特集第十四号−
             TAKUMI 便り!
         2008年12月29日
元チーム ブレイブ
小原 工氏

       寒い冬真っ只中ですがみなさん元気にトレーニングされていますか?こちら米子は
       何度か雪が降り大山はきれいな雪化粧。今はだいぶ解けてしまいましたが見てい
       るだけで心が安らぎ気持ちが癒されます!天気の良い日にバイクに乗れば空気が
       おいしくα波を感じながら景色を楽しむことができます。ココ最近は昔練習していた
       大山周辺の秘密の?コースを久々にバイクではしりに行き、トライアスロンを始めた
       頃のことを思い出しています。あの頃は私のトライアスロンの師匠たちに連れられ
       て何も考えずにただひたすらペダルを回していたけど、米子は本当に自然環境に
       恵まれた所だと改めて感じています。子供を育てるにもスポーツの練習をするにも
       ここの生活環境は抜群です。この自然をうまく有効利用すれば強い選手が必ず育
       つはずです。自分はここで強くなれたのだから!

       さて、平成20年もあっという間に終わろうとしていますね。みなさんはどんな年だっ
       たでしょうか?私の方は今年もいろいろな経験をした年になりました。恒例だった
       宮古島合宿、篠山マラソンで失速したこと、チームの突然の廃部、それを乗り越え
       北京オリンピックまでチーム全員でがんばったこと、米子へ活動拠点を移したくさん
       のイベントに参加したことなどなどいろいろな変化を体験した年となりました。今ま
       でどんなときでもどんなことが起ころうとも前向きに物事を捉えられるようになった
       のも、トライアスロンという競技を続けてきてたくさんのことを学んできたからです。
       いつも私の周りには明るく前向きな人達が多かったのも大きかったでしょう。これ
       からもその気持ちを忘れることなく挑戦していきます。

       ●ライフセービングベーシック講習会体験
        「今しかできないことを一生懸命やる」これがこの11月の私の課題でした。その
       ひとつの挑戦としてまずはベーシックの資格を取るため5日間の講習と筆記、実技
       試験を受けました。レースでいつも泳ぐ皆生の海に恩返しをしたいという気持ちと、
       水辺の安全を守ることに役にたちたいと思っていたからです。あるトライアスリート
       が「人の役に立つため、人を守るために」と立ち上げた皆生ライフセービングク
       ラブの存在も大きかったですね。私は生まれ変わったら「海猿」になります。映画の
       影響が大きいかも知れないですが、まさに海を守る男の仕事ですよね。現実はあ
       んなにかっこいいものではないと本当の海猿の方に聞いていますが、それでも生
       まれ変わったら試験を受けて海上保安庁に入ることに決めています。これまじです!

       話はとびましたが、実際講習会を受けてみていろいろな知識と技術を身につけるこ
       とができました。午前中は教本に沿ってライフセービング概論や心掛け、海の知識、
       サーフパトロール、レスキューなどの知識を学び、午後から11月の海に実際に入り
       (少し寒かったですが・・・)、技術を学ぶというもの。知っているつもりが、分かって
       ないこと、できるつもりが実際できないことが多く、やはり日々の勉強とトレーニン
       グが必要なのはなんでも同じでした。特にサーフボードを使ってのレスキューは一
       人で操作するにはなんともなくても、溺者を乗せてパドリングしながら操作するの
       はなかなか思うようにいかず、普段からのトレーニングが必要と強く思いました。
       オーストラリアなどのライフセーバーが走っても泳いでもボードに乗っても速い訳が
       良く分かりましたね。私も本物のライフセーバーを目指したいと思いました。でも、ラ
       イフセービングで一番大事なことは人命救助をすることではなく事故を未然に防止
       することなのです。ライフセーバーになることはトライアスロンにも役立ち、トライア
       スロンはライフセービングにも役立つのではないかと思います。今回受講したタイ
       人の中にトライアスリートは3人いました。皆さんも自分をひとつ高めるため挑戦して
       みてはいかがでしょう。

       ●ハワイトライアスロンin湯梨浜(ゆりはま)大会
       鳥取県初のオリンピックディスタンスの大会が来年5月24日に開催されることが決
       定。ここは旧羽合(はわい)町と二つの町が合併した町で、その名のとおり温泉と
       梨と浜(海岸)があるのが特色です。これまで毎年、ショートトライアスロンinハワイ
       という記録会を鳥取県協会がやっていたのですが、これから湯梨浜町の一大イベ
       ントとして行われることになりました。この大会は県中部の自然豊かな東郷池(湖
       のような)を舞台にそのまわりを使ってのコース設定がされています。先日コース
       試走をかねてのバイク+ランを地元トライアスリートの石川さん(家がコース上にあ
       る)に案内してもらい走ってきました。バイクはスタートしてすぐ小さな峠(1.5キロほ
       ど)を上り、それを下るとあとはほとんどフラットな湖畔をはしるスピードコースで1周
       13.5キロを3周回するもの。ランはその周回を約1周しコース上にある燕趙園(えん
       ちょうえん)という中国庭園の前広場がゴール。走った感想としては湖畔を走るの
       でとにかく気持ちがいいのと峠の頂上の景色が最高!でした。スイム会場とトラン
       ジットエリアはあやめ池スポーツセンターというトレーニング施設と体育館、カヌー
       の練習場になっている場所で公園も隣接しています。コース上にはいくつかの公
       園と羽合(はわい)温泉などの宿泊施設もたくさんあり家族で来ても楽しめると思い
       ます。来シーズン前半のレースにみなさんいかがでしょうか。中国ブロックの国体
       予選会と学生選手権の西日本予選もかねて行われるので盛り上がること、楽しめ
       ること間違い梨(ナシ)です。スイムコース、大会の詳細の情報はまた分かり次第
       お伝えしていきますね。

       ★今年からではありますがTAKUMI便りを読んでいただきありがとうございました。
       来年からは選手活動とともに新たな指導活動の場も広げていきます。来年もよろ
       しくお願いいたします。みなさん良いお年をお迎えください!!!   


   
     特集第十四号−               2008年11月22日 

     みなさんこんにちは。今週から大変冷え込んできましたがお元気でお過ごし
     でしょうか。AACのみなさんのご活躍はホームページで見ております。
     さて、私の方は10月より地元鳥取県米子市へ活動拠点を移し、来シーズン
     からの選手活動・指導活動に向けて計画、準備を進めております。


     こちらは、昨日から雪が降り始め、今日の大山はすっかり真っ白な雪化粧を
     して冬本番といったところですね。もうスキーができそうですよ。この冬は
     寒くなるのかなー。

     10月は米子を中心にたくさんのスポーツ行事が行われ参加してきました。
     5日は大助・花子の健康ウォーク大会でMTBに乗り誘導係、12日は障害
     者・児によるチャレンジアクアスロン皆生大会の選手のパートナー役(この
     詳細は鉄人皆生通信に掲載、19日は第1回の大山MTB3時間耐久レース
     にチーム(車選手、井藤選手、富田選手)4人で参加。26日は日本選手権
     で田山、杉本選手のサポートなど毎週日曜は何かあるといった感じでした。


     そして、11月もそれが続いています。1、2日と15、16日と22日の
     5日間はライフセービングの講習会に参加。水辺の安全を確保するための心
     掛け、海の知識、サーフレスキュー、パトロール、蘇生法、応急手当などの
     勉強をし、レスキューの実技なども実際海に入ってサーフボードに乗ってや
     っています。明後日の22日には検定試験があるのですが、この分だと雪の
     中、寒中水泳のときのような中で海に入って試験を受けなければなりません。
     まぁ毎年、寒中水泳やっているから大丈夫かと安易に考えていますが、一般
     の人達は大変でしょう!でもこれに受かれば晴れてベーシックライフセーバ
     ーとなるわけです。22日はがんばります!!


     そんな寒い米子ですが、10月は快晴の日が多く18日には家族で大山登山
     に行ってきました。本当は毎年8月、父親の命日の前に登っていたのですが、
     今年はオリンピックがあったので登れずにいました。でもこの空を毎日、目
     の前にして「明日登ろう!」と急に決め66歳の母と3歳の娘を背負って行
     ってきたのがこの写真です。12年半ぶりに米子に帰ったわけですが、やは
     り田舎は自然が多く最高です。海あり山ありこの自然を有効に利用して、子
     供たちをのびのびと育て、自分の経験を生かして精神力の強い選
を育てたい
      と思います。皆さんも是非、米子へおいで下さい。それではまた!


   
     特集第十四号−               2008年9月11日 

     AACのみなさんお元気にお過ごしのことと存じ上げます。このたび北京オ
     リンピック出場に際しましてはたくさんのご支援とご声援を承り誠にありが
     とうございました。たくさんの方々のお陰で3度目のオリンピックの舞台を
     経験でき、チーム員一同本当に感謝しております。大変遅くなってしまいま
     したがご報告させていただきます。


        オリンピックで訪れた北京の空は昨年まで訪れた時と違って青空で空気も透
     き通っていた。車の使用制限、工場の営業停止だけでこんなに変わるものな
     のか?やはり本当にミサイルを空に撃ち込んでいたようで、トライアスロン
     会場も昨年とは景色が違って見えた。


        レースの方はみなさんテレビで観戦していただいたとおり女子は過去最高の
     成績を収め、現場で応援していた私も手に汗握り興奮して応援していた。素
     晴らしかったと思う!
翌日の男子もこの勢いにのってと期待していたが、山
     本、田山両選手とも思ったようなレース運びが出来ず残念な結果となった。


     田山とはこの5年同じチームで先輩選手としてコーチとして一緒に活動して
     きたが、羨ましいくらいすばらしい身体能力の持ち主であることは間違いな
     い。それを本番で生かすにはどうしたらいいかを考えながら、アテネを終え
     てからやってきた。トライアスロンはどんなに3種目の力があっても「強い
     精神力
」がなければ世界では通用しない。そこで戦うためにはどんな状況
     でも安定して自分の力を出し切れることが必要だ。そのことは今回の激しい
     トップ争いを観た方ならご理解いただけるのではないか。ランに移ってから
     のサバイバルレース。シドニーで金メダルを取ったウイットフィールド選手
     の後方からのスパートは誰をも痺れさせたのでは・・・と思う。レースは自
     分の思い通りにならないことばかり。それを伝え切れなかった私はコーチと
     して力不足だったと痛感し反省している。もちろん一番悔しいのは本番を戦
     った田山本人で、これまでを振り返り、考え、悩んでいるのではないかと思
     う。これを乗り越え近い将来、「このオリンピックの悔しい経験があった
     から強くなれた
」と思うことができれば苦い経験は良い経験に変わる。そ
     うなるようそれぞれが努力していかなければいけないと思う。

     最後になりますが、元チームが廃部になった中、なに不十なくオリンピック
     に向けて活動できたことを報告するとともに皆さんに本当に感謝申し上げま
     す。ありがとうございました。これからまたチーム員それぞれ新たな目標に
     向けて精進してまいりますので、これからも応援よろしくお願いいたします。



   
     特集第十四号−                        2008年8月11日 

     AACのみなさんこんにちは。暑い日が続いておりますがいかがお過ごしで
     しょうか?私の方はオリンピックに向けた最終の篠山合宿を終え、北京に行
     く準備に取りかかっているところです。田山はここまで順調にトレーニング
     をこなしており、あとは疲労を抜きながら心身を一致させていくことが大事
     になると思います。最高の状態でレースに望めるようサポートしていきます。


     713日のジャパンカップ舞洲大会ではたくさんの応援をいただきありがと
     うございました。
1年ぶりのレースは楽しいというより、スタートした瞬間
     からずっと苦しかったですが、
41歳のおやじへの声援が多く、最後まであき
     らめず、何とかゴールにたどり着くことができました。
13人中5位はまずま
     ずだったと思います。

     ●28回全日本トライアスロン皆生大会
     今年の大会には過去最高の814名の選手が参加し、久しぶりの灼熱の中、熱
     いレースが繰り広げられました。私は今回スタッフとしてできる限りのお手
     伝いをしようと考え、バイクラック設営、コース下見案内(初参加選手・海
     外選手)、ランのエイドでのボランティアやケーブルテレビの生放送の解説
     などなどをさせてもらい大変良い経験ができました。特にエイドに入っての
     ボランティアは初めてで、熱中してやっていた息子の北斗にはすごく良い経
     験になったのではないかと思います。


     男子は圧倒的な強さで藤原さんが優勝。2位の選手に24分の差は過去最高の
     差ではないかと思います。もう少し他の選手にはがんばってもらいたかった
     ですね。女子も堀陽子選手が他を寄せ付けず優勝。旦那さんの直之選手も
10
     位と健闘。
44歳にして進化している藤原さんには見習う点が多々あります。
     あの暑さの中、なぜあのように強いのか他の選手は考えなければならないで
     しょう。

              
     今回暑さも影響し150人以上の選手が途中リタイア。宮古島から参加された
     下地さんはマラソンのとき私に「宮古島より暑いです!」とつぶやいてい
     ました。それだけ過酷な条件だったということ。制限時間に間に合わなかっ
     た方、勇気あるリタイアをした方、トラブルのあった方いろいろだと思いま
     すが、皆さんのまたの挑戦を待っています。私もできれば来年選手として藤
     原さんにチャレンジします!

      それではAACのみなさんくれぐれもお体に気をつけて。また報告いたします。


   
     特集第十四号−                        2008年7月26日

       AACのみなさん、今年のトライアスロンシーズン、トレーニングにレース、
     さまざまな活動に励まれていると存じます。そして、日頃より元チームテイ
     ケイのメンバーをご支援、ご声援いただき誠にありがとうございます。事務
     局の宗政さんをはじめ、たくさんの方々に激励していただき本当にチーム員
     一同心より感謝申し上げます。


       これまで、私も一度みなさんに活動報告をしなければと思っていながら、な
     かなか実行できずにおりましたが、これから少しずつでも報告させていただ
     けたらと思います。


       我々チームブレイブのメンバーはたくさんの方々のご支援のお陰で、オリン
     ピックまでこれまでと変わらずの活動が出来ております。先日は北海道合宿
     に
12日間、ジャパンカップ大阪舞洲大会5名出場、現在は長野の志賀高原で
     
9日間の高地合宿に入っています。北京オリンピックに向けて田山寛豪は最
     高のトレーニングを積めることが出来ていることをご報告しておきます。


       北海道士別合宿
     
630日から711日までの日程で北海道の士別に行ってきました。ここは旭
     川から北へ
50キロほどいったところで、合宿の里といわれるほど受け入れ態
     勢と環境が整う場所で昔から陸上の実業団チームが夏になるとたくさんやっ
     てきます。私たちトライアスロンチームが行くようになったのは、
2000年の
     シドニーオリンピックの年、夏の暑い時期にどこか
3種目の練習できる良い
     場所が無いかと、その当時のスタッフのみなさんが探し当てた場所でした。
     水、空気、食事がおいしく、果てしなくまっすぐ続く道に惚れてしまい、そ
     れから毎年夏になると合宿で訪れています。

     今回もマラソン日本代表の尾形選手、佐藤選手が走っているのを見かけまし
     た。トライアスロンからは田山の他に、山本選手(トヨタ車体)井出選手(
     トーシンパートナーズ・チームケンズ)のオリンピアンが同じ場所でトレー
     ニングに励みました。

     今回の合宿の最大のテーマはランでのレースペース(
1キロ3分)を楽に走れ
     る感覚を磨くことで、レースペースよりも速いペースで反復することにより
     感覚を研ぎ澄ましていきました。今年の士別はいつにも増して暑かったこと
     が影響し、田山は合宿前半くじけそうになりながらも、必死で監督の立てた
     メニューを消化していき、後半には設定タイムもクリアーできました。私は
     というと、スイム、バイクはトレーニングパートナーとしてほぼ田山と同じ
     メニューをこなし、ランは遅めのペース走のときだけ田山をひっぱり、給水、
     声かけなどできることを精一杯やってきました。

     この
12日間は田山にとってきつかったものの、マイナスイオンを浴びながら
     最高の合宿になったと思います。これを次の段階の合宿に繋げていきます。



特集第十三号/トライアスロンデビューin丹波市ファインキッズトライアスロン大会

                      未知の世界へ挑戦/芦屋浜アスリートクラブの勇者たち!
            
