「シャイニング……アロー!」
澄んだ女性の声と共に、光の矢が少女の周りに突っ込んだ。何十本もの矢が少女を取り囲む盗賊達に迫る。
「うおっ!?」
まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった盗賊達が、慌てた声を上げた。シュイン、シュインと音を発し、矢は次々と盗賊達の肉体に吸い込まれていった。光の矢がヒットする毎に、盗賊達を形成するギミックのHPが減少する。
「ちっ!」
舌打ちする盗賊が魔法障壁を唱えた。少女の体を捕らえている眼帯の男も、油断なく構えながら剣を引き抜く。毒の付与効果があるのか、その刃は禍々しい色をしていた。
「その子を放せ!」
構えた眼帯男に向かって、1人の青年が突っ込んで来た。加速効果を加えてあるのか、その動きは意外と素早い。
「!」
眼帯男が驚いて少女を手放し、青年の刃を受け止める。ガキンと激しい音がした。漆黒の刃と深紅の刃が交差する。互いに毒属性を持つ剣と、炎属性を持つ剣は一歩も引かず絡み合った。
「シスン君! 毒の付与効果がありそうよ、気をつけて!」
目の前の眼帯をしたヒューマンの戦士と切り結ぶ俺に、背後からイセリアさんが声をかけてくる。長いプラチナの髪が左右に揺れ、エルフの盗賊を翻弄している姿が、チラリと目の端に見えた。
「わかってます!」
俺は怒鳴り返しながらも、剣の切っ先を避ける。少しでも擦ったら、HPを根こそぎ持っていかれそうだ。俺は慎重に、この男に敵対した。俺達が駆け付けた時、イセリアさんが見つけた女の子は、既にこいつらに捕まっていた。それ以上の事をされていなかったのは、不幸中の幸いだったんだろうけど……。十分恐い思いをしたはずだ。
そんな事を考えながら、俺は眼帯男の太刀を受けた。途端にジンと手が痺れる。こうやって打ち合っているだけで、体が僅かずつ痺れて来る。相当やっかいな剣だ。レア物かも知れない。
「くそ!」
ぼやきながら俺は戦闘を続行する。俺の後ろにはさっき迄捕まっていた女の子がいる。恐いのか、ピクリともしない。早く逃がしてやりたいんだけど、……なかなかそうはいかない。相手の人数が多過ぎるんだ。それにいつもとは少し勝手が違う。
こいつ等相手に本気でやって良いのなら、俺はきっと勝てるだろう。でもその場合、……こいつ等は死ぬ。今の【ラセードワールド】の状況では、HPをゼロにしないように、こいつ等を撃退しなければならない。
……それは無茶苦茶難しい。まだステージボスと戦えって方が、気が紛れて楽だろう。イセリアさんも俺も、こんな状況とはいえ、人殺しになんかなりたくなかった。だから、俺達は凄く苦戦していた。
「きりがない……」
呟いた俺に、背後の女の子がようやく我に返ったのか、少し身じろいだ。そして自問自答の様に続ける。
「わっ。兄様達大変よ。苦戦しているっぽいよ。助けた方が良くない? え? 私にやれって? ええっ。そんなどうやって?」
まるで漫才師の様に、1人で突っ込んで1人でぼける。行動が普通ではない。
「何だ……この子?」
眼帯男と切り結びながら、俺は思わず呟く。
「余裕だな、ヒーロー気取りのシスン!」
唐突に、そう本当に突然に、眼帯男は俺に向かって叫んだ。俺は名前を呼ばれた事に驚きつつ、毒の刃を剣で受け流す。ガツンと音がして、漆黒の刃が岩にめり込んだ。その隙を逃さず、俺は男の背後に回る。そして、俺は無言で剣を振り下ろした。漆黒の剣を手放し、短刀を構えた男と真正面から目が合う。
ガン!
破裂音がして、俺の剣は眼帯男の持つ短刀を根元からバラバラに砕いた。僅かだが男のHPも減少する。
「……俺を知っているのか?」
どうしても気になって俺は眼帯男に尋ねた。答えは、聞く迄もなく俺の想像通りだった……。
「知っているかって? そりゃあ当然だ。99層の攻略おめでとう。そして……ありがとうよ、こんな世界を用意してくれて!」
敵意に満ちた男の視線に俺は身を竦める。動悸が早くなった気がした。
「お前が扉を開けたんだよな、シスン!」
そう言われ、俺は唇を噛む。何と言われようと、そしられようとそれは覆せない。俺の行動が招いたものだから。
「ありがたくって涙が出るね」
「……」
「お前のせいで、こんな世界になったんだ! 責任とれよなぁ!!」
俺は男の首筋に切っ先を当てた。
言われる迄もない、いつだってそう思って……。いつだってそれを俺は考えている!
