西川辺の歴史   
2023/04/03更新    「胞衣塚」を追加
西川辺川北隣保のお地蔵様   -西川辺-
西川辺 市川町役場の北、播但連絡自動車道の高架を抜けた亀山山麓に、岩を削って吹き抜けの小堂が並んでいる。南の方は蓮弁の台座に、高さ78センチの丸彫座像の地蔵が載っている。その下方は三界萬霊塔になっている。その北の方は、弘法大師供養塔であるが、ともに天明4年の造立である。この年は天明大飢饉の二年目で、悪疫が流行した年である。どうもそれと、関係があるのではないかと思う。
    「石像遺物の神崎郡誌(上) 大沢政雄 著」より
関連 地蔵岩盤水(川北隣保のお地蔵さんの水)
西川辺川北隣保のお地蔵様  -西川辺-
役場から北へ約2m、播但自動車道の下をぬけてすぐ右側にお堂が2棟並んでいます。右側のお堂の中には、蓮の花弁をかたどった台座の上に、石彫のお地蔵さんが安置されています。その下の四角形の石には正面に「三界萬霊」という文字が刻まれ、三界寓霊塔と呼ばれる石碑になっています。左のお堂には、弘法大師の座像が安置されています。どちらも天明4年(1784)に造立されています。この年は天明大飢健の2年目で、悪病が流行した年だそうです。石像が連立されたことと関係があるのかもしれません。お堂の前には大きな用水路があり、豊かな水が流れています。この用水は市川に築かれた西川辺井堰から引かれています。この井堰は今から400年近く前、内藤治郎右衛門によって造られました。お堂の左側の少し高い場所に顕彰碑が建てられています。         (説明看板より)
 広報いちかわ2010年2月号 ぶらりいちかわ散歩道<286>

地蔵岩盤水          -西川辺-
役場の北、播但自動車道の高架を抜けたところに、西川辺川北隣保がお地蔵さまをお祀りしています。昔、このお地蔵さまの近くから山水が出ていたこともあり、川北隣保では、お地蔵さまに水場を作ろうという話になりました。そして、検討した結果、山水は利用しにくいため、井戸を掘ることになりました。この費用の-部には長年お地蔵さまに寄せられた浄財が使われました。昨年の6月、地下20mまで掘削し、ポンプを設置して本椙的な汲み上げが開始されました。最初は白濁していましたが、1時間ほどで透明の水になりました。その後、井戸やその周辺の消毒、紫外線消毒装置の増設を行い、12月に完成をみました。水質検査の結果は飲用として問題なく、現在は-般の方にも無料で提供しています。
     「地蔵岩盤水」ホームページよリ
 広報いちかわ2012年11月号 ぶらりいちかわ散歩道<319>
内藤氏顕彰碑と西川辺井   -西川辺-
役場から北へ約200m、国道312号線と播但自動車道が交差する付近の山を少し上がると、顕彰碑が建てられています。これは「内藤治郎右衛門」の功績を称えたものです。昔、西川辺周辺の田は、東川辺にある栗待池と小畑川の水だけが頼りだったため、しばしば旱魃に悩まされていたそうです。そこで治郎右衛門は市川に堰を造って水を引くことを考え、実行しました。それ以後、水不足で困ることはありませんでした。正保2年(1645)85歳で亡くなりましたが、井堰を眺めるところに葬ってほしいとの遺言のとおり、この地に墓が建てられました。現在、西川辺井は立派なコンクリートの井堰になっています。
           『碑文拓本』より

井船山城    -西川辺-
