さて、最終的に出したレポートはというと、こういうことになっています。
とにかく用例をいっぱいいっぱい集めたかったんだけど、結局少ししかできませんでした・・・
だってマイナーな歌集が多くて、訳ができないんだもん・・・
「わたつみ」について
「わたつみ」の語源については幾つかの説があるが、「海(ワタ)ツ霊(ミ)」の意で、「ツ」は上代語の連体助詞であるとする説が主流である。
また、「ワタ」については朝鮮語のpata(海)と同源であるとも言い(「広辞苑」・「岩波古語辞典」)、語源的に他界・遠処の意を表すヲト(ヲチの交替形)とワタとは母音交替によって成り立った二語かとみる説もある(「時代別国語大辞典上代編」)。
その意味であるが、わたつみには二つの意味がある。
一つに海の神という意味。その地方の海・雨・水をつかさどるといわれる。
もう一つに、海、海原の意を表す。(「日本国語大辞典」)
その意味は現在でも変わらない。
「わたつみ」という語を考える時に生じる問題は、神の意味が先だったのか、それとも海そのものとして捉える「わたつみ」が先だったのかということである。
それを検証するために、用例を見ていきたい。
まず、上代の「万葉集」を見ていく。 神としての意味で使われている歌は六首あった。
(三六六)・・・わたつみの てにまかしたる玉だすき かけてしぬびつ 大和島根を
訳:海の神が手に巻きつけていらっしゃる(玉だすき)心にかけて偲んだ大和の方を
(一三〇一)わたつみの てにまきもてる たまゆゑに 磯のうらみに かづきするかも
訳:海神が手に巻き持っている玉のために磯の浦辺で難儀して水に潜ることだ
(一三〇二)海神の もてる白玉 みまくほり 千たびぞ告りし 潜きする海人
訳:海神の秘蔵の真珠を見ようと思って 幾度も唱え言をした 水に潜る海人は
(一三〇三)潜きする あまはのれども 海神の心しえねば 見ゆといはなくに
訳:水に潜る海人は唱え言をしても海神の許しを得ていないので真珠が見えるわけない
(三七九一)・・・わたつみの殿のいらかに とびかける すがるの如き 腰細に・・・
訳:・・・海神の宮殿の屋根を飛びかけるすがるのような細い腰につけて飾り・・・
(三六二七)・・・浮寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば 漁りする・・・ 音のみし泣かゆ
わたつみの 手巻の玉を 家づとに・・・
訳:・・・海原の沖辺を見ると、いさり火で魚を捕る・・・せめて海神の腕輪の玉をお土産に妻にやろうと・・・
この歌には「わたつみ」が二回使われていて、先の「わたつみ」は海を、後の「わたつみ」は神を表わしている。
海の意味で使われている歌は、三六二七番を除いて、八首。
(十五)海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ
訳:大海原の豊旗雲に入日がさしている。今夜の月はさわやかであってほしい
(三二七)海神の沖に持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ
訳:海原の沖に持っていって放したとしてもどうしてこれが生き返ろうか
(一二一六)潮満たばいかにせむとか海神の神が手渡る海人娘子ども
訳:潮が満ちたらどうする気だろうか。大海の神のいる海峡を渡る海女おとめらは
(一七四〇)七日まで 家にも来ずて 海境を
過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に・・・ 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり・・・
訳:七日たっても家にも帰ってこずに海の果てを越えて漕いで行くうちに海の神の娘に・・・常世の国に至り、海の神の宮殿の内陣の霊妙な御殿に手を取り合って・・・
(三〇七九)わたつみの沖つ玉藻の靡き寝む早来ませ君待たば苦しも
訳:大海原の沖の玉藻のようにたなびいて寝ましょう。すぐいらしてくださいあなた これ以上待てば苦しくなります。
(三〇八〇)わたつみの沖に生ひたる縄海苔の名はかつて告らじ恋ひは死ぬとも
訳:大海原の沖に生えている縄のりのあなたの名は告りますまい。恋い死ぬことがあっても。
(三五九七)わたつみの沖つ白波立ち来らし海人娘子ども島隠る見ゆ
訳:海原の沖の白波が立ってきたらしい。海人おとめたちの船が島に漕ぎ隠れている
(三六六三)わたつみの沖つ縄海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ
訳:海原の底のなわのりを繰るーその来る頃だと妻が待っていることであろう、その月は過ぎていく
(四二二〇)わたつみの 神の命の み櫛笥に 貯ひ置きて 斎くとふ・・・
訳:海の神が玉櫛笥にしまって置いて大切にするという真珠も増して大事に思っていた我が子ではあるが・・・
なぜだかわからなかったが、このうちの一二一六番の歌は乗っている本とのっていない本とがあった。
どちらともとれるものは、五首あった。
(三八八)海神は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を
伊予に廻らし・・・
「海の神は不可思議な神だ」ともとれるし、「海は不思議なものだ」ととることもできる。
(一七八四)海神のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
訳:海神のどの神様にお祈りしたら行きも帰りもお船が早いだろうか。
この場合は、「海のどの神様に」ともとれるし、また古事記に出ているように海の神は底津綿津見神、中津綿津見神などわたつみのかみにも色々いるので、その中のどの海の神に、ともとれると思われる。
(三六一四)帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな
訳:帰りがけに妻に見せるために大海の沖の白玉を拾っていこう
「海の沖にある白玉」とも「沖の海の神の白玉」ともとれる。