「シスン君! 駄目、殺さないで!」
俺の状態を見てとったのか、慌てた声でイセリアさんが叫んだ。
大丈夫、イセリアさん。俺はそこ迄冷静さを失ってはいない。そう声に出そうとしたけれど、何故か声が出なかった。俺は喉に片手を当て、青ざめる。
しまった! サイレントか!?
いつの間にかかったのか、俺はアンチスペルで一定期間魔法の発動を抑制されてしまった。眼帯男がニヤッと笑う。前方の木々の影に獣人の男が見えた。どうやらそいつにかけられたらしい。
「は! ざまあないな!」
眼帯男が素早く俺との距離をとった。
「油断大敵って言葉をお前に贈るぜ!」
パクパクと俺は口を開く。罵ろうとしたが、一向に声は出なかった。その向こうで、イセリアさんがエルフの女達に囲まれたのが見えた。
イセリアさん!!
俺はイセリアさんの危機を前に、声にならない悲鳴をあげた。イセリアさんは大きく目を見開いている。
駄目だ。ヤメロ!!
俺は声のでない口で悲鳴を上げた。
「スリーピング」
その時、俺の背後から凛とした声が上がった。俺が庇っていた少女だ。その声と共に魔法が発動する。ボヨンという感じでピンク色の風が吹き流れた。
「何!?」
驚く眼帯男が、次の瞬間バタッと倒れた。それを合図にしたかのように、盗賊達が相次いでバタバタと倒れて行く。やがてその場にいた盗賊者達は、ひとり残らず意識を消失した。だらしなくギミックが人形の様に崩れ落ちる。
凄い!
俺は驚きも露に少女を振り返った。
眠りの魔法は、割と簡単に身に付けられる。スキルとしては、初歩の初歩の魔法だ。けれどそれを実践で使えるレベル迄引き上げるのが大変なのだ。俺も低レベルのモンスターなら一撃で眠らせる自信は有る。でもさすがに、魔法抵抗力の強いプレイヤーギミックを一撃で倒すことは出来ない。だからこそ俺は、驚嘆の眼差しを少女に当てたのだ。
この時、既に俺に魔法をかけた獣人が眠った事によって、サイレントの魔法は効力を失っていた。俺はようやく戻った声で、少女の手腕に感心して呟く。
「凄いな」
「えへ」
少女は照れた様に鼻を擦り、改めて俺に向かってペコリと頭を下げた。
「お兄さん、助けてくれてありがとう!」
「え、いや。別に……」
面と向かって朗らかに笑う少女に礼を言われてしまった俺は、ドギマギしてそう呟く。
「たいした事はしてないし。それに最初に君を見つけたのは……」
俺はそう言いながら、イセリアさんの方を見た。倒れたエルフ達を飛び越え、イセリアさんは地面に投げ捨てられていた少女のポーチを手に取る。俺の視線に気付いたのか、イセリアさんがふわっと笑った。途端に俺はますますどぎまぎしてしまう。
最近何故かイセリアさんを見ると、激しく動悸がするのだ。何故だろう? どっか悪いんだろうか? ストレスが溜まっているのかな?