井船山城は、文明元年(1469)に内藤右馬三郎(下野入道ともいう)が築城し、天文13年(1544)尼子勢が播磨に攻め込んだ時に落城したと伝えられています。また、天正7年(1579)頃には内藤衛門尉泰盛俊(宗金ともいう)の居城となった、とも伝えられています。右馬三郎は加西市満久町にある満久城を居城とする内藤氏の出身です。内藤氏はもともと関東出身の侍でした。赤松政則に従って戦功があり、満久山に築城しました。この井船山城の位置ですが、西川辺の天満神社から西へ100mほどの山中と考えられています。ここは、山の斜面が何段にも平地に整地されています。               『西播磨の城』より
井船山城    -西川辺-
内藤右馬三郎秦朝臣盛行公により室町後期に築城された井船山城は文明元年には築城され居住している。のち、天文13年(1544)尼子勢の乱入により落城を余儀なくされた。井船山城は、平地より山の斜面に向かって築造され、今も自然石でつくられた石垣があちこちに残り、城造りの場所が山頂から斜面と平地に移行してきたことがわかる。斜面には何カ所かの井戸跡が残っている。
内藤家の墓は、井船山城のすぐ隣にあり、下方には、かっての菩提寺、大亀山瑞龍寺跡がある。
    『祖神との出会い』内藤盛茂著より

本城さん(本城神社)   -西川辺-
本城さんは、内藤右衛門尉泰盛俊(1556歿:桂徳院月峰浄圓大居士位)を祀った社。内藤家には、足利尊氏(室町幕府の開祖)の戦功記録が数点伝わっているという。内藤右衛門尉泰盛俊の墓が北の山中にあり、男、女、馬の三揃になっているという。この社は、播但自動車道ができる以前は、より山裾にあった。現在の社は、昭和55年に再建され、播但道開通のため移築されたもの。
本城神社   -西川辺-
本城神社は、昔、内藤家の墓のそばに鎮座していたが、後世に2度遷座されており、内藤右衛門尉秦朝臣盛俊公と正室を祀っている。右衛門尉秦朝臣盛俊公は、承久の乱で京方に従った、左衛門尉盛俊公より十代目に当たる。本城神社はおそらく魂鎮めの性格をなす小さな社である。播但有料道路ができるにあたり、本城神社は遷座せざるを得なくなった。その時、ご神木の大きな楠も伐採された。楠を伐採し、箪笥に加工した職人は何故か急死し、また、有料道路の建設の際、この地に通すことを推進した役所の係員は、何故か職責を全うできずに退職したとか。
     『祖神との出会い』内藤盛茂著より
大亀山瑞龍寺跡   -西川辺-
大亀山瑞龍寺は、内藤家の菩提寺。江戸時代中期宝暦年間に放火により焼失らしい。瑞龍寺の初代(?)住職の素竺和尚は、天文13年(1544年)井船山城落城の時の城主、内藤右衛門尉秦朝臣盛俊公の親族であった。その後、弟子が代々住職を務め、江戸中期まで存続した。その瑞龍寺の跡を継いだのが長昌寺である。
長昌寺のすぐ近くに井船山城跡があり、それらに挟まれた格好で、瑞龍寺跡がある。瑞龍寺の上方に内藤家の墓所がある。盛俊公以下歴代の方々が眠っている。墓碑群は、整理されているそうだが、墓碑とかっての台座は歴史の流れを刻んでいる。
                     『祖神との出会い』内藤盛茂著より
松ヶ瀬神社跡   -西川辺-
川辺小学校から少し離れた北の田んぼの中に、ぽつんと大きな石灯籠が立っています。ここは、地域の人からは「松ヶ瀬さん」と呼ばれている松ヶ瀬神社跡です。松ヶ瀬神社は、村の天満神社の東に移築された(?)のでしょうか? 天満神社に社があります。秋祭りの時には必ず屋台が止まって祭礼します。
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明治3年とか明治13年あたりに大きな洪水があったそうです。その洪水で今の市川の流れになったとか。当時、松ヶ瀬さんのあたりは、市川が流れており、瀬になっていたそうです。洪水で上流から社が流れ着きそれを祀り、松ヶ瀬さんとしたそうです。その後、大正時代となり神社統合化がすすみ、天満宮に社を移したんだそうです。(らしいという話で。)--この話、市川ではなく小畑川ではないのか??
