ローマ・パリ旅行記
 2005.12.30〜2006.1.5


 私は海外旅行は過去3回(東欧・ドイツ・スペイン)の経験があるが、妻と娘は東欧旅行のみ。中学生の息子は一度も海外へ行ったことがない。来年の春には娘が社会人となり、息子も高校受験なので、家族そろって海外へ行ける機会はこの冬休みしかないことになる。そこで冬休みに家族そろって最後の海外旅行に出かけることとなった。コースは初心者定番のローマ・パリ8日間だ。


12月30日(金)
   
    メルキュール・ホテル            ホテルから外を見る

 車で関西空港へ出発。関空で添乗員さん・他のツアー客と対面。ツアーといっても我が家を含めて3家族、合計9人(うち我が家は5人)のこぢんまりとしたツアーだ。添乗員はベテランのE尾さん。新婚旅行のカップルも1組含まれている。13時55分発のアリタリア機で定刻に出発。機内の設備はよく整っており、すべての席に液晶のテレビがついており、ゲームもすることができる。ミラノまで約13時間のフライトだ。海外旅行は行き帰りの飛行機の長さに辟易する。本当に長い。テレビで映画を見るくらいではとてもつぶせない。かといって座ったままでは眠ることもできない。ユアン・マクレガーの「アイランド」やブラッド・ピットの「Mr&Mrsスミス」が上映されていた。機内食は2回。

1回目は和食でご飯とチキン、2回目は軽食でパン・ケーキ・サラダだった。現地時間で夜7時前(日本との時差8時間)にミラノに到着、小型機に乗り継いで夜11時前にようやくローマに到着した。そのままホテルへ直行し、すぐ就寝。



12月31日(土)
   
         コロッセオ                     トレビの泉

 7時に起床。ホテルはメルキュール・ピアッツァ・ボローニャでそんなに大きいホテルではない。朝食をすまし市内観光へ出発。まずコロッセオへ。あいにくの小雨模様だ。紀元80年に完成した5万人収容の円形闘技場は今もその勇姿を示している。大きすぎてカメラに入らない。コロッセオの入り口近くには堂々たるコンスタンティヌス帝の凱旋門、それを境として向かい側にはフォロ・ロマーノと呼ばれる古代ローマ時代の広大な遺跡群が広がる。まさに古代ローマ時代が目の前にあるのだ。

 続いてサンタ・マリア・イン・コスメディン教会へ。「ローマの休日」で有名な「真実の口」がこの教会の入り口左にある。おそるおそる手を入れてみた。この有名な石盤も本当は排水口のふただったらしい。

 さて、市内の数々の遺跡を車窓から見ながら、共和国広場を通って市内中心部へ移動。細い路地を歩いて有名なトレヴィの泉へ。泉の周りは黒山の人だかりだ。たくさんの人が記念撮影をしている。再びローマに来られることを祈って後ろ向きにコインを放ってみた。帰り道で食べたジェラートがとてもおいしかった。

 次はバスでヴァチカン市国のカトリックの総本山サン・ピエトロ寺院へ向かう。広場には世界から集まった信者たちと観光客が列をつくって入場の順番を待っている。広場の中央にはキリスト生誕のストーリーを表す人形の飾り物と巨大なクリスマスツリーがつくられていた。クリスマス前から新年にかけて飾られるらしい。金属探知機を通ってようやく中へはいる。入り口のすぐ右には有名なミケランジェロの「ピエタ」像がある。内部はカトリックの総本山にふさわしい荘厳な雰囲気で、たくさんの礼拝堂に歴代法王の墓、数々の銅像や絵画が並んでいる。広場にもどると、寺院の前に新年を迎える行事のため、集会用のいすが並べられていた。元旦には法王が挨拶をされるのだろうか。今回は時間の都合で見られなかったが、次回はヴァチカン宮殿内の絵画館やシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ・ラファエロ・ダビンチの絵画を見るためだけに、来てみたいものだ。 

