肩にかけてフサフサした長い毛があり、頭も大きく男性的なのに比べて甘地の獅子舞の本獅子は、毛の代わりに白紙を細長くたたんで端だけ一分幅位に等分に切ったものをぬいつけしていて、頭のつくりも小さく、女性的でまわし方も優美です。舞は全部で11曲あり、うち「鈴の舞」と「剣の舞」は一人立舞で、ほかはすべて二人舞です。獅子方のほかに5~6歳、11~12歳の子供7人を選んでばやし子とし、手甲、はち巻に緋の長たすきをかけ、手には舞に応じてささら、剣、薙刀等を持ち、2~5人で獅子の所作を誘導します。 ここ数年は、後継者不足で奉納舞も跡絶えがちになっていましたが、今年になって地域の住民から「由緒あるふるさとの文化財を守ろう」と話し合いがまとまり、地区の経験者が中・高校生に舞方を指導し、後継者作りに力を注ぎました。9月15日には甘地の八幡神社で奉納舞がみごとに復活し、10月の秋祭りにも舞われる予定です。
八幡神社の大しめ縄    -甘地-  2009.1.1広報いちかわ
 甘地の八幡神社と大日堂、奥の大歳神社に巨大な“しめ縄”が奉納されました。このしめ縄は甘地区の香年会の方々が4年前から作り始めました。初めて作る時には島根県雲南市の須我(すが)神社保存会を訪れ、会員の方々と交流を行って、しめ縄づくりの指導を受けました。須我神社保存会は古くから伝統的なしめ縄づくりの技術を伝えており、縁結びで有名な出雲大社の日本一のしめ縄をはじめ、全国各地の神社のしめ縄を製作しています。八幡神社のしめ縄は太さ1m、長さ4mもの大きさです。地元の田で育てた稲を使い、1ケ月以上の期間をかけて作り上げます。見事なしめ縄が奉納された八幡神社を訪れてみてはいかがでしょうか。
広報いちかわ2009年1月号 ぶらりいちかわ散歩道<273>掲載
甘地の瀧水 -甘地-
 甘地積清寺の門前には滝の水と呼ばれている湧水があります。どんな干ばつの時でも水量は変わりなく年中一定の水が湧き出し、村人の飲料用水として利用されていました。この滝水には弘法大師と茶たき老婆の伝説があります。その昔、弘法大師が諸国行脚の時、福崎町田口に立ち寄り、のどが渇いたので七種川で物を洗っていた一人の老婆に飲水を求めましたが、その老婆は断りました。大師は七種川の水流を渇せんと言って、田口峠を越えて甘地の里を訪れ、同じく老婆に茶を求められました。老婆は快く茶を与えました。大師はこの恩に報いるために、つえでこの地を打ちました。するとみるみる清水が湧き出してきて、今日までに及んでいます。そして、七種川は枯れてしまったそうです。また、弘法大師の石像の西側には、湧水伝説の主の老婆の墓があるといわれています。     『甘地村沿革誌』より
大日堂  -甘地-
 市川町甘地の西の山すそに八幡神社があります。その社殿の少し下に「大日堂」という小さなお堂が建っていました。長年の風雨にさらされ、建物が痛んだため、平成5年5月18日に再建され、落慶法要が盛大に行われました。ここには、元々古くより福言寺という寺があったそうです。この寺が移転した後に大日堂が建てられたようです。古い堂は宝永年間(今から300年ほど前)に建てられていました。堂の中には立派な大日如来の像が安置されています。座った像が安置されています。座った姿で、手は智拳印という印を組んでおり、金剛界大日如来を表しています。江戸時代の初期の作と考えられています。

虫送リ  -甘地-
「虫送り」の伝統行事が行われました。甘地では人々は竹のたいまつを持って、氏神の八幡神社に集まり、行列をつくって出発します。先頭は「サネモリ人形」で、その後に旗・鉦・太鼓が続きます。この行事は稲を食い荒らす害虫を火で退治するために、昔からどこの村でも行われていましたが、今では郡内でも数箇所しか残っていません。「サネモリ人形」とは、馬に乗った武将斉藤実盛を形どったものです。実盛は稲の切株につまづいて倒れ敵に討たれたため、その恨みでイナゴなどの害虫となったと信じられました。たいまつを持った行列は「イネのムシやゴーシヤラク」「サネモリや先だちや」とかけ声をかけ、最後は村のはずれの川ですべてを焼いて終ります。