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今(2012年)から200年ほど前(1800年初め)の神社に関する古文書には、松ヶ瀬神社の大きさや、回りに15本の木が生えていたとの記述があるので、その時代には松ヶ瀬大明神があったということでしょう。
亀山   -西川辺-
西暦720年頃に編纂された「播磨風土記」に「川辺の里」と記されている地域の一部である西川辺区の北に位置する亀の形をした山を「亀山」と呼んでいる。頭部の山と甲羅部の両方が「亀山」なのか甲羅部の山のみ「亀山」なのか不明。「大亀山」が正しい名のかもしれない。
   いくのネットへのリンク
水神さん(祇園神社)     -西川辺-
毎年7月10日、市川町役場の北、市川の堤防近くに建てられているお社で、水神さんのお祭りが行われます。現在、このお祭りは西川辺の各隣保が交代でお世話をしています。 お社は以前は、もっと南の役場庁舎付近にありましたが、現在の庁舎建設により、北へ移築されました。50年程前のお祭りでは、周辺にたくさんの堤灯が灯され、芝居や映画が催されて多くの人で大変賑わったそうです。昔、このあたりは大雨の時に、市川の水が堤防の上を越えることがしばしばあったのでしょう。川を無事に治めたいという住民の願いから、水神さんが祀られてきました。
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上記の話より以前のこと、水神さんは、天満宮の西の山の中に水神さんはあったそうな(今でも跡がある)。それを川の近くに動かしたんだとか。---よくわかりませんが。
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最近、といってもここ10年~20年に「水神さん」と呼ぶようになったが、以前は祇園さん(ぎょんさん)と呼んでいた。どういう訳で「水神さん」と呼ぶようになったのだろう??。今でも、「祇園さん(ぎょんさん)」と呼ぶひとの方が多い。

川辺城   -西川辺東-
市川町スポーツセンターの裏山から、北へ伸びる尾根の一番高いところに川辺城の跡があります。標高は323m、頂上に幅約12m、長さ約50mの長い平坦地がつくられ、まわりにはそれを守るように堀や土塁、また帯状の平坦地がめぐっています。この城の城主は大野弾正忠氏といいます。赤松氏の幕下となり、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した建武の戟に武功をあげたということです。また、文和4年(1355)足利義詮が山名軍を打ち破った神南合戟(今の高槻市附近)で赤松一族と共に戦い、軍功をたてました。その後、大野七郎左衛門、岩崎六郎左衛門らが居城としたとあります。     「播磨鑑」より
    
天満神社  -西川辺-
西川辺の通称亀山のふもとに天満神社が鎮座しています。現在は播但道が目の前を通っていますが、昔は遠く福崎町方面まで、見わたせたことでしょう。神社の拝殿と本殿の間に立てられている石燈籠には寄進者として「須加院御紙漉所」という名が刻まれています。文政6年、今から150年以上前のものです。須加院には昔、実際に紙すき所がありました。文政4年(1821)姫路藩は膨大な財政赤字を改善するために藩札を発行することになり、宮辻弥次兵衛という紙すき師を招き、須加院に紙すき所を開設しました。遠く離れた西川辺天満神社に燈籠を寄進している理由としては、川辺周辺が紙の原半斗となるミツマタ・ガンピ等の産地であったことが考えられます。
高瀬舟舟着場  -西川辺-
江戸時代から明治初めにかけて、市川を利用した舟運がさかんに行われていました。自動車、鉄道のなかった時代には、舟運が最も効率のよい運送方法だったのです。運搬には高瀬舟が利用されました。舳先が高く上がり、浅瀬でも通れるように底が平らになっています。舟には3トンほどの荷物を積むことができ、上りは塩や海産物、下りは年貢米・材木・生野銀山の鉱石など満積していました。市川町内では川辺・甘地・屋形に舟着き場があ古りました。しかし、明治に入り、飾磨と生野銀山を結ぶ馬車道が市川沿いに開通し、そして、明治27年(1894)に播但鉄道が開通することによって、舟運は完全に終わりを告げることになります。