この日の昼食はピザと酸っぱいサラダ、デザートにティラミスがついていた。午後はフリーだったので、「ローマの休日」で有名なスペイン広場へ出かけた。広場は観光客でいっぱいだったが、その姿を見てがっくり。有名なスペイン階段の上にそびえ立つトリニタ・ディ・モンティ教会が改修工事中でシートをすっぽりかぶっていて全く見えない。しかもそのシートいっぱいにベルサーチのCMがでかでかと描かれている。興ざめもいいところだ。これではなかなか「ローマの休日」気分には浸れない。スペイン広場から商店街の続く通りが幾本も出ており、観光客であふれている。特にグッチやフェラガモなどの高級店が集中するコンドッティ通りは観光客だらけだ。娘たちはウインドーショッピングを楽しんでいたが、私は何の興味もない。クローチェ通りをアウグストゥス帝の廟までぶらぶら散策した。その後スペイン広場で娘たちと落ち合い、タクシーでホテルへ帰った。その日の夕食は市内のレストランでカンツォーネ付きディナー。アサリとムール貝のパスタと鯛のムニエル、デザートにブルーベリーケーキがついた。途中でカンツォーネのソプラノ歌手が現れ、サンタ・ルチア、カタリ・カタリ、アリベデルチ・ローマ、オー・ソレミオなどを歌ったが、カンツォーネはやっぱりテノールだよね。



1月1日(日)

     
    ポンペイ遺跡              ポンペイの壁画

 昨夜はホテルの周りが夜中遅くまで騒がしく、なかなか眠れなかった。年越しのイベントで夜遅くまで花火や爆竹・歓声が聞こえ、うるさいことこの上なし。日本の除夜の鐘を静かに聞く年越しとはえらい違いだ。今日は1日ナポリ観光、メインはカプリ島の青の洞窟見学だ。朝早い出発なので朝食は抜き、パンを持ってバスで小雨の中ナポリへ向かう。実は私は船酔いしやすい体質で船が苦手である。天候の具合でカプリ島に渡航できない場合はポンペイ観光に変更になるとのことなので、内心カプリ島行きが中止になることを願っていた。また妻は社会科の教師なので、職業がらポンペイに是非行きたいという。二人でカプリ島行きの船が出ないことを密かに祈っていた。バスはナポリ市内に入ったが、さすがに元旦なのでほとんど人が歩いていない。店もほとんど閉まっている。昨日の夜遅くまで年越しのパーティーで騒いで、今頃はみんな寝ているのだろうか。車窓から王宮やイタリア三大歌劇場の一つサン・カルロ劇場、ヌオーヴォ城を見ながらサンタ・ルチア地区の海岸通りへ出る。海に張り出して建てられた12世紀の古城「卵城」が美しい。天気のよい日なら城の向こうにヴェスヴィオ火山が見えるらしい。しかし今日はあいにくの雨模様で海も荒れている。添乗員さんが港に電話をしていたが、どうやら悪天候でカプリ行きの船が出ないらしい。ポンペイ遺跡は元旦から開いているということで、行き先はポンペイに変更となった。僕らの祈りが通じたのだろうか。しかしどうも喜んでいるのは私たち二人だけのようで、他の人たちは私の娘も含めて、青の洞窟に行けなかったのを残念がっている。特に新婚の二人は楽しみにしていたらしい。ちょっとかわいそうな気がした。

 さてポンペイは皆さんご存じの通り古代ギリシャの植民都市として発達した町の一つで、紀元79年のある日、ヴェスヴィオ火山の大噴火により一瞬にして死の灰に覆われてしまったことで有名である。西側のマリーナ門から入場したが、遺跡は広大な規模で、町一つがそのまま残っている。屋根や木造の部分は失われているが、石造りの部分がかなりたくさん残されていた。当時は壮麗な建物であったろうアポロ神殿やジュピターの神殿、公衆浴場や円形闘技場、そして商家の立ち並ぶ通りには轍の跡までくっきり残っている。また所々の家々の壁に残された赤茶色のフレスコ画が何ともいえず美しい。敷地内の所々に石膏でできた人体が展示してあるが、これはこの遺跡を掘り出すときに、人間が埋もれた火山灰の中で燃えてできた空洞に石膏を流し込んでつくったもので、噴火の時の人間の姿を現しているという。まさに一瞬にして死の灰に埋まった街を象徴した展示物だ。

