こうしてゼニスはデザインを武器に高価格帯へ移行。2001年、2002年と大幅な価格改定を行い、本年(2005年)の5月にも更なる販売価格の引き上げが決定している。ジャガー・ルクルトやジラール・ペルゴ等、競合価格帯にある他のマニファクチュールが高いブランド力を維持することからも、ゼニス買収は「お買い得」であり、今後はLVMHにとっても大きな収益源となるだろう。製造原価は大きく変えないまま、利益率の大幅な向上に成功したゼニスの大転身。これは高級嗜好品市場におけるブランド戦略のケーススタディと言えるほど見事なモノだ。

勿論、この戦略を単に「価格が価値を決定したケース」と言い切るのは無礼の極みだ。だが戸惑いも否定しがたい自身の感情である。実直なデザインながら高い技術力でモノづくりを進めたゼニス。華やかなデザインと物語性を帯びたゼニス。どちらも同じゼニスである。だが前進するゼニスにとって、このエリートは既に過去のタイムピースである。

機械式時計は時を捉える計器として、クォーツ時計に遠く及ばない。故に機械式時計がその価値をブランド・ヒストリーやムーブメントと言った趣味性、デザインやケース素材と言った宝飾性に求めたのは必然と言える。自らのパラダイムを転換しつつあるゼニスは、これからどんな時計を生み出していくのだろうか。
高級嗜好品の並行販売店と言えば、正規販売店との価格差を武器にするのが一般的な販売手法である。しかし非常に興味深い記事があった。小倉氏の『OYSTER JUNKY WEB』でも紹介されていたが、それは数年前に日本経済新聞日曜版に掲載された記事で、ロレックスの並行販売店であったエバンスが激安路線を変更、高級路線を打ち出したと伝えていた。その変化が結実したのがブラッド・ピット(販売店に過ぎないエバンスが彼を起用出来るのか!!)の広告起用であり、顧客に対する『10years gurantee』であった。こう言った販売店のブランド力構築に注力した結果、ロレックス販売の最激戦区と言われる銀座において大きく売り上げを伸ばしたと言う。
市場の自動調整能をアダム・スミスは「神の見えざる手」と表現したが、その経済法則に従えばエバンスは他の並行販売店と大きく価格設定を違えることができず、打ち出した高級路線は転換を求められたハズだ。にも関わらず、エバンスは成功した。この事例は非常に興味深い示唆を与えてくれる。それは「モノの価値が価格を決定する」だけではなく、「価格がモノの価値を決定する」と言うパラドックスである。もちろん、安易に価格を上げれば良いというワケではない。パブリシティやアフターサービス、店舗デザインに接客等、他店と異なる価格を裏付ける(納得させる)舞台が必要となる。だが舞台を整えさえすれば大幅な利益率の向上が期待できるのだ。同様のケースをとあるブランドグループによる、老舗ウォッチメーカーの買収劇にも見ることができる。
スイスの時計産業自体の構造を揺さぶった衝撃にゼニスも無縁ではいられず、1972年にアメリカのラジオメーカーであったブローバに買収される。アメリカ資本の元でクォーツを積極的に発表したゼニスにとってエル・プリメロは過去の遺物に過ぎず、機械式時計の製造ラインや図面、金型の破棄が経営陣より要求された。開発者であったシャルル・ベルモー氏が屋根裏に図面と金型を隠したのはうあまりに有名なエピソードだ。こうして守られた図面により、1978年に再びスイス資本となったゼニスは80年代から機械式時計の製造を再開、エル・プリメロは同社のフラッグシップ・ムーブとして人気を博している。
高級ブランドに相応しい物語性を誇るゼニスだが、MSが『クラスエリート』を購入した当時、ゼニスはかなり手の届きやすい価格帯にあった。これはゼニスの創業者であるジョルジュ・ファーブル・ジャコの「高性能の時計を求めやすい価格で提供する」と言う理念の継続であった。確かにエリートにはエル・プリメロほどの物語性は無いが、ジラール・ペルゴのGP1300を押さえて95年の『Best Mechanical Movement』を受賞した優秀なムーブメンドだったにも関わらず、である。
そのゼニスに目を付けたのがベルナール・アルノー率いるLVMHである。同グループは言わずと知れたルイ・ヴィトンやディオール、ヘネシー、タグ・ホイヤーと傘下ブランドは50を越える巨大グループだ。そのLVMHがゼニスを買収し、「技術はあるがブランド力は低い」企業だったゼニスを「技術もブランド力も高い」企業へと転身させた。またエル・プリメロはルイ・ヴィトンの『ルイ・ヴィトンカップモデル』やタグ・ホイヤーの『モンツァ』等、グループ各社のハイエンド・モデルにも供給され、ゼニスの間接的なブランド力向上に寄与している。

エル・プリメロやエリートと言った伝統的な機械式時計の技術と現代的なデザイン・イメージを融合させ、高級ブランドとして位置づける。その代表的な製品が2003年に発表された『グランドクロノマスターXXT』である。最大のセールスポイントであるエル・プリメロがスタイリッシュな文字盤から顔をのぞかせるデザインは秀逸で、現在のゼニスの顔と言える。
今やスイスでも稀少となった部品製造から最終組立工程までを一貫して自社で賄う「マニファクチュール」として知られるゼニス。同社の技術力はクロノグラフ・ムーブメントである『エル・プリメロ』に集約される。多くのクロノグラフ・ムーブ(ETAの汎用ムーブで言えばcal.7750)が28,800振動であるのに対し、エル・プリメロは36,000振動である。これは一時間を60分として考えた時、毎秒10回にして毎時36,000振動のムーブメントだけが10分の1秒を捕らえることができる。ゼニスの技術陣がスペイン語で「最初の」を意味するエル・プリメロを完成させたのが1969年。だが後に名ムーブとして語られるエル・プリメロの登場も、市場の喝采を浴びることはなかった。なぜならその年にセイコーが世界初のクォーツ、『アストロン』を発表したからだ。
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価値の再認識。