生野レンガと銀の馬車道      -西川辺-
西川辺の民家で、改装のために地面を掘っていると古い赤レンガが出てきました。長さ23.5cm、横幅11cm、厚さ6cmで、重さは2.7kgです。少し欠けているので、元々は3kg程度であったと思われます。今のレンガと違い、ずっしりと重くしっかりとした硬さを持っています。表面には漢数字の「八」または、カタカナの「ハ」と読める刻印があります。このレンガは、明治3年よリフランス人の指導で作られた生野レンガです。銀の馬車道の開通にあたり、終着点である飾磨漕には倉庫や荷積場が造られました。この建築資材として、生野で約70万枚もの大量のレンガが作られ、馬車道で運搬されたことが記録に残っています。今回見つかったレンガは生野で作られ、銀の馬車道の何らかの資材に使われたのではないでしょうか。 (参考:銀の馬車道HP〕
  広報いちかわ2012年10月号 ぶらりいちかわ散歩道<318>
伊能忠敬の地図測量  -西川辺ほか-
江戸時代、伊能忠敬が全国を測量して正確な日本地図を作成したことは有名です。この測量隊が市川町にもやって来て測量を行なっています。当時の「測量日記」によれば、文化11年(1814)正月4日、姫路を出発した忠敬の本隊は加西へ向かい、永井甚佐衛門率いる支隊が市川を北上しました。8日朝から辻川・井ノロ村を測量し、西田中を経て西川辺村の庄屋佐十郎宅で昼食を取りました。その後、浅野を経て屋形の旅寵、井筒屋で宿泊しています。この後生野峠を越え、永井支隊は但馬街道の正確な地図を作成しました。

西川辺 中川医院
種痘分苗所      -西川辺・鶴居-
天然痘はウイルスで感染する恐ろしい病気で、死亡率が高く、幸いに治癒しても痘痕が残りました。歴史的にも世界各地で大流行した記録があります。しかし、1796年にジェンナーが発見した牛痘種痘法が有効な予防法となり、1980年、WHO(世界保健機構)により絶滅宣言が出されました。江戸時代の終り頃、緒方洪庵がこの方法を取り入れ、大阪の除痘館で種痘を行っていたのは有名です。しかし、大阪だけでなく、各地で天然痘の予防に奮闘した人がいたことは、あまり知られていません。牛痘苗は日本各地の町医者に分苗され、分苗所とよばれ、予防に大きな力を発揮しました。嘉永3年(1850)の記録を見ると分苗所として、「播州神東郡川辺村 中川脩斎」「播州鶴居村 後藤左仲」の名が見えます。この市川町にも恐ろしい天然痘と闘った人がいたのです。
しかしながら、江戸時代から続いてきた西川辺の中川医院も柴田市子院長を最後として、平成23年(2011)年をもって閉院し、平成24年には、医院の敷地も新地となっている。 
市川高校  -東川辺・西川辺-
市川高等学校は、市川町にある唯一の高校で、仏教系の私立高等学校。創立当初は市川町立の商業高校(昭和34年創立)であった。第79回選抜高等学校野球大会(平成19年度)に野球部が出場するなど、クラブ活動に力を入れており、1997年の高校総体では相撲部が団体で全国制覇を果たしている。また授業内容に「座禅」があるのも特徴である。
よりど谷古墳    -西川辺東-
市川町内には20以上の古墳が知られています。なかでもスポーツセンターから西川辺東にかけての山中にはたくさんの古墳が集中しています。ここは、よりど谷古墳群と呼ばれ、8基の古墳が見つかっています。古墳はいずれも丸い形をした円墳で、横穴式石室と呼ばれる石組の部屋が作られています。今から1500年ほど前に川辺周辺を支配していた豪族によって築かれたものと考えられます。この中で、築かれた当時のまま完全に残っている古墳が1つあります。古墳の内部には3畳ほどの広さで高さが2mの石室があります。これほど完全に石室が残っている古墳は珍しく、市川町の歴史を考える上で貴重です。