 昼食は遺跡の向かい側のレストランで、変わった形のパスタと海の幸(いか・エビ)のてんぷらをいただく。さすが海沿いだけあって海の幸が新鮮でおいしい。デザートはフルーツポンチ。妻はポンペイに来られて大いに満足しているようだ。

 その後バスでローマへの帰途につく。朝早かったせいもあり、帰りのバスではみんな熟睡していた。夕食はホテルのそばのレストランでいただく。トマトのパスタとメインはチキンのグリルだ。デザートはまたもやティラミス。



1月2日(月)

    
   ノートルダム大聖堂          エッフェル塔の点灯

 今日はローマからパリへの移動日である。朝食後荷物をまとめてローマ・フィウミチーノ空港へ。10:50発のアリタリア機で出発。昼食は簡単なサンドイッチの機内食である。13時にパリのドゴール空港に到着した。同じEUの国なのでややこしい手続きはなし。すぐにバスで市内観光に向かった。パリの街は環状高速道路に囲まれた1区から20区までの、東京の山手線の内側ほどのせまい範囲である。まずはパリのシンボル、エッフェル塔へ。直下では大きすぎてカメラに入らないので、セーヌ川を隔ててシャイヨー宮のテラスから塔をバックに記念撮影。まさにベストポジションだ。もう一度バスに乗り込み、車窓からシャンゼリゼ大通りに沿って市内を巡る。まずシャルル・ドゴール広場のエトワール凱旋門の勇姿が目に飛び込んでくる。ナポレオンの命令で建設されたという。シャンゼリゼ通りの両側にはまだクリスマスの飾りつけ(白く染められたクリスマスツリーなど)がたくさん残っている。コンコルド広場に出るとヒエログリフが浮かび上がる大きなオベリスクが見える。その隣から広がるのがチェイルリー公園だ。公園の端にはカルーゼル凱旋門があり、その隣のルーヴルへと続く。セーヌ川を渡って西岸のカルチェ・ラタン地区でバスを降りる。そこから学生街を歩いてシテ島へ。ノートルダム大聖堂へ向かうのだ。ノートルダム大聖堂は1320年頃に完成したゴシック様式の聖母マリアに捧げられた聖堂で、ナポレオンの戴冠式が行われたことで有名だ。正面には南北二つの塔がそびえ、中央に天使ミカエルが死者を天秤にかける場面を描いたレリーフのある「最後の審判の門」がある。この門を入り中央の翼廊まで来ると左右に見事なステンドグラスのバラ窓がある。中央の祭壇の周りにはキリストの生誕から受難・復活までを描いた物語が着色されたレリーフで飾られていた。

 以上で本日の見学は終了、ホテルに向かう。ホテルは環状道路に近いホテル・エタップ・バニョレだ。設備は簡単なビジネスホテル程度、正面にでかでかと一泊60ユーロなどと垂れ幕がかけてある格安ホテル。ローマのホテルと比べてかなりひどい。子供たちの部屋に行ってみると二段ベットとあと一人は壁に取り付けてある折りたたみ式の簡易ベットだ。しかもその固定金具が壊れていて、ベットが固定できず横になると重みで縦に戻ってしまう。これではとても寝られない。添乗員さんに部屋を変えてくれるよう頼む。他の人達からも部屋のひどさに文句続出だ。特に新婚さんにとってはこのホテルは本当にかわいそうだ。添乗員さんがホテル側と交渉し、となりの同じイビスホテル系列のイビス・パリス・ポルテ・デ・バニョレに移動することになる。大手の旅行会社近ツリにしてはひどいホテル手配だ。かなりの料金を払っているはずなのに。イビスの方はエタップよりは少しはましだが、やはりあまりよいホテルとはいえない。ホテルは外れである。

