妙蓮寺椿


妙蓮寺椿 妙蓮寺椿について
薬学博士 嶋田玄弥(1982年寄稿)

つばきは本来日本特産の植物である。椿と書いて吾等は「つばき」と訓んで居るが、これは春咲く 樹というところから日本で作った国字である。中国にも椿なる字があるが別なもので、正しくツバ キを意味するなら「山茶」とせねばならぬ。山茶と書くと何だかこれに花を加えて山茶花とし、サ ザンカとよませることがあるが正しくはサザンカは茶梅でなければならない。
 我々の先祖が南から段々北上して来たが、それらの人々が春になると紅い花を咲かす椿を見て昔 の故郷を偲んだに違いない。木偏に春をつけて椿とした事はこの樹を表わし得て妙である。

つばきは葉にツヤがあるところから、艶や葉木が転じ「や」が脱けてツバキなったとも謂われ、又 一説では葉が厚いところから厚葉木と言ったが、由来「ア」という音が抜けさることが多い。アメ リカの「ア」は抜けてメリカまたはメリケンとなる。恐らく厚葉木の「ア」の脱けたものツバキと なったと考えられる。
 つばきは花が第一であるが、その種子から得られる油即ち椿油は婦人の整髪料として貴重なばか りでなく、食用油としても極めて良質のもので、更に上古は不老長寿の霊薬として尊重された。
勃海使が来朝したとき椿油一缶を遣わされたこともあり、秦の始皇帝が東海の一孤島、即ち日本に 不老延年の霊薬を求めに使者を出した。その求めた霊薬の中にもその椿油があったに違いない。
 材は堅く粘りがあり細工物、彫刻にうってつけである。更にこれより作った墨も堅く金属類を磨 くに重用せられる。

 京都の寺院には昔から椿を尊重し、広く活け花に殊に茶花として愛用された。その一つに「妙蓮 寺椿」がある。
 この樹は、妙蓮寺の一塔頭玉龍院が預かり愛で育てて居たが、1962年に火災に遭い焼失してしま った。
 妙蓮寺の什宝として伝えられた「妙蓮寺記」なるものに「洛陽妙蓮寺境内図」という部分があり、 昔の境内の模様本堂、鐘楼、玄関、庫裡、廊下それに寺内の塔頭全部が記され、玉龍院と記された その傍らに「椿の木」と書かれていて、昭和30年頃には立派な椿として年々花を咲かせていた。 又別の所には、宗祇の「妙蓮寺椿」の図と賛との掛軸の写しが載せられている。そして妙蓮寺椿の 一枝を写生し、「余乃花はみな末寺なり妙蓮寺」と賛し自然斉宗祇と自署している。
 因みに宗祇(1421〜1502)は室町時代の人、多才な中でも連歌師として有名でその在京時代、妙 蓮寺は皇室と関係深い日応僧正を迎えて隆盛を極めた時と一致し、妙蓮寺椿を讃じたものと思われ る。即ち妙蓮寺椿は此の時すでに在り、その時からでも五百年以上の歴史がある訳である。
妙蓮寺椿は本来紅のやや濃い大中輪、花弁は4〜5枚、抱え咲き、輪心の蕊は茶釜式でなくやや 開く、但し梅心ではない。妙蓮寺の花があまりにやかましく茶人の間にもてはやされるので、白い ものでも妙蓮寺に近い花を白妙蓮寺と言って売り出したものではないかと思う。更に赤い絞り樣の ものもあるが別物であろう。

 京都に於ける有名ないわゆる一流椿は二、三十に及ぼう、何れも夫夫の来歴を持ち大切に守られ て居る。その中には恐らく第二世あるいは第三世の樹ではないかと思われ、来歴の年数に合わない ものもないではないが、それでもその場所に植えられて居ると立派に格服がつき、一応それと見て 納得し得るのである。
 最後に、妙蓮寺椿が昭和56年(1981)の日蓮大聖人第七百御遠忌の砌に、本家妙蓮寺に第二世 としてお迎えになるということを聞き及び、誠に喜ばしいことと感ずると同時に、永くその美しさ を境内に保つことを祈るものである。


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