都市国家アッシュールは肥沃な農耕地帯を外れた場所にあった。 
だからといって都市が小さなものだった訳ではない。 
アッシュールの商人は錫(すず)や織物を輸入し、アナトリアの各都市へ再輸出することで富を築いていた。 
当時、アナトリア地方には錫を産出する鉱山は皆無だった。 
だが錫を加工しつくられる青銅器は、アナトリア各地で盛んに使われていたため、錫の需要は急増し、輸入が追いつかない有り様だった。 
その為か錫の価格も大幅に高騰し、アッシュールの商人達は莫大な利益をあげる事が出来たのだ。 
その富を用いアッシュールの民は、豊かな生活を送っていた。アッシュールは交易によって栄えた都市だった。 
アッシュールの王は正当な後継者ではない。 
王位の簒奪者(さんだつしゃ)だった。 
彼は20年程前にエカラトゥムを占拠し、3年間統治した後アッシュールへやって来た。 
野心に燃えるシャムシ・アダドにとって、次の躍進へのステップとなる、巨万の富を持つ都市アッシュールの領有は、是が非でも行わなければならないものだった。 
ゆえにアッシュールの王位は簒奪された。武力でもって前王ナラム・シンの息子である、エリシュム2世を退け、その王位を簒奪したのだ。 
だがそんな征服王、シャムシ・アダドは偉大な王でもあった。 
彼が掌握している領土は広大だった。他のどの王よりも広大な領土を持ち、彼に従う領域国家は群を抜いていた。 
彼は自分の支配下の都市に日干しレンガで、バビロニア風のジッグラト付きの神殿を幾つも建造した。そして自己の王位を正当化するために、系譜まで偽った。 
偽りの系譜を粘土板に数多く残したのだ。 
 
アッシュールの北西から、ジンジャル山地の南にかけて広がる平原地帯をも掌握したシャムシ・アダドは、次に隣国マリに対し軍事行動を起こした。 
マリはヤキド・リムの息子ヤフドゥン・リムが王として支配していた。 
シャムシ・アダドとこのマリ王の戦いは激烈を極めた。戦いは膠着化し、戦禍は広がった。 
マリに攻め込んだシャムシ・アダドであったが、マリの抵抗は予想を遥かに上回り、シャムシ・アダドを徐々に追いつめていった。 
シャムシ・アダドの支配する都市の一つナガルがヤフドゥン・リムの手に落ち、そればかりかエカラトゥムにまでマリ軍に攻勢をかけられていたのだ。 
シャムシ・アダドは、追いつめられていた。 
 
 
 
 
 
  
チクタクチクタク
 
 
 
冬時間。夕暮れはいつもより早く訪れる。 
寒さに身が凍える時間、コートをかき抱き少女が早足で歩いていた。吐く息は真っ白で、頬は寒さ故か微かに赤くなっている。 
「寒。もう、早く帰りたいのに」 
小さな声で毒付き、少女は学生鞄を、辞書とかが入り重い鞄をよいしょっと、持ちなおす。 
「もう、重いなぁ」 
学校に置いておきたいが、何しろ明日はテストがあるのだ。今日ぐらいは真面目に勉強したい。 
「早く帰って、勉強しなくちゃ」 
赤点は何としても避けたい! 地を這う成績といえど、一応プライドだってあるのだ。頑張れば、ちょっとはましになれるかも知れないし。 
そう思いつつ、薄暗い交差点を通り抜けようと足早に急ぐ。 
そんな時、誰かの叫ぶ声がした。 
 
「危ない!」 
振り返ると眩しいヘッドライトが見えた。真っ白な光が私の目に焼き付く。 
何が起こったのか、全くわからなかった。何かが私目掛けて突っ込んできたのだ。 
甲高い機械の急ブレーキの音。耳に入るのは怒鳴り声。 
「逃げろ!!」 
「キャーッ!」 
悲鳴と怒声が耳に飛び込んでくる。私に向かってきたもの、それはありふれたワゴン車。引き攣った表情の運転者が遠目に見えた。 
私・・・。 
逃げなくては! 
必死に走ろうとした。でもなぜか、何もかもがスローモーションの様に感じて・・・、一生懸命逃れようと身を捻る。でも・・・。 
現実には私は少しも動けなくて、全然逃げる事も出来なくて。 
ドン。 
鈍い音がした。体に衝撃が走る。痛みなんて感じなかった。感じている暇もなかった。 
その瞬間、私の意識は完全に途絶えたのだ。 
何がなんだか全然わからないうちに、私は暴走車に吹き飛ばされた。 
 