 夕食はエッフェル塔の展望台にあるレストラン「ジュール・ヴェルヌ」でのディナーだ。メニューは野菜のテリーヌと鴨のロースト、デザートはヌガー入りのアイスクリーム。展望台からの眺めは抜群だった。エッフェル塔は日没後毎正時から10分間塔全体が点灯し点滅する。これが本当に美しく幻想的だ。塔のふもとでは何人かのアフリカ系の若者が光るエッフェル塔のミニチュアを売り歩いていた。



1月3日(火)
   
     モンサンミッシェル全景                   参道

 今日はいよいよ人気の世界遺産モンサンミッシェル見学だ。モンサンミッシェルはフランスの北部の海岸ノルマンジー地方にあるので、朝7時にバスで出発。周りはまだ薄暗い。モンサンミッシェルはノルマンジー地方の遠浅の海岸にそびえる岩山にたてられた修道院と教会などの複合建築だ。今は堤防が岩山まで築かれ、堤防の上の道を通っていつでも行き来できるが、堤防ができるまでは遠浅の海岸を歩いて巡礼に通ったようで、満ち潮にのまれて死んだ人も数多いとか。途中で1回休憩を取り、昼前に岩山のすぐ近くまで来る。しかしまずは腹ごしらえ、近くのレストランで昼食。メニューはモンサンミッシェル風オムレツ・子羊のロースト、デザートはリンゴのタルト、名物のシードル(リンゴ酒)もおいしかった。

 さていよいよ岩山に登る。伝説によると8世紀にアヴランシェの司教オベールが夢で大天使ミカエル(ミッシェル)の「岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受け、農民を集め最初の聖堂を建設したという。それ以後いろいろな時代にいろいろな建築様式の修道院・教会が増築されていった。イギリスとの百年戦争の間には修道院が要塞に改造され、地下は監獄として使われたらしい。ロワ門の前には大砲も残されている。金色の大天使ミカエルを先端にいただく尖塔にいたっては19世紀末に建設されたものだ。実に長い年月をかけて今の形になったと言える。ロワ門を入ると通りが岩山に沿ってくねくねと続く。周りには土産物を売る店が建ち並んでいる。門前町を過ぎさらに階段を上ると様々な様式の修道院と教会が見えてくる。今も何人かの修道士がここで生活を続けているという。建築様式は主に三種類でロマネスク様式の外陣等、ゴチック様式の食堂・内庭回廊・客室・尖塔、フランボワイヤル様式の内陣等に分かれている。これらが組み合わさった複合的なシルエットが何とも美しい。まさに神の山だ。行ってみたい世界遺産のベスト3に必ず名前が挙がるのもわかる気がする。

 見学を終えバスで帰途につく。朝早かったのでみんな爆睡だ。夕食は市内のレストランで。メニューはエビのカクテル・白身魚のムニエル、デザートはアイスクリームだった。



1月4日(水)

 
      ベルサイユ宮殿                     オペラ座

 いよいよパリ観光最後の日、午前中はベルサイユ宮殿の見学だ。ベルサイユはパリの郊外にありパリから列車で30分程度の所だ。ベルサイユ宮殿は、「太陽王」と呼ばれたルイ14世が1661年から半世紀を費やして造り上げた贅の限りを尽くした宮殿だ。敷地面積は約800ヘクタールもある。ブルボン王朝の栄華の象徴と言える。2004年から170年ぶりの大改修が始まっており、広場の太陽王の騎馬像や宮殿の外壁は足場やフェンスに囲まれていた。また、内部も一部見られない所もあった。内部はどの部屋も金色に飾られ、豪華なシャンデリアと調度品、数々の歴代王・王妃の肖像画、神話を描いた天井画で飾られ、豪華この上ない。一番の見所であるベルサイユ条約が調印された場所として有名な「鏡の間」は、工事で一部しか見られなかったが、マリー・アントワネットの居室やベッドの豪華さには目を見張った。また「戴冠の間」の有名なダビットの「ナポレオン1世の戴冠」の絵が見られたのも収穫だった。

