しんしんと窓の外に雪が降り積もっていく。 
私の大好きな庭も、隣の家も、もみの木も白い雪に覆われていった。パチパチと暖炉の薪のはぜる音が部屋に木霊する。 
私はゆっくりと読んでいた手紙を閉じ、使い古した暖炉に新しい薪をくべた。 
炎が赤く部屋を照らし出し、私の小指にはめられた銀の古い指輪に反射する。 
私は炎があがるのを確認すると、再び手紙を読み出した。そこには私にとって、とても大事なことが書かれていた。 
私の名はジュリー・フィショフ。今年でもう77才になる。 
「ばあちゃん、何を読んでるんだ?」 
孫のジャンが台所からジュースを手にやって来て、私の手元を覗き込む。 
「おやおや。コップに入れて飲みなさいな」 
今年28にもなるのに、ボトルのまま持ち歩くのは止めて欲しいものだわね。 
そんな私の気も知らずジャンは差出人を見て独り驚く。 
「あれ?じいちゃんからかよ。手紙の消印は日本!?うわ、最果ての国じゃないか」 
ジャンの感覚では日本は最果ての地らしい。 
私は苦笑しながら、ジャンの手から大事な手紙を取り戻した。 
「これは私の手紙だよ」 
「ごめん、ごめん。で、じいちゃんは何をしに日本に行ってるんだ?遊びにって訳でもないだろう?」 
「そうだね、ああ。大事な用だよ。あの人に報告に行ってるんだよ」 
「あの人?」 
不思議な顔をしたジャンに私は語って聞かせる。遠い昔の私の物語を。 
あの奇跡の体験を。 
 
 
■■■■ 
 
 
1940年8月1日。もう60年以上もの昔、あの当時私は父と母と共にリトアニアのカウナスにいた。 
私達一家はその時、路頭に迷っていた。まだ子供だった私にも一家の窮状はひしひしと伝わってきて、とてもとても心細かった。 
 
私達の父はポーランド系ユダヤ人だった。それなりに資産もあったし、いざという時に持ち出せるようにと宝石や金をある程度蓄えてもいた。 
だけど、歴史の躍動は父の想像の範疇外で、私達はあっという間に残酷な時代に取り込まれてしまった。 
あと少し早く行動を起こしていたら、状況はかなり変わっていたと思う。 
ほんの少し私達に先を見る目があったなら、人生はもっと楽だったかもしれない。 
 
ドイツ軍が私達の住んでいたポーランド西部に攻め込んできた時になって、ようやく私達はポーランドを逃げ出したのだ。 
身の回りの物を持ち出せる余裕なんてなくて、貴金属だけを忍ばせての脱出だった。そしてその日から私達は安息の場を求めて彷徨っている。 
戦火を逃れ、ナチス・ドイツとソ連の間に挟まれながらも、国家としての体裁をかろうじて保っていたこのリトアニアのカウナスに、必死の思いで辿り着いたのだ。 
 
けれど、カウナスも安全ではなかった。カウナスはソ連の兵隊であふれていたのだ。 
父は過去、共産主義の地ロシアでユダヤ人がどう扱われてきたか、その経験を伝え聞いていた。だから、どんなに普段楽天的な父でも、ソ連への併合が進むリトアニアに戦争が終わるまで留まるなんてことは考えもしなかった。 
戦火はすぐそこまで迫って来ていて、暗い何かが私達を追い詰めようとしていた。 
 
リトアニアに留まる事はポーランド系ユダヤ人の私達には死を意味していた。 
この時、私達に逃げ場はなかった。私達はどこに逃げれば良いのかとても混乱していたし、実際どうするのが一番良いのか迷っていた。 
留まるべきなのか、逃げるべきなのか…? 
だが、その結論は思わぬ所から突如として出て来たのだった。 
 
 
母がある噂を聞いてきたのだ。 
オランダ領事館で、オランダ領西インド諸島キュラソー行きのビザを発行しているというものだった。 
オランダは私でも知っている。でも、キュラソーってどこ?? 
私にはさっぱりわからない話だったが、父は躍り上がって喜んだ。 
どうしてなのかは後から知った。 
父はアメリカ領事館にビザの申請をしていた。けれど、きちんとした書類を提示できずビザは発給されなかった。どだい無理な話なのだ。ポーランドに書類を取りに帰れとでもいうのだろうか? 
 
