退行的技術開発が日本を滅ぼす


 第2次大戦後、我が国は帝国主義からケインズ主義(修正資本主義)へ社会システムの大転換を行っ た。そして今再び新自由主義(自由放任主義、新帝 国主義、市場主義)へと無血革命的転換を行わされている。何れの場合も外圧=米国によるものであることに特徴がある。新自由主義は国によって幾らか違った 形態を取るが、何れも新古典主義的経済であることに違いはない。すなわち先祖帰りである。社会が成熟してくると非効率構造が出来上がって来て、社会崩壊が 心配されるようになる。そうなると、効率化を唱える動きが勢力を伸ばすのは、ある意味では当然のことである。効率化は1900年代初期の自由放任主義、帝 国主義を呼び戻していると考えられるが、負の側面はコントロールできるとの考えである。勿論そんなに上手くはいかないであろう。混乱する世界が心配であ る。
 新自由主義は、ケインズ主義で溜まった灰汁を徹底的に排除し、コスト至上的生産を行うことに特徴がある。そのためには規制緩和することは勿論、生 産技術もより低コスト化を目指すから、国を越えた生産現場の移動が起きるようになる。移動して貰った国は栄え、放出した国は衰退することになる。勝ち残る ために国内では徹底したコストダウンを図り、他国の製品流入に対しあらゆる手段を使って抵抗し、相手国はこじ開けさせるという壮絶なサバイバルゲームが始 まった。ケインズ主義では先進国同士、先進国と後開発国の間での分業が成り立ったが、今それは困難である。
 ケインズ主義で高度成長を遂げた日本は、まだ成長の余力を十分残しながら、米国の新自由主義への強制、すなわち、貿易と資本の自由化の強引な要求 に対して、いとも簡単に同意してしまった。日本は垣根を自ら外してしまった珍しい国となった。こうして高度成長は終焉した。1990年のことであった。 今、日本は急ぎ新自由主義を確立することが求められている。しかしながら我が国は、新自由主義が徹底的に忌み嫌ったケインズ主義の公共投資を続けている。 これは早晩終わりとなるのであるが、ここで問題にするのは、社会資本投資を支えてきた技術と技術開発である。

ケインズ主義の灰汁
 ケインズ主義は公共投資を通して景気の波を平均化し、労働者 の保護を通して市場拡大を図ってきた。それがいつの間にか「公共投資で景気を支える」というようなことになってしまった。公共投資が続くと、そこの使われ る技術はコストを無視したものになりやすい。すなわち、市場原理を無視しているため正当な評価を行わず、政治力などによって受注が行われやすくなる。開発 は一般受けを狙ったものになりやすく、コストは数倍になる。
 これら、高コスト投資は、ケインズ主義では成り立つとしても、新自由主義では日本を蝕むことになる。たとえば高速道路を取り上げよう。既に指摘さ れているように本来ならば半分以下の料金でペイするものである。ある意味では中間搾取によって、高料金となっている。この料金は生産コストを押し上げる。 それは生産に直接かかる費用だけでなく、従業員の可処分所得が減少し、これが労賃の下げ止まりを招く。日本道路公団やその関連会社における中間的費用は、 ケインズ主義では市場拡大策として肯定的であったかも知れないが、新自由主義では完全なロスとされる。
 道路建設において重要な技術にシールド工法がある。この技術は道路トンネルだけでなく上下水道の管渠の建設に使われるようになった。道路を開削す ることなく地下に水路やトンネルを建設できる。交通渋滞が起きないため極めて都合がよい。しかしコストは10倍 以上高くなるようである。
 新自由主義ではこの工法についても厳しい評価がなされるであろう。つまり、道路を開削する方が安価であるならば、交通渋滞に伴う損失を見た上で、 選択される。従って、多くの管渠埋設は開削が選択されるべきである。シールド工法は高深度、幹線道路など限られた場所において利用されるべきものであろ う。

設置面積大小は意味がない
 開発されてきた社会資本に関わる新技術の多くはコスト的に判 断されるならば、その多くは無駄を進める技術ではなかったろうか。たとえば処理能力を競う場合を考えてみよう。典型的な例として、緩速濾過と膜ろ過を比べ よう。1m3/日の処理能力として、仮に 面積が5倍の差異があると考える。
緩速濾過――池 2000m3、その他  合計5000m3
膜ろ過―――本体+前処理、その他 合計1000m3
建設費が何れも総計20億円程度だったとする。それでは土地費用はどうなるであろうか。現在地方で は11000m3が数百万円である。仮に500 万円とすれば、土地購入費は2500万円と500万 円となる。その場合、差異は2000万円であり問題にならない。比較は其れ以外の能力、コストで行 われ る。