 さて、ベルサイユは内部もすごいが庭がまた広大だ。宮殿の左右に配された幾何学模様の花壇、宮殿のテラス前から広がる広大な西側の庭園は広すぎて果てが見えない。庭園内には数々の池と噴水が配され、奥には運河まである。行けたのはアポロンの泉の近くまでで、とても全部は回りきれなかった。

 バスで市内に戻り昼食。初めてエスカルゴを食べた。でんでん虫だと思うと少し抵抗があるが、味はサザエみたいで食べやすい。ちゃんと専用のくぼみの付いたプレートとはさむ道具があるのがおもしろい。メインは牛肉の赤ワイン煮、デザートはプリン。

 午後はまずルーブル美術館へ。歴代国王の宮殿だった建物をフランス革命後美術館として公開するようになったこの美術館は、30万点もの作品を所蔵しているという。とても1日で見きれるものではない。中庭のガラスのピラミッド(ダビンチ・コードで有名になった)の地下から入館する。地下には中世の要塞跡が残されている。有名な作品が多いドノン翼を中心に地下から上へと見学していく。ガイドさんが有名な作品だけをかいつまんで案内してくれるので効率よく回れるが、一人ではなかなかお目当ての作品を探すのは難しかろう。ミロのビーナス、ミケランジェロの瀕死の奴隷、サモトラケのニケ、ナポレオン1世の戴冠(ベルサイユにあったものと同じ作品)、民衆を導く自由の女神(ドラクロア)、そしてダ・ビンチのモナ・リザ(これだけは防弾ガラスで覆われている)、岩窟の聖母など数々の名作を堪能した。残念ながらラファエロの「聖母子と聖ヨハネ(美しき女庭師)」は貸し出し中であった。「ダビンチ・コード」に書かれているように、ドノン翼の防犯カメラはほんとうに飾り物なのだろうか。

 さて以後は自由行動となり、私たち家族はまずオペラ座へ。「オペラ座の怪人」の舞台となった所を一度見ておきたかったのだ。オペラ座はルーブルからオペラ大通りを通ってまっすぐ。デパートなどが建ち並ぶ繁華街にある。オペラ・バスティーユという新しいオペラホールができて、今はバレエしか上演していないというが、堂々としたたたずまいだ。中に入ることはできなかったが、地下には本当に池があるのだろうか。少しカフェで休憩してから、娘達が買い物をしたいというので、プランタン高島屋へ。日本語が通じるので免税手続きもやりやすいという。私にとっては無駄な時間だが。夕食は近くの中華料理店「マンダリン」。メニューはブロッコリーのオイスターソース・チキン唐揚げ・エビサラダ・そして中華そば、この中華そばのスープが薬っぽい奇妙な味だった。タクシーでホテルに戻る。



1月5日(木)
 いよいよ帰国の日、このひどいイビス・ホテルともお別れだ。バスでドゴール空港へ向かう。10:10発のアリタリア機でミラノ・マルペンサ空港へ。空港で時間があったので昼食をすます。メニューはピザとチキン、野菜サラダ。15:15発のアリタリア機で帰国の途についた。12時間のフライトだ。

 ローマとパリの印象を振り返ってみると、街の様子が全く違うことに気づく。ローマはいたる所に古代ローマの遺跡があり、街全体が雑然とした雰囲気だが、パリの街は街全体がきちんと都市計画され、整然としていて美しい。古代からの歴史を引き継ぐ街と中世に開けた街の違いだろうか。やはり歴史の違いを感じてしまう。

 機内での食事は2回。夕食は久しぶりの白ご飯とそば・鳥の煮物、朝食はパン・生ハム・チーズ等であった。6日の午前11時に関空に到着、ローマ・パリ8日間の旅は無事終了した。 
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