甘地尋常高等小学校 -甘地-
 この図は、明治の終わりから大正の始め頃の甘地尋常高等小学校の見取図です。現在は校舎ヤプールが新築され、面影はありません。図の北側は新校舎でガラス窓でしたが、南側の旧校舎は廊下側の窓はすべて障子でした。当時の記録によると入学式は4月1日で、服装は木綿の縞、半てんに前かけ、ワラ草履に、男の子は帽子をかぶっていました。洋服の子供はなかったそうです。鞄の中には石板・石筆・国語読本などが入っていました。鉛筆やノートは2年生になって始めて使うことができました。秋には遠足があり、低学年は川辺の亀山、上級生は七種の滝、法楽寺、笠形山などに行っていました。
  甘地の盆送り     -甘 地-
8月15日、市川の支流、振古川で盆送りの行事が行われました。四角形や舟形の箱に灯龍やお供え物、線香、お花を載せて川に流します。お供え物には、小豆ご飯のおにぎり、おはぎ、キュウリやナスで作った馬などです。午後5時半ころより、近隣の人たちが三々五々夕涼みがてら集まり、鉦を鳴らして送りました。元々は桟俵(さんだわら)の上に肥松を置き、お供物を載せ、線香と肥松に火をつけて煙をくすぶらせて流していました。桟俵とは、藁で円形に編まれ、米などを入れる俵の上と底の部分に使われるものです。今ではこれを作る人はたいへん少なくなりました。盆送りの行事は、日本全回でぁられます。市川町内でも甘地のほかに数か所で行われています。行事の内容はそれぞれの地域で少し違っているようです。
                 『やさしい市川町の歴史』より
 広報いちかわ2011年9月号 ぶらりいちかわ散歩道<305>
市川町の歌碑② 元田 柿 -甘地・上牛尾-
甘地の清水は、弘法大師が錫杖で大地を叩くと忽然と湧き出したと言い伝えのある名水です。今も遠方から多くの人が水を汲みに来ます。この清水のそばに元田林さんの歌碑があります。元田さんは、元田石灰株式会社を経営しながら趣味として短歌に親しみ、ふるさとを想い、称える歌をたくさん創作しています。笠形山登山口の大鳥居の横にも、笠形山を詠んだ歌碑があります。
(表面)真清水に心を洗う世の人に
      大師の弘誓流れて尽きず
(裏面)清しくも石もて畳む滝の水
      砂ゆるがせて水盛り上がる

JR甘地馬尺  -甘地-
JR播但線は、播但鉄道として、姫路=寺前間が明治27年(1894)に開通しました。この発起人の一人が東川辺出身の衆議院議員、内藤利八氏であったことはよく知られています。甘地駅は砥堀駅や新野駅と違い、開通当時から設置されていました。利用が多く、播但線の中でも重要な駅でした。昭和26年(1951)の資料によると、当時の甘地駅の1日平均の乗降客が約930人。このうち、定期券利用者が約770人。当時、甘地=神戸間の定期代が、1ケ月600円くらいでした。貨物の扱い量が1日平均20~30トンで、内容を見ると、発送するものがクレー粉・木材・石灰・ワラ工品、到着するものは石灰岩・鉱石・原木などが記録されています。自家用車が普及するまでは、鉄道は今からは想像ができないほど重要な交通手段でした。最近、奥の山下英和さん宅から内藤利八氏の帽子が発見されましたので、紹介します。

倉谷古墳  -奥-
