東欧旅行記
2000.7.31〜8.10

 @ワルシャワ


      聖十字架教会                      旧市街広場

 ワルシャワは第二次世界大戦の末期のドイツ軍との市街戦で、ほとんどの建物が跡形もなく破壊された。それを戦後ワルシャワ市民が写真や絵、記憶をたよりに「壁のひび一本まで」元通りに復元したのだという。確かに旧市街広場からクラクフ郊外通りにそってゴシックやバロック調の建物が建ち並び、まるで中世のような町並みだ(世界遺産)。日本では古い建物を壊して無機質のコンクリートのビルを建てたり、各人がバラバラの形の建物を勝手に建てたりするが、ヨーロッパには住民一人一人に「美しい町並みを残そう」という町づくりの思想が徹底しているように思う。

 ポーランド出身の過去の有名人といえばまずショパン、そしてキュリー夫人らであろうか。クラクフ郊外通りに面した聖十字架教会の石柱の中にはショパンの心臓が埋め込まれおり、近くにショパンが住んでいた家も残されていた。さらに旧市街の北にあるキュリー夫人の生家にも足をのばした。ショパンが生まれたのはワルシャワから50キロほど離れたジェラゾバ・ボーラで、生家が博物館として残されていた。ショパンの生家で行われた地元ピアニストによるショパンのミニコンサートを楽しませてもらった。

 ワルシャワはプラハ・ウィーン・ブタペストなどと違って日本人の一般的な観光コースからはずれているので、日本人は比較的少ない。ポーランドは東欧諸国の中では経済状態の比較的ましな国らしいが、それでも経済状態は悪く、観光地には必ず物乞いがおり、スリや置き引きも多いと聞く。物価は安く、通貨はズオティで1ズオティ=約25円くらい。T/Cはほとんど使えない。


 Aクラクフ

          バベル城                    聖マリア教会

 クラクフは1596年に首都がワルシャワに遷都されるまでポーランド王国の首都だった所で、ポーランドでは珍しく第二次大戦の戦災を免れ、中世の町並みがそのまま現在まで残されている町だ(世界遺産)。ビスワ川沿いの丘の上には壮大なバベル城がそびえ、城内の大聖堂や旧王宮の壮大さや華麗さは目を見張るばかりだ。また中央市場広場を中心とした旧市街は本当に美しく、世界遺産に登録されたのもうなずける。9割以上がカトリックという国にふさわしくいたる所に教会があり、町の広場や辻々では音楽学生らしい若者がバイオリンやフルートを奏でていた。生活の中に音楽が息づいている町だ。また旧市街にあるチャルトリスキ美術館でレオナルド・ダ・ビンチの「白貂を抱く貴婦人」を見られたのも収穫だった。

 クラクフから13キロほどの小さな町ベリチカには、世界有数の大規模な岩塩採掘坑があり、中には採掘坑夫が仕事の合間に彫刻した岩塩の彫像や採掘跡の巨大な空間を利用した礼拝堂などがあり、目を楽しませてくれた(これも世界遺産)。


 Bアウシュビッツ・ビルケナウ


       アウシュビッツ正門               ビルケナウ引き込み線

 クラクフの西54キロの所にあるオシフィエンチム(ドイツ名アウシュビッツ)にあの悪名高きアウシュビッツ強制収容所跡が博物館として残されている。ここでは第二次大戦中ユダヤ人や反ナチス活動家など150万人以上の人が殺害されたという。入り口のゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という有名なスローガンが掲げられていた。まわりは二重の有刺鉄線(電流が流れていた)で囲まれ、高い監視塔が建っていた。内部にはいると28の収容棟内にナチスの蛮行の証拠や当時の様子を物語る資料が展示されていた。収容者から取り上げた靴・鞄・めがね・義足等の巨大な山。別の部屋にはそられた髪の毛の山とそれらで作った絨毯。また、別の部屋にはガス室で使用した毒ガスの入っていた空き缶の膨大な山。どれもがここで何が行われたかを物語っている。銃殺に使われた壁には花が供えられていた。さらに収容所の一角には悪名高きガス室とガス室で殺した人を焼いた焼却炉も残っていた。見ていて気分の悪くなるような物ばかりだが、戦争の真実として直視しなければいけないと思う。なぜならナチスドイツの同盟国として私たちの国日本も中国や朝鮮で同じようなことをしたのだから。戦争の実態をきちんとつかむためには、被害の実態だけでなく、加害の実態にも目を向けなければならない。二度とあのような戦争を起こさないためにも。

 アウシュビッツの見学後、2キロほど離れたビルケナウ(第2アウシュビッツ)強制収容所跡に向かう。ここはアウシュビッツよりさらに広大で300棟以上の収容棟が立ち並んでいたという(ナチスが終戦直前に証拠隠滅のため焼き払ったので、今は一部しか残っていない)。アウシュビッツと違ってバラックなので冬は寒く、生活条件のさらに厳しい収容所で、多くの死者を出した。映画などでよく出てくる鉄道引き込み線がある門は今も残っている。


