「幸せのかたち」 | |
シロツメクサをつんで冠を作った子供時代。 どちらが早くできるか競争したりした。 思えば、今まで生きてきた中で一番幸せだったあの頃―― 風のない、夏の日曜日。 親友の家に足を運ぶのはもう3年ぶりになる。 足取りが重いのは、この暑さと上り坂のせいじゃない。 あの家から3年も遠ざかっていたのは、怖かったから。 冷たくなった彼女の体を、強く強く抱きしめて、声を出すこともできなかった彼女の母親を、 何も気付いてあげられなかった私。 一人で何も言わずに死んでしまった親友の家に行くことを、彼女は許してくれるだろうか。 親友と呼ぶことを許してくれるだろうか。 自信が持てない私に、そう言っていつでも背中を押してくれた彼女。 いつも堂々としていて、私が泣き言を言っても、ふんわりと優しく笑ってくれたんだ。 彼女の「大丈夫」は呪文みたいに私の心にしみこんだ。 大丈夫。 同じ年頃の子にしては少し大人びたところもあった。 目を閉じると、あの幸せそうな微笑みが浮かんでくる。 冬の寒い日の自転車通学。 風をきって、私の手は段々冷たくなっていく。 「寒いよ〜」と情けない顔をすると、「ほら」と言って手を差し伸べてくれる。 その手は温かかったのに。 私には、いくら背伸びしたって届かない、強い人のように思えた。 彼女が泣いているのを見たのは一度だけで、それは電車で二駅行ったところにある、 光が辺りを緋色に染めていた。 キレイだね、とそれだけ言って、あとは二人とも黙ってそこに立っていた。 あの時、二人とも何を考えていたのかは話さなかった。話さなくても、いいような気がしていた。 でも、聞いた方がよかったのだろうか。涙のわけを。 緋色に染まった彼女の横顔に一筋の涙。風に揺れる長い髪。 かつて私の手を温めてくれた彼女の手は、あの場所で、信じられないほど冷たいものに 息を整え、少し緊張しながら、ベルを鳴らす。ちりん、と小さな音が聞こえて、彼女の母親が顔を出す。 「突然呼び出したりしてごめんなさいね。さあ、どうぞ」 以前とかわらない笑顔で、アイスティーを出してくれる。 グラスの中でカラン、と氷が音をたてる。 「ご無沙汰してしまって・・・」 「いいのよ。それより、今日はあなたに見てもらいたいものがあって・・・」 つと立ち上がって、一冊のノートを持ってきた。 「そのノート・・・」 見覚えのあるノートだった。そういえば、「今は見せられないけど、いつか見てほしい」と言ってたっけ。 それまでの笑顔が消えて、少し俯き加減に、 「実はやっとあの子の部屋を整理する決心がついてね・・・」 その言葉に、胸が痛む。 「これを見た時、あの子の苦しみが痛いほど伝わってきた。私たちの前ではいつでも明るい子だった。我慢強い子だったから。」 そこには、普段の彼女らしくない、乱雑な字で書きなぐられていた。 「死にたくない」「死ぬのが怖い」 「これ・・・は・・・」 彼女のやさしい笑顔と「死」という文字がどうしても結びつかない。 「どういう・・・?」 「あの子・・・病気だったの。命がそんなに長くないこと、知ってた・・・明るく振舞ってはいたけど、いつくるかわからない死への恐怖が、たまらなかったんでしょうね」 「病気・・・そんなこと、知らなかった・・・」 「外見ではまだわからなかったでしょうけど。もしかしたら、時間の問題だったかもしれない」 まるで脳が麻痺してしまったかのような感覚を覚える。私が鈍感すぎたのか、それともそんなこと、みじんも感じさせなかった彼女が強かったのか。 「きっと、“もうすぐ死んでしまう子”としてではなく、 “友達”としての思い出が作りたかったんじゃないかな」 それでも・・・それでも、その苦しみを分けてほしかった。 「でもね・・・」 ぽつりぽつりと話していたお母さんが、ふいに顔をあげて、私の目をじっと見つめて言った。 「あの子は確かに苦しんではいたけど、決して不幸せなんかじゃなかったって、そう思っているの。悲しみを完全に消し去ることはできないけど、あの子はこんなに幸せだったって、私も少し救われたのよ――」 このページを見て、と指差す先に、しっかりとした字で思い出が綴られている。 そこには生き生きとした彼女の姿があった。 「でも、私は・・・彼女を救えなかった」 お母さんはゆっくり首をふって、最後のページをめくった。 忘れるようにしてるけど、時々自分のからだのことを考えると、ものすごく怖くなる。どうしようもない絶望感に襲われる。 でも涙が出たのは怖くなったからじゃない。 涙が出たのは、あまりにきれいだった夕日のせい。 そして、何も言わなくてもいい、この空気と時を共有できる大切な人がいるということが、なんて幸せなんだろうと、何かに感謝したい気持ちになった。 誰がどう思おうと、この瞬間は私のもの。この幸せな瞬間は」 自分でも気付いていないだろうけど、環の笑顔は、人を幸せにする力を持ってるよ。 私は、環といる間、いつだって幸せだったよ。ありがとう。」 一緒に歩いた帰り道。きれいだった夕日。じゃあねと言ってからいつまでも続いた会話。 彼女の笑顔はもう見ることができないけど、私は今、生きている。 そしてこれからも生きていかなければならない。 こんな私でも、人を幸せにすることができるのだろうか。 熱い涙を手でぬぐいながら、彼女に微笑んでみせる。 陽が沈み、辺りが少しずつ薄暗くなる時分。 湖面だけが鏡のようになって空の色を映し出す。もう一つの空を作る。 前に来た時には、水はどこまでも深く、暗い色をしていた。 もう一つの空がぼんやり光っている。 「環の笑顔は、人を幸せにする力を持ってるよ――」 強い風が、空を波立たせた。 |
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