 
 
 
 
  
チクタクチクタク
 
 
 
長引く戦禍は人を、経済を疲弊させる。負けが込めば尚更だ。 
エカラトゥムがまだ落とされていないのが嘘のようだな。何時攻め落とされてもおかしくないというのに。 
だが・・・。そう簡単に攻略はさせないぞ。 
 
青年は眼下の都市を眺め、ひっそりと吐息を付く。日干しレンガで出来た家々は規則正しく並び、陽の光の中に陰影を浮かびあがらせていた。 
中庭を囲むように建てられた家々は、外からは四角い箱にしか見えない。けれど中庭には緑豊かな木々が植えられ、空から差し込む光が明るく住み良い環境をつくっている。 
外に向けられた窓はほとんどない。陽光は天を伺える中庭からとるのだ。 
街の中心にはジッグラトを持つ神殿がそびえ建っており、街のどこからでも眺める事が出来る。 
美しい華麗な神殿だった。 
町家と同じ日干しレンガでつくられた神殿だったが、頑丈さは町家の比ではない。瀝青(れきせい)でレンガの継ぎ目を補強された神殿は、驚く程頑丈だ。 
 
そんな街並みを眺めながら、青年は色々と考え込んでいた。どうするのが一番よいのか、自分に何が出来るのかを。だが今のところ、出てくるのは吐息だけだ。 
「はぁ」 
盛大な溜め息をつき青年は頭を抱える。今この国に迫っている危機は、そうそう簡単にはなくならない。もとはといえば、こちらが隣国マリに仕掛けた戦争だ。勝てると見込んでの派兵だった。 
けれど現実は甘くなく、逆にマリに攻め込まれる体(てい)たらくだ。あまつさえ、都市ナガルをマリ王ヤフドゥン・リムに攻略された。これは痛い。かなり痛い。 
この損失は悔いても悔いきれない。戦は生き物だ。それは理解している。だからこそ、尚の事頭が痛い。 
兵士達の士気は衰え、民には疲労感が浮かんでいる。 
この状況ではまず勝てない。勝てると思える要素がないのだ。 
「・・・ふぅ」 
幾度目の吐息になるのか。考えあぐね思い悩んでいた時、それは起こった。 
 
突然天が暗くなったのだ。 
いぶかしりながら空を見上げると、燦然と輝く太陽が欠けていた。太陽が端から徐々に黒く染まっていく。 
あれ程明るかった大地が、徐々に影に覆われ暗くなっていった。 
日蝕。太陽のかげりの為だ。 
「日蝕だと・・・!?」 
その様な現象がある事は承知している。しかし今日この時間に起こるとは聞いてはいない。 
「どういう事だ!? イナンナ女神の機嫌を損ねたのか!?」 
自分達が奉る女神の名を呼び、青年はじっと天を見つめる。 
何か胸騒ぎがした。予兆のような物を感じる。何かが起こる、そんな気がするのだ。 
自分は決して神官ではない。けれど自分の感は予想以上に当たる。 
戦場でも何か嫌な予感がすると思ったら、案の定待ち伏せにあった。こんな事は一度や二度ではないのだ。故にイナンナ女神に愛された者と、他人は自分をそう噂する。 
 
欠ける太陽をじっと観察し、青年は眼前にそびえ建つジッグラトを凝視する。黒く染まっていく太陽のかわりにジッグラトの頂上が、何故か輝きを放ってきている様な気がした。 
目の錯覚ではないかとごしごしと擦ってみるが、ジッグラトからの光は増々強くなるのみで、消える事はない。 
「何が・・・」 
起こっているんだ!? 
そう叫ぶかわりに青年は青銅の剣を引っつかむと、足早にアーチへと向かう。 
階下に待機していた近侍の者が、慌てて青年に声をかけた。 
「イシュメ様、どちらに!?」 
「ジッグラトだ」 
短く答えおくと青年、イシュメ・ダガンは慌てて宮殿を後にした。イシュメの目にはジッグラトは今や輝く太陽の塊に見える。 
欠ける太陽がまるでそこに落ちてきたかの様であった。 
 