 Cベルリン・ポツダム・ドレスデン


  ベルリン・ブランデンブルグ門         ドレスデン再建建物群

 ドイツはベルリン・ポツダム・ドレスデンだけの駆け足の旅行になった。ベルリンは統一ドイツの首都移転で各地で工事が行われていた。ベルリンの壁は取り払われて久しいが、一部に(観光用に?)残されていた。東西冷戦の象徴だった壁を目の当たりにすると、やはりいろいろ考えてしまう。統一ドイツの象徴ブランデンブルグ門を東側から西側へ通り抜けてみる。昔はここを自由に通ることができなかったと思うと、やはり感慨深い。戦争の悲惨さを後世に伝えるため破壊されたままの外観で残されているカイザー・ウィルヘルム教会を車窓に見、ゼウスの大祭壇で有名なペルガモン博物館を見学してからポツダムへ。 ポツダムではポツダム会談の行われたツェチリエンホフ宮殿(宮殿というより別荘)を見学。なんということはない建物だが、ここで日本の運命を決める会議が行われたと思うと感慨深い。フリードリヒ大王が建てたサンスーシー宮殿を見学してからドレスデンへ。 「エルベ川のフィレンツェ」と呼ばれた文化都市ドレスデンは、第二次大戦中の連合国軍の空襲で一夜にして徹底的に破壊された。現在の建物は戦後再建された物であり、修復は今も続いている。自国の文化遺産を守ろうとする熱い意志を感じる。ドイツバロック建築の傑作ツィンガー宮殿、ルネサンス様式のアルテ・マイスター絵画館など素晴らしい建物群が見事に再建されている。絵画館の有名なラファエロの「システィーナのマドンナ」をはじめボッティチェリ・レンブラントなどのみごとな絵画コレクションにも感動した。

 ドイツは昔から移民を多く受け入れてきた国で、町を歩いていると、トルコ系の人々、黒人、ジプシーや東洋系の人々などいろいろな民族の人々に出会う。物価は日本と同じように高い。通貨はドイツマルクで、1マルク=約55円くらい。


 Dプラハ

         カレル橋                  からくり時計

 今回の旅行で最も印象に残った都市を一つ上げるとすればプラハだ。プラハはとにかく美しい。戦争の被害をあまり受けていない町並みには、ロマネスク・ゴシック・ルネサンス・バロック・アールヌーボーなど中世以来のあらゆる建築様式を見ることができ、「ヨーロッパで最も中世を感じさせる町」と言われるのもうなずける。まず、モルダウ(ヴルタバ)川西岸にそびえるプラハ城の壮大さに圧倒された。城壁に囲まれた広大な敷地には99mの二つの尖塔を持つゴシック様式の聖ビート大聖堂、旧王宮、ロマネスク様式の聖イジー教会など見事な建物群が立ち並ぶ。プラハ城から旧市街を見下ろすと中世そのままの町並みの中にたくさんの塔が林立しており、まさに「百塔の町」だ。プラハ城の坂を下り、プラハ最古の石橋「カレル橋」(この橋でトム・クルーズがミッション・イン・ポッシブルのロケをしたという。)をわたって旧市街に入ると、どこを見ても美しい町並みが続く。特に旧市街広場のにぎわいはすごい。さらに広場に面した旧市庁舎塔のからくり時計(毎時0分にからくり人形が動く)前は時間が近づくと黒山の人だかりだ。僕は向かいのカフェの2階でコーヒーを飲みながらゆっくり見物させてもらった。次に旧市街を抜けてプラハ一の繁華街バーツラフ広場に出てみた。ここは有名な「プラハの春(チェコの自由化を弾圧するためソ連が軍事介入して起きた事件)」の舞台になったところだ。

 またプラハは音楽の都としても有名だ。スメタナやドボルザークを輩出した都市であり、晩年のモーツァルトが滞在して「ドン・ジョバンニ」を作曲した地でもある。モルダウ沿いのスメタナ博物館では自筆譜や貴重な資料を見ることができた。また町のあちこちで通行人に小さいビラを配る若者にたくさん出会った。日本で街頭の小さいビラと言ったらいかがわしい店の宣伝がほとんどだが、配られているビラを見ると「モーツァルトのレクイエムの演奏会」や「ドン・ジョバンニの人形劇」のお誘いのビラなのだ。クラシック音楽が生活に根付いているヨーロッパならではの光景だ。

 チェコでもう一つ感心したのはビールのうまさだ。特にプラハの「ウ・クレフ」で飲んだ黒ビールの味は忘れられない。またプラハから車で2時間半ほどのチェスケー・ブデヨビツェという町でつくっているブデヨビツキー(ドイツ名ブドバイザー)・ブドバルというビールもなかなかうまかった。(アメリカのバドワイザーのルーツらしい。)チェコは物価が安いのでビールも安い。通貨はコルナで、1コルナ=約3円くらい。