高度技術は低コストであること
 埋立地浸出水は極めて危険な水であるとして、処理の高度化を図っ てきた。某町の最終処分場では浸出水処理施設が7億円であったとか。飲み水にでもする気な のであろうか。通常の処理であれば5000万円程度であったものと考えられる。時代が高度処理だと いって、担当者が喜んで決めたのであろうか。このような ことで町を運営していけば破産するのは当然である。企業の姿勢も納得がいかない所である。技術は進歩しているのか後退しているのかと問いたくなる。進 歩する技術とは日本活性化に繋がるものであり、後退技術というのは日本失墜に手を貸す技術である
 この分野、あるいは廃棄物処理の分野においては、数分の一にコストダウンす るような技術の選択が必要になろう。それは極普通にことであり、決して難しいことではないと考える。

 社会資本の有機的結合
 浸出水を通常の処理を行った後下水管に放流する システムの採用が始められている。これであれば処理の上に処理を重ねるため、実質上の高度処理になり、かつ保険をかけたことになる。社会資本の有機的利用 という意味でもおおいに評価したい。
 埋立地の浸出水は最も汚い排水と見なされてきた。しかしなが ら、予想外に汚濁は少ない。このような排水に対して従来は高度排水処理を行うことに 傾注してきた。環境が叫ばれて行くという時代の読みを行って、付加価値を付けた高度処理施設がここまでもかという状態で採用されてきた。
 浸出水のコストアップは、付随して生ゴミの溶融処理やガス化溶融炉の採用を引き出し、焼却灰の溶融化技術を立ち直らせたかに見えている。ここ1, 2年の間は、そのようなやり方がズルズルと続く可能性がなきにしもあらずである。しかしながら早い時期に、そのような技術は消えて行くであろうことはグ ローバル化の必然性として明らかにしてきた。
 浸出水と下水道の接続は大幅なコストダウンの世界を切り開く可能性がある。少なくとも浸出水処理コストが13以下になることは間違いない。

近代化技術の幾つかは革新されていな い 
 実は、近代技術の幾つかは、コストを考えたと き、ほとんど革 新されていない、評価出来ないものである。勿論これは結果論であって、技術者本人は決してそのようなことを考えて開発してきたのではなかろう。一方で携帯 電話に代表される情報技術は飛躍的時代を迎えている。発展の速さに社会的に対応出来ず、問題化する可能性が出てきた。
 社会資本の分野では、技術革新がなされたかどうか疑わしいものも少なくない。これはひとえに全体観の貧弱さに起因すると考えられる。大きいことは いいことだというような考え、固定観念は、物事を考えようとしない技術開発集団の発想である。現在、このようにして開発されてきた技術がナンセンス、退行 的と非難されるべき立場に立たされている。
 ケインズ主義は多くの人々を豊かな社会に導いてきたが、公共 投資を一つの重要課題としてきた。そこに灰汁が溜まり、官僚社会主義が蔓延した。技 術改革においても、客観的視点で見るならばケインズ主義の元で灰汁が溜まってきたのである。その技術的、社会的遅延とグローバル化の強制が我が国を追い込 んである。一般会計約80兆円のうち40兆 円という額を国債に依存しなければならないのは、このようなひずみによるものであることは、誰も否定しないであ ろう。しかし、誰も一般会計を半減しようとはしないし、法人税や所得税を大幅アップしようとも考えない。どうにもならないことが分かりながら我が国は手を 打とうとはしない。
 国家支出を半分にしようにも、社会資本の高コストシステムはそれを拒絶している。多くの社会資本技術がバブル的思考によって開発され、そのもとで政治が 行われているのである。なお今でも我が国に暗雲として立ちこめている。

おわりに

 ガス化溶融炉のごとく現れて2年、 昨年には既に消えてしまったというべきものもあるが、 今なお新技術、革新技術の名の下 に、社会を苦しめ、結局は企業自体を苦しめる社会資本の開発が産声を上げている。
 結局、我が国が破産するまで目覚めないとするならば余りにも悲しいことだ。 日本人の英知が開くことを期待するのみである。
以上

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