          2008年6月8日
                                            事務局編集

          AACチームのトライアスロン参加行事の中で、今年のメインイベント
         だったこの大会、予想以上の合計9名ものトライアスロンデビュー者を
         含む合計16名もの参加者があり、大変賑やかな大会になった。
         未知の世界へ挑戦した方々の感動の記録を掲載します!
<あいうえお順>
         (大会開催日:2008年5月25日)    

 
   

    感動と共に終えたトライアスロン大会---トライアスリートの仲間入り!
           
         正圓 光男


     正直この年齢でまさかトライアスリートの仲間入りをするとは夢にも思っていませんでした。
     2006年6月に芦屋浜ACにお世話になりつい最近までは、自分にとってトライアスロンは全
     く無縁の世界。毎週の練習会に参加し,メンバーの多くの方々がトライアスロン大会で活躍
     された話をお聞きしても他人事のように思っていました。小生は練習会には車で通ってい
     ましたが、中川さんが毎週の練習会に宝塚から自転車で参加されトライアスロンを楽しみ、
     目標を高く持っておられる姿を拝見し、自分自身徐々に練習会に取り組む姿勢に変化が
     出てきました。<もっと早く走りたい、もっと強くなりたい>

     気持ちが変わらぬうちに自転車を購入、しかし自転車での練習会参加は中々実現しませ
     ん。しかしこの事は思わぬ方向へ向うことになってしまいました。いつの間にか宗政会長
     からトライアスロン参戦のレールを曳かれ、2007年のファインキッズトライアスロン参戦者
     予定リストに名前が掲載されてしまいました。しかしながら全く泳げない小生にとって、余
     りにも時間が無く、参加は無謀と認識、気持ちも高揚せず結局参戦はパスをしました。
     しかし少なからず心の中に『トライアスロンに挑戦する』気持ちが、芽生えて来ていたので
     しょうか?

     2008年新年号の社内報でマラソンで”3時間30分を切る”・”トライアスロンに参戦する”事
     を宣言してしまいました。有言実行を目指して、まずは東京、長野のマラソン大会に目標を
     定め、トライアスロンのデビュー戦は”第10回丹波市ファインキッズトライアスロン大会”
     に決定しました。

     残念ながらマラソンの30分切りは実現せず、”トライアスロンに参戦”に照準を合わせる事
     にーーー 長野マラソン後、5月25日開催の”丹波市ファインキッズトライアスロン大会”ま
     で残された時間は約30日バイク・ランは何とかなると考え、この期間会社の帰りに集中的
     にほぼ毎日水泳の練習にジムに通いましたが、一向に上達せず、気持ちと同じく身体は
     浮かず沈むばかりーーー 男である限り逃げるわけには行きません。パーソナルレッスン
     も集中して受け、5月中旬にはブイを足に挟めば何とか25mのターンで休みながら1000m
     ぐらいまで泳げる様になっていました。しかしブイをはずせば直ぐに轟沈25mを泳ぐのが精
     一杯ーーー 本当にこの様な状況で完泳出来るのか自問自答、もう開き直りしかありま
     せん。

     5月24日いざ青垣へーーー 早々に受付を済まし概要を改めてみれば、小生のスタートか
     ら20分後が次の組のスタート時間ますます制限時間内で泳げるかどうか、不安が増幅す
     る中で一夜を過ごし当日を迎える。

     ーーーいよいよトライアスロン大会は11時のスイムのスタートから競技が始まったーーー
     ”不安は現実に”  必死に泳いでもペースは上がらず、呼吸は乱れ、はや絶望状態25m
     のターンで休み、途中で立つこと何回も、途中でブイを要望、ルール違反でだめのコール、
     何かに頼る気持ちを捨て、泳ぎを再開-----気が付けば予想通り周りには泳いでる方は
     誰もいません。小生残り50mで次の組がスタートレーンに移動するのが視野に入る。まだ
     時間があるーーー最後の力を振り絞り泳ぎきる。よしやったぞ!こみ上げる気持ちを抑
     えながら次のバイクに移動、心の中ではもう競技は終わったも同然。バイクは課題を残し
     ながらも無事クリアー、いよいよ残り5kmのランのスタートを切る。この何ヶ月間の思いで
     が交錯し、感動が高まる中最後の力を振り絞る。

         ・・・・・・・・・芦屋浜ACの皆さんに迎えて頂き”ゴール”・・・・・・・・・・・・
     やりました宗政さん、中川さん,芦屋浜ACの皆さん有難うございました。最後に秘めたる力
     を呼び起し不可能を可能にし、苦しさを楽しさに変えてくれたこの大会に感謝し”トライアス
     ロンに参戦”を決めてからここまでこれた自分自身を褒めたい。


   

          楽しかった丹波市ファインキッズトライアスロン大会
                               寺川 博氏

      “トライアスロン”この響きに憧れは有りましたが自分とは遥か遠い所に有る競技と思っていました。
     元々水泳が苦手で25m以上連続して泳げないのでトライアスロンの参加は諦めていましたが、
     AACの皆さんの空気に触れるうちに自分も参加したい、挑戦してみたいと言う気持ちが高まり今
     回参加を決意しました。自転車暦もまだ短く6ヶ月(走行距離約650キロ)です。

     申込をしてからも、元々泳ぐのは苦手で高校の体育の授業以来なものですから、なかなか水泳
     の練習にも身がはいりませんでした。さすがに大会1ヶ月前くらいになると焦りだし、スポーツジムの
     スイミング教室(クロール初級)に参加しましたが、結局大会までに50mを連続して泳げるように
     なるのが精一杯でした。大会ではプール使用なので途中で休憩しながらでも何とか完泳できるだ
     ろうと半ば諦めの境地でした。そんな状態での大会前日、AACの皆さんと同宿させていただき大
     会の様子やトランジッションエリアでの細々とした事等をお聞きし少し落ち着いた心地で大会の日
     を迎える事になりました。

     大会当日は小学生からスタートしましたが、どんな感じかとプールを覗きに行くと凄いスピードで泳
     いでるではないですか、それにみんなクイックターンをしていてビックリしてしまうのと同時にえらいとこ
     ろに来てしまったと又後悔の気持ちでいっぱいになってしまいました。バイクもランも凄いスピードで
     駆け抜けて行き又々ビックリです。

     いよいよ私のスタートの時間となりましたが、いきなり大失敗!1レーンに3人入っていて3番目と
     言われましたが、それはレーンの中で泳ぐ場所が3番目の事だと思っていて、時間差でスタートす
     るとは思わず3人一緒に泳ぎだすものと勝手に思い込み緊張の中“プァ〜ン”の音と共にスタート
     してしまいました。10m程泳いだところで肩をたたかれ何かと思い立ち上がるとやり直しと言われ、
     恥ずかしいやら情けないやらで落ち込んでしまいましたが既にレースは始まっているので、又スター
     ト地点に戻り再スタート、この時点で1番目にスタートした人はターンをしてもうそこまで帰ってきて
     いました。結局ターン毎に足をつき呼吸を整え他の選手が続々とあがって行くのを横目で見なが
     ら何とか泳ぎきった時には次の組の人達が既にスタートの準備をしていました。

     ここからは気を取り直しバイクです。焦らずタオルで足を拭いたので靴はすぐ履けましたが手が濡れ
     ていたのでなかなか手袋ができません、段々焦ってきて結局手袋なしでバイクスタートでした。バ
     イクは結構好調で数人を追い越しましたが、トップの選手達のスピードには全然ついていけません
     でした。

     あっと言う間にバイクが終わり最後のランです、ここまできたら何とかゴール出来るだろうと少し余裕
     ができました。ところが、靴もゆっくりと履きスタートしましたが足が変な感じです、力がうまく入りませ
     ん。足が慣れてくるまでは、なるべく歩幅を狭くするような感じでゆっくり走り回復を待ちましたが折
     り返しまではその変な感じが残っていました。会場が見えてくる頃にやっと普通に走れるようになり
     無事ゴールすることができました。

     3種目それぞれ苦しい事がありますが、それを全て達成できた感動は素晴らしいもので、トライア
     スロンの魅力を少し感じることができました。しかしながら、初めての大会で、完走“が目標でした
     が自分の非力さを如実に思い知らされたレースでもありました。 これからも、真のトライアスリート
     目指して練習に励んでいきますので宜しくお願いします。最後になりましたが色々お世話になり
     ましたAACの皆様、ボランティアスタッフの皆様に感謝の気持ちでいっぱいです、どうもありがとうご
     ざいました。


   

            青垣にて初トライアスロンデビューしました!
                               前田 裕一氏

      初めて投稿させていただきます。今回、青垣にて初トライアスロンデビューしました前田です。
      初なので、前日のクリニックに参加。生憎の雨と多数のkidsのなかに大人は二人で最初は
      ちょっと気恥ずかしい雰囲気も。講師はなんと、田山!杉本!の両選手! あっという間の
      2時間、ありがとうございました。

      当日は心配された雨もあがり、絶好のコンディション。宗政会長と中川副会長の姿も見え
      緊張もほぐれて、スタート!

      青垣町を思いっきり駆け抜けて、目一杯楽しんできました。AACの皆さんに見守っていただ
      きながら完走、ゴール。

      参加を勧めていただいた、宗政会長に感謝とともに、次の大会への意欲を静かに燃やして
      いるところです。



   

           アッ・・・という間に過ぎ去ったデビュー戦でした
                               矢部 雄一氏

     このたび、青垣ファインキッズトライアスロンに初参戦してきました。トライアスロンを志して約半年、
     目標にしてきた入門レースです。初心者でも参加しやすい、アットホームで小さな大会ということ
     を聞いていましたが、当日はオリンピック代表の田山選手がボランティアとして、また八尾監督が
     選手として出場するなど非常に豪華な顔ぶれ。何だか少し華やかなデビュー戦となりました。

     初めてづくしで色んなことに手間取りはしましたが、周囲の方々に支えられ、イメトレも万全に臨
     んだ結果は無事完走。とにかく楽しかったなぁというのが正直な感想です。持てる力を出し切った、
     非常に充実した楽しい一日でした。今年に入って、ハーフ・フル・トレイルランと色んなことに初挑
     戦してきましたが何か悔しい気持ちの残るレースが多かった中、初めての完全燃焼で悔いなしで
     す。

     一方、思い返してみればスイムでの終盤失速、バイクでの明らかな力不足など自分の実力が本
     当にそのまま現れたレースだったなぁとも感じます。ランの走り出しで腹筋が攣りかけたのも初めて
     の体験でした。また3種目ということでやはりトランジションには一番手間取りました。スイムでずぶ
     濡れの体にバイクシャツを着せ込むのも一苦労で、やっとの思いで付けたゼッケンは逆さまでした。
     さらにバイクからランへの移行では体がスムーズに対応してくれず、脚が全然前に進みませんでし
     た。ラン後半で体がようやく調子にのってきたかなと思ったらゴールでした。

     あっという間に過ぎ去ったデビュー戦でしたが、自分にもやれたことが素直に嬉しく、とても思い出に
     残る一日になりました。これを機に、もっと色んなレースにも出てみたいと思っています。両親にもら
     った健康な体に感謝しつつ、細く長く続けていければと思います。

     最後になりましたが、大会中お世話になった廣田さん・歳内さん、いつもサポートしてくださるAAC
     の皆さん、応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。




特集第十二号(連載その7最終回

          マ ラ ソ ン あ れ こ れ !

         

2008年8月24日
芦屋浜アスリートクラブ
会員:鎌苅 滝生

      12.マラソン世界歴代記録
     以下、2008年3月20日現在のマラソンの歴代記録を記載しておきます。

    男子記録

順位

タイム

氏 名

国 名

年月日

大 会

 1

2.04.26

ハイレ・ゲブレセラシェ

エチオピア

2007.09.30

ベルリン

 2

2.04.55

ポール・テルガト

ケニア

2003.09.28

ベルリン

 3

2.04.56

サミー・コリル

ケニア

2003.09.28

ベルリン

 4

2.05.38

ハリード・ハシーヌ

アメリカ

2002.02.14

ロンドン

 5

2.05.50

エバンス・ルト

ケニア

2003.10.12

シカゴ

 6

2.06.05

ロナウド・ダコスタ

ブラジル

1998.09.20

ベルリン

 7

2.06.14

フェリックス・リモ

ケニア

2004.04.04

ロッテルダム

 8

2.06.15

ティタス・ムンジ

ケニア

2003.09.28

ベルリン

 9

2.06.16

モーゼス・タヌイ

ケニア

1999.10.24

シカゴ

 9

2.06.16

ダニエル・ジェンガ

ケニア

2002.10.13

シカゴ

 9

2.06.16

高岡寿成

日本

2002.10.13

シカゴ


      女子記録

タイム

氏 名

国 名

年月日

大 会

 1

2.15.25

ポーラ・ラドクリフ

イギリス

2003.04.13

ロンドン

 2

2.18.47

キャサリン・ヌデレバ

ケニア

2001.10.07

シカゴ

 3

2.19.12

野口みずき

日本

2005.09.25

ベルリン

 4

2.19.36

ディーナ・カスター

アメリカ

2006.04.23

ロンドン

 5

2.19.39

孫英傑

中国

2003.10.19

北京

 6

2.19.41

渋井陽子

日本

2004.09.26

ベルリン

 7

2.19.46

高橋尚子

日本

2001.09.30

ベルリン

 8

2.19.51

周春秀

中国

2006.03.12

ソウル

 9

2.20.42

ベルハネ・アデレ

エチオピア

2006.10.22

シカゴ

10

2.20.43

テグラ・ロルーペ

ケニア

1999.09.26

ベルリン

10

2.20.43

マーガレット・オカヨ

ケニア

2002.04.15

ボストン


    最後に、マラソンの世界最長記録、すなわちスタートしてからゴールするまで最
    も長く掛かった記録にまつわるエピソードを紹介しておきます。マラソンで最も
    遅かった公式記録は、日本の金栗四三(かなぐりしそう)が記録した「54年
8
      
ヶ月6日5時間32分20秒3」である。

    金栗は明治44年(1911年)に翌年開催されるストックホルムオリンピック
    大会に向けたマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録を27分も更新する大
    記録を出し、日本人初のオリンピック選手に選ばれた。翌1912年のオリンピ
    ックのマラソン本番は、北欧という地にもかかわらず異常気象で気温40℃とい
    う猛暑に襲われ、出場選手68人中34人が棄権するというサバイバルレースと
    なった。
   