「リトアニアから出れるかも知れないぞ!」 
父はそう言って、私の手を取り踊った。オランダ領事館でビザを貰えるかどうかはまだわからないのに、本当に嬉しそうな顔だった。 
「さあジュリー、オランダ領事館に行くよ」 
「はーい。パパ!」 
私は父に手を引かれ、母とともにオランダ領事館へ向かった。 
領事館前の長い列にかなりの時間並んだ後、ビザはあっさりと手に入った。私達は11リトス(約1ドル)を払いビザを手に領事館を後にした。私を見て微笑んでくれた、あの優しいツバルテンディク領事さんを私はきっと忘れない。 
でも、私達の苦労はこれで終わりじゃなかった。次に私達は日本領事館に向かった。 
日本領事館では『キュラソーを最終目的地としたビザ』に、日本通過ビザを発行していたのだ。日本通過ビザがとれれば、ソ連通過ビザもとれると聞いていた。 
私達は、危険なソ連、シベリア鉄道を使いウラジオストク経由で脱出しようとしていた。私達は東へ向おうとしていた。 
 
翌日、私達一家は日本領事館前の長い長い列の最後尾に並んだ。私達が並んだ列は噂を聞いたユダヤ人でいっぱいになった。人はすぐに溢れ出した。 
皆一縷の希望を胸に何時間も並び続けた。 
私達の列の前には私と同じ年ぐらいの男の子とそのママが並んでいた。女性はとても疲れた顔をしていた。 
でも、その男の子はとても生き生きとした表情をしていて、不安定なこの時代には、信じられないぐらい優しい表情をした男の子だった。 
私はその笑顔に引き込まれ、思わず声をかけた。 
 
「こんにちは。ねえ、あなたもビザを貰うの?」 
「そうだよ。君もかな?」 
その男の子はそう言って、私にふんわりと笑いかけた。 
「うん。パパが絶対にいるからって」 
私はその子の笑顔にちょっと赤くなりながら、ドキドキして答える。 
「僕のママもそう言ってたよ。リトアニアから出るぞ!って息巻いてる。僕は戦争が終わるまでここにいた方が良いと思うんだけどな〜」 
男の子はちょっと口をとがらせ、そう呟く。 
なんだかその様子が可笑しくて、私はくすりと笑ってしまった。 
「ソ連なんて、恐いじゃないか。もしかしたらシベリア送りになっちゃうかも」 
「そう?大丈夫でしょ?」 
「どうかな??まあ、僕はママについて行くだけだけどね」 
男の子は肩を竦める。 
「ふうん。あ、私ジュリー。あなたは?」 
「僕はベン。ベン・ステンジャー」 
そう言ってベンはポケットから、こっそりとキャンディーを取り出した。 
「あげるよ。ビザ、貰えるといいね」 
「うん、そうね」 
ベンのくれたキャンディーはとても甘くて、私は一時の幸福を味わった。ポーランドを出てからは、キャンディーなんて食べた事がなかった。 
本当にそのキャンディーは美味しかった。私は昔の楽しかった頃をほんの少し思い出した。友達がいて、学校に通っていたあの平和だった頃を…。 
私はそっと自分の手にはめられた銀の指輪をなでる。これは私がポーランドを出る時、こっそりと幼馴染みのサラが渡してくれた物だった。 
無事にいられるようにと、新しい住まいに落ち着いたら返してくれればいいからと、そう言って泣きながらくれた物だった。 
大丈夫だよ。私は平気だよ。サラ、きっと返すよ。きっとまた遊べるよ。 
そう思わずにはいられなかった。 
 