 Eウィーン

       シェーンブルン宮殿              シュテファン寺院

 今回の旅行ではチェコからハンガリーへ行く途中に少しよったという形なので、ウィーンは半日ほどの駆け足の旅になってしまった。機会があればもう一度ゆっくり訪問してみたいと思う。冷戦が集結し、EUも拡大している現在、ヨーロッパ諸国の国境はあってないような物に変わりつつある。私たちは飛行機でポーランドに入り、鉄道でドイツへ移動してからバスでチェコ、ウィーン、ハンガリーと移動したが、どこも国境ではパスポートをちらっと見るだけで簡単に通してくれる。(チェコ国境付近の道端に立つ売春婦の多さには驚いたが。)簡単に通れると言うことは中・東欧諸国には外国人があふれているということだ。確かにウィーン市内でもいろいろな民族の人達を見ることができた。

 限られた時間だったのでゆっくり見学したのはシェーンブルン宮殿だけだった。この宮殿はハプスブルグ家がフランスのブルボン家のベルサイユに対抗して建てた物で、その内部の豪華さには目を見張るものがある。また庭園も素晴らしいが、それでもベルサイユの庭園の三分の一の規模だという。また、音楽の都らしく市内には、ヨハン・ シュトラウスU、ベートーベン、モーツァルトなどたくさんの音楽家の銅像が立っていた。機会があれば有名なシュテファン寺院もゆっくり見てみたいし、オペラ座で音楽鑑賞もしてみたい。また、ベルベデーレ宮殿絵画館のクリムトの絵や美術史博物館のルーベンス・ブリューゲル・ベラスケスらの作品もゆっくり見てみたかった。

 さて中・東欧の食事は味がきつすぎることもなく食べやすいが(ハンガリーはパプリカがきいていて少し辛い)、ワンパターンなので飽きてしまう。主食はジャガイモで必ず付く。メインはビーフかポークかチキンか魚がローテーションするだけ。野菜がほとんどない。付いても生野菜ではなくキャベツや赤カブの千切りの酢漬け(ザワークラフト)か酢漬けを炒めた物だ。こんなのばかりが続くと日本食が恋しくなる。ウィーンの物価はドイツと同じく高い。1オーストリア・シリング=約7円くらい。


 Fブダペスト

           くさり橋                     漁夫の砦

 「ドナウの真珠」と呼ばれるブダペストは、西岸の丘陵地帯のブダ(王宮のあった町)と東岸のペスト(商業を中心に発達した町)が1873年に合併してできた町だ。有名なくさり橋によって1849年に初めて一つに結ばれたのだ。ブダ側の丘には王宮をはじめ、マーチャーシュ教会、漁夫の砦など中世の面影を残す美しい建物群が立ち並んでいる。(ブダペストも第二次大戦で大きな被害を受けたので、これらの建物は修復した物)この王宮の丘から眼下を見下ろすと、雄大なドナウ川とそれに架かる美しい橋々、川向こうに広がるペストの町並みが美しい。くさり橋をわたってペスト側に入ると川沿いのネオ・ゴシック様式の壮麗な国会議事堂や聖イシュトバン大聖堂が美しい姿を見せる。しかしなんと言っても素晴らしいのはブタペストの夜景だ。夜ドナウ川を船でクルージングしたが、ライトアップされたくさり橋や王宮・国会議事堂などは昼間以上に美しかった。
 ハンガリーのレストランで食事をしているとジプシーの人達がやってきて民族楽器の演奏を聞かせてくれる。(もちろんチップを求めてやって来るのだが。)バイオリン・アコーディオン・クラリネット・コントラバス、そしてピアノのように弦を張ったものを木琴のようなばちで直接たたいて音を出すティンバロンなどでの合奏だ。時々アクロバットのような早弾きを聞かせてくれるが、その技術は半端じゃない。

 東欧の国々はソ連の崩壊とともに民主化されたが、経済的に困難な状況を抱えている。市場経済への移行で商品はあふれるほど豊かになったが、元国営企業のあいつぐ倒産等で失業者は増大し、インフレも進んでいる。社会主義時代には最低限の生活だけは保障されていたが、今はそれもない。だから一般の人達は正業だけで食べていくのは不可能だという。奥さんが働くのは当たり前、公務員でもアルバイトするのは当たり前、子供も高校生くらいからみんなアルバイトをするのだという。そういえば街頭で盛んに絵はがきを売っている高校生くらいの娘さんがたくさんいたっけ。ハンガリーでも日本人観光客は恰好の獲物なので、日本人だと見ると商品を手に「しぇんえん、しぇんえん」と声を掛けてくる。スリや置き引き等の被害に遭うのも日本人とアメリカ人が多いという。これから東欧の国々はどうなっていくのだろうか。ハンガリーの通貨はフォリント。1フォリント=約0.4円くらい。

 さて7回にわたって東欧旅行記を書いてきたが、初めての海外旅行に行ってみて思うことは「海外旅行は癖になる」ということだ。特に何もしなくても、その国の空気を吸っているだけでも何かしら得る物があるように思う。それから同じ行くなら、ある程度の予備知識を持っていきたいと思う。訪問する国の歴史的変遷や絵画や音楽・建築様式の歴史を知っているのと知らないのでは同じ物を見ても感動の度合いが違う。今回はベテランの添乗員がかなり細かく説明してくれたので大変助かった。(高校の世界史の先生が十分つとまるくらいの優秀な添乗員だった。)

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