    金栗もまた暑さのため競技途中で倒れ、地元の農家で介抱されたのであるが、彼
    の棄権の意思が競技委員に伝わらず、記録上「競技中に失踪し行方不明」として
    扱われた。時は流れ、1967年にストックホルムでオリンピック開催55周年
    記念式典を開催することになり、当時の記録を調べていたスウェーデンオリンピ
    ック委員会は金栗が「行方不明」扱いで、完走も棄権していない状態であること
    を発見し、金栗に改めて完走するよう要請した。粋なはからいに応じた金栗はス
    トックホルムに赴き、式典の中で当時のコースを走って(実際には競技場内の1
    00メートルで、残りの距離を走破した扱い)、ゴールした。54年8ヶ月5時
    間32秒3でゴールを果たした時、「日本の金栗がただいまゴール。タイム55
    年。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました。」とアナウンス
    された。これに対して、金栗は「長い道のりでした。この間に孫5人ができまし
    た。」とユーモアあふれるスピーチで答えた。この時金森は75歳。半世紀以上
    にわたるマラソンのゴールであった。

    金栗は日本の「マラソンの父」と称され、日本のマラソン界発展の礎を築いた人
    物で、正月の風物詩にもなっている箱根駅伝の開催にも尽力したことでも有名で
    ある。箱根駅伝では2004年以降、最優秀選手に対して「金栗四三杯」が贈呈
    されている。金栗のこの世界最長記録は、偉大な彼にふさわしい、今後破られる
    ことのない誇らしい記録ではなかろうか。



     13.あとがき

    マラソンに関する資料を整理し始めたのが、腰痛で福知山を途中棄権し、その後
    練習を控えていた昨年11月末で、ここに至るまで4ヶ月も掛かってしまった。
    年末年始の休暇を利用して仕上げるつもりでいたが、書き始めるとあれもこれも
    と、当初想定の倍くらいの量となり、結果的には原稿用紙で80枚強にもなって
    しまいました。ただ冗長なだけで、大した内容のものではなく、まさに汗顔の至
    りであります。


    しかし、マラソンを愛する皆様に楽しんで頂ければ、また少しでも参考になれば、
    幸甚に思っております。誤字・脱字はもちろんのこと、内容そのものに関する間
    違いや、資料の読み違いも多々あろうかと思います。どうぞご指摘の程、宜しく
    お願い致します。
2008年3月20日 鎌苅滝生

     (参考資料)
      ヘロドトス著 松平千秋訳 「歴史」(岩波文庫)
      馬場恵二著 「ペルシア戦争 自由のための戦い」(教育社)
      JOC監修 「近代オリンピック100年の歩み」(ベースボールマガジン社)
      ジョン・J・マカルーン著 柴田元彦・菅原克也訳 「オリンピックと近代」(平凡社)
      後藤正治著 「マラソンランナー」(文藝春秋)
      瀬古利彦著 「マラソンの真髄」(ベースボールマガジン社)
      金哲彦著 「マラソン・駅伝の素朴な大疑問」(
PHP文庫)
      IOC、JOC,ボストンマラソンのホームページ

     (事務局より)

         約半年にわたる大作の投稿、マラソン大好きの日本人にとってAAC会員にとって大変参考になりました。

         提供誠にありがとうございました。
         正に今年は北京オリンピックの年、8/17は女子マラソン、8/24は男子マラソンが行われました。
         シドニーオリンピックでは高橋尚子、アテネオリンピックでは野口みずきと二連覇の女子マラソンでしたが、
         残念ながら今回は惨敗に終わりましたネ。参考までに記録を掲載しておきます!


         大会正式名称第29回オリンピック競技大会 北京大会(Beijing 2008 Olympic Games)

  陸上 女子マラソン 8月17日
順位 選 手   国・地域 記録等 備考
1 コンスタンツァ・トメスク ルーマニア 02時間26分44秒00  
2 キャサリン・ヌデレバ ケニア 02時間27分06秒00  
3 周 春秀 中国 02時間27分07秒00  
13 中村友梨香 日 本 02時間30分19秒00  
  陸上 男子マラソン 8月24日
順位 選 手   国・地域 記録等 備考
1 サムエル・ワンジル  ケニア 02時間06分32秒00 五輪新
2 ジャウアド・ガリブ モロッコ 02時間07分16秒00  
3 ツェガエ・ケベデ エチオピア 02時間10分00秒00  
  13 尾方剛 日 本 02時間13分26秒00  
  76 佐藤敦之 日 本 02時間41分08秒00  

    
     特集第十二号(連載その2008年8月1日
    鎌苅 滝生


     9.オリンピックのマラソン名言あれこれ


       4年に1度のオリンピックのマラソンで極限の精神状態で闘った選手が、ゴール後に語っ
    た言
葉が名言として、われわれの記憶に残っているものがいくつかあるが、
    ここでは
それを紹介する。


    『こけちゃいました!』(バルセロナ大会・谷口浩美)
    最終日の男子マラソンで戦前から有力な優勝候補のひとりとして注目されていた
     谷口浩美
(*30)が23Km付近の給水所で水を取ろうとした時、後続選手に足
    を踏まれ左足のシューズが脱げて転倒してしまうハプニングが発生。靴を履きな
    おして走り出したものの、このロスが影響して優勝戦線から脱落。しかし、谷口
    は諦めるここなく、次々と追い抜き8位でゴール。競技後のインタビューで彼の
    人柄を表すこの一言は、全国のテレビ観戦者のほおをゆるめたさわやかな名言と
    して記憶されている。


      (*30)谷口浩美
        高校時代は全国高校駅伝で活躍、日体大時代は箱根駅伝で山下り(6区)の
        スペシャリストとして3年連続区間賞を獲得。旭化成入社後、初マラソンの
        1985年別府での優勝、1987年の東京国際で優勝、1991年世界陸
        上で優勝を始めとして輝かしい成績を残した。オリンピックは1992年バ
        ルセロナで
8位、1996年アトランタで19位。現役引退後、旭化成のコ
        ーチを経て、現在は沖電気監督。谷口のマラソン戦績は、17戦7勝。


    『生まれて初めて、自分で自分をほめてあげたいです
                          (アトランタ大会・有森裕子)

    1992年のバルセロナ大会で銀メダルを獲得したが、その後不振が続き、アト
    ランタ大会への出場が危ぶまれたが、見事出場。ファツマ・ロバ、エゴロワに次
    いで、銅メダルを獲得した際の言葉がこれである。全国に大きな感動を呼んだこ
    の言葉は、大会後、さまざまな場面で引用されることがあり、影響力の大きさが
    わかる。


    『すごく楽しい42キロでした!』(シドニー大会・高橋尚子)
    34Km過ぎでサングラスを投げ捨てて一気にスパートし、リディア・シモンを突
    き放して前評判通りの強さをいかんなく発揮、オリンピック新記録で金メダルを
    獲得した。その直後のインタビューに答えて、発した言葉。全国のテレビの前の
    ファンにさわやかな笑顔を届け、
Qちゃん人気が一段と増したのである。

      10.ボストンマラソン

    この章ではボストンマラソンについて整理しておくことにする。1986年にア
    テネで開催された第1回近代オリンピックで、世界で最初にマラソン競争が行わ
    れたことは、先の通りであるが、これをスタンド観戦していたボストン・アスレ
    チック協会のウィルソン会長が、深く感銘を受け、翌1987年、アメリカの独
    立記念日「愛国の日」の行事としてマサチューセッツ州ボストンでマラソンを開
    始した。これがボストンマラソンの始まりで、以降毎年4月に開催されており、
    オリンピックを除くと現在開催されているマラソン大会では最も古い歴史を有し
    ている。


    幾多の名勝負やエピソードを残し、ランナーなら誰でもが憧れる伝統の市民マラ
    ソンとしてあまりにも有名であり、歴史と伝統を体感し、ランニング・ライフに
    感動を加えてみたいと思う人がアメリカ国内のみならず世界中に存在するといわ
    れている。マラソンコースは片道で、古代ギリシアのマラソンのルーツに則って
    スタートとゴールを異なる地点に設定している。この大会のエイドステーション
    や救護体制、ボランティアなどは、現在世界中で開催されているマラソンレース
    のお手本になっているといわれている。有資格ランナーとオープンランナーの2
    種類のエントリー方法があるが、有資格タイムは18〜34歳の男3時間10分、
    女3時間40分、以降男女5歳刻みで5〜15分ごとプラスのタイム設定になっ
    ている。(詳しくはボストンマラソンの公式ホームページをみればわかりますが、
    
AACの方はほとんどクリアするのではないでしょうか)オープンランナーは有資
    格ランナーの後方からのスタートとなるが、6時間の制限がある。


    今年も4月21日に第112回目の大会が開催されるが、過去日本人7人が優勝
    しており、瀬古利彦は2回の優勝者として記録されている。女子の日本選手の優
    勝はまだいない。ただし、日本出身でアメリカ国籍を取得したゴーマン美智子が
    2回優勝している。なお、日本の青梅マラソンと勝田マラソンが姉妹マラソンと
    のこと。


    11.日本のマラソン

    ところで日本のマラソンの始まりはどうなのでしょうか。日本のマラソンの発祥
    は、実はアテネの第1回オリンピックに先立つ41年前の1855年(安政2年)
    に行われた「安政遠足(あんせいとおあし)」であるいわれている。第15代
    安中藩主の板倉勝明(かつあき)が家臣の心身鍛錬を目的として、50歳以下の
    藩士96名に安中城から中仙道の碓氷峠にある熊野権現までの片道七里余(約2
    9
Km)を「遠足(とおあし)」と称して徒競走させた。その際の着順や氏名を
    記録した古文書が昭和30年(1955年)に峠の茶屋から発見され、この日本
    最初のマラソンが確認された。ただし、この「遠足」は1回限りの開催であった
    とのこと。

    安中市で安政遠足保存会が組織され、昭和50年(1975年)に「
安政遠足侍
    マラソン
」という市民マラソンとして復活、毎年5月に開催されるようになり、
    現在に至っている。この大会は、武者姿や飛脚等仮装したランナーが多く参加す
    ることで有名である。

    初めて「マラソン」と銘うったレースが行われたのは、明治42年(1909年
    )で、神戸湊川から新淀川西成大橋までの31.8Kmで実施された。また、日
    本初の女子マラソン大会は、昭和53年(1978年)に東京多湖畔で開催された。



     
     特集第十二号(連載その2008年7月14日
    鎌苅 滝生


    8.オリンピックで活躍した女子マラソン選手


    女子のマラソンがオリンピックの正式種目に採用されたのは1984年の第23
    回ロサンゼルスオリンピック大会
(*22)からである。その名誉ある第1号金
    メダリストは、アメリカのジョーン・ベノイト選手である。彼女は、スキーで
    足を骨折した際のリハビリの一環としてランニングを始め、それをきっかけとし
    てマラソン選手となったもの。ロサンゼルス五輪前年の1983年のボストンマ
    ラソンで、女子として初めて2時間25分を切る2時間22分43秒の当時世界
    最高記録で優勝したが、ボストンのコースは全体として下りの片道コースである
    ことや、男女混合レースで男子ランナーをペースメーカーに使ったのではないか
    といったことにより、この大記録を疑問視する見方が少なからずあった。高温・
    多湿の中で行われたロサンゼルスの女子マラソンは、午前8時6分にサンタモニ
    カをスタートしたが、グレテ・ワイツ、イングリット・クリスチャンセン(とも
    にノルウェー)やロザ・モタ(ポルトガル)といった有力選手が積極的な飛び出
    しを控える中、前半から快走し中間点で後続を500メートル離し、独走態勢を
    築き、
2時間24分52分の好タイムでゴールし、記念すべきオリンピックの女
    子マラソン初代金メダリストとなった。これにより前年のボストンでの記録がフ
    ロックではなかったことを見事に証明したのである。ちなみに2004年のアテ
    ネオリンピックに至るまで、女子マラソンでその時の世界最高記録保持者が優勝
    した例は、ベノイト以降出ていない。


    このマラソンで金メダリストのベノイトに負けず劣らず話題を集めたのは、スイ
    スのガブリエラ・アンデルセンである。ベノイトがゴールした20分後、アン
    デルセンは競技場に戻ってきたが、極度の疲労と脱水症状でふらふらでまるで夢
    遊病者のようであった。役員が救いの手を差し伸べようとするが、彼女は首を振
    ってこれを拒否。大観衆総立ちの声援の中、競技場に入ってから5分44秒後の
    2時間48分42秒、37位でゴール。ゴール後、応急手当により回復した彼女
    は、「観衆の『最後まで頑張れ』の声援は覚えています。歴史的に意義あるマラ
    ソンなので棄権する気はなかった。」と述べ、また、その後「私のことが大きく
    報道されているが、私よりも最後まできちんと走った選手をもっと取り上げるべ
    き」と語り、世界中に大きな感動を与えた。この大会の日本選手の出場は、当時
    日本最高記録保持者の増田明美
(*23)2位の記録保持者の佐々木七恵(*24
     )
であったが、増田は16Km付近で途中棄権、佐々木は2時間37分4秒で1
    9位に終わった。


     *22)第23回ロサンゼルスオリンピック大会
       1932年以来の2度目の開催。1980年のモスクワ大会にアメリカ始め西
       側諸国が参加しなかったので、その報復としてソ連やその他東欧共産諸国計1
       6ヶ国が不参加となった。運営に当っては、税金を一切使わず、テレビ放映権
       料、スポンサー協賛金、聖火リレーの参加料などで収入を得、日本円で約40
       0億円の黒字を生み、オリンピックの商業化を決定的にした大会となった。

       地元アメリカのカール・ルイスが、陸上競技で100m、200m、400mリ
       レー、走り幅跳びの4種目で金メダルを獲得し、このスーパースターの活躍が
       最大の話題となった。日本勢は、柔道無差別級で山下泰裕が右足ふくろはぎの
       肉離れを起こしながら勝ち取った金メダルや、体操男子の具志堅幸司の個人総
       合優勝、鉄棒の森末慎二の10点満点での金メダル等、計10個の金メダルを
       獲得した。


      (*23)増田明美
       高校3年生の時開花、1981年4月に10000m、5000mの日本新を
       出したのを皮切りに、出場するたびに快記録を連発し、6月までに3000m、
       5000m、10000m、ロードの10
Km、20Kmの日本記録を塗り替え、
       一躍脚光を浴びた。1982年2月の初マラソンで2時間36分34秒の日本
       記録で優勝し、途中計時の30
Kmも合わせて、長距離全種目の日本記録をわず
       か1年ですべて塗り替えるという快挙を達成した。1983年アメリカ・オレ
       ゴン州のマラソンで2時間30分30秒の日本最高記録(当時ジュニア世界最
       高記録)を樹立し、1984年のロサンゼルスオリンピック大会に臨んだ。
       しかし、1983年頃から過度の練習と緊張、ダイエットのし過ぎで貧血症状
       がひどくなり、五輪本番では、16
Km付近で途中棄権となった。現役引退後は、
       スポーツジャーナリスト・レース解説者として活躍しているが、その解説は、
       現役時代の経験と出場選手への綿密な事前取材に基づいたきめの細かい内容で、
       また、落ち着いた聞き取りやすい声と巧みな話術で好評を博している。


