2人でお茶を 彼が来ないことは、最初から分かっていた。 そのことを自分に納得させるのに、一時間近くかかったけれど。 窓の外に見える景色は、何故かみんな幸せそうで、私は心の中で悪態をついたりした。 幸せなんていつまでも続かない。今幸せでも、明日も同じように幸せかどうかは、 今通った若いカップルも、男女のグループも、今は楽しそうだけど、明日は泣いている そうであればいい、と心の何処かで思っている自分を自覚する。 私は目を閉じる。 もしあの時、意地を張らずに電話をしていたら、何かがかわっていただろうか。 もしもあの時、会いたいと言っていれば。 灯りを落としたこの紅茶専門店で、私は色んなことを思い出しながら、一時間を過ごした。 空のカップが完全に冷えたことに気付いたのは、取り留めない考えを振り切った時だった。 突然、今まで静かだった世界に、音が押し寄せる。 ふ、と息を吐くと、同時に隣のテーブルからふ、と溜め息が漏れた。 見ると、私と同年代らしき女性が、目を少し大きくして驚いた表情で私を見ていた。 とても色の白い、線の細い人だ。 休日というのもあって、店内にはたくさんの人がいて、楽しそうに談笑している。 多くはカップルか3,4人のグループで、一人きりで座っているのは、私と、隣の女性 私は急に寂しくなった。 この温かい部屋で、切断された、違う空間にいるのは私と彼女だけという気がした。 彼女が口を開こうとした瞬間、私は声を出していた。 「一緒に飲みませんか」 私は自分の好きな紅茶の話をした。 彼女は静かに微笑み、彼女が好きな紅茶の話をしてくれた。 彼女が飼っている、白い小さな猫のこと。もうすぐ、結婚する予定であること。 今日初めて会った人なのに、なんだかずっと昔の友達に、久しぶりに会って話している この感覚はきっと彼女も同じだったと思う。静かな微笑みには、親しみがこもっていた 彼女が少しの間席を立ったので、手持ち無沙汰になってしまった。 400種近くある銘柄から敢えて選んだのは「エコー」という名前のフレーバードティー。 その話を教えてくれたのは、彼だった。 白いカップにお茶を注ぐと、華やかな香りが広がる。 意外なこと知ってるね、と驚いたら、少し得意そうだったな。 彼女が戻って来て、席につくなり 「もしかして、エコー?」 と、驚いたように、言った。 「ええ。お好きなんですか?」と私は答えた。 これだけ種類がある中で、確かに水色には特徴があるけれど、香りだけですぐわかると 目を一瞬ふせ、彼女は頷いた。 「エコーって、こだまのことですけど、ギリシア神話に出てくるエコーというニンフには、 カップにそっと触れる。どんな?と言うように彼女が首をかしげた。 「エコーはとても心優しいニンフで、浮気性の神ゼウスが妻ヘラの監視から逃れるのを エコーが美少年ナルシスに恋をした時、うまく話が出来なくて、退屈に思われてしまった。 「だから、エコーの姿は見えないんですね」 カップに口をつけた。甘酸っぱい。 彼女を見ると、今にも泣き出しそうな顔をしていた。何かを思い出そうとして、首を振る。 彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちた。 「・・・思い出せないんです」 「え?」 「どうしても、思い出せないの。あの時、彼が何を飲んでいたのか・・・」 カップにそそがれたルビー色を見つめながら、彼女がつぶやいた。 それはとても悲しい話だった。 彼女と、突然の出来事。 今はもう会えない彼に、最後に会った日のこと。彼女はその日、「エコー」を飲んだという。 覚えているのは、それだけ。 「あの日は、それほどに特別な日でもなくて、当たり前の一日だったから、何を話したのか 思い出せない自分を責めているみたいだった。私は何も言えない。 「・・・ケーキ、頼みませんか」 「結婚する方は・・・どんな人なんですか」 「優しい人・・・です。彼のことも知っていて・・・友達でしたから」 自分だけが幸せになることに罪悪感を持っているのだろうか。 「結局・・・その痛みを癒してくれるのは時間しかないんだと思います。痛みさえ忘れて 食べましょう、と私は笑いかけた。 プレートにのったケーキはとても魅力的だ。 「・・・そうですね。とっても美味しそう」 銀色のナイフとフォークを持って、彼女は微笑んだ。温かな微笑みだった。 2人の思い出が、3人でいた記憶が、これから増えていく思い出が、全て彼女をやさしく 甘さが口の中に広がる。 そういえば、「それしか言えないの」って笑われたっけ。 彼の顔がまた思い出された。私はこのお店がとても気に入っていたので、度々ここで待ち 一度だけ、お上品過ぎて落ち着かない、と言ったけど、あの時の私は気にもとめなかった。 「最初、一人でいた時、すごく惨めな気持ちだったの。彼に振られて、一人この席に座って。 今、後悔しても時は戻ってこない。それはわかっているけど、考えずにはいられなかった。 「そんなことないと思いますよ。彼はきっと、あなたと一緒にいたかったから、ここにいたん 「そう、かな・・・」 彼の顔を思い出す。笑顔だった。私が食べている間の彼は確かに笑顔だった。 私が与えていたのは、苦しみだけでなかったのだろうか。一緒にいて・・・幸せを一瞬でも感 顔をあげて、紅茶を一口飲んだ。 目の前の彼女は、絶対そうよ、という顔をして、うなずいてくれた。 「そろそろ帰りましょうか」 お店の外に出ると、辺りは夕焼け色に染まっていた。居心地がいいからと言って、ゆっくりして さっきまで温かかった手が、冷たくなっていくのを感じる。だけど心は、変らない。 「今日は思いがけず、あたたかい時間を過ごすことができました。ありがとう」 最初の自分のことは思い出せないくらい、今は満ち足りた気分。 「こちらこそ。・・・あなたに会えて良かった。このお店には、今日限り来れなくなるかも 「私もです」 そして私たちはお互いに顔を見あわせて微笑みあい、同時に言った。 また会えるといいですね。 結局、彼女の名前もどこに住んでいるのかも聞かなかった。彼女も私に尋ねなかった。 だから、もう一度会えるかどうか、わからない。 けれど、見も知らぬ人と共有したこの時間を、私はきっと忘れないだろうし、何より私はこの いつか再び出会えたら、今度は何を飲もうか。 |