などと、横道にそれそうになった俺の思考は、イセリアさんの声で再び現実に戻った。
「シスン君、大丈夫?」
「はい。平気です」
「そう、良かった」
優しい眼差しで俺を見た後、イセリアさんはそっと少女の方にポーチを差し出す。
「あなたのでしょう?」
「うん。ありがとう、おねえさん! これとっても大事な物だったのよ!」
ニコッと笑って少女はポーチを受け取り、ぎゅっと大事そうに胸に抱いた。
「これを壊されていたらと思うと、ぞっとするわ。兄様達から大目玉だったもん」
その余りにも真剣な口調に、俺は知らず笑みが溢れた。現実世界にいる妹を思い出したのかも知れない。
「良かったな」
思わず頭を撫でそうになり、俺は自嘲した。目の前にいる少女が、今少女だからといって、現実世界でも子供とは限らないからだ。もしかしたらおばさんってオチもあるかも知れない。
「でもさ、こんな森の中で一人で何をしてたんだ? この辺はレベルの高いモンスターはあまり居ないけど、一人で行動するのは危険だよ」
俺がそう指摘すると、少女は困った顔をして頭をかいた。
「うにゃ。えっとね、ちょ〜っと着地ポイントをミスって……。えへ。こんな森に出るつもりはなかったんだけど……、進入経路が不安定で……。急いで来たから、やっぱり色々あって……」
意味不明の事を言いながら、少女は思い出したかの様に、ポーチを慌てて裏返した。
「?」
「おい?」
イセリアさんと俺は互いに困った顔をする。
「あ、別に私おかしい人じゃないわよ。私ね……」
言いながら少女はポーチの裏生地に、スッと指を滑らした。とたんに生地の中から文字が空間に飛び出す。この世界を構築する機械語言語だった。文字は途切れる事なく溢れ、少女の周りを埋めて行く。
「な!?」
ぎょっとして身を引いた俺を、くすっと笑いながら少女が見つめる。榛色の瞳は、溢れた文字で埋まっていた。ゆらっと、少女の足首迄あった水色の髪が広がる。円状に広がった髪はそのまま細い糸の様に空間に伸び、どこへともなく消えていた。
「あなた一体……!?」
俺の隣で、イセリアさんの息を飲む声があがった。
「私は鍵。ここを解放する鍵よ」
少女が微笑んだその瞬間、俺の視界が揺らぐ。
「なっ……!?」
「きゃっ!」
俺達の悲鳴には構わず、少女は綺麗な声で喋り続けた。微笑むその顔は、意外にも大人の女を彷佛させる。
「遅くなってしまったけれど、……ここを解放するわ。ラセードワールドのロックは解除される」
その言葉に反応したのはイセリアさんの方だった。俺は少女が何を言っているのか、いまいち飲み込めなかったのだ。
「あなた……シスコム社の方なの?」
「え!?」
その言葉にぎょっとして俺は少女を見た。少女の持つポーチからは、まだ機械語言語が漏れ続けていた。空を、地面を埋める程の量がこんこんと湧き出ている。
文字に埋まりながら、少女は微かに首を横に振り、イセリアさんの言葉を否定する。
「違うよ。私は……ああ、待って。兄様達が説明するって。私はもう引っ込むね。後は兄様達に聞いて」
言うや否、少女の瞳がすうっと閉じられた。
「え!? 待って!」
慌ててイセリアさんが呼び掛ける。すると、
「……申し訳ない。妹が失礼をしましたね」
少女の形をしたギミックから低い男の声が漏れた。ゆっくりと少女の瞳が再び開く。その瞳はいつの間にか、真っ赤に変わっていた。
「なっ……!」
息を飲む俺達二人に向かって、少女が小さく頭を下げた。
「私は総務省、電子犯罪対策班、内藤と言う者です。先程のは私の妹。まずはお礼を申さねばなるまい。このギミックと鍵を守って下さった事、感謝致します」
「え……。総務省?」
「はい。早い話がしがない役人ですよ。シスン君」
少女の形をした人物はそう言って微笑んだ。
「あの、……俺の名前を?」
名乗ったはずもないのに、どうしてと問うと、あっさりと内藤さんは白状した。少女の外見に、男言葉……。頭が痛くなる光景なんだが、今はそんな事は些細なことに思えた。この摩訶不思議な状況に比べれば、実際そんな事はどうだっていい。
「ああ、それは……。私どもの方で調べました。テロの引き金となった君は、我々にとってもマークすべき存在でしたから」
「!」
俺は思わず内藤さんから顔を背けた。ぎゅっと唇を引き結ぶと、イセリアさんが側に寄り添ってくれたのを感じた。
「シスン君。誤解をしないように。我々は君をどうこうするつもりはないのですよ。むしろ君自身を被害者だと認識しています」
「え?」
「だってそうでしょう? 君は知らない内に、犯罪に巻き込まれていただけなんですから」
俺はそう言ってウインクする内藤さんを、呆然と見つめた。
本当にそうなんだろうか? 俺に責任はないんだろうか?