      (*24)佐々木七恵
       増田とともに初期の日本女子マラソン界を代表する選手の一人である。大学卒
       業後マラソンに進んだが、東京国際女子マラソンには第1回から出場。198
       1年にボストンで2時間40分56秒の当時日本最高記記録を樹立、翌年2月
       この記録は増田に更新されたが、6月に2時間35分0秒で再び日本最高を記
       録した。(さらにこれが1983年に再度増田塗り替えられたのは前述の通り。
       )その粘り強い走りは、当時ヒットした連続テレビ小説にちなんで「おしん走
       法」の名がつけられた。ロサンゼルスオリンピッでは、増田の途中棄権に対し、
       最後まで粘り抜いたが19位に終わった。1985年の名古屋国際を引退レー
       スと決め出場し、2時間33分57秒の自己ベストで見事優勝し、最後の花道
       を飾った。
その後のオリンピックにおける日本女子マラソン選手の活
      躍は目ざましく、有森裕子、高橋尚子、野口みずきの3人がメダリス
      トとなっている。


    有森裕子はリクルート入社後、小出義雄(*25)の指導を受け頭角を現した。
    初マラソンは1990年の大阪国際女子マラソンで6位の2時間32分51秒で
    ゴール、この記録は当時の初マラソン日本最高記録であった。翌1991年の同
    大会では2時間28分1秒の日本最高記録を樹立し2位となり、一躍日本のトッ
    プランナーとなった。バルセロナ五輪の代表は、まず91年の東京の世界陸上2
    位の山下佐知子が、次いで92年の大阪国際で2時間26分26秒の日本最高記
    録で優勝した子鴨由水が内定。3つめのイスをめぐり有森と松野明美が争った
    が、日本陸連は持ちタイムの良い松野ではなく経験と実績の有森を選出した。
    当時この不透明で曖昧な選考経緯が大きな物議を生んだことは有名である。19
    92年のバルセロナオリンピック本番では、レース終盤のモンジュイックの丘で
    ワレンティナ・エゴロワとデッドヒートを繰り広げたが、競技場に入る直前に引
    き離されたものの、8秒差でゴール、銀メダルを獲得した。記録は2時間32分
    49秒。女子陸上でのオリンピックのメダル獲得は、1928年のアムステルダ
    ムの人見絹枝以来64年振りの快挙である。1996年の第26回アトランタオ
    リンピック大会では優勝のファツマ・ロバ、2位のエゴロワに次いで3位でゴ
    ール、銅メダルを獲得した。タイムは2時間28分39秒。ゴール後のインタビ
    ューで「生まれて初めて、自分で自分をほめたいと思います」と語り、多くの感
    動を呼んだ。2大会連続のメダル獲得は、日本女子陸上選手では初めての快挙で
    ある。有森は、1996年に肖像権を主張し、自らプロ宣言を行いコマーシャル
    に出演した。「プロランナー」の第1号である。

      (*25)小出義雄
       マラソン・長距離選手の指導者として有名。順天堂大学時代は箱根駅伝で活躍、
       大学卒業後高校教諭を経て、リクルート監督、積水化学監督、その後佐倉アス
       リート倶楽部を設立、現在に至っている。女子選手育成に卓越した手腕を発揮
       した名伯楽で、有森裕子、鈴木博美(アテネ世界陸上マラソン優勝)、高橋尚
       子、千葉真子(パリ世界陸上マラソン3位)等、多くの女子長距離選手を育て
       上げた。
ところで、オリンピックの女子マラソンでの2大会連続メダ
      ル獲得者は、有森の他にポルトガルのロザ・モタ
(*26)と有森と
      2大会連続激闘を演じたロシア出身のワレンティナ・エゴロワ
(*2
       7
)の日本でも有名な二人がいる。

        *26)ロザ・モタ
       かつては「ロサ・モタ」と表記されていたが、近年は「ロザ・モタ」が一般的。
       1984年のロサンゼルスオリンピック大会で、ジョーン・ベノイト(アメリ
       カ)、グレテ・ワイツ(ノルウェー)に次いで、銅メダルを獲得した。イング
       リット・クリスチャンセン(ノルウェー)との3位争いを制して、2時間26
       分57秒の記録であった。翌1985年のシカゴマラソンでは2時間23分2
       9秒の2位となったが、これが彼女のベスト記録。1987年のローマ世界陸
       上では、2位以下に7分の大差をつけ圧倒的な強さで優勝し、1988年のソ
       ウルオリンピックでは銀メダルのリサ・マーチン
(オーストラリア)、銅メダルの
       カトリン・ドーレ(ドイツ)を下して、2時間25分40秒のタイムで金メダ
       ルに輝き、2大会連続のメダル獲得の快挙を成し遂げた。日本のレースにも多
       く出場しており、1986年の東京国際、1990年の大阪国際では優勝を果
       たしている。実力世界ナンバーワンといえる女子選手が日本のマラソン大会に
       出場するようになったのは彼女が最初で、小柄で笑顔を絶やさない明るい性格
       は日本でも多くのファンを持っていた。また、有森裕子が尊敬するランナーの
       一人に挙げていたのも有名である。


      (*27)ワレンティナ・エゴロワ
       ロシア出身で1990年代に活躍した。1992年のバルセロナオリンピック
       大会は、ソ連崩壊により
EUN代表として、後半35Km過ぎから有森裕子とデ
       ッドヒートを演じたが、残り1
Kmでのラストスパートで引き離し、2時間32
       分41秒で見事金メダルを獲得した。1996年のアトランタオリンピック大
       会には、ロシア代表として出場したが、中間点手前で飛び出したファツマ・ロ
       バについて行けず、2位集団で待機となったが、後半またも有森をかわし、オ
       リンピック2大会連続となる銀メダルを獲得した。記録は2時間28分5秒。
       2000年のシドニーオリンピックにも出場したが、メダル争いに加わること
       なく途中棄権に終わった。また、彼女のベストタイムは、1994年ボストン
       での2時間23分33秒である。エゴロワは、東京国際に7回(内2回は優勝)
       、大阪国際に2回、名古屋国際に3回、長野に4回等、日本で多数のレースに
       出場し、多くのファンを有していた。さらに、
TBSの人気番組オールスター感
       謝祭の「赤坂5丁目ミニマラソン」にも出て、人気を博していた。ちなみに日
       本を愛していた彼女のラストランは、2004年の長野マラソンであった。


    日本人でオリンピックのマラソンで最初に金メダルを獲得したのは、「Qちゃん」
    こと高橋尚子である。爽やかな笑顔と前向きな生き方から多くのファンを持つ彼
    女は、リクルート入社後小出義雄の指導の下、頭角を現したが、その初マラソン
    は1997年大阪国際で7位に終わっている。翌1998年の名古屋国際で後半
    猛烈な追い上げで2時間25分48秒という当時日本最高でマラソン初優勝を果
    たし、同年のバンコクアジア大会において最高気温30℃を超す高温多湿の中で、
    驚異の2時間21分47秒で優勝した。その後、2000年の名古屋国際で優勝、
    五輪切符を獲得。同年の第27回シドニーオリンピック
大会(*28)では、
    ルーマニアのリディア・シモンと激しくデッドヒートを演じたが、34
Km過ぎ
    でかけていたサングラスを沿道に投げ飛ばしたと同時にロングスパートをかけ、
    シモンを突き放し、そのままトップでゴール。高橋尚子の金メダル獲得は、日本
    マラソン界の長年の悲願であるとともに、日本女子陸上界において史上初の快挙
    であった。高橋の金は、陸上競技では1936年ベルリン大会の田島直人(三段
    跳び)、孫基禎(マラソン)以来、64年ぶりでもあった。また、ゴールタイム
    の2時間23分14秒はジョーン・ベノイトのロス五輪でマークしたタイムを1
    6年振りに更新する五輪最高記録であった。(この記録は現在も破られていない)
    そして、この功績により高橋は「国民栄誉賞」を受賞した。(現時点で、高橋は
    最後の国民栄誉賞受賞者である)2001年のベルリンマラソンでは、女子初の
    2時間20分切りとなる2時間19分46秒の世界最高記録をマーク、2002
    年の同大会でも優勝した。1998年の名古屋国際での初優勝以来、この間マラ
    ソン6連勝でもある。北京五輪の代表選考会となった2008年3月の名古屋国
    際では、記録・順位とも過去最悪で、惨敗したことは記憶に新しいところである。
    マラソン戦績は、11戦7勝。


      (*28)第27回シドニーオリンピック大会
       20世紀最後の夏季オリンピックで、南半球での開催は1956年のメルボル
       ン以来44年振り。この大会は、25000人にも及ぶボランティアが成功さ
       せた大会とも言われ、その活動は絶賛され、後日、ボランティアが主役となる
       パレードも行われた。日本のメダル獲得数は、金5個、銀8個、銅5個。金メ
       ダルは、高橋尚子の他に、女子柔道で田村亮子が「最高で金。最低でも金」の
       悲願を達成。男子柔道で2大会連続の野村忠宏を始め、オール1本勝ちの井上
       康生、初出場の瀧本誠が金メダルを獲得。


    オリンピックの女子マラソン優勝者は、高橋尚子に次いで野口みずきがいる。
    野口は、当初ハーフマラソンを中心に取り組んでおり、「ハーフの女王」といわ
    れた。ハーフマラソンの戦績は、30戦19勝)初マラソンは、2002年の名
    古屋国際で、中盤から独走の2時間25分35秒で優勝。その後、2003年大
    阪国際で、当時日本歴代2位の2時間21分18秒で優勝、同年のパリ世界陸上
    では、キャサリン・ヌデレバ(ケニア)に次いで2位となり、アテネ五輪の代
    表に内定。2004年の第28回アテネオリンピック大会
(*29)は、気温3
    0℃を超える酷暑のレースとなったが、野口は25
Km付近でロングスパートを掛
    けると優勝候補の世界記録保持者ポーラ・ラドクリフ(イギリス)やヌデレバら
    の強豪選手が遅れ始め28
Km過ぎには独走となり、2時間26分20秒でゴール。
    シドニーの高橋尚子に続き、日本に2大会連続のオリンピック女子マラソン金メ
    ダルをもたらした。この大会では、土佐礼子は5位、坂本直子は7位と、日本
    勢は3選手とも入賞を果たした。また、2005年のベルリンマラソンで2時間
    19分12秒の大会新で優勝すると同時にアジア記録、渋井陽子が2004年同
    マラソンで出した日本記録をともに更新した。その後、北京オリンピックの代表
    選考レースである2007年11月の東京国際に、2年2ヶ月ぶりのフルマラソ
    ンに出場し、ライバルの渋井らを圧倒的な強さで破り、大会新で優勝、北京五輪
    代表に選出され、2大会連続の金メダルが期待されている。なお、この優勝で日
    本人として初めて東京・大阪・名古屋の国内三大マラソンの制覇を達成した。
    (海外選手ではドイツのカトリン・ドーレのみ)野口のマラソン戦績は、6戦
    5勝。


      (*29)第28回アテネオリンピック大会
       第
1回大会以来、108年ぶり2回目の開催。男子マラソンでは、バンデルレ
      イ・デ・リマ
(ブラジル)が先頭だった35
Km過ぎで乱入者にコース外に押し
       出され10秒ほどロスし、リズムを崩すものの、3位でゴール。
IOCは、彼に
       対しスポーツマンシップを讃えるとしてクーベルタンの名前を冠した特別メダ
       ルを授与した。日本人選手では柔道男子60
Kg級で野村忠宏が前人未到の3大
       会連続の金メダル、同じく女子48
Kg級で谷亮子が2大会連続金メダル(メダ
       ル獲得は4大会連続)。水泳では北島康介が100・200平泳ぎで2個の金。
       また、男子ハンマー投げでは、記録1位のアドリン・アヌシュ(ハンガリー)
       が競技終了後ドーピング検査を拒否し、失格で、室伏広治が金メダルを獲得。
       なお、この大会でのドーピングによる失格選手は24人(メダル剥奪は金
3
       銀1、銅3の7人)にのぼった。



     
     特集第十二号(連載その2008年6月14日
    鎌苅 滝生

    7.オリンピックで活躍した男子マラソン選手


    オリンピックのマラソン優勝者では、第1回のアテネのスピリドン・ルイス以降
    幾多の名金メダリストを輩出してきたが、それでは、オリンピックのマラソンで
    連覇を達成した選手をご存知でしょうか。4年に一度しか開催されないオリンピ
    ックでの連覇は、他の競技に増して困難な偉業であるとわれるが、達成者は2名
    いる。


    最初の連覇達成者はエチオピアのアベベ・ビキラである。今でもマラソンとい
    えば、その代名詞のようにいわれるアベベであるが、1960年の第17回ロー
    マオリンピック大会
(*7)に参加した彼は、「裸足」で石畳のアッピア街道を
    駆け抜け、コンスタンティヌス凱旋門を抜け先頭でゴールした。記録は、当時の
    世界最高記録となる2時間15分16秒2で、見事金メダルに輝いた。1937
    年から1941年までイタリアに占領されていたエチオピア国民は、この快挙に
    熱狂し、アベベは一躍エチオピアの英雄になった。また、マスコミもレース前は
    全くの無名であったアベベを「裸足の英雄」と絶賛した。アベベは、標高240
    0mに位置するエチオピアの首都アジスアベバ近郊で育ち、スウェーデンのオン
    ニ・ニスカネンとういうコーチから科学的トレーニングを受け、世界のトップラン
    ナーとなったのである。今でこそ、多くのランナーが酸素濃度の低い高地でのト
    レーニングを取り入れているが、アベベの成功は、その後この高地トレーニング
    が広く行われるきっかけとなった。ところで「裸足のアベベ」は、別に最初から
    裸足で走るつもりではなかった。たまたま愛用のシューズが壊れ、ローマで新し
    いシューズを購入しようとしたが自分に合うものがなかったために、やむなく裸
    足で走ったのというのが真相である。


      (*7)第17回ローマオリンピック大会
       ローマは1908年の開催地に決定していたものの、財政的な理由で開催を辞
       退しており、52年後にようやく開催に漕ぎつけた。この大会で、ソ連が初め
       てアメリカを抜いて金メダル獲得数でトップにたった。日本は男子体操陣が大
       活躍した大会でもある。体操の小野喬は男子総合・鉄棒・跳馬で金メダルを獲
       得し、「鬼に金棒、小野に鉄棒」といわれるほどの活躍であった。この大会で
       の日本のメダルは、金4個、銀7個、銅7個であったが、その内、男子体操陣
       が獲得したメダルは、金4個、銀2個、銅3個であった。


       後にムハマド・アリとして、世界ヘビー級のチャンピオンの座についたカシア
       ス・クレイが、華麗なフットワークでボクシングのライトヘビー級の金メダル
       を獲得したのも、この大会である。なお、自転車の男子団体ロードレースで、
       デンマークの選手が死亡した事件が発生したが、検死の結果、興奮剤が検出さ
       れ、ドーピング問題が表面化し、その防止対策が本格的に検討されるようにな
       った最初の大会にもなった。