 
日本領事館は丘の上にあるこじんまりした建物だ。どうやら、三階には誰か他の住人が住んでいるらしい。日射しが陰り始めた頃私達の前の長かった列も短くなり、とうとう私達の順番が回って来た。 
領事のいる部屋の扉の前で私達は緊張したまま佇む。 
そんな時、私達より先に部屋に入ったベン達の声が聞こえて来た。何だか必死に女性が説明しているようだった。 
ベンのママかな?何を言っているんだろう? 
聞くともなしに私は耳をそばだて、その会話を聞く。 
 
「私達は南米に行きたいと思っています。お金ならきちんとありますわ」 
「…この旅券は期限が切れているようですが?」 
穏やかな男性の声がここで初めて聞こえてきた。 
この人が領事さんかな? 
「ええ、私達は古い旅券しか持っていません。新しい旅券をとる時間はありませんでした」 
ベンのママは必死にそう答える。 
「ポーランドから来られたのですね?」 
「はい。あの…!」 
「残念ながら、この旅券はビザを出す事ができないものですね」 
「!」 
部屋の中から息を飲む声が聞こえた。 
「ああ、お願いします!この子にだけでもビザを出して下さい!」 
ベンのママの必死な声がする。 
「しかし…」 
男性はそう漏らし、押し黙る。 
まさか…。駄目なんだろうか?ベン達はビザを貰えないの?? 
どうして? 
 
「パパ…」 
私はパパを仰ぎ見、パパの手にすがりついた。 
「ジュリー…」 
パパはとても困った顔をして私を見る。 
「ベンはビザを貰えないの?」 
「それは…」 
「どうして?」 
どうして??ベンと私とどう違うの?? 
パパは悲しそうな顔をして私に告げる。 
「ビザはきちんとした書類がないと貰えないんだよ。期限が切れた旅券では意味がないんだ」 
「!」 
使えないの?駄目なの? 
パパはぎゅっと手を握りしめる。ママはそっと私の髪を撫でた。 
「ママ…」 
ママも凄く悲しそうな顔をしていた。何とかしてあげたくても出来ない。そんな表情だった。 
私はある決意をして目の前の扉を見つめる。 
 
 
この時私は今思うと、とても無謀な事をしてしまったのだった。 
 
 
パパとママの手を振り切ると私は目の前の扉を開けた。 
部屋の中にいた人達、ベンのママや領事館の職員の人達、それに東洋人の領事が驚いて私を見る。 
私はベンの隣に駆け寄ると、見知らぬ領事に向かって懇願した。 
「お願いします!ベン達にもビザをあげて下さい!」 
「!」 
「ジュリー…」 
ベンは驚いて私の名を呼ぶ。 
ベンとはさっき会ったばっかりだ。でも、他人事とは思えない。 
思えるはずがないじゃない…。 
 
穏やかな風貌をした領事は、肩を竦ませそっと私の手をとった。 
そして優しく笑いかけると、ベンのママの方を向き告げる。 
「ビザは日本通過の物です。日本には長期の滞在はできません。滞在期間は十日です。十日が過ぎれば、すみやかに第三国に出国して下さい」 
「!」 
ベンのママは目を見開く。 
領事は静かに頷くと、ベンのママとベンにビザを発給した。 
 
「さて、お嬢ちゃんの御両親はどこかな?」 
「あ、あの…向こうに…。それより、ベンにビザを出してくれてありがとう領事さん!」 
私は嬉しくなって東洋人の領事さんに抱きついた。 
彼は困って私を見つめる。その顔はとても穏やかな感じで、とても優しい風貌をしていた。 
ああ、この人はとってもあったかい人なんだな。 
何故か私は涙が止まらなかった。 
 
