「幸せのかたち」
  



シロツメクサをつんで冠を作った子供時代。

どちらが早くできるか競争したりした。

思えば、今まで生きてきた中で一番幸せだったあの頃――



額の汗をぬぐって、ふうと息をつく。道の両側にはポプラ並木が坂の上までずっと、続く。

懐かしいこの風景。

風のない、夏の日曜日。

親友の家に足を運ぶのはもう3年ぶりになる。

足取りが重いのは、この暑さと上り坂のせいじゃない。

あの家から3年も遠ざかっていたのは、怖かったから。

冷たくなった彼女の体を、強く強く抱きしめて、声を出すこともできなかった彼女の母親を、

私はまっすぐに見ることができなかった。

何も気付いてあげられなかった私。

一人で何も言わずに死んでしまった親友の家に行くことを、彼女は許してくれるだろうか。

親友と呼ぶことを許してくれるだろうか



「大丈夫だよ」

自信が持てない私に、そう言っていつでも背中を押してくれた彼女。

いつも堂々としていて、私が泣き言を言っても、ふんわりと優しく笑ってくれたんだ。

彼女の「大丈夫」は呪文みたいに私の心にしみこんだ。

大丈夫。

同じ年頃の子にしては少し大人びたところもあった。

優しそうな年上の彼氏ともすごく仲がよさそうで、たまにちょっと寂しくて、ちょっとうらやましく

思ったりもした。

目を閉じると、あの幸せそうな微笑みが浮かんでくる。

冬の寒い日の自転車通学。

風をきって、私の手は段々冷たくなっていく。

「寒いよ〜」と情けない顔をすると、「ほら」と言って手を差し伸べてくれる。

その手は温かかったのに。

私には、いくら背伸びしたって届かない、強い人のように思えた。

彼女が泣いているのを見たのは一度だけで、それは電車で二駅行ったところにある、

小さな湖に夕日が沈むのを見ている時だった。

光が辺りを緋色に染めていた。

キレイだね、とそれだけ言って、あとは二人とも黙ってそこに立っていた。

あの時、二人とも何を考えていたのかは話さなかった。話さなくても、いいような気がしていた。

でも、聞いた方がよかったのだろうか。涙のわけを。

緋色に染まった彼女の横顔に一筋の涙。風に揺れる長い髪。

一瞬見とれてしまうほど美しかった。

かつて私の手を温めてくれた彼女の手は、あの場所で、信じられないほど冷たいものに

なってしまっていた。




なぜ突然にいってしまったんだろう。冷たい水の底で、何を思ったのだろうか。



坂をのぼりきったところに、その家はあった。

息を整え、少し緊張しながら、ベルを鳴らす。ちりん、と小さな音が聞こえて、彼女の母親が顔を出す。

「突然呼び出したりしてごめんなさいね。さあ、どうぞ」

以前とかわらない笑顔で、アイスティーを出してくれる。

グラスの中でカラン、と氷が音をたてる。

「ご無沙汰してしまって・・・」

「いいのよ。それより、今日はあなたに見てもらいたいものがあって・・・」

つと立ち上がって、一冊のノートを持ってきた。

「そのノート・・・」

見覚えのあるノートだった。そういえば、「今は見せられないけど、いつか見てほしい」と言ってたっけ。

それまでの笑顔が消えて、少し俯き加減に、

「実はやっとあの子の部屋を整理する決心がついてね・・・」

その言葉に、胸が痛む。

「これを見た時、あの子の苦しみが痛いほど伝わってきた。私たちの前ではいつでも明るい子だった。我慢強い子だったから。」

そこには、普段の彼女らしくない、乱雑な字で書きなぐられていた。

「死にたくない」「死ぬのが怖い」

「これ・・・は・・・」

彼女のやさしい笑顔と「死」という文字がどうしても結びつかない。

「どういう・・・?」

「あの子・・・病気だったの。命がそんなに長くないこと、知ってた・・・明るく振舞ってはいたけど、いつくるかわからない死への恐怖が、たまらなかったんでしょうね」

「病気・・・そんなこと、知らなかった・・・」

「外見ではまだわからなかったでしょうけど。もしかしたら、時間の問題だったかもしれない」

まるで脳が麻痺してしまったかのような感覚を覚える。私が鈍感すぎたのか、それともそんなこと、みじんも感じさせなかった彼女が強かったのか。

「きっと、“もうすぐ死んでしまう子”としてではなく、 “友達”としての思い出が作りたかったんじゃないかな」

それでも・・・それでも、その苦しみを分けてほしかった。

「でもね・・・」

ぽつりぽつりと話していたお母さんが、ふいに顔をあげて、私の目をじっと見つめて言った。

「あの子は確かに苦しんではいたけど、決して不幸せなんかじゃなかったって、そう思っているの。悲しみを完全に消し去ることはできないけど、あの子はこんなに幸せだったって、私も少し救われたのよ――」

このページを見て、と指差す先に、しっかりとした字で思い出が綴られている。

そこには生き生きとした彼女の姿があった。

「でも、私は・・・彼女を救えなかった」

お母さんはゆっくり首をふって、最後のページをめくった。



「夕日が沈むのを見ていると、涙が出てきた。

忘れるようにしてるけど、時々自分のからだのことを考えると、ものすごく怖くなる。どうしようもない絶望感に襲われる。

でも涙が出たのは怖くなったからじゃない。

涙が出たのは、あまりにきれいだった夕日のせい。

そして、何も言わなくてもいい、この空気と時を共有できる大切な人がいるということが、なんて幸せなんだろうと、何かに感謝したい気持ちになった。

誰がどう思おうと、この瞬間は私のもの。この幸せな瞬間は」



「環へ

 自分でも気付いていないだろうけど、環の笑顔は、人を幸せにする力を持ってるよ。

 私は、環といる間、いつだって幸せだったよ。ありがとう。」





駅に向かう道すがら、涙があふれて止まらなかった。

一緒に歩いた帰り道。きれいだった夕日。じゃあねと言ってからいつまでも続いた会話。

彼女の笑顔はもう見ることができないけど、私は今、生きている。

そしてこれからも生きていかなければならない。

こんな私でも、人を幸せにすることができるのだろうか。

熱い涙を手でぬぐいながら、彼女に微笑んでみせる。



電車で二駅

陽が沈み、辺りが少しずつ薄暗くなる時分。

湖面だけが鏡のようになって空の色を映し出す。もう一つの空を作る。

前に来た時には、水はどこまでも深く、暗い色をしていた。

もう一つの空がぼんやり光っている。

「環の笑顔は、人を幸せにする力を持ってるよ――」

強い風が、空を波立たせた。





あとがき

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