       アベベは、4年後の1964年の第18回東京オリンピック大会(*8)にも
       出場した。彼は競技の6週間前に盲腸の手術を受け、十分なトレーニングを積
       むことができず不安視されていたが、予想を覆し再び2時間12分11秒2の
       世界最高記録を樹立して金メダルを獲得した。ローマ大会とは違って、シュー
       ズを履いてのレースであったが、オリンピック史上マラソンの連覇を初めて達
       成した。これ以降、2004年のアテネオリンピック大会に至るまで、オリン
       ピックでマラソンの世界最高記録を樹立した選手は出現していない。


       アベベは、この大会でゴールした後もほとんど表情を変えることなく、「まだ
       まだ走れるぞ
!
」と言わんばかりに悠然として柔軟体操をしたが、その姿から
       「走る哲学者」とも呼ばれるようになった。彼は、スタートの時、実は転倒し
       ており、国立競技場を出る際は最下位であった。すなわち、競技場を出る時は
       最下位、競技場に戻ってきた時は1位というわけで、まさに超人であった。と
       ころで、彼が給水所に用意していたスペシャルドリンクは、スイカジュースで
       あったとのこと。


       アベベは、1968年に行われたメキシコシティオリンピック大会にも出場し、
       3大会連続の金メダルを狙ったが、当時36歳であったことによる体力の衰え
       もあり、17
Kmで途中棄権している。しかし、この大会で同じエチオピアの
       マモ・ウオルデ
が優勝し、エチオピアはオリンピックのマラソンで見事3連覇
       を果たした。3連覇はもちろんエチオピアだけである。(ウオルデは、197
       2年のミュンヘン大会でも銅メダルに輝き、エチオピアは
大会連続メダル獲
       得という偉業を達成した。オリンピックの男子マラソンでの4大会連続メダル
       は、今までエチオピアのみ。)1969年にアベベは車を運転中に事故に会い、
       下半身不随になり、ランナーとしての選手生命は絶たれたが、そのスポーツに
       賭ける情熱は衰えることはなく、1972年のミュンヘンオリンピック大会の
       開会式に車いすでゲストで出たり、パラリンピックに参加するなど、スポーツ
       との関わりを続けていたが、1973年に脳出血により41歳の若さで病死した。


      (*8)第18回東京オリンピック大会
       アジアで最初に開催されたオリンピック。開催国日本の金メダル第1号はウエ
       イトリフティングの三宅義信であった。他に金メダルは、レスリングで5個、
       男子体操で5個、柔道で3個、さらに女子バレーボールで東洋の魔女と呼ばれ
       た日本チームがソ連をセットカウント3対0で下し金メダル。このバレーボー
       ルの決勝戦のテレビの視聴率はなんと85%にも達したといわれている。
       日本の金メダル獲得総数は16個で、アメリカ、ソ連に次いで3位となった。
       でも、以上の記載では、金メダル15個にしかなりませんね。もう1個は、あ
       まり話題にならず気の毒なので別記します。ボクシングの桜井孝雄でした。


       この大会のマラソンでの優勝は、前述の通りアベベであるが、日本中を沸かせ
       た円谷幸吉の活躍も見逃せません。初マラソンからわずか7ヶ月でオリンピッ
       クのマラソンに出場した円谷は、他の日本人選手(君原健二と寺沢徹)ほど注
       目されていなかったが、ゴールの国立競技場に2位で戻ってきた。しかし、後
       ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれ、
       3位となった。タイムは、金メダルのアベベに遅れること約4分の2時間16
       分22秒8。円谷の銅メダルは、東京オリンピックで日本が陸上競技で獲得し
       た唯一のメダルとなり、日本陸上界を救ったとまでいわれた。真面目で礼儀正
       しく責任感の強い円谷は、その後の周囲の期待の重圧と腰を痛めたことにより
       思い通り走れない焦りから、カミソリで頚動脈を切って自殺をしたが、これは
       あまりにも有名な悲劇として記憶されている。なお、彼の事件を教訓にオリン
       ピック選手に対するメンタル面でのサポートが重視されるようになった。
オリ
       ンピックのマラソンでの連覇達成者は、アベベほど知名度は高くはないが他に
       もう一人いる。ドイツ(出場時は旧東ドイツ)のワルデマール・チェルピンス
       キー
である。1976年に開催された第21回モントリオールオリンピック大
       会
(*9)で、ほとんど無名に近かったチェルピンスキーは、1972年ミュ
       ンヘン大会の金メダリストで当時世界最強といわれ、優勝候補の筆頭と目され
       ていたアメリカのフランク・ショーター
(*10)に勝ち、見事金メダルを獲得
       し、世界中を驚かせた。記録はオリンピック新記録の2時間9分55秒であった。


      (*9)第21回モントリオールオリンピック大会
       人種差別問題等国際的な政治問題の続発で参加国が激減した大会であった。こ
       の大会で、日本の男子体操が団体総合で5連覇を果たした。また、女子体操で
       ビートたけしの物まねでお馴染みのルーマニアのナディア・コマネチが10点
       満点を連発し、大人気となった。なお、カナダは金メダルの獲得がなく、開催
       国として金メダルなしは初めての大会となった。


      (*10)フランク・ショーター
       1972年開催の第20回ミュンヘンオリンピック大会のマラソン競技でアメ
       リカに64年振りに金メダルをもたらした。この前後の主要なマラソンでほと
       んど負けなしの無類の強さを誇っていた彼は、1970年代最強マラソンラン
       ナーであったといえる。アベベ・ビキラ以来のオリンピックのマラソン2連覇
       は確実視されていたモントリオールオリンピック大会では、当時東ドイツの伏
       兵チェルピンスキーに破れ銀メダルに終わっている。


       彼は、日本でも大活躍をしている。伝統の福岡マラソンでは1971年から1
       974年まで4連覇を果たしている。また、1973年のびわ湖毎日マラソン
       では、レース中に便意を催し、沿道の観客が持っていた主催新聞社の小旗を引
       きちぎって、コースを外れて用を足すというハプニングがあったにもかかわら
       ず、その後コースに復帰してレースを継続し、独走の上、2時間12分3秒の
       大会新記録で優勝したエピソードは有名。医学部の出身でスポーツ科学にも詳
       しく、引退後は現役当時の経験も盛り込んだマラソンの指導書を出版している。
       また、スポーツウェアの会社・フランクショーター・ランニングギア社を設立、
       現在に至っている。


       モントリオール大会以降、チェルピンスキーは目立った成績もあげておらず、
       再び出場した1980年の第22回モスクワオリンピック大会
(*11)でも
       戦前の評判は決して高くなかった。しかし、この大会の優勝候補の大本命とい
       われていた瀬古利彦
(*12)や宗茂、宗猛(*13)の日本の3選手
       などの不参加という幸運もあって、予想を覆す走りでアベベ・ビキラ以来のオ
       リンピックのマラソン2大会連続金メダルの快挙を成し遂げた。2時間11分
       3秒の記録であった。1984年の第23回ロサンゼルスオリンピック大会は、
       自国のボイコットによる不参加で出場できず、マラソン史上初のオリンピック
       3連覇はならなかった。


      (*11)第22回モスクワオリンピック大会
       前年の1979年12月にソ連の軍隊がアフガニスタンに侵攻するという愚挙
       があり、これに対する制裁措置としてアメリカのカーター大統領がモスクワ五
       輪のボイコットを表明した。西側諸国の多くがこれにならい、日本も賛否両論
       ある中で
JOCが不参加を決定した。西側諸国不参加の中、全204種目の内、
       ソ連が80個、東ドイツが47個という大量の金メダルを獲得した。


      (*12)瀬古利彦
       高校時代から頭角を現し、早稲田大学時代は4年間箱根駅伝で花の2区を走り、
       3年、4年は区間新を記録した。1977年の福岡国際で初マラソン5位、そ
       の後78年福岡優勝、79年ボスト2位、79年福岡優勝し、1980年のモ
       スクワオリンピック代表に選出され、金メダル候補の最右翼といわれていたが、
       ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットにより出場はならなか
       った。80年の福岡国際でモスクワオリンピックの金メダリストのチェルピン
       スキーを破り、福岡での3連覇を飾ったが、もしモスクワ五輪をボイコットし
       ていなければ、彼が金メダルを獲得していたのではといわれた。その後、足の
       故障でブランクがあったが、1983年の東京国際で日本人初の2時間8分台
       となる2時間8分38秒で優勝し、翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダ
       ル候補として再び注目を浴びる。しかし、1984年のロサンゼルス五輪では、
       調整の失敗で14位と惨敗。1988年のソウルオリンピックにも出場したが、
       9位に終わり、オリンピックでは入賞すらなかった。ベストは1986年シカ
       ゴマラソンで優勝時の2時間8分27秒、マラソンの通算成績は15戦10勝。


      (*13)宗茂・宗猛
       双子の兄弟であることはあまりにも有名である。宗茂・猛兄弟は瀬古利彦と数
       々のレースで死闘を繰り広げ、3人は1980年代前半日本男子マラソンのビ
       ッグ3として、マラソン界をリードしていた。1985年の北京国際マラソン
       では、兄弟同タイムで、兄茂が優勝、弟猛が2位となり、国際マラソンでの兄
       弟1・2位独占は世界初の快挙となった。


       双子ではあるが利き手が異なり、茂は左利き、猛は右利きである。また、性格
       も兄茂は大雑把で、天才肌であるのに対し、弟猛は几帳面で努力家であるとい
       われる。マラソンへの取組み方も違い、兄茂は「マラソンは練習よりも調整」
       とし、己の感性のまま走るのに対し、弟猛は「マラソンは練習あるのみ」とひ
       たすら練習に励んだ。走法も茂はストライド走法、猛はピッチ方法であった。


       兄茂のベスト記録は2時間9分5秒6(1978年別府大分毎日マラソン)で、
       当時の世界歴代2位で、日本人初のサブテン(2時間10分以内)である。弟
       猛のベストは2時間8分55秒。ロサンゼルスオリンピックでは日本人選手最
       高の4位入賞となった。なお、他の双子のマラソン選手としては、女子マラソ
       ン界の大南博美・敬美姉妹が有名である。


       オリンピックの男子マラソンにおける日本のメダル獲得数は、全部で5個であ
       る。1936年の第11回ベルリンオリンピック大会
(*14)孫基禎(*
       15)
が金メダル、南昇竜(*16)が銅メダル、1964年の第18回
       東京オリンピック大会で円谷幸吉が銅メダル、1968年の第19回メキシコ
       シティオリンピック大会
(*17)君原健二(*18)が銀メダル、199
       2年の第25回バルセロナオリンピック大会
(*19)森下広一(*20)
       が
銀メダルを、それぞれ獲得している。また、メダルの獲得には至らなかった
       が、中山竹通
(*21)はソウル、バルセロナと2大会連続4位入賞の成績を
       挙げている。


      (*14)第11回ベルリンオリンピック大会
       ベルリンは1916年のオリンピック開催予定地であったが、第一次世界大戦
       により中止された経緯がある。この大会は、当時隆盛を誇っていたアドルフ・
       ヒトラー率いるナチス・ドイツが威信をかけて開催したいわくつきのものであ
       る。この大会で、古代オリンピックの発祥の地であるオリンピアで五輪の火を
       採火し、開会式のメインスタジアムまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施され
       た。また、大会の記録映画が撮影され、ベネチア国際映画祭で金賞を受賞する
       など各方面で絶賛され、以降のオリンピック大会では夏・冬ともに記録映画の
       製作が義務づけられるきっかけとなった。女子競泳200m平泳ぎで前畑秀子
       が優勝したが、そのラジオ放送の際
NHKアナウンサーの加西省三の「前畑頑張
       れ
!」という実況は、今も語り草となっている。

      (*15)孫基禎
       中国との国境を流れる鴨緑江の畔の町(現在の北朝鮮)の出身。日本名は「そ
       んきてい」であるが、現在は「ソン・ギジョン」と韓国語読みされることが多
       い。1935年に東京で当時世界最高の2時間26分42秒を記録した。ベル
       リンオリンピック大会では、当時、朝鮮半島が日本に併合されていたため、彼
       は日本代表として出場し、オリンピック記録となる2時間29分19秒2で金
       メダルを獲得した。第二次世界大戦後は韓国籍となり、2002年ソウルで9
       0歳で死去。五輪公式記録では、彼の国籍は優勝当時の日本のままになってい
       るが、アメリカではカリフォリニアにある五輪歴代マラソン優勝者記念碑では
       「
Korea」と記載されている。過去の不幸な歴史が生んだ「悲劇のヒーロー」
       である。


      (*16)南昇竜
       日本名「なんしょうりゅう」、韓国名「ナム・スンニョン」。全羅南道出身で、
       明治大学卒業。大学時代は箱根駅伝で活躍。ベルリン五輪には、優勝した孫基
       禎とともに日本代表として出場し、銅メダルを獲得した。


      (*17)第19回メキシコシティオリンピック大会
       この大会の聖火リレーの最終ランナーは、エンリケタ・バシリオという女性で、
       史上初の女性最終ランナーであった。海抜2240mの高地で開催されたが、
       陸上短距離や跳躍競技で好記録が続出、三段跳びでは、3人の選手が世界記録
       を5回にわたって更新した。チェコスロバキアのベラ・チャスラフスカが女子
       体操競技で4個の金メダルを獲得し、話題となる。日本勢は11個の金メダル
       を獲得し、前回東京同様、アメリカ、ソ連に次いで3位となった。


      (*18)君原健二
       1960年から1970年代前半に活躍した名ランナー。首を傾けた独特のフ
       ォームで、苦しそうに走ることでも知られた。高校時代は特に目立った活躍を
       していなかったが、社会人になりマラソンランナーとして成長、オリンピック
       には3大会連続出場した。東京オリンピックでは実力を十分発揮できず8位に
       終わったが、メキシコシティでは、ウオルデに次ぎ2時間23分31秒で銀メ
       ダルを獲得、31歳となったミュンヘンでも代表に選出され5位入賞を果たし
       た。現役時代は別府大分毎日マラソンの3度の優勝を含め、7勝している。


       第一線を退いた後も市民マラソンを中心に出場を続けており、今日まで全ての
       レースで完走しているといわれている。東京大会で一緒に出場した円谷幸吉と
       はその時以来、無二の親友となり、今でも毎年円谷の墓参に行き、好物のビー
       ルを墓石にかけることが習慣になっているという律儀な人柄の持主でもある。


       (*19)第25回バルセロナオリンピック大会
       ソ連が崩壊し、冷戦終結後の初の夏季オリンピックとなったが、芸術、美術、
       音楽等で優れた人物を排出し続けるスペインらしく、開会式・閉会式ともに多
       くのアーティストが参加し、近年まれに見る芸術性の高いものと絶賛された。
       開会式のマスゲームの音楽は坂本龍一が作曲、式場でオーケストラを指揮した。

       バルト三国を除く旧ソ連の構成国家12ヶ国がEUN(統一チーム)を結成し、
       参加。
当時中学2年で14歳の岩崎恭子が200m平泳ぎで金メダルを獲得、
       「今まで生きてきた中で一番しあわせ」の名セリフを残した。日本の金メダル
       は、他に柔道78キロ級の吉田秀彦と71キロ級の古賀稔彦。