 市川町奥の農免道路南側山中で古墳の発掘調査が行われました。古墳は円形で、直径20mもの大きさです。また高さは2m余りで、すべて人力で土盛されています。この中心部を掘り下げ、石を組んで大きな室が作られています。これは竪穴式石室と呼ばれ、数少ない遣り方です。石室の中からは、鉄剣・鉄刀・鉄製の矢じりなどが出土しました。これらの出土品から、この古墳は今から約1500年前に造られたことがわかります。この古項を造ったのは、かなり強大な力を持った豪族で、当時市川町周辺を勢力下に治めていたものと思われます。教育委員会では、地元の方々の協力を得て、公園として保存整備しています。
倉谷古墳公園 -奥-
 市川町奥の倉谷古噴が復元され、公園として整備されました。倉谷古墳は、西暦5世紀頃に造られた直径約20mの円墳で、神崎郡を代表する貴重な文化財です。2年前に発掘調査が実施されたのをきっかけに復元工事が進められました。古墳の上に土盛りをして、石室などは地下に保存し、同様の石室をその上に復元して自由に見学できるようになっています。公園内には、写真のようなカヤ葺きの古代住居が復元されているほか、休憩所などが整備されています。一度訪れて、太古のロマンを感じてみてはいかがでしょうか。
播州歌舞伎  -奥ほか-
 播磨地方は、苦から芝居の盛んなところで、今でも各地に農村舞台が残されています。特に加西市高室を中心に歌舞伎の座がたくさん作られ、全国に巡業していました。昔、毎日労働に明け暮れる村人にとって、芝居はほとんど唯一の娯楽であったと思います。現在では「嵐獅山一座」ただ一座だけが播州歌舞伎の伝統を守り続けています。その功績が認められ、「兵庫県ともしびの賞」を受賞しました。播州歌舞伎は、今から約300年前、元禄の頃、姫路の能役者が伝えたとも、大阪の歌舞伎役者が伝えたとも言われています。市川町では、「神崎座」という座元があり、活躍していました。神崎座は江戸時代の中頃から続く伝統を持ち、特に明治時代になって活発に活動しています。第二次世界大戦ですべての座が消滅してしまいましたが、戦後は神崎座がいち早く復活しています。播州歌舞伎は、役者の表現が大げさでくどい、と言われています。しかし、その芸風が認められ、昭和48年(1973)には嵐獅山一座が
国立劇場で公演を行い喝宋を浴びました。
妙見山 -奥-
 市川町奥の集落の西に、妙見山と呼ばれる標高299mの山があります。南東方向から見ると三角形の美しい姿をしています。山頂には北斗七星を示巳る小堂が建てられています。北斗七星は、仏教と結び付いて妙見菩薩と呼ばれるようになりました。このことから山の名が付けられたのでしょう。山はかなりの急斜面ですが、麓から曲がりくねった登山道がつけられています。集落内にある姫大神社の境内には、明治16年(1883)に妙見社遥拝の灯篭が建てられており、ここから妙見社を拝んでいたようです。
甘地小学校の校歌に出てくる「扇山」は、この妙見山であると思う。
河岸段丘     -奥、鶴居ほか-
市川の流域の中で、市川町から姫路市の船津あたりまでは、「河岸段丘」という地形が見られることで有名です。河岸段丘とは、河川の流路に沿って地面に大きな段差ができて崖になっている地形のことです。崖の高さは高いところでは十数メートルにもなります。これは、長い年月をかけて川の水が地面を削り取ったためにできた地形です。段丘の下は、昔は河原であったことを示しています。市川町内では、鶴居の老人福祉センターから鶴居中学校まで、奥の蓮泉寺のすぐ東側、また、播但道市川南ランプの東側などで顕著に見られます。左の写真は、奥の蓮泉寺のすぐ東側の河岸段丘。   『ふくさき史話』より
巡礼兄妹のお墓   -奥-
市川町奥の倉谷古墳公園の少し西、舗装された広い道路沿いに、小さなお墓が3つ並んでいます。そのうちの2つは宝暦9年(1759)に建てられています。ひとつには「信州黒田郡和田邑 巡礼兄」、そして、もうひとつには「同行妹」と刻まれています。この道は昔、「西国三十三所」の巡礼道でした。27番書写山円教寺から28番丹後の成相寺へ向かう通が奥の集落の中を通っていました。今でも道標がたくさん残されています。このお墓は、西国三十三所巡礼の途中に亡くなった巡礼の人を弔うため、地元の村人たちが建てたのでしょう。