 
□□□□ 
 
 
ジッグラトでイシュメが目撃したもの、それは想像を絶するものだった。 
全く見知らぬ、顔立ちも背格好も今まで見たこともない異国の娘が、光に包まれて倒れていた。 
淡い輝きは、日蝕の太陽が輝きを取り戻すのとほぼ同時に消えていた。 
黒髪の娘は分厚い見たこともない衣服を着て、手に鞄のような物を持って横たわっている。 
死んでいるのかと覗き込めば、微かに息をしているのがわかった。 
「・・・生きている・・・」 
一体全体何が起こったというのだろう? 
イシュメには全く想像もつかない。だがこれが、何かの導きのように感じた。 
イシュメは娘をそっと抱きかかえると、ジッグラトを後にする。 
長い階段を降りながらふと天を仰ぐ。先程まで起こっていた部分日蝕は、嘘のように綺麗さっぱり消えている。 
どこにもその痕跡はない。 
 
「イナンナ女神・・・」 
何を起こされたのですか? 女神よ。 
女神にそう問うてみる。けれど答えなどなく、静かな沈黙のみが広がる。 
街の方を伺えば、先程の日蝕が気になるのか、どうも騒がしい。まあ、無理もないといえば、いえるのだが。 
暦、太陽の活動はほぼ解明されている。どの周期で輝き、陰り、弱まるのか。ほとんどすべて把握されていた。だからこそ、計算外の日蝕に人々は不安がるのだ。何か不吉な事の前触れではないかと、疑いたくなる。 
隣国マリに遅れをとっている今なら尚更だ。 
自分だとてジッグラトの輝きを目にしなかったなら、同じ事を思っただろう。 
だが今は・・・。 
イシュメは腕にかかる娘の体重の重さに、これが夢ではない事を実感する。 
黒髪の娘はピクリとも動かず、瞼を開く気配さえ見せない。まるで死人のようだ。けれどその心臓はきちんと動いており、脈打っている。血色だって悪くない。ほんのりピンク色に染まった頬は、健康的にすら見える。 
「これは何を意味するのだろうか・・・?」 
女神よ・・・。 
イシュメは娘を見つめながら、そう問う。黒髪の娘は、いまだ目覚める気配さえみせなかった。 
 
 
□□□□ 
 
 
フワフワとした甘い香りが鼻孔をくすぐる。 
「ん」 
何か変な気分だな。夢の中を歩いているみたい。何かの花の甘い香り。薔薇でもないし、何だろう? 
あまい、な。 
「んん」 
目覚めようとする意識と、眠ろうとする体。相反する作用が私の中で起こっていた。 
甘い花の香りは私を包み込む。 
花・・・。花?? 
何で花の香りなんてするの〜? 私確かワゴン車に跳ね飛ばされたはずだよ〜! 
一気に私の意識は目覚める。 
がばっと起き上がると、薄い布が私の身体から流れ落ちた。ちょっとごわごわしていたけど、薄い紫色でなんだかとても綺麗な色だった。 
ぼんやりとそんな事を考えていた私は、ふとある事に気付き硬直する。 
な、何〜!? 嘘〜〜っ!? 
ぱくぱくと魚のように口をあけ、息を吸い込む。 
何時の間にか私はコートやセーラー服を脱がされ、下着だけになっていたのだ。 
あ、頭がくらくらする〜! 何、何!? どうして私下着なの〜!? 
甘い花の香に包まれたここは、肌着だけでも丁度良いぐらいで、車に当たる直前までのあの冬の寒さが嘘のようだった。吐く息だって全然白くない。 
自分の寝かされていた周囲を見回すと、何故か一面に花が生けられている。どうやらあの甘い香りはこの花々からのようだ。少しバラに似た香りがする。コロンや芳香剤などでは味わえない匂いだ。 
 