鉱山寮馬車道 -浅野、西川辺、他-
明治のはじめ頃、屋形~浅野~西川辺の市川沿いに馬車道が作られていました。倒幕を果たした明治政府は財源確保のため生野銀山を接取しました。フランス人技師コワニーを招き、洋式技術を導入したことにより出鉱量は飛躍的に増大していきます。ところが、鉱山で大量に使用する石灰・コークス等の運搬が追いつかない状況になったため、飾磨港から生野まで馬車道を新設することになりました。この道「マクアダム式」と呼ばれ、巾は4m。石で舗装されて下は30cmの厚さで土が突き固められていました。明治6年に着工し、3年後に完成しますが、これが明治政府による最初の国道と言われています。そして播但鉄道開通まで、生野銀山の物流を支えていました。
   
向城山古墳と石切場跡     -東川辺-
東川辺の大通寺の北側にそびえる山の頂上近くの尾根に、向城山古墳があります。この古墳は、直径14mの円墳と考えられています。古墳には石室が作られているようで、大きな石が地面に露出しています。また、近くから須恵器(すえき)と呼ばれる土器の破片が見つかっています。古墳のある山は、南東に対面する山の頂上に山城があったことから、向城山(こうじょうぎん)という名で呼ばれています。
 また、古墳近くに「馬岩」と呼ばれる巨大な岩があります。この岩の一部に黎(たがね)と呼ばれる道具で石を割ろうとした跡が残されています。古墳に使う石材を切り出していたのかもしれません。古墳へは大通寺の裏から登る通があります。
内藤利八
播但線生みの親として有名な内藤利八は、電気事業、銀行経営など多くの事業を手がけた。電気事業においては、「播磨の電気王」と呼ばれていたともいう。
1856-1921 明治、大正時代の政治家、実業家。安政3年2月6日生まれ。兵庫県会議員などをへて、明治23年衆議院議員(当選5回、国民党)。播但鉄道、姫路水力電気の社長をつとめた。大正10年7月1日死去(神崎郡誌だと6月28日病死とある)、66歳。
昭和17年発行の神崎郡誌の中に地域の10氏として選ばれているほどの人物だが、その功績が語り継がれていないのが残念である。郡誌には、西川辺に生まれたと生まれるとある。しかし、市川町教育委員会編集・発行の「ぶらりいちかわ散歩道-総集編-」平成18年発行によると東川辺に生まれたとある。どちらが正しいのか。
内藤利八
内藤利八氏は安政3年(1856)2月6日神東郡川辺村(現神崎郡市川町東川辺)で生まれる。幼時より学問を好み、寺子屋(長昌寺)の住職より漢学の指導を受ける一方、早くから自由民権運動に加わっていた地元の大先輩でもあり、寺子屋の師匠でもあった岩崎兵三郎氏から語学や近代政治思想などの幅広い知識を吸収していった。政治家としての利八氏はこうした学問研究の中でしだいに 育てられていった。明治5年(1872)学制施行と同時に村の小学校(市川町長昌寺に設置)の塾監となり、かたわら役場吏員として地租改正の仕事などをし、翌6年には戸長として村政に参加する。明治14年(1881)県会議員に当選、副議長の要職に就く。翌15年(1882)大隈重信の改進党に参画、同23年(1890)7月、地元の熱い期待を背に日本政治史上初の衆議院選挙に兵庫7区より出馬、改進党議員として当選を果たす。播州、但馬の開発と発展のために、播但鉄道の敷設に尽瘁し、明治25年(1892)に姫路~寺前間を開通させ、さらに同28年(1895)4月14日、飾磨~生野間(49、2キロ)の全線を開通させた。同鉄道は明治39年(1906)3月10日、和田山まで延長、山陰線と連絡させることができた。氏は地元の強い支持を得て、明治末年まで国会議員として国政に参画するかたわら、さきの播但鉄道敷設事業、さらに明治30年(1897)姫路水力電気会社を設立し、発電と配電事業を起こし、同38年(1905)関西電力寺前発電所を設立している。それらの事業に加えて、姫路商業銀行、飾磨銀行、播磨紡績等の会社創立に努めるなど、数々の業績を通じて播州一円の産業発展に大いに、貢献した。大正10年(1921)6月28日病歿、享年65歳。氏は、国政と事業を通じて、わが国の近代化と播州一円の開発と発展のために、私利私欲を捨て、自ら常に清貧に甘んじながら尽瘁した生涯と言えるであろう。ここにわれら町民こぞって、郷土の生んだ偉大な先覚者、内藤利八氏の多大の業績を心から讃えるとともに、長く後世に伝えるために顕彰碑を建立する。
