日見峠(ひみとうげ)    蛍茶屋(ほたるじゃや)〜東長崎  

日見トンネル 98/1 撮影
現在の「日見トンネル」
 
 
日見峠の切通し 97/7 撮影
明治15年に開通した日見峠の切通し
現在の「日見トンネル」の上に在ります

今は、国道34号線の「蛍茶屋」から、大正15年(1926年)開通した「日見トンネル」を越えて、東長崎の田中町までの峠を総称しています。

かつては、長崎市本河内町(ほんごうちまち)と芒塚町(すすきづかまち)との境にある、標高200メートルの峠をいい、江戸時代長崎街道の中で、西の箱根といわれた難所でした。

@「長崎名勝絵図」には、

日見嶺(ヒミタフケ)
鎮の東八里に在り。すなわち佐賀高来に往くこれ要路なり。東西に七曲(ナナマカリ)坂あり、山路岨峻、盤り回ること七曲してすなわち嶺上に至る。
天正の初め深堀茂宅 長崎氏と戦ふ利あらず、しりぞいて後より襲んと欲し、兵を網場(アバ)村に屯し、火をもって之をおびやかす。 長崎 ひとをつかはして、その虚実をうかがいもって不慮に備う、深堀ついに入る能はず。
よって名となす。

(1578年頃のこと、長崎氏と戦っていて不利であった深堀氏は、背後をつこうとして、夜に網場村でさも大軍が攻めてきたように火を焚いて見せました。 しかし長崎氏はその手に乗らず、深堀方の偽装作戦は失敗しました。
峠から、深堀勢のかがり火が見えたので、日見峠というようになったという。)

A毎年旧八月一日は「八朔日拝み(はっさくひおがみ)」という行事が、江戸期から昭和十年代まであり、長崎市民がこぞって山に登り、日の出をおがむ習慣があり、この日見峠が一番にぎわったという。
日を見る峠から、「日見峠」というようになった。

  長崎街道「日見峠」が「歴史国道」に選定されました。



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