うわっ。凄い花〜。ここって、どこ? 病院? 
それにしては全然薬くさくない。それに一面の花はどう考えても、病院には似合わないし。 
ここ、どこよ? 
ひとしきり首を捻っていた私は、微かな足音を耳に捕らえた。複数の人間の足音が小さく聞こえる。 
あ。人がいるんだ。良かった。聞けば何かわかるかも。 
安堵しかけた私は、はっと気付き周囲を見回す。 
服〜。私の服どこ〜? 
まさか下着で出ていけるはずもなく、泣きたい思いで私は辺りを見回した。だけど私の服はどこにもなくて、影も形も見当たらなくて。なのに複数の人の足音はどんどん近付いて来る。 
ど、どうしよう〜!? 
藤色の布を身体に押し当てたまま、私は硬直し続け、布で遮られた扉とおぼしき場所を凝視するしかなかった。 
次の瞬間、ぬっとそこから手がのびて、布はかき分けられ、数人の男が入って来る。 
よりにもよって全員が男だった。 
「う、うきゃぁ〜〜!!」 
意味不明の声を上げて、とりあえず私は手当りしだいに色々な、手に掴んだ物なら何でも、次々と彼らに投げ付けた。 
何なのよ〜!? 私をどうする気よ〜! 
物凄く、泣いて気絶したい気分だった。 
 
 
□□□□ 
 
 
部屋に入ったとたんに、いきなり色々な物を投げ付けられた。水差しや花の入ったままの花瓶が容赦なく飛んで来る。 
冗談ではなく、真面目にこれは、笑えない程危険だった。 
何時の間にかここに運び込んだ娘は意識を取り戻していて、藤色の布で身体を隠すようにして真っ赤な顔で、こちらを睨んでいる。 
無論その間にも娘の手は動いていて、辺りにある物を掴んでは我々に投げて来る。 
「うわっ」 
ばらばらと水と花がまき散らされる。 
何故かはわからないが、物凄く怒っている様だ。 
「あ、兄上! 何ですか。これは!?」 
共に来た弟のヤスマフ・アダドが物影に退避しつつ、尋ねてくる。 
「知らん!」 
素っ気無くヤスマフに言い返し、娘が静まるのを待つ。 
 
手近な所に何も投げるものが無くなったからか、娘は肩で息をしながら我々を睨み付けると、何かを言った。 
「****!」 
言葉なのだろう。たぶん。意味はとれないし、発音も違うから断定は出来ないが、どこか異国の言葉なのだろうと推察出来る。 
「******!!」 
再び娘は何かを言い、怯えた表情をする。今にも泣き出しそうだ。 
「兄上〜」 
ヤスマフが何か言いかけたが無視し、娘に近付く。 
黒髪、焦げ茶の瞳の娘は、やはりどこからどうみても異国の者だ。この周辺の国、部族の娘ではなさそうだった。 
「何を怒っているんだ?」 
聞いてみるが娘は何を言われたのかわからないらしく、不思議そうな顔をしている。 
本当に全く言葉が通じないのだろう。 
仕方なく自分を指差し、「イシュメ」と告げる。 
「イシュメ?」 
頷くと娘は理解したのか己を指し、「カグラ」と呟いた。 
「カグラ?」 
変わった名だと思った。だがどうしてか、この娘に似合う名だとも思った。 
 
そうやってお互いに様子を伺っていると、娘をじろじろと観察していたヤスマフが、しみじみと感心した様に突然呟く。 
「兄上。この娘全然肌が荒れてませんね」 
言われてみれば、珠のような肌だ。傷もなく綺麗な肌をしていた。 
ヤスマフはじーっと娘を凝視すると、おもむろに娘の身体のあちこちに触れる。 
「ああ、安産型だ。胸は小ぶりみたいですね」 
瞬間。 
「***!!」 
物凄い声で叫ぶと、娘はヤスマフを平手打ちにした。 
・・・これは言葉が通じなくてもわかる。うむ。理解出来る。 
「ヤスマフ・・・」 
「いてて」 
頬を押さえるヤスマフに、呆れた視線を送る中、娘はとうとう泣き出した。 
蹲るようにして、声を殺して泣いている。 
「ヤスマフ・・・、お前が悪い」 
言葉の通じない、不安がっている娘をからかうからだ。 
非難の眼差しを弟に向けると、ヤスマフは既に同行していた父にこってり絞られている所だった。 
 
 
これがイナンナの娘カグラと、私の最初の出合いだった。 
                          (時の夢2へ続く) 
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