「このテロは予見出来ないもので、誰が当事者になっても可笑しくなかったんですよ。たまたまシスン君がかかわっただけで、例えばもし私が、ラセードワールドにダイブしていたとしたら、私が引き金を引いていたかも知れない。そういうものです」
「でも……俺……」
「ああ、そんなに悲しい顔をしないで下さい。私は慰めるのが苦手なんですから」
目頭が潤んで来ていた俺は、慌てて両目を擦った。
「シスン君……」
イセリアさんが心配して、俺の顔をじっと覗く。
「だ、大丈夫」
短く答え、俺は内藤さんに向き直る。
「内藤さん、ここは……ラセードワールドは、もう解放されるんですか?」
「当然です。鍵となる物を持ち込むのには苦労しましたが、一旦解凍を始めたら後は楽なものですよ。これがこの世界を、元と同じ構造に構築し直します」
手に持つ白のポーチを示し、内藤さんは微笑した。その目は真っ赤だったけど、とても優しい眼差しをしていた。内藤さんの手の中のポーチからは、あいも変わらず機械語言語が溢れていた。恐らくこれが内藤さんの言う、元と同じ構造に構築し直すものなのだろう。
「……だからね、君は安心して先にログアウトしていなさい」
内藤さんのその声が合図だったかの様に、俺の視界に文字が浮かんだ。
《ログアウト プレイヤー名シスン》
「え!?」
驚いた声を上げて、俺は内藤さんを見た。内藤さんは、ひらひらと可愛い手を振って俺に応えてくれた。ざーっと頭から血の気が一気に引く。俺は内藤さんに、強制退去させられたのだ。
一体どうして!?
声を上げたかったけれど、それも叶わなかった。チカチカと俺の視界が点滅する。
やばい! 回線が落ちる!!
俺はとっさにイセリアさんの方へ手を伸ばした。
イセリアさん! 俺……!
「シスン君!」
遠くでイセリアさんの声がした。
「……か……ら! 始まりの街で……!」
イセリアさんが何かを言った。でも、それすら聞き取れない! ゆっくりと俺の視界に映る光景が変化してくる。ラセードワールドが遠くなる。
待ってくれ! 俺はまだイセリアさんに言う事が! イセリアさ……ん!
……それが、俺のラセードワールドでの最後の意識だった。
「シスン君。待って、いるから……ね」
落胆したような沈んだ様な声に、困った表情をして内藤が告げる。
「申し訳ない。先に現実世界に送らせて頂きました。これ以上は、あまり聞かせたくない話だと思ったもので……」
内藤は言いながら、言葉を濁した。
「まずかったですか?」
「いえ。……お心使いありがとうございます。」
首を横に振り、静かに微笑むイセリアに、内藤は気づかう表情を向けた。
「本当に大丈夫ですか? 佐久間博士」
「ええ。……あの、私の事もすっかり御存知なんですね?」
「失礼ながら調べさせて頂きました。シスコム社の技術担当主任、このラセードワールドの基本設計を行った方が、共に巻き込まれたと聞いたもので」
「……そうですか」
イセリアこと本名、佐久間は呟き、深々と息を吐き出す。
「情けないですね、私。……ここでは何も出来ませんでした。この世界を直す事も……壊す事も。ここの事は誰よりも詳しいはずなのに……私、何一つ出来なかった」
「佐久間博士」
「技術者失格です」
意気消沈する佐久間に、内藤は慌てて加える。
「しかしあなたは、彼を保護していて下さった!」
「私は……。いいえ、何も。私は何も出来ませんでした。……シスン君には私なんか、本当は必要じゃなかったんです。シスン君は逆境にも耐えられる子だし……、ギミックのレベルだって私より遥かに高いし……」
佐久間は呟き、視線を床に落とす。
「でもさ。あんたがいないとあの子の精神、最後までもたなかったと思うぜ」
唐突に、少女のギミックから全く別の声が漏れた。少し高めのハスキーボイス。どこか若い感じのする声だった。
「え?」
佐久間は目をパチクリさせて、少女、先程まで内藤だった物を見る。再び何時の間にか瞳の色が蒼海に変わっていた。どうやら中に入り込む人格で、瞳の色が変化してしまうようだ。
「あ、俺? 俺は内藤の弟。今流している、修復プログラムを組んだもんだよ」
「!」
その言葉に佐久間は短く息を飲む。
「突然交代して悪いな。兄貴慰めるのすっげえ下手くそでさ。ヘルプされちゃったんだよ。あんまさ、落ち込むなって。あんたは、あんたにできる事をした。それでいいじゃん」