(三六九四)わたつみの 畏き道を 安けくも なく悩み来て 今だにも
訳:海原の恐ろしい道を楽なこともなく苦労してきて
「かしこき」は、海そのものをさしているとも言えるし、海の神がいることが「かしこき」ともとれる。
(四一二二)・・・山のたをりに この見ゆる 天の白雲
海神の おきつみやべに・・・
訳:・・・山の鞍部に見えるこの天の白雲が海神の沖の宮辺まで立ち渡り・・・
この歌は明らかに、海の神が天候を操るという考えからなっているものなので、「海の沖にある宮部」ともとれるが、「沖にある海の神の宮部」ととることもできるだろう。
枕詞になっているものは一首。
(三六〇五)わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋やまめ
訳:わたつみの海に注いでいる飾磨川が絶えでもしたらわたしの恋も止むだろうが
以上、万葉集を見て、区別がつかないもの、枕詞を別として数えると、海の意味でとられているものが若干多い。
次に、平安時代の用例を見ていく。
調べられたのは古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集で、計十三首だった。
古今和歌集には六首出てきたが、神の意味で使われているのは、九一一番のみであった。
(九一一)わたつ海のかざしにさせる白妙の浪もてゆへる淡路しま山
訳:海の神がかみかざりにさしている白い波
海で使われているのは五首。
(七三三)わたつみとあれにしとこを今更にはらはばそでやあわとうきなん
訳:大海のように荒れてしまった寝床を、今更に共寝をするべく塵を払ったならばその袖が海の上の泡のように浮かぶであろうか。
(八一六)わたつみのわが身こす浪立返りあまのすむてふうらみつるかな
訳:大海の私の身の丈を越すような荒波が、繰り返して漁師の住む浦に押し寄せている。私もつれないあの人の住む方を何度も見やりながら恨めしく思っている事よ。
(九一〇)わたつ海のおきつしほあひにうかぶあわのきえぬ物からよる方もなし
訳:大海の、沖の潮合のところに浮かんでいる泡の、動かずに消えない、それではないが、私は死なずにはいるものの、寄るところもない。
(一〇〇一)・・・わたつみの沖を深めて思ひてし思ひは今は・・・
訳:・・・大海の沖が深いように深く思っている私のこの思いは、今は・・・
後撰和歌集には五首あったが、全て海の意味であった。
ただし、七五七番は古今和歌集の七三三番と同じ歌だったので、それは書かない。
(四一七)浪わけて見るよしもがなわたつみのそこのみるめももみぢちるやと
訳:浪を分けて確かめてみたいものだよ。海の底の海松布(みるめ)も紅葉して散っているかどうかと。
(四一九)わたつみの神にたむくる山姫のぬさをぞ人はもみぢといひける
訳:海の神にたむける山姫の幣を人は「紅葉」と名づけているのだなあ。
(六一八)わたつみとたのめし事もあせぬれば我ぞわが身のうらはうらむる
訳:大海のように深いお情けだと安心させてくださっていたお言葉も浅く成り果ててしまいましたので、今はただ我と我が身の憂さを怨み嘆いている事です。
(六五五)わたつみのそこのありかはしりながらかづきていらん浪のまぞなき
訳:海の底のありかはわかっているが、潜って入っていく浪の静かな時がないのです。
(七九八)玉もかるあまにはあらねどわたつみのそこひもしらず入る心かな
訳:深く潜って藻を刈る海人にではないが、海の底のような深さもわからぬほどの思いをあなたに入れ込んでしまうことである。
拾遺和歌集の二首は、どちらも海の意味であった。
(四五八)わたつみの浪にもぬれぬうきしまの松に心よせてたのまん
訳:海の浪にも濡れる事のない浮島の松を頼りとして、旅の無事を願うことにしよう。
(一一五二)わたつみもゆきげの水はまさりけりをちのしまじま見えずなりゆく
訳:大海でも、雪解けの水は増すのだった。遠方の島がしだいに見えなくなっていく。
以上、見ていった通り、平安時代になると十三首中十二首が海の意味であり、神の意味で使われているのはわずか一首という結果になった。
万葉集に比べ、平安時代になると、明らかに「海」で使われている歌が多い。
また、平安時代のうたに見られる「わたつみ」は、海であるとはっきりわかるものが多いのに対して、万葉集でのわたつみは区別がはっきりつかないものも多かった。
このことから、用例が少ないし、また平安時代しか調べていないので、断言はできないが、「わたつみ」はやはり「神」の意味が先で、海の神がいる所、という意味から転じて海そのものを指す言葉になったのではないだろうか。
わたつみの語構成を考えてみても、「わた−つ−み」で、海そのものが先ならば、「わた」という語があったのだから、わざわざ「み」を足して言う事もないだろうとも思う。
歌の内容も、万葉集では海の神について触れた歌が多く、恐ろしさや妨げ、霊的力などをよんだのに対して、平安時代の歌になると、それよりも海の深さを心の深さにたとえていたり、ただ海をよんでいるだけで、神に触れているのは二首だけである。
神から海への転換期はいつかという問題になると、万葉集がちょうど割合が同じくらいであることから、すでにこの時期には転換し始めたと考えられるのではなかろうか。
一首一首の時代がわからなかったので、証明はできないことが残念だ。
「わたつみ」は現代でも海を支配する神、もしくは海そのものをさすとされている。(「広辞苑」)
しかし、私自身も、私の周りでも、わたつみの意味を正しく理解している人はほとんどいなかったし、ましてや言葉自体を知らない人もいた。
言葉自体は残っているものの、すでに意味としてはこの「わたつみ」は死んでしまっている。
海の神という概念は今はないし、海そのものを言う場合はそのまま「海」というので、自然「わたつみ」と言う言葉は使われなくなってしまったのではないだろうか。
と、まあなんとなく中途半端なところで終わってしまったのですが。
私にはこれが限界でございました・・・。
先生、よろしゅうたのんます〜(祈)
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