観音寺    -奥-
 市川町奥の観音寺は天台宗の古刹で、古くから人々の崇敬を集めていました。最近は「播磨宝の道七福神」の札所のひとつとして多くの参詣者が訪れています。観音寺は七福神の内、「弁財天」をおまつりしています。この弁財天は非常にめずらしい像で、体内に白いヘビの像が安置されています。しかも、そのヘビは女性の顔をしていらっしやいます。600年以上前に造られたもので、事前に連絡をすれば見せていただけます。また、境内には樹齢200年の大きなサツキの木があり、花の季節には訪れた人の目を楽しませています。
羽子板絵馬、破魔弓絵馬  -奥-
 神社に奉納される絵馬には小絵馬と大絵馬があります。小絵馬は今でも合格祈願などの願いごとが書かれ、神社にたくさん奉納されています。大絵馬は1mほどにもなる豪華な絵馬で、専門の絵師が書きました。昔は氏子が共同で奉納することが多かったようです。市川町奥の姫大神社と大歳神社には羽子板絵馬という珍しい絵馬が奉納されています。これは羽子板の形をした絵馬で、女児が生まれると無事の成長を願って奉納しました。また、男児が生まれると板に破魔弓を取り付けた破魔弓絵馬を奉納しました。どちらも播磨地方に特有の珍しいものです。
  広報いちかわ2007年1月号 ぶらりいちかわ散歩道<249>
観音寺山古墳     -奥-
 この観音寺山古墳は、奥集落北側にある標高214mの山頂上に位置し、県指定史跡となっています。一見、南北に長い楕円形を呈していますが、全長27m、前方部幅7.5m、後円部径15m、高さ2.4mの前方部が北に面した前方後円項で、後円部中央からやや南よりに主軸に直行する形で、竪穴式石室が築かれています。石室は長さ3.6m、幅0.8mで、墓石等はすでに取り去られており、副葬品は詳細不明です。この古墳は竪穴式石室の構造からみて、4世紀を下らない古式古墳と考えられており、当地方の古代史を解明するうえで貴重な文化財となっています。
奥の鶴澤定吉碑   -奥-
 市川町奥村から福崎町田口へ抜ける道は古くからの街道で、巡礼の人々の利用も多かったことが知られています。その街道に沿って奥村新田の集落が営まれていますが、ここには興味深い石碑が2基建てられています。1つは「鶴澤定吉墳」と刻まれた墓碑です。この人物は天明の頃(約200年前)義太夫や浄瑠璃の師匠で、ここで三味線や浄瑠璃を教えていたそうです。この地は播州歌舞伎の神崎座の本拠地でもあり、芸能に優れた人が多く住んでいたようです。もう1基、たくさんの和歌が刻まれた石碑があります。これは明治の初め、この地にあった寺子屋の先生の記念碑で、その教え子たちが歌を寄せ合ったそうです。
門の坪遺跡   -奥-
 奥地区の圃場整備事業の予定地から、古代の遺跡が発見されました。教育委員会が発掘調査を実施した結果、今から1000年以上も昔の集落の姿が明らかにされました。当時の家は掘立柱建物と呼ばれていますが、今と違って地面に穴を掘って柱を埋め込んでいました。このような家が7棟以上発見されています。1棟の大きさは6m四方ぐらいで、一家族5~10人程度が生活していたと思われます。また、弥生時代(2000年前)の井戸も見つかっています。直径1.5m、深さ1mの浅い井戸ですが、木で井戸枠を作り、内は水汲み用の壷が置かれていました。さらに底からは当時の人が食べていたトチの実やドングリが腐らずに残っていました。
絵馬師 百斉義信 -奥-