      (*20)森下広一
       旭化成の宗茂監督の指導の下、頭角を現した。マラソン初出場は1991年の
       別府大分毎日マラソン。初マラソンながらソウル五輪4位の中山竹通と一騎打
       ちを演じたが、このレースで中山は39
Km過ぎに森下の肩をポンと叩いてスパ
       ートを促した。中山は期待の若手である森下に勝負どころを教えるために、そ
       れを示したものであるが、後々に語り継がれる名場面となった。これを機に森
       下はスピードを上げ、そのままゴール。2時間8分53秒の初マラソン日本最
       高記録で優勝した。この記録はその年の世界ランキング1位でもある。


       翌1992年東京国際マラソンで、森下は再度中山と一騎打ちとなり、これを
       制し、マラソン2戦2勝のキャリアでバルセロナオリンピックの代表に選出さ
       れた。バルセロナには、旭化成の谷口浩美、中山とともに出場。レースは序盤
       スローペースとなったが、後半韓国の黄永祚とマッチレースを繰り広げ、残り
       2
Kmのモンジュイックの丘で突き放されて黄の後塵を拝したものの、2時間1
       3分45秒で銀メダルを獲得した。日本勢は中山がソウルに次いで4位に食い
       込み、谷口は23
Km付近での転倒のアクシデントにめげず8位と健闘した。

      (*21)中山竹通
       身長180センチの大柄で、その強い個性ゆえ、孤高の天才ランナーといわれ
       た。1980年代後半に瀬古、宗兄弟らと、1990年代前半には谷口、森下
       らと日本マラソン界をリードした。2時間10分を切るサブテンを5回(瀬古
       と並び歴代2位、最多は高岡寿成の6回)、2時間9分を切るレースは4回で
       最多を誇る。終始好位置につけ終盤のスパートで勝負をかけることの多かった
       瀬古のレースとは対照的に、その自慢のスピードで序盤から先頭を引っ張る展
       開がほとんどであった。1987年のソウルオリンピックの代表選考会の福岡
       国際マラソンでは、スタートから飛び出し、20
Km1時間を切り、35Kmまで
       当時世界最高記録を49秒も上回るハイペースで飛ばしたが、終盤は雪混じり
       の雨天の影響もあり、記録更新はならなかったが、2位以下に大差をつける2
       時間8分18秒で優勝した。1988年のソウルオリンピックは2時間11分
       5秒、1992年バルセロナオリンピックは2時間14分2秒で、それぞれ4
       位入賞を果たした。男子マラソンでの連続入賞は君原以来の快挙である。



    
     特集第十二号(連載その2008年5月10日
    鎌苅 滝生


    4.ピエトリの悲劇


    42.195Kmで行われた最初のマラソンが、第4回ロンドンオリンピックであ
    ったことは前章の通りであるが、この大会で競技中に劇的な出来事があった。
    マラソンレースは7月24日、午後2時30分にスタート。16ヶ国56名の選
    手が参加して行われたが、前半は地元イギリスの2選手がリードし、その後南ア
    フリカの選手がトップに立っていたが、終盤の41
Kmになってイタリア選手の
    ドランド・ピエトリ
が逆転し、トップに躍り出た。しかし、ピエトリは急激なペ
    ースアップが影響し、疲労の色がにじむ中、後方よりアメリカのジョン・ヘイズ
    が堅実なペースで追い上げていた。競技場に入ったピエトリは疲労困憊で、ゴー
    ルの方向を間違える。これを競技役員が正しい方向に変えさせるが、ピエトリは
    よろめいて、倒れてしまう。場内騒然の中、医師と役員が駆け寄り介抱、助け起
    こされたピエトリは進んでは倒れ、また立ち上がるといった状況で意識朦朧で、
    5回も転倒し、ようやくゴールした。そのタイムは、2時間54分46秒であっ
    た。最初の42.195
Kmでのフルマラソンサブスリーランナーが金メダリスト
    となるところであったが、そこに悲劇が待っていた。医師が介抱し、役員が手を
    貸したということで失格となったのである。当然、その優勝は記録とともに抹消
    されることになり、アメリカのジョン・ヘイズが繰上げ優勝となった。記録は2
    時間55分19秒。ピエトリはおそらく脱水症状で倒れたものと思われるが、そ
    の力走に感激したアレキサンドラ王妃は特別の金杯を贈り健闘を称え、またシャ
    ーロック・ホームズを生んだかの小説家コナン・ドイルも「シャーロック・ホー
    ムズより」と刻んだ金のシガレットケースを贈った。


    5.キセルマラソン事件

    話は前後するが、1904年に開催された第3回セントルイスオリンピック大
     
(*6)において、オリンピック史上で最も不名誉な事件である「キセルマラ
    ソン事件」が発生した。第1回のアテネ五輪から大会の呼び物になっていたマラ
    ソンは、8月30日に30℃を超える猛暑の中、距離40
Kmで開催された。悪コ
    ンディションの下、先頭を切って走っていた地元アメリカのフレッド・ローツは、
    20
Km過ぎで極度の疲労のため力尽きて道端に倒れ込んでしまったが、たまたま
    通りかかった車に乗せてもらいスタジアムに帰ろうとした。ところが、スタジア
    ムまで8
Kmの地点で車がエンストしてしまうが、その間に体力を回復していたロ
    ーツは車から降りて再び走り出してゴールを目指し、大歓声の中、1着でゴール
    インしてしまった。しかし、その直後にローツを乗せた運転手が告発したため、
    不正が発覚し、非難ごうごう、ローツは「ふざけてやったこと」と弁明したが、そ
    の場で失格となり、その後マラソン界から永久追放された。歴史に残る不名誉な
    エピソードである。ローツの失格によって繰り上げの金メダルを勝ち取ったのは
    イギリス出身のアメリカ選手であるトーマス・ヒックスで、ゴールしたのはロ
    ーツの約1時間後のことで、その記録は3時間28分35秒であった。ヒックス
    はこのオリンピックに先立つこの年4月に開催されたボストンマラソンでも2位
    となった選手であるが、実は彼も興奮剤を服用していたといわれており、現在の
    ようなドーピング・システムのルールが確立されていたら、当然失格となり、メ
    ダルを剥奪されていたはずである。

        (*6)3回セントルイスオリンピック大会
         第3回のオリンピック大会は、アメリカからシカゴとセントルイスが立候補し、
        当初シカゴに決定していたが、財政難により万国博覧会の付属大会としてセン
       トルイスに変更された。

         初のアメリカ開催となった大会であるが、ヨーロッパ諸国から遠過ぎるという
       理由で第2回パリ大会に比べ、参加選手数が大きく減少し、アメリカ選手の活
       躍が際立った大会となった。

        
 上記のローツの「キセル事件」は、1904年の出来事でオリンピック史上の
       大きな汚点として残っているが、現代のマラソンでも同様なキセルが発生し、
       多くの人を驚かせた。


    伝統のボストンマラソンで、1980年のことである。この大会おいて女子の先
    頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。しかし、
    大会競技委員や他の選手からレース途中で彼女を見ていないという複数の証言が
    あり、またゴールした時にルイーズのウェアーにほとんど汗が付いていなかった
    ことから、主催者は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取
    り消した。代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。その後、
    ルイーズは途中地下鉄に乗り、コースをショートカットし、ゴール手前800m
    から走ったことが判明。彼女はボストンマラソンの参加資格を得るために、ニュ
    ーヨークマラソンでもキセルをしていたとのことで、この悪質な行為は多くの人
    を驚かせたのである。


    6.女性の参加

    第1回アテネオリンピックの大会参加者は男子のみで、マラソンも例外ではなか
    った。(ただし、当日メルポメネという女性が隠れて走り、これが史上初の女子
    マラソンランナーとされている。)もともと古代オリンピックは女人禁制であっ
    たが、第1回アテネ大会はこれに準じたものであるが、クーベルタン自身もオリ
    ンピックへの女性の関与は、勝利者に栄冠を授与する際の手伝いだけと考えてい
    たようである。


    女性のオリンピック参加が認められたのは、第2回パリ五輪以降になる。しかし、
    女子の陸上競技への参加が認められるようになっても「女性がマラソンを走るこ
    とは生理的に無理である。」という見解が広く信じられおり、その後もオリンピ
    ックをはじめとするマラソン大会は男子のみで開催されていた。これに対して、
    1966年のボストンマラソンにおいて、主催者に隠れて走る女性が出現し、そ
    の後も年を追って非公式の女性ランナーの参加が増加してきたため、1972年
    に正式に女子の参加が認められるようになった。オリンピックにおいて女子マラ
    ソンが正式種目として採用されるようになったのは、1984年のロサンゼルス
    オリンピック大会からである。



    
     特集第十二号(連載その2008年4月10日
    鎌苅 滝生


      2.初めてのマラソンレース

    1回アテネオリンピック大会
(*4)でのマラソンレースは、その最終日に
    国25名の参加選手により開催された。コースは故事にちなんでマラトンからア
    テネまでの36.909
Kmであった。(その後、1920年の国際陸連の再計
    測で36.75
Kmであることが判明した。)優勝したのは地元ギリシアの25
    歳の青年スピリドン・ルイスであった。古代オリンピック発祥の地で復興した
    第1回近代オリンピックであるにもかかわらず、初日以来、開催国ギリシアは陸
    上競技では惨敗の連続で、最終日まで金メダルなしという成績であった。


    ところが、マラソンレースの後半で、ギリシア人が誇るマラトンの戦いの故事そ
    のままに、ギリシア選手がトップに立ち、優勝するかもしれないというので、競
    技場は歓喜と興奮のうずに巻き込まれた。大歓声の中、ルイスが競技場に戻って
    くると、ギリシアのコンスタンチヌス皇太子と国王の弟で審判長を務めていたジ
    ョージ親王は興奮のあまりロイヤルボックスからコースに駆け下り、ゴールまで
    200mほど伴走した。ルイス選手のこのマラソン史上最初の優勝タイムは2時
    間58分50秒であった。この優勝により彼は一躍ギリシアの英雄となり、国王
    から特別表彰されるほどであった。ルイスは、当初羊飼い兼郵便配達人と伝えら
    れていたが、実際にはアテネ郊外に住む水売り行商人であったとのこと。ところ
    で、この時の優勝タイムは、もし42.195
Kmで行われていたら、少なくとも
    あと23〜24分はかかっているはずなので、サブスリーにほど遠い記録でした。


     (*4)第1回アテネオリンピック大会
      1896年4月6日に、ギリシア国王ゲオルギウス1世の開会宣言により、幕を切っ
      て落とされた。13ヶ国、295名の参加選手(男子のみ)で、8競技42種目のメ
      ダルが争われたが、金メダルの獲得数はアメリカ11個、地元ギリシア10個、ドイ
      ツ9個であった。ただし、優勝者に授与されたのは、金メダルではなく聖地オリンピ
      アで採取されたオリーブの一枝と「銀メダル」である。

      当時は現在の競技との違いが多く見られた。例えば、陸上競技のトラック競技は1周
      が333mで、右回りで行われた。水泳はプールではなく海上(ゼーア湾)で実施。
      体操競技は屋外で行われた、また、ウエイトリフティングは体操競技の1種目として
      実施された。レスリングはグレコローマンのみで、体重制限なしであった。テニスの
      ダブルスは他の国の選手とペアを組むことができた、現にダブルスの優勝はドイツ・
      イギリスのペアであった。等々・・・。


    アテネオリンピックで実施されたマラソンは欧米各国に大きな影響を与え、その
    後各地で40
Kmほどの長距離レースが開催されるようになった。そのひとつが
    伝統あるアメリカのボストンマラソンで、その第1回大会開催は、アテネオリ
    ンピックの翌年1897年のことである。


    ころで、オリンピックのマラソンは距離が一定せず、第2回パリ大会から第7回
    アントワープ大会までまちまちで、現在の42.195
Kmに統一されたのは19
    24年の第8回パリ大会からである。ちなみに、第2回以降第7回までのマラソ
    ンの距離は、以下の通りである。

      第2回パリ      40.260km
      第3回セントルイス  40.000km
      第4回ロンドン    42.195km
      第5回ストックホルム 40.200km
      第6回ベルリン    第1次世界大戦のため中止
      第7回アントワープ  42.750km


    3.マラソンが42.195kmになった訳

    マラソンが42.195Kmになったのは、マラトンからアテネまでがこの距離
    であったからだとする書物や資料が多くあり、それを事実であると思っている人
    もいるが、これは間違い。
42.195Kmの距離でマラソンが行われた最初の
    競技は、1908年に開催された第4回ロンドンオリンピック大会
(*5)
    ある。この大会のマラソンコースは、ウインザー城をスタートに、ロンドン市内
    の競技場のロイヤルボックス前をゴールとする片道コースで、26マイル385
    ヤード(42.195
Km)であった。

    当初26マイルの距離で行われることになっていたが、国王エドワード7世の王
    妃アレキサンドラが「スタート地点は宮殿の庭に、ゴール地点は競技場のロイヤ
    ルボックスの前に」と要望したため26マイル385ヤードに伸ばされたもので
    ある。(王妃ではなく、国王の要望であったとの説もある。)当初設定の26マ
    イルは41.843
Kmで、いずれにしろメートル法に換算すれば端数がでたこと
    になる。したがって、マラソンの距離における端数とは、385ヤードのことで
    あって、2.195
Kmや0.195Kmではないのである。

    1920年に国際陸連(IAAF)がマラソンの距離の統一化を検討したが、イギリ
    ス陸連の提案を採択して、このロンドン大会の距離である42.195
Kmと決
    定して、1924年の第8回パリオリンピック大会から実施され、以降マラソン
    といえば42.195
Kmとなったのである。もし、アレキサンドラ王妃がマラ
    ソンに興味を持っていなければ、42.195
Kmになっていなかったかもしれ
    ないのである。


     (*5)第4回ロンドンオリンピック大会
      1908年の大会は本来イタリアのローマで開催される予定であったが、1906年
      にヴェスビオス火山が噴火し、その被害がローマにも出たため財政面で逼迫し、ロン
      ドンが代替開催したもの。第3回大会までは個人参加の色彩が強かったが、この大会
      から参加に当っては各国のオリンピック委員会を通じて行われるようになり、開会式
      で国旗を先頭に国別の入場行進が実施されるようになった。競泳競技もこの大会から
      プールが使用されるようになった。

      この大会では、主催国イギリスと急速に国力を伸張していたアメリカとの間で、陸上
      競技でトラブルがあり、両国民の感情が悪化した。この状況を危惧したペンシルバニ
      ア大司教エチュルバート・タルボットは「オリンピックにおいて重要なことは、勝利す
      ることよりも、むしろ参加したことであろう。」と説教し、この言葉に大いに感銘を
      受けたクーベルタンが引用し「オリンピックは、参加することに意義がある。」と演
      説し、これがのちのち語り継がれることとなった。


    とろで、このマラソンの42.195Kmの距離の測定は、ハイテク機器が出現し
    た今日でも規定により、人間の手で計測されている。使用される巻尺は太さ40
    ミリ、長さ50メートルの鉄製で、50メートルづつ844回も計測しているの
    である。



    
     特集第十二号(連載その2008年3月29日
    鎌苅 滝生

    
まえがき

    『42.195』この中途半端な数値。でも、これがマラソン競技の距離である
    ことは、マラソン競技者のみならず、広く老若男女に知れわたっている。マラソ
    ンは、陸上競技のみならず、あらゆるスポーツの中でも最も人気のあるひとつで、
    国内外のマラソンのテレビ中継は年間10レース以上ある。持ちタイムの良い選
    手が必ずしも優勝するとは限らず、下馬評にも上らないような選手が大健闘する
    こともあり、また気象条件やコースコンディションや、ちょっとしたアクシデン
    トやメンタル面での影響で結果が大きく左右されることもあり、レースのたびに
    ドラマが生み出されるのが、マラソンレースの大きな特徴ではなかろうか。


