私とデニムの関係はもう10年以上になる。当時、巷はヴィンテージ・ブーム。『POPEYE』や『HotDog』、果ては『Men's Non-no』までヴィンテージ特集を組み、デニムフリークとなった私はそれらを読み漁った。しかし、ある違和感があった。特集のメインはあくまでもリーバイスを中心とするヴィンテージ・ジーンズであり、私の好きなドゥニーム、エヴィス、フルカウントは『レプリカ』として小さく扱われているに過ぎなかった。

確かに、オールド・リーバイスの色落ちは素晴らしい。リーバイ・ストラウス社はリベットを打ち付けた5ポケットに、赤タブといった現在のジーンズのプロトタイプを生みだしたパイオニアであり、多くのジーンズメーカーが目指す原点でもある。誕生以来の改良の積み重ねとしてのディティールの変化も趣味性を煽る蘊蓄に溢れているし、私もアメ村の『NYLON』でショーウインドに飾られた501XXに見惚れたこともある。ちなみにそのジーンズはヴェルディ川崎(当時)の永井秀樹選手が買っていったそうだ。

しかしリーバイスとは異なったジーンズをリーが生み出したように、現在の市場を牽引する新興ジーンズメーカーも501XXをイメージしながら、独自の解釈を付加することでオリジナリティのあるジーンズを造り上げている。これは和歌や陶芸の世界で言われる『本歌取り』にあたるだろう。

確かに501XXは素晴らしいジーンズだ。しかし落ち着いたとは言え、骨董品並の価格がついたデッドストックのジーンズをガンガン穿き込める幸福な人が日本に何人いるのだろう。まずデッドストック自体が希少であり、さら自分のサイズとなれば、もはや隕石が頭に当たる確率にも等しい。デッドストックでなくとも当時数十万円も出して買ったジーンズを今もガンガン穿いているツワモノには、オールド・リーバイスを扱うショップのスタッフ以外では少なくとも私は出会ったことがない。

このサイトをわざわざ覗くデニムフリークであれば、ジーンズの魅力は色落ちにあることに異論を挟む人はいないだろう。だがヴィンテージ・ジーンズは既に色落ちが進んだ、嗜好品として完成したジーンズだ。その色落ちに高い付加価値を見いだすからこそ、古着の中でもヴィンテージ・ジーンズの市場が成立しうるのだ。

これはあくまでも私見だが、工場を出荷されて店頭に並んでいるジーンズは工業製品として完成されたものだ。しかしユーザーと同じ時間を過ごし、生活に密着した存在になるにつれてジーンズはユーザーのクセを刻み込み、洗濯の回数や習慣からその人特有の色落ちになる。その過程と時間こそがジーンズの魅力であり、工業製品としてのジーンズではなく、その人が価値を見出しうる「趣味としてのジーンズ」が成立する。だからこそ、多くの人はゴワゴワのジーンズを穿き、いつか理想の色落ちを実現してくれる日を夢見ているのだ。

そんな趣味性の高い日本の新興ジーンズメーカーを
『レプリカではなく、クラフトジーンズと命名する』
(BOON編集部:『大クラフトジーンズ博』;祥伝社.1998.4.P46-71)
と声高に唱えた雑誌もあったが、私はただ
『ジーンズ』でよいと思う。

屈折した趣味性としての赤耳や隠しリベットではなく、
流行としてのインディゴ・ブルーでもなく、
日々を過ごす最高のデイリーウェアとしてのジーンズ。


これからもジーンズは、私にとって当たり前の存在として、生活の中にあるだろう。
ニッポンのジーンズへの、極めて私的な見解。