 私たちが神社に足を運ぶと、必ず目にするのが絵馬です。絵馬には個人的な願いを書いて奉納する小絵馬と、1mもの大きさで豪華絢欄な大絵馬があります。大絵馬は絵馬師と呼ばれる専門絵師によって措かれ、美術的にもすぐれた作品が多く残っています。奥の大歳神社にも「百斉義信」という絵馬師が描いた、すばらしい神馬図が掲げられています。馬の姿かたちや鋭い眼は神馬と呼ぶにふさわしい絵です。この絵馬師は江戸時代後期に市川流域で活躍したらしく、多くの絵馬を残しています。また絵の技量も優れており、他の絵馬師と比べてずばぬけています。奥大歳神社の神馬図は一見に値する絵馬です。是非ご覧下さい。
歯痛地蔵   -奥-
 市川町奥の集落の中ほど、尾市川に近い所に、小さな石の祠があります。ここは昔より、近隣の人たちから「歯痛地蔵さん」と呼ばれています。昔は歯が痛くなると、このお地蔵さんにお参りしました。そして、側にある丸い石でほっペたをなでていると、不思議に痛みが消えたようです。地蔵尊は身近な存在であるために、多くの願いが託されています。そのご利益に村して、とげ抜き地尊・子育て地蔵など、さまざまな名が知られます。昔は近くに歯医者さんなどなく、このように信仰を頼るしかなかったのでしょう。市川町内では他に下瀬加の庚申さんがイボ取りの神さまとして有名で、イボが取れたお礼に奉納した布製の“くくりザル”が幾千万とつるされています。
雲林山長烈寺跡と観音寺 -奥-
市川町奥の尾市川をさかのぼった山伏観音谷に雲林山長烈寺という寺がありました。七堂伽藍を誇る立派な寺でしたが、天正年間(1850年頃)豊臣秀吉の播磨攻めの兵火のため、すべて消失してしまいました。その時、本尊の十一面観音像は今の観音寺に移したと言われています。その後、観音寺は元禄年間(1690年頃)賢覚法印の時に、堂宇が再興されて現在に至っています。法印は中興の祖として敬われ、墓碑は寺の北側の観音寺山の尾根に建立されています。現在、観音寺は霊場「宝の七福神」のうち、「弁財天」をおまつりする寺として多くの参拝者が訪れています。                    『雲林山観音寺縁記』より

観音寺  -奥-
市川町奥の観音寺は天台宗の古刹で、古くから人々の崇敬を集めていました。最近は「播磨宝の道七福神」の札所のひとつとして多くの参詣者が訪れています。観音寺は七福神の内、「弁財天」をおまつりしています。この弁財天は非常にめずらしい像で、体内に白いヘビの像が安置されています。しかも、そのヘビは女性の顔をしていらっしゃいます。600年以上前に造られたもので、事前に連絡をすれば見せていただけます。(℡0790-26-0160)また、境内には樹齢200年の大きなサツキの木があり、花の季節には訪れた人の目を楽しませています。
テントバナ  -奥-
旧暦4月8日、現在ではひと月遅れの5月8日を「卯月八日」といい、この日に竹ザオの先にツツジなどの花をくくりつけて庭に立てる習慣があります。この花のことを「テントバナ」と呼んでいます。西日本で広く行われていた行事ですが、今では大変珍しくなりました。市川町奥の利根川稔さん宅では今年もテントバナが立てられています。4m程の竹ザオの先にサカキや赤いツツジ、白いウツギ、フジの花を束ねてくくりつけています。マムシやムカデよけのために立てるという話や、お釈迦さんの誕生日にささげる花と言われたりするようです。   『兵庫探検民俗編』より
乳母が井戸    -坂戸-
 坂戸の集落の西はずれに大きな桜の木があり、その下に石で囲まれた井戸があります。今から400年前の天正年間、柴田勝家は豊臣秀吉との戦いに敗れて自害してしまいますが、言い伝えによれば勝家の孫が乳母と共に落ちのび、比叡山から書写山円教寺に移り、さらにこの地に住みついたと言われています。その時に乳母らが掘った井戸が「乳母が井戸」と呼ばれ、今も残されています。この井戸の水は甘くて、年中水量の増減がないそうです。早ばつの時も豊富な水を湛え、村人達の命を救ったといわれます。 今は、圃場整備により周囲の景観も変わっていますが、井戸は残されて昔の姿を留めています。