「……でも、私は!」
「はいはい。開発者だって言うんだろう? でもさ、この中に入ってて、どうやってプログラムを組み直すのさ。あんたには絶対無理だったんだよ」
「それは……」
内藤の弟だと言う者のいっそさばさばした物言いに、佐久間は唇を噛む。
「ほらほら暗い顔をしない。あんたはシスンの心を守ったんだよ」
「……っ。私……」
「あんたはあんたで頑張ったよ。なぁ、それでいいじゃないか。責任とか、社会的道義だとか、そんな事はこれからじっくり考えればいいのさ」
少女の姿をしたギミックは、朗らかに微笑んだ。澄んだ空と海を思わせる瞳が優しく佐久間を見ている。
「だってそうだろう? 犯罪を犯したのはあんたじゃない。このネットワークテロの犯人は別にいるんだから」
その言葉を聞いた瞬間、佐久間は思わず泣きそうになった。ギミックの瞼が熱くなる。
「……あんたは悪くない。これから先、現実世界でマスコミから叩かれるかもしれないけど、……気をしっかり持て。……俺達も必死で犯人を捜すから」
なでなでと、少女の姿をしたギミックに頭をなでられ、佐久間は小さく頷く。ゆっくりと佐久間の視界に文字が映った。
《ログアウト プレイヤー名イセリア》
柔らかい微笑みに見送られ、佐久間もログアウトして行く。薄らと霞がかかるように、その世界は遠くなった。
俺の秘めたる望みも虚しく、……俺は現実世界へと帰還してしまった。
真っ先に目に飛び込んで来たのは、人の顔。不安そうな顔をした妹のまなだった。
「まな……」
擦れた声で呼ぶと、びっくりまなこで抱きつかれた。
「おに……お兄ちゃん!」
ぎゅーっと一心不乱に抱きしめられる。
「心配したんだよぉ。あ、待ってて、お母ちゃん呼んで来るから!」
猫の目の様にコロコロ変わる表情をさせ、まなは慌てて踵を返す。階下にいるおふくろを呼びに行ったのだろう。俺はほっと息をつきながら、頭にかぶったままだった装置を脱いだ。長く伸びたコードを引きちぎり、床に転がす。
ダイブ時間はいつもと同じ。なのに、した経験はその比じゃない。俺は泣いて良いのか、怒って良いのかわからないまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。窓の外はカラスが鳴く夕暮れ時だった。近所から夕飯のカレーの臭いが漂って来る。
「現実だ……」
そう舌の先に言葉を乗せた。現金なもので、夕飯の臭いを自覚した途端、お腹がぐーっと鳴った。ダイブ中何も食べていなかったのだ。小腹だって空く時間だろう。
夕焼けに染まった光景のあまりの眩しさに、俺は目を細めた。
「イセリアさん……」
呟き、さっきまで一緒に居た存在を脳裏に描く。ゲーム中のギミックでの姿しか知らないが、俺にはそれで十分だった。あの時、最後の瞬間。ログアウトする俺に向かって、イセリアさんが何かを言っていた。はっきりとは聞き取れなかったけれど……。
「始まりの街……」
俺はその言葉を呟く。始まりの街とは、文字どおりの意味を持つラセードワールドの最初の街。入ってすぐの初期冒険者が集う街だった。俺も最初の頃は随分と世話になった。そんな街の名前をイセリアさんは、最後に叫んだのだ。きっとそれには意味があるはず。
「始まりの街……。そこに行けば、また会えるのか?」
呟き、俺は自分が引き千切ったコードを見つめる。今はまだダイブして戻る勇気もないけれど、ラセードワールドが復活した時には、もう一度行ってみようと思った。その街にイセリアさんはいないかも知れない。でも、もしかしたら居るかも知れないのだ。
「……居るといいな。そしたらまたパーティを組んで、一緒に冒険が出来るのに」
俺は呟き、夕暮れをぼんやりと眺めた。ツキツキとした胸の痛みが俺を襲う。
これは何? 俺は、物凄い喪失感を感じている……。
俺がそんな風に自己分析をしている時、階下からやかましい妹の声と、おおらかなおふくろの声が聞こえて来た。
『え〜。本当だって、お兄ちゃんが目を冷ましたんだよ!』
『だけどTVじゃあ、まだ救出作業中だって……』
『そんなのTVの方が嘘に決まってるじゃん〜』
どこか拗ねたようなまなの声に、知らず苦笑が漏れた。俺は二人が階段を上がって来るのを、じっと待つ。最初に言うべき言葉はもう決めていた。洒落も糸瓜もないものだ。
腹減った。今日の飯何?
俺はそう尋ねるつもりだった。