    また、「マラソンは人生のようなもの」と例えられることもある。始めは先頭を
    走っていても、後半次第に遅れることもある。逆にスタートでつまずいても次第
    に追い上げ最後に勝利する場合もある。人生同様、長いレースの中で、様々な展
    開がみられる。ここに、マラソンに高い人気がある所以があるのではなかろうか。


    でも、なぜ42.195Km競争ではなく「マラソン」というのか、なぜマラソン
    はこのような中途半端な42.195
Kmという距離なのか、いつからマラソン競
    技がおこなわれているのか、マラソンで活躍した選手は、等々マラソンに関する
    由来やエピソードを「マラソンあれこれ」と題して、整理をしてみました。話が
    あちこち脱線するかもしれませんが、ご興味のある方はどうぞお付き合い願いま
    す。それでは、「マラソンあれこれ」の始まり、始まり・・・。


    1.マラソンの由来

    マラソンの名の起源は、ギリシアにおけるペルシアとのマラトンの戦いにある
    ことは有名である。紀元前490年9月12日(8月12日も有力な説としてあ
    る)、ギリシアを支配下に置こうと目論み、アテナイ(現在のアテネ)
(*1)
    
を陥落させるために来襲してきた2万人(高名な歴史家ヘロドトスによれば2万
    6千人)のアケメネス朝ペルシア
(*2)の大軍を、アテナイの将軍ミルティア
    デスがアッティカ半島東部のマラトン(
Marathon)の地で、1万人の戦力を指揮
    して撃退した。


    この勝報をアテナイに報告するために健脚自慢のフェイディピデスという兵士
    (プロのメッセンジャー、即ち飛脚であったという説もあり)が伝令として選ば
    れた。彼はマラトンの戦場からアテナイまでの約40
Kmの距離をひた走り、ア
    テナイの城門に到着し『喜べ、わが軍勝てり!
」と告げ、その直後、力尽きて
    そのまま絶命したという。では、彼はなぜ命を賭けて走ったのか。この時、アテ
    ナイでは抗戦派と降伏派が激しく対立し、一触即発の危機にあり、『わが軍勝て
    り
!』の勝利の一報がなければ、収拾のつかない大混乱に陥る懸念も予想された
    のである。ただし、この話はギリシア史では有名であるが、史実かどうかという
    疑問も出されている。


     (*1)アテナイ
      アテナイはギリシアの首都アテネの古名である。町の中心部にあるアクロポリスの丘
      にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。エーゲ海や黒海
      を舞台に海上交易を中心に商業都市として栄えた。地名の由来は、ギリシア神話に出
      てくる女神アテーナー。

      パルテノン神殿は世界中の観光客が訪れる有名な遺跡である。この神殿は古代ギリシ
      ア建築の傑作のひとつで、ユネスコの世界遺産に登録されている。筆者は30年ほど
      前に訪れたことがあるが、修復工事もなされ保存状態もよく、実に見事な遺跡である。
      機会があれば行かれることをお勧めする。


     (*2)アケメネス朝ペルシア
      紀元前550年に古代イランに起こった王朝・帝国。その版図は現在のイランのみな
      らず、アフガニスタン・パキスタンの西部、トルコ・シリア・レバノン・イスラエル
      の全域、さらにはエジプト・リビアの北部に拡がっていた。ダレイオス1世の時、ギ
      リシア征服を企てたが、失敗。帝国はペルセポリスに大殿を造営し、繁栄を謳歌した
      が、紀元前330年にアレキサンダー大王に滅ぼされた。世界遺産ペルセポリスの遺
      跡は、現在のイラン中南部の都市シラーズの郊外に残っている。筆者はここも訪れた
      ことがあるが、その規模はアテネのパルテノン神殿よりはるかに大きな規模で、往時
      の繁栄振りが偲ばれる。

      このマラトンでの故事にちなんで、1896年にアテネで第1回近代オリンピック競
      技が開催されるにあたり、その目玉レースとしてマラトンの古戦場からアテネまでの
      長距離走が加えられた。フランス・ソルボンヌ大学の言語学者ミシェル・ルブアル教
      授がギリシア史に関係の深いフェイディピデスの悲壮な物語を偲んで、マラトンから
      アテネまでの競争をオリンピック種目に加えることを提案し、これをピエール・ド・
      クーベルタン男爵
(*3)が採用して、これを「マラソン競争」と名付けたのであ
      る。これが初のマラソンのレースである。なお、マラトンの戦いがあった9月12日
      は、現在「マラソンの日」とされている。


     (*3)ピエール・ド・クーベルタン男爵
      フランスの教育者であり、近代オリンピックの創立者である。歴史書のオリンピアの
      祭典の記述に感銘し、近代オリンピックを提唱、国際オリンピック委員会(
IOC)を
      設立、1896年にアテネオリンピックの開催を実現し、
IOCの事務局長、会長を務
      めた。オ
リンピックのシンボルである五輪のマークも考案した。また、名言「オリン
      ピックは、参加することに意義がある。」を残したことでも有名。




特集第一一号
         篠山ABCマラソン完走記!


           2008年3月2日に開催された第28回篠山ABCマラソン大会に
          マラソン初参加/完走された会員の感動の完走記を「あいうえお
          順」でご紹介します。

                             2008年3月15日
                               
事務局より

     
        心温まる初マラソン!
         佐藤鉄司氏

        皆さんこんにちは、佐藤鉄司と申します。会長に誘われてAACに参加させてい
        ただいてから、早2年が過ぎようとしています。今回、初めてフルマラソン(篠山
        マラソン)に参加した感想は、とても心温まる気持ちの良いマラソン!でした。

        今回が初マラソンでしたが、練習で同じ距離を何度か走ったことがあるため、距
        離に対する不安はありませんでした。しかし本番直前の下準備(エネルギー補給)
        が不十分でした。

        スタートの後、まずは6km地点のチェックポイントを目標に進みました。チェック
        ポイントと言っても会社の先輩の畑のことで、畑のすぐ横にコースが設定されて
        いました。5kmを過ぎた辺りからキョロキョロと先輩を探し、無事、挨拶を交わし
        て記念撮影。チェックポイント通過です。

        その後も10km、20kmと順調でした。しかし25km辺りでしょうか、急にお腹が
        空いてきて気分が悪くなってしまったのです。この時、自宅を出る早朝6時前に、
        食パン1枚しか食べなかったことを後悔したのは言うまでもありません。

        その後、ふらふらになりながら走っていると沿道に私設エイドが散見されました。
        私設エイドのテーブルをよくよく見ると、バナナやおにぎり!飛びついたのは言う
        までもありません。おにぎりですが、中にはなんと梅干しまで入っていて本当に
        美味しかったです。地元ボランティアの方々、本当にありがとうございました。

        おにぎりを頬張りながらゆっくりと走っていると、直ぐ横を追い抜きながらAACの
        仲間が『がんばれ!』と声をかけて下さいました。仲間は良いですね。とても嬉し
        かったです。その後は、私設エイドを見つける度にバナナ等を補給し、お陰様で
        気分も元通りになり、回復できたのは言うまでもありません。

        篠山マラソンでは、沿道のちびっ子からおじいさん、おばあさんまで、皆さんとて
        も温かい声援を送って下さいました。声援を頂けるだけでも嬉しいのに、空腹の
        私が回復できたように私設エイドも多く、本当に地元の皆さんの温かいおもてな
        しを感じることができる大会でした。

        来年も必ず篠山マラソンには参加しようと思います。来年はレース前にしっかり
        エネルギー補給をして、記録更新を狙いたいと思います。なお来る4月以降は勤
        務地の関係上、練習会への参加が難しくなりますが、皆さんに顔を忘れられない
        よう月に1度は参加するよう努力しますので、今後ともAACの皆様ご指導の程、
        宜しくお願いいたします。


     
        篠山マラソン2008体験記!〜Feel wind with Bigsmile〜
         原浩之氏

    「パーン!」3月2日午前10:50篠山に号砲が鳴った。さあ、僕のフル
     マラソンデビューの始まりだ!初ということもあり自身何の先入観もないの
     でとても楽しみでワクワクしてスタートしました。ただ、事前に作戦だけは
     念入りに立てていました。練習では
2025キロを4:30/キロのペース走を中心に
     こなしてきましたので本番も安全策は取らず、その練習ペースで行けるとこ
     まで行こうと決めました。その為ラップだけはきっちりつけ確認してきまし
     た。気候も良く、周りにもたくさんのランナーがいてAACの練習会のよう
     で前半はとても快適に楽しく走れました。
20キロを過ぎ有森選手にハイタッチ
     してもらい、その後ハーフのタイムが丁度
1時間30分でした。ここまでは一
     応予定通りでしたがこの先が未経験ゾーンということでどこまでもつかが勝
     負でした。


        一度トイレに行き気合を入れなおして同ペースで走り出しました。走ってる
     ときは単調に走ってても疲れてきそうなので常に目標を決めていました。
     それは、自分の場合いつもなんですが、徐々に近づいてきた前の女子ランナ
     ーにとにかく追いつくこと、あと今回はAACのメンバーも多く走っていた
     のでAACのユニフォームも目標にしました(^0^!)


        しかし、折り返し付近(30キロ)を少し超えたあたりから脚が硬くなり始め、
     ペースが徐々に落ち始めました。
35キロ付近では競歩のように腕だけ大きく振
     って走ってましたね。
3540キロは一番苦しい区間で、かなり抜かされました。
     のども乾き、何杯も給水しました。目標とする女子ランナーはまだまだ前に
     たくさんいましたが脚は次第にあがらなくなってきました。自分の脚に相談
     しました。『今日終われば、
1週間休みあげるからあとひと踏ん張り頑張っ
     てくれへんかなあ!?』と
^0^・・・その後、あと2キロの標識が見え、はじ
     めて完走を確信しました。するとさっきの交渉に足が応えてくれて、なんと
     短距離走を走るときのような筋肉の躍動を感じ、ラストの
2キロを思いっきりス
     パートすることができました。
20人くらいは抜いたと思います。結果は上出
     来の
3時間15分!フルマラソンはこのゴールの瞬間が一番楽しいと言います
     がホントにその通りでした。僕はいつもレースの前に自身のタイム予想を
3
       
段階(目標・予想・最低ライン)でノートに書き記してます。今回の篠山は
     目標:3:25、予想:3:45、最低ラインは4:00でしたので目標を
     も超えたタイムに大満足です!


        こうなれば人間欲が出て、次の目標はサブスリーをしたいです。僕の今まで
     体験したレースは10キロが4回、ハーフが1回で主に結果が早くかつ上位
     を狙える可能性がある10キロレースの為の練習(スピード練習)を中心に
     してきましたが、フルマラソンは心肺機能以上に脚力を鍛えないと通用しな
     いことを実感しましたので、今後はサブスリーに向け走りこみの量を増やし
     ていきたいと思います。まだまだ記録を狙いたい年頃?ですんで。(^0^)


        次は芦屋のハーフに出ます!そん時は、AACのユニフォームを着て走って
     応援してもらいたいです!それではまた、皆さんと一緒に風を感じれること
     を楽しみにしています。ちなみに、篠山が終わった
3日後にはすでに脚をこ
     き使っているのは言うまでもありません。(×_×)



     
        初フルマラソン、完走できました
         松田彰康氏

        約半年前AACのメンバーに加えて頂きました、松田彰康(まつだてるやす)
     と申します。よろしくお願い致します。このたび3月2日に行われた篠山A
     BCマラソンを3:43:55 (ネット3:41:53)で完走できました。
     タイムはともかくとして、天候にも恵まれ、芦屋浜とはまた違った景色の中
     を楽しく走ることができました。


        ACに入ることになったきっかけは、家内が仲良くして頂いている方から、
     マンションのマラソンサークルを紹介していただき(土曜の朝7:30から
     です。参加者募集中!)同じフロアの宗政さんと運命の出会いをしたことで
     した。マンションの方々から『マラソンで凄い方』『トライアスロンでも有
     名な人』とはお聞きしていましたが、あんなに凄いとはその時は全く存じ上
     げなかったのです。


        その後、宗政さんから『9:30からも他の仲間と走ってるんですよ!良か
     ったら松田さんも来られませんか?』とお誘いを頂きました。私はそれまでは、
     2〜3km/日を週4日ぐらい走る程度でしたので、自信が無く躊躇していま
     したら、宗政さんが私の不安を気付かれた様で『私が大丈夫なんだから、松田
     さんも大丈夫ですよ!』と言われ『そうだな〜、宗政さんとの年齢差を考え
     たら多分大丈夫だよな・・・』と思い(知らぬが仏とは、この事だった!)
     AACの練習に参加させて頂く事になった次第です。水分・栄養補給のことも
     知らず調子にのって参加したあと、フラフラになった事は言うまでもありま
     せん。


        初マラソンは12月の「宝塚ハーフマラソン」で、タイムは自分なりに満足
     できましたが、内容は納得がいくものではなく、もっと練習をして自分の中
     で自信がつかないと大会に出たくないなぁというのが感想でした。この頃AA
     Cの方たちから『篠山ABCマラソンはいい!』という話を聞きました。駐
     車場も用意されているし、猪汁が食べれるし、沿道の応援もすばらしいとの
     事です。この間まで『フルマラソンなんてずっと先の話』と思っていた事も
     忘れ、猪汁と景品のTシャツに惑わされ、さっさと申し込みをしました。

        とはいうものの、『護送車に乗せられたらどうしよう、かっこ悪いなぁ』と
     不安でしたが『無理だ、と思ったら3kmでリタイヤして“どうも膝の調子
     が…”って言い訳したらいいよ。猪汁を食べに来たと思えばいいし、Tシャ
     ツがもらえるよ!』と家内に励まされ(?)スタートに臨みました。


        そう考えて走り出してしまえば気楽なもので、事前にアドバイスをもらって
     用意していた飴をなめたり、補助食品の小さいゼリーを食べたりしながらゆ
     っくり走りました。30km過ぎの洗礼でも受けてやろう、と楽しみにする
     ほどのんびりした気分でした。
しかし、20kmあたりで自転車でかけつけて来られ
        た宗政さんの応援を受け、AACの練習が頭に甦り俄然ファイトが出てきました。確かに3
        0kmを過ぎてから足は重くなりましたが、AACに入った頃のしんどさや大雪の日の練習
        のつらさに比べたら『まだまだ大丈夫、いけるいける』と自分を励ましながら何とかゴール
        できました。

        その後、待望の猪汁をいただき意気揚々と帰路につきました。初フルマラソ
     ンの記念のTシャツは、私の完走に感動した家内が『着ちゃだめ!』と言っ
     て大切にしまっています。

        このような感動を経験する機会を与えてくださった宗政会長、フルマラソン
     を走ってお疲れなのに車を運転してくださった方々、いつも的確なアドバイ
     スをくださるAACのメンバーのみなさんに心から感謝しています。