   平成3年3月 吉日  市川町
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以上、甘地駅前にある内藤利八の顕彰碑から。この顕彰碑は、「ふるさと創生事業」の補助金の一部を使って作られたものである。
内藤利八の生家  -東川辺-
内藤利八は東川辺に生まれた明治の政治家・実業家です。明治23年(1890)第1回の帝国議会選挙に当選した後、播但鉄道の建設や電力事業などを手がけ、播磨地方の経済発展につくしました。現在、利八の生家はありませんが、離れ座敷が東川辺の大通寺に移築され、客殿として残されています。建物は2階建てで、1階の座敷には当時の兵庫県知事から利八に宛てた手紙が額に納められてあげられています。日露戟争が開戟した時のもので、切迫した様子が伝わってきます。
      「ぶらりいちかわ散歩道-総集編-」平成18年発行より
中屋敷旧魂碑  -東川辺-
市川高校の敷地内にふたつの石碑が建っています。ひとつは「中屋敷旧魂碑」もうひとつは「鵜埜君之碑」です。どちらも明治12年(1879)に内藤孝信氏が建てたものです。「中屋敷旧魂碑」には、内藤氏の宅地は中屋敷と呼ばれ、元は青田半太夫の屋敷であった、と記されています。青田半太夫はこの地の豪族です。「鵜埜君之碑」は、神河町福本の鵜埜金兵衛氏のことを顕彰しています。鵜埜家は備前屋とも呼ばれ、福本藩の藩札を作っていたほどの大庄屋です。また、「福乃基(ふくのもと)」という銘柄の造り酒屋でもありました。
文化センターの彫刻     -西川辺-
文化センターの入口に大きな彫刻が2基、設置されています。この彫刻は平成13年(2001)、「西播磨国際彫刻シンポジウムinKANZAKl」と呼ばれるプロジェクトによって作られました。「交流とコラボレ-ション(共同制作)」というテーマのもと、海外の彫刻家と日本人の彫刻家がペアを組んで作品を制作しました。そして、5組のペアの作品が郡内5町(当時)にそれぞれ設置されました。市川町の作品はオランダ人のHansReijndersさんと市川町出身の宮浦康暢さんの作品です。市川町の慣れ親しんだ風景をそのまま彫刻にと、「川につどう人々」をテーマに市川の流れをモチーフにした滑り台を配し、それを囲むように置かれた石には、人々が腰かけた跡がくっきりと刻まれています。
  広報いちかわ2007年4月号 ぶらりいちかわ散歩道<259>

内田神社      -西川辺南-
西川辺のマックスバリューから100mほど南へいくと、内田神社が鎮座しています。由緒記によると、元亨元年9年(1321)、大山洪水と呼ばれる大きな洪水がありました。この洪水で千束山が流れ、この周辺が川原となりました。その後、内田徳之助が私財を投じて水田への開発を行いました。そのため、土地の名前が「内田」となり、その後に神社が建立され、「内田神社」と名付けられました。そして、昭和3年(1928)御大典を記念し村の氏神に祀り、現在に至っています。ちなみに、大山洪水の言い伝えは各地に残っています。北田中の薬師堂には大山洪水で流されてきた薬師如来の木像が「流れ薬師」と呼ばれお祀りされています。
 広報いちかわ2011年11月号 ぶらりいちかわ散歩道<307>
胞衣塚 えなづか      -西川辺-

人間一生の運命は胞衣の取り扱いによって決まるという俗信がある。
母の胎内において生児と共存していた胞衣は、生児と同一のものと考えられ胞衣の取り扱いには生児の生命を祝う種々の作法があった。