十六羅漢石庭


十六羅漢石庭 十六羅漢石庭 じゅうろくらかんせきてい

桂離宮の造営を指図した妙蓮寺の僧 玉淵坊日首の作庭。
中央の青石は、臥牛石といい、豊臣秀吉公によって伏見城から移された名石である。
火災による損傷が激しかったが、近年に至って造園当時の姿に復元された。
白砂は、宇宙を現し、浮かぶ石は、青石が永遠の仏陀(久遠の本仏)で、他の石は、真理に呼応する地涌の菩薩を現している。
お互いが感応道交している姿を波紋で表現している。
十六羅漢石庭 は 法華曼荼羅(ほっけまんだら)の世界観を表していた!
桂離宮の造営に携わった妙蓮寺の僧侶 玉淵坊日首(ぎょうくえんぼう にっしゅ)の作庭。
中央の青石は、四国産と言われているが、伏見城から移築したものと伝えられている。
日首が伏見城で豊臣秀吉と歓談中、褒美になにかやろうと言われて、
「この庭にある臥牛石(がぎゅうせき)を所望したい。ただし、愚僧が妙蓮寺に帰り着くまでに運び込んでおいてほしい」と答えたところ、「よし、わかった」と。
日首が帰ってみると、ちゃんと運び込んであったという逸話が残っている。
時の権力者、秀吉の権勢には不可能がないという逸話である。

さて
この庭には、奇妙な点がいくつかある。それらを解説しながら、謎を解いてみよう。
1、法華宗の寺院なのに、十六羅漢の石庭といわれるこの庭は、禅宗洋式の枯山水(かれさんすい)で、ほとんど植木を使わない手法で作庭されている。(周囲の植木は後世のもの)
2、羅漢(らかん)を取り上げるのは、法華宗の宗義から、かけ離れている面がある。

この矛盾から解読していくと、
@法華宗は、妙法蓮華経といわれる経典を正依(しょうい)の経典とする。そこには、「インドの釈迦」や、その直弟子である「羅漢」に対して、永遠の過去から永遠の未来まで時空を越えた存在である「久遠実成の釈迦」(くおんじつじょうのしゃか)が説かれ、本弟子である永遠の過去からの弟子である「地涌の菩薩」(じゆのぼさつ)たちが説かれる。
日首は、妙蓮寺の僧侶であり、法華経については精通している。
その点から考えると、この十六羅漢の石庭の意味するところは、やはり法華経の世界観を顕していて、中央の大きな臥牛石は、久遠の釈迦を表し、他の石群は、地涌の菩薩を表していると解釈するのが妥当。

A周囲の白砂は、釈迦の呼びかけに応じて、地面より湧き出ずる地涌の菩薩たちの波紋、そして、宇宙空間(宇宙大法真理)を表現している。
アメリカ人の観光客が、中央の青石(臥牛石)を見て、スペースシャトルだと言ったが、それは臥牛石がスペースシャトルに似ているからであって、宇宙を意識したわけではないが、奇しくも、「宇宙」が共通しているのが面白い。

B中央の青石が釈迦(久遠の釈迦)だとすると、羅漢(地涌の菩薩)は15人しかいないことになってしまうが、何故か?

Cまた、この庭は、ある方角から観ると、普賢菩薩・ふげんぼさつ(象が象徴)や文殊菩薩・もんじゅぼさつ(獅子が象徴)が配置してある。(そのように見える石が配置されている)
法華宗の思想から言えば、普賢菩薩(象が象徴)や文殊菩薩(獅子が象徴)は、迹化(しゃっけ)の菩薩といって、本来の永遠の過去からの弟子ではない。それらの菩薩衆が含まれることは、地涌(じゆ)の思想を表現しただけでなく、日蓮大聖人が感得された法華曼荼羅(ほっけまんだら)の世界観を顕しているのではないだろうか。

Dつまり、地獄界から仏界に至るまでの、一切衆生・いっさいしゅじょう(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十界)と地涌の本弟子たち(上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)・無辺行菩薩(むへんぎょうぼさつ)・浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)・安立行菩薩(あんりゅうぎょうぼさつ)で代表される四菩薩)と、釈迦仏(しゃかぶつ)と多宝仏(たほうぶつ)の2仏が、救われている法華曼荼羅を表現しているのではないか。
そうすると、ちょうど、石の数も、十界の衆生10 + 地涌の菩薩4 + 二仏2 すなわち
10+4+2=16となる。

Eこれが日首のいいたかった表現ではないのだろうか。

F総合すると、「本仏と地涌の菩薩が感応道交している八品思想(はっぽんしそう)」を表すとともに、「久遠実成(くおんじつじょう)の法華思想」を表しているのではないだろうか。(一考察)


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