はらきり坂 (腹切坂)   宿 町
網場道バス停前の国道34号線
左下が長崎平和ライオンズクラブ寄贈の標識
長崎旧街道の宿町付近で、現在は国道34号線になっている。

 (1)熊本細川藩の家臣某が、長崎より熊本に帰郷のさい、平家の落人の末裔の農民作左衛門が優れた棒術使いと聞き、試合を申し込んだ。
試合の結果武士は敗北し無念やる方なく、宿部落を見下ろす場所で武士の面目と切腹した。村人は武士を丁重に葬った。

 逆に・・・・作左衛門がある日、網場(あば)の漁師から五尋(ごひろ、約9m)の舟を大村湾の喜々津から網場は運んでくれと頼まれ、ひとりで舟をかついでいった。しかし途中で熊本の細川候の家臣から一手試合を申し込まれ、惜しくも負けた。無念やるかたなく 部落の見晴らせるこの坂で、切腹したと伝えられている・・・・という話もあります(日本の伝説28・長崎の伝説、福田清人著、角川書店・昭和53年発行)。  

 (2)文化5年1808年、オランダの東洋植民地や貿易を手中に収めようとしたイギリスが、長崎港にオランダ船がいないか捜索のため、軍艦フェートン号で長崎港に侵入しオランダ商館員二人を捕らえて、 食料薪水を要求し悠々と長崎港を引き上げた。
長崎奉行松平図書頭は責任をとって自刃した。この年の長崎港の警備は佐賀藩が当番であった。佐賀藩士16人、帰藩報告しようと日見峠を越したが、佐賀領に入ったこの坂で、いずれ無い命と覚悟して自刃した。

<長崎街道」 昭和48年 永島正一 親和文庫第9号 ほか>


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