 
結局私達は2リトスを支払い、日本通過ビザを手にした。急いで書いたのがわかる崩れた領事さんのサインが、なんだか切なかった。 
 
 
一生懸命お礼を言って領事館を出ると、門の前にさっき別れたばかりのベンが立っていた。
「ベン!」 
「やあ。ジュリーもビザを貰えたんだね?」 
「うん!良い人ね、あの人!」 
ベンは半分泣きそうな表情でこっくりと頷く。 
「ジュリー、手を出して」 
「?」 
私は不思議に思いながらも両手を差し出す。ベンは私の手の上にポケットから、両手一杯のキャンディーを取り出し載せた。 
「わあ。凄い、どうしたの?」 
「あげるよ。さっきのお礼に。…ジュリーが僕らのためにしてくれた事は、きっと忘れないよ」 
ベンは私を見つめながら、そう呟く。 
「私、何もできなかったよ」 
「そう?でも、一生懸命お願いしてくれたじゃないか。凄く嬉しかった。ありがとう!」 
「ベン…」 
私はキャンディーをしまうと、中指にはめていた指輪を急いで差し出した。 
「これ、あげる。友達から貰ったの」 
「え?」 
ベンは驚いて私を見る。 
「ベン達も日本に行くんでしょう?その時に会ったら返してね。この指輪はお守りなんだよ。すごく良く効くの!絶対ベンも無事に日本に来れるから!ね…」 
ベンは躊躇いながら指輪を受け取った。 
 
多分私は気付いていたのだ。ベン達の方が私達より厳しい状況だということに。期限の切れた旅券でソ連を通過することの難しさを…。 
だから、とっさにサラがくれた、お守りだったあの指輪を彼に渡したのだろう。 
ベン達の無事を祈って…。 
そして私とベンは別れた。遠くでベンのママが私達に軽く挨拶をしているのがちらっと見えた。 
私はじわっと涙がこぼれて来る。 
また会えるんだろうか?ベンに… 
 
そして私達一家は、まだ見ぬ東を目差した。 
 
 
18日間私達はびくびくとした不安で一杯の旅を続け、ようやく日本に到着した。初めて目にする国だった。 
私達は神戸のユダヤ人協会、難民救助委員会の世話になりつかの間の安息を得た。 
やがて2ヶ月後、何とか苦労してアメリカビザを手に入れ、サンフランシスコに向かう。 
結局ベンに日本では、会えなかった。 
 
 
1941年12月8日。アメリカと日本の戦争が始まる。 
私は複雑な、悲しい気分で当時そのニュースを聞いたものだった。 
どうして、みんな戦争をするんだろう?どうして仲良くできないの? 
答えは世界中のどこにもなかった。 
 
 
■■■■ 
 
 
「へー、ばあちゃんて意外に大胆な事するんだな〜。領事に直談判か〜」 
ジャンは感心したように私を見て笑う。 
「でもさ、この話って結局ばあちゃんとじいちゃんの馴初めなわけだよな?」 
「おや。そうなるね」 
私はいささか赤くなりながら、小指にはめた銀の指輪を見つめる。 
ベンと私は何とアメリカで再会したのだ。彼は無事にウラジオストクに着き、上海に長い間居たらしい。 
そして戦後になるとベンと彼の母は、アメリカに渡って来たのだ。 
そして私達は恋をし、結婚した。 
今では孫は6人もいる。そして、3ヶ月前はじめて私とベンにひ孫が出来た。 
だから、ベンは日本に旅立ったのだ。 
 
 
今はもう亡き、あの悲惨な時代に、ベンにビザを発行してくれた杉原領事に報告するために…。 
そう、あの時死ななかった私達は、こんなにも沢山の幸せを見つけたのです。 
あなたは私達の命の恩人なのです…。 
 
 
「ジャン〜!ちょっと手伝ってよ〜。ベビーにミルクをあげなくちゃ!粉ミルク用意してね〜!」 
居間の方からジャンの妻、アンナの威勢の良い声がしてジャンは慌てて出て行く。 
「やれやれ、どれ。私もひ孫の顔を見に行くとするかね」 
私はベンからの手紙を置き、リビングに向かって歩いた。 
私の小指にはサラがくれた指輪がまだある。結局サラとは二度と会えなかった。 
彼女が今も生きているのかもわからない。でも、きっと元気でいる事だろう。多分、きっと…。 
 
 
しんしんと降る雪が世界を白く染め続ける。凍えるような寒さだった。 
だが、この家には暖かいものが溢れていた…。どこまでも、優しく生命に溢れた空間があった。 
                                      END 
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