『柴田勝家公400年祭記念誌』より

千束山   -坂戸-
 千束山は坂戸の集落の南、福崎町との町境になる山です。標高は330m程度ですが、見た目には非常に高くそびえ立った感じを受けます。特に東側は急斜面をなして市川へ降りています。一説では、大昔には千束山の尾根がずっと東の西田中あたりまで伸びていたのですが、市川の大洪水で山が流されてしまい、今のような絶壁になったそうです。 また、県営住宅のほうへ突きでた尾根の先端には、戟国時代の山城の跡が確認されています。尾根づたいに南へ行くと「神前山」があります。この山は神崎郡という地名の由来となった山で『播磨国風土記』によると、伊和大神の子供建石敷命が住んでいたとされています。
     千束城へのリンク
「和紙のちぎり絵発祥の里」記念碑     -坂戸-
坂戸集落の一角に「和紙のちぎり絵発祥の里」記念碑が建立されています。この碑は和紙のちぎり絵の創始者でいらつしゃる中野はるさんご夫婦によって、1998年に立てられました。以下、碑文のを紹介します。「第二次世界大戦の戦禍をのがれ、この地に疎開してから五十数年がたちました。この地での生活の中で、ふとした機会から出雲民芸紙と出合い、その伝統の中に培われた歴史の重さ、洗練された美しさに感動し、その美しさを何かに生かそうと、絵の具を和紙に替えての創作活動に打ち込み、その絵を『和紙のちぎり絵』と命名いたしました。この里でさまざまな恩恵を戴き、五十年の月日が流れ、各地の美しい和紙や紙漉く人々に出会い、ちぎり絵を愛する友にも恵まれ、人生の大半をすごさせて戴き、今この播磨野の一隅に、人との出会い、和紙との出会いに深い感謝の思いをこめ、石塚の一基を建立できる事、心から深く感謝いたしております。長い年月を共に歩き、ご指導下さいました同好の皆様のご協力に深く感謝いたします。西暦1998年7月吉日建立す  中野 弘・はる」 和紙のちぎり絵の美しさは多くの人の心を魅了し、市川町でもたくさんの方が創作活動を行っています。中野はるさんの作品は文化センターの廊下にある常設のギャラリーで鑑賞することができます。
 広報いちかわ2012年5月号 ぶらりいちかわ散歩道<313>

清水喜市顕彰碑   -小谷-
 部落解放運動の先駆者、清水喜市さんの業績をたたえる碑が、小谷集会所に建てられています。清水さんは明治26年(1893)小谷で生まれました。横浜の英語専門学校で学んだ後、故郷へ帰り部落解放運動に力を注いでいきます。 そして、大正11年(1912)京都岡崎公会堂で開かれた水平社創立大会に30余名の仲間とともに参加し、その2年後には神崎郡水平社を結成しています。小谷の教正寺で行われた創立大会で清水さんは初代委員長に選ばれています。その後、昭和3年(1928)には県下で三番目と言われる小谷地区改善事業に着手、12年(1937)に甘地村村長となりました。   『郷土百人の先覚者』より
 「水色の星」-兵庫県教育委員会 昭和59年発行「友だち」から
 「水色の星」-郷土の先人・清水喜市の遺したもの-兵庫県教育委員会
 清水喜市と水平社運動-「やさしい市川町の歴史」(市川町発行)
 部落解放の先覚者・清水喜市
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 清水喜市氏は、1936年6月11日、43歳で第9代甘地村村長に就任しました。