        大会後の打ち上げを楽しみにこれからも走ります。今後共よろしくお願い致
     します。



     
        悔しかった篠山マラソン!
         矢部雄一氏

        このたび、初めての篠山マラソンに参加してきました。明らかな練習不足(月間
        20km?)で、膝の故障も抱えた最悪のコンディション。せっかくエントリーした初
        めての篠山マラソンをどうしても体験したいという気持ちから出場を決意しました
        が、調整不足を痛感するレースとなりました。

        スタートから常に膝の調子を確認しながら、何とか持ち堪えてくれと神頼みの世
        界。10kmを順調に走り、このままいけるのかと淡い期待を抱いたのも束の間、
        やはり15kmを過ぎたあたりから、膝の痛みが出てきてしまいました。まさかのリ
        タイアが頭を過ぎりましたが、諦めたら終わりと気を引き締め直し、何とか走り続
        けます。

        前半から苦しいレースになりましたが、20km付近では有森さんとのハイタッチあ
        り、次々と抜き去っていくAACの皆さんからも、『がんばれ〜!』 『ファイト〜!』
        『AAC〜!』と声を掛けていただき、多くの方からたくさんのパワーをもらって脚
        を引きずりながらも走り続けることができたように思います。

        ただ折り返し30kmを越えても膝の調子は変わらず、ペースはさらにダウン。
        ピカチューやメイドの格好をした人達にもあっさり抜き去られました。コスプレする
        余裕のある人は、やはりかなりの実力者なのでしょう。最後まで歩きこそしませ
        んでしたが、残り10kmのスピードは歩いている人とほとんど変わりませんでした。

        途轍もなく長く感じた残り10kmを、何とか走りぬきゴール。 4時間18分43秒。
        執念だけで乗り切ったフルマラソンでした。本当は4時間を切りたかった。でも完
        走を果たせて一安心、嬉しかったです。

        “練習は嘘をつかない”とはよく言われますが、本当にそうです。初めてのハーフ
        マラソンに続いて、フルマラソンでも思うように走れませんでした。レースに出る
        以上、最低限の練習、走る生活を取り入れていかなければ。また自分のペース・
        力量がわかっていないことも、最初から能力以上に飛ばしてしまい、失敗する原
        因です。まだまだ、ランナーとは呼べない自分ですが、いつかは自分の思うよう
        なレースができるよう、鍛練していきたいと思います。

        色々と悔しい思いはありましたが、篠山の自然、美味しい猪汁、大会の素晴らし
        い雰囲気、ボランティアの方々の温かさに触れ、とても思い出に残る良い1日と
        なりました。最後になりましたが、芦屋から自転車で駆けつけてくださった宗政さ
        ん、応援してくださったAACの皆さん、本当にありがとうございました。



特集第一〇号
         東京マラソン2008完走記!


            2008年2月17日に開催された第2回東京マラソン大会に
           参加された会員の完走記を「あいうえお順」でご紹介します。


                             2008年3月4日
                               
事務局より

     
        東京マラソン2008は冷えとの戦いでした!
         坂口晴美氏

        ご無沙汰しております。滋賀支部の坂口です。東京マラソン2007に引き続き2008も当選
      したラッキーガール(?)です。しかし、「練習は嘘をつかない」とはよく言ったもの
      です。昨年末から
1月前半にかけて風邪をこじらせ気管支炎となり、積雪の日も多く、
          1
月の月間走行距離はたった50kmでした。これじゃぁフルマラソンは完走すら無理か
      と不安を抱えていざ東京へ。


        レース当日は昨年のどしゃぶり雨とは大違い、快晴でした。しかし気温が低く、整列し
      てスタートを待つ間に小刻みに動いていたものの完全に身体が冷えてしまいました。か
      といってあの大人数ではトイレに抜けることもできず、ひたすら我慢してスタートの合
      図を待っていました。


        号砲鳴ってゆっくり歩きながら前へ進み、6分ぐらいかかってようやくスタート地点
      にたどり着きました。そこから徐々にスピードを上げていき、一気に坂を下っていきま
      す。しかし、頭の中はどこでトイレに行くかでいっぱい、昨年のように景色を楽しむ余
      裕がなくあっという間に
10km地点・皇居前に来ました。その間、5km26分台をキー
      プしており、練習不足の割にはなかなかいいタイム、もしや完走できるのではないか?
      と明るい希望が沸いてきました。汗もかき始め、沿道の大声援に元気をもらったので水
      分補給をしたところ、再びトイレ探しに陥る羽目に・・・。


        結構仮設トイレは多く設置されているものの、並んでいる人も半端な人数ではないため、
      ついつい次まで我慢と思って走り過ごしてしまいました。そうしているうちに
20km手
      前の日比谷通りまで来ましたが、もう既にこの段階で練習不足が祟って足が張ってしま
      い、ハーフ地点でリタイアしたい衝動に駆られました。


        その時思い出したのが、時々一緒にロングランのトレーニングをさせて頂いているウル
      トラマラソンランナーのお言葉でした。『ウルトラマラソンを走っているとね、筋肉痛
      は当たり前と思えるの。筋肉痛と仲良く付き合って走ることね。』と。


        その言葉を言い聞かせながら銀座から芝の増上寺、浅草雷門と観光名所を走り抜けて行
      きました。しかし雷門前で心身共に限界を感じたため、ペースを落として
32kmでよう
      やくトイレへ。そこで
5分ほど休憩し、30km地点で沿道の友人から手渡されたおにぎ
      りとチョコレートを口に入れ、水分補給をしてストレッチをしたところ、またまた復活
      しました。沿道の声援は途切れるどころか益々多くなる一方で、何度もくじけそうにな
      る気持ちを奮い立たせてくれました。


        35km地点の築地を過ぎると恐怖の橋のアップダウンが4箇所も出てきましたが、そこ
      も何とか歩かずに走り通すことができました。
25km以降の5kmごとのスプリットは
          27
分台、29分台、30分台と段々落ちていきましたが、何とか歩かずにゴールにたどり
      着くことができました。これも一重に沿道やボランティアの方々の声援と友人のサポー
      トのおかげです。
タイムは4時間12分(チップタイムは4時間6分台?)で満足いくも
      のではありませんが、体調も良くなり雪も少なくなってきたので、これからまたトレー
      ニングに励んでいきます。


       今年東京マラソンは昨年の第一回大会に比べ、昨年の反省点が活かされていて運営
      がよりスムーズになり、前日、前々日の催し物・EXPOも個々の協賛企業ブースが趣
      向を凝らして楽しく盛り上がる内容となっていましたので、心の底から楽しめました。
      また来年も走りたくなる大会でした。



     
        32,000人が駆け抜けた東京マラソン2008!
         正圓光男氏

        東京マラソンーーー普段は車で渋滞の東京都心をこの日に限って駆け抜けることの出
         来る一般ランナーにとっては垂涎の大会。第二回目と成るこの大会に昨年のエントリー
         開始とともに申し込み今年は見事に応募者15.6万人の中から抽選で参加が叶いました。


        待望の当選のメールを受け取るや否や童心帰った気持ちの高ぶりを覚えながら都庁周
         辺(スタート地点)の宿泊施設の確保と経費を安く上げるべくエアー会社のバーゲンエン
         トリーでアクセスを確保し、後は自身の記録更新の思いを高ぶらせて大会を迎えるだけ
         に成っておりました。しかし”好事魔多し”と言いますが全てが旨く物事は進みません。
         
11月に開催された福知山マラソンで太ももを痛め、なかなか思った練習が出来ず気持
         ちはあせるばかり、整体・針治療に通いながら気が付けば2月の大会月を迎えていま
         したが、結果としてケアーが良かったのか、練習で距離をこなしても痛みはさほどひどく
         はなく、何とか走れる状態にまでなっていました。


        大会前日
        この大会はオフィシャルスポンサーのサポートが充実し、エントリーに訪れたランナーは
        スケールの大きなエクスポと人の多さに驚きを覚えられたのではないでしょうか?
          
(今年はランナー以外も無料)小生も時間の経つのも忘れてエクスポを楽しみました。

          裏技@--着替え等はゴール地点であるビッグサイトのコインロッカーに預けて当日は
                身軽なスタイルで望むと良い


        大会当日
        心踊る中ホテルを7時に出発(スタート地点までは歩いて10分ほど)荷物を早々に預けて
          練習がてらジョグしながらホテルに戻り、体を冷やさないように部屋にて待機、810
          ごろにチェックアウトスタート地点に向かう。

         裏技A--ぎりぎりまでホテルで過し、トイレもホテルで済ます。出来る限り都庁に近い
               宿を取るゼッケン番号ごとのスタート位置に誘導され小生はBブロック(かなり
               前方位置)ゼッケンごとのブロックはボランティアのスタッフによりチェックを受
               けることになり紛れ込むのは難しい。

               裏技B--ビニールの内側にカイロを添付(寒い中30分以上も待機することに成る)

         910号砲と紙ふぶきの中一斉にスタートーーーー足の不安もあり気持ちとペース
         を押さえながら最初の5KM余りにも慎重になりすぎたのか下りでありながら設定タイム
         を大幅にオーバー。
(25分52秒) その後はだんだん体が温まり、周りの景色・ランナ
         ーを横に見ながら皇居、新宿と駆け抜ける。新宿の折り返し地点(1KM)で西川氏とす
         れ違う。
(実力差は歴然)(お互いに芦屋浜ACのユニホームで多くのランナーの中で確
         認が出来た)


         ここまでは人が途切れることのない沿道の応援に支えられ順調にタイムを刻む。後は
         垂涎の銀座〜日本橋を駆け抜けいよいよ浅草へーーーー疲れが出だした28KM過ぎ
         の浅草には弊社の東京本社があり、社の前には多くの同僚の声援と横断幕(弊社から
         2名参加しており名前が入った立派なもの)が待ちうけ心温まる一層のパワーをもらい
         駆 け抜けぬけ雷門前を折り返す。いよいよ30KM地点を越えて山場を迎える。 (2時間
         29分13秒)


        またまた東京在住の友人がこの地点で待ち受けてくれ、食料の差し入れをもらう。この
         寒い中本当に感謝、感謝、感謝
しかし再び銀座を駆け抜けるころには思った以上の
         ペースダウン。今大会は自己ベストを目指し、あわよくば30分を切るタイムを設定して
         いたがーーーー

          30km〜35km   スプリットタイム26分51秒
          35km〜40km   スプリットタイム28分37秒
          40km〜Finish   スプリットタイム13分08秒
          グロスタイム     3時間37分39秒でゴール
         ヘロヘロでベストからネットで約1分遅れでゴール。この大会も30km超えてからの実力
         のなさを痛感することに成った。


         226万人以上の沿道の声援と12000人に及ぶボランティアの方々に支えられて、第
         二回目の大会でありながら、世界でも有数のランニングイベントに参加でき、思い出を
         刻むことが出来たことを感謝したい。世界的に見ても市民ランナーが7時間に及ぶイベ
         ントに参加、それぞれが思いを持って東京都心を走る姿が、TVを通して世界にアッピー
         ルされ、市民スポーツ後進国からのイメージが少なからず排除され、また2016年の東
         京オリンピック誘致合戦にもプラスに働いたのではないでしょうか?ランニングを楽しむ
         人々の一人として来年の第三回大会もより充実したイベントにして頂きたいと念じてお
         ります。


        最後今大会には芦屋浜ACのユニホームスタイルで参加させて頂きましたが、今後も
          芦屋浜ACのユニホームを着て、芦屋浜ACの誇りを持って参加していきたいと思ってお
         ります。



     
        楽も苦もあった東京マラソンン!
        西川秀郎氏

         スタートまで
         前回は抽選ではずれ参加できず。実は今回も抽選にははずれたのですが、某スポン
         サーから参加枠をちょうだいし(もちろん参加料10000円は自己負担です)裏口なら
         ぬ横入りで参加してまいりました。予定では前日の昼頃に上京し、ゼッケンの引き替
         えをする予定でしたが、急遽午後からの会議が入り、夜の飛行機で行くことになりまし
         た。でも東京マラソンのゼッケン交換は前日の午後6時30分までということで、仕方な
         く金曜日の午前中にゼッケン交換のためだけに飛行機で往復!高いゼッケン代にな
         りました。

         さて前日ですが会議終了後すぐに帰宅。着替えるやいなや出発。阪神電車、ポートラ
         イナーと乗り継いで神戸空港に午後8時到着。午後8時30分の飛行機で羽田に向か
         い新宿のホテルには午後11時にチェックインできました。明日の用意をすませて午前
         0時30分に就寝しました。

         そして2/17(日)は午前5時45分に起床し、洗面、朝食、着替えをすませて午前7時
         45分にホテルをチェックアウト。10分ほど歩いて手荷物を預けていると午前8時になり
         スタート地点への整列開始のアナウンスが始まり、スタート地点のBブロックへ急いで
         いくと前から3列目の好位置をゲット出来ました。スタートまでまだ1時間以上あり、同じ
         Bブロックの正圓さんや会社の同僚を捜しましたが見つからず、周りの方たちと話をし
         ながら時間つぶしです。スタート時間が近づきセレモニーが始まりましたが、内容がよく
         わからず今イチ盛り上がりません。でもそうこうするうちに車いすのスタート。そしていよ
         いよマラソンのスタートです。


        いざスタート
         午前9時10分ピストルの合図(よく聞こえませんでした)でスタート、さあ始まりです。
         今回のレースの目標タイムは3時間19分59秒でなんとかフルマラソン1歳刻みランキ
         ングに入ることです。計画はスタートから25kmまでを5km23分ペースで走り、25km
         から35kmを5km24分ペース、40kmまでを25分、残りを11分30秒でという内容で
         す。果たして計画通り走れるのでしょうか?

         Bブロック前方からのスタートということでラインを通過するのに30秒ほどしかかからず、
         そのまま詰まらずに走れます。あっという間にJRのガードをくぐり下り坂を快調に駆け
         下りたところでトイレに寄り道、その後市ヶ谷駅付近からJRに沿って走りあっという間
         に5km地点を通過。タイムは24分05秒とトイレタイムを考慮するとまずまず。最初の
         給水所でスポーツドリンクを一杯飲んでしばらくすると軽い腹痛が・・・これはやばいと
         思い少しペースダウン。緩やかなカーブに沿って走っているうちに皇居が見えてきまし
         た。泊まりの東京出張時にはいつも朝皇居の周りを走っているので見慣れた景色のは
         ずですが、普段は歩道、今日は車道なので微妙に違って見えます。腹痛も治まりペー
         スアップ。マラソンは左側、10kmは右側とレーンが分かれます。日比谷公園が10km
         のゴール地点。この5kmのラップは22分26秒。少し速すぎるかなという感じです。コー
         スの右側に見たことのある女性が、有森裕子さんです。思わず駆け寄りハイタッチ!
         元気をもらいました。


         これから品川までの往復です。広い道をランナーが占領して走っています。なんと贅沢
         なという感じです。風が強く冷たいですが、快晴の中いいペースで走ります。15km地
         点を通過。23分12秒と予定通りです。給水をして品川駅前を折り返します。誰か知り
         合いとすれ違わないかと左側を走っていると、正圓さんが来ました。あまり差がありま
         せん。結構速いです。お互いに声を掛け合ってまたまた元気をもらいました。来た道を
         戻ります。東京タワー、増上寺を過ぎるともう20km地点です。