 その3年8ヶ月に及ぶ村長就任期間には、椎蚕協同飼育所の設置や桑畑の開発を行い、女子青年に刺繍や編み物の講習会を開くなど経済基盤を培う等の施策を展開しましたが、最も力を注いだのは教育でした。まず甘地小学校の教員住宅を新設し、校区に住み、親の願いを受け止め、これに応える教育実践の普及に尽力しました。ここには、校長を始め、校区の学校に勤める教員が居住しました。また、昭和13年には、郡内で最も老朽化した小学校の校舎を、大蔵省貯金部資金から5万5000円を借り入れ、郡内一の素晴らしい校舎を建設しました。教育に重点を置く村政は当時の甘地村の財政状況をみれば一目瞭然です。昭和13年度に於いては神崎郡17町村のうち国税納入額では13番目の甘地村が、教育費では、福崎町に次いで郡内二番目の地位を占めていました。
            「やさしい市川町の歴史」から
教正寺の観音菩薩像   -小谷-
教正寺には小さな厨子に納められた観音菩薩像が安置されています。高さが5~6cmほどで、鮮やかに金色に輝いています。この観音菩薩像には由緒があります。江戸時代の貞亨2(1685)年のことです。お寺の住職である道元さんは毎晩のように、お寺の南東の方向から光が来て自分の身を照らす夢をみました。南東の方角にひとつの石塚がありました。不思議に思った道元さんはその石塚を少し掘ってみると、なんと光る観音菩薩像がありました。感激した道元さんは像をお寺に安置し、大切に敬いました。この像は、聖武天皇のころ行基菩薩の作で、赤松円心の守り本尊であったとも伝えられています。                 (教正寺の歴史より)
 広報いちかわ2012年8月号 ぶらりいちかわ散歩道<316>
神東・神西三十三観音巡礼
 現在、四国八十八所や西国三十三所の巡礼が盛んに行われていますが、昔、神崎郡でも、市川の東と西でそれぞれ三十三所の観音巡礼が行われていたことをご存じでしょうか。
 明和5年(1768)に発行された「播陽神東郡観世音三十三所詠歌」
という本と安永4年(1775)の「播州路神西県観世音三十三所詠歌」
という本が残っています。この本によると、市川町の関係では、次のお寺の名があります。
◎神東 22番 下瀬加 月光寺   23番 上瀬加 松林庵
      24番 下牛尾 正楽寺   25番 下牛尾 永通寺
      26番 岩 戸 福泉寺    27番 上牛尾 笠形寺
      28番 小 畑 法雲寺    29番 東川辺 盛林寺
      30番 西川辺 大亀山   31番 屋 形 宝樹寺
◎神西 10番 奥 村 観音寺    11番 坂 戸 文殊院
      12番 甘 地 積清寺    13番 近 平 大梵寺
      14番 大 谷 大日寺    15番 千 原 薬師庵
      16番 谷 村 龍音寺    17番 田 中 護生寺
      18番 鶴 居 廣徳寺    19番 美 佐 西福庵
      20番 下 澤 薬師庵    21番 下 澤 松福寺
 当時の巡礼は、信仰とともに娯楽の少なかった庶民の楽しみの一つでした。各地でミニチュア版の巡礼コースがたくさん作られ、多くの人々のお参りで賑わいました。
市 川
 市川は、朝来市生野町の三国岳(855m)付近を水源とし、姫路市飾磨区妻鹿で播磨灘に注いでいます。市川の河谷は但馬へ通じる交通路で、古くから「但馬街道」として利用されていました。 市川は、昔、上流では生野川、中流では神前川、小川(おがわ)、苧(からむし)川と呼ばれていました。その後、中世に播磨の国府があったころ、姫路市花田町のあたりに市があり、「播磨の市」と名付けられていました。この「市」の名をとって「市川」と呼ばれるようになったと伝えられています。また、市川には多様な生きものが生息しています。そのなかには、国指定特別天然記念物のオオサンショウウオをはじめ、モリアオガエルやカワセミなど絶滅が心配される生き物が50種類以上見つかっています。  『人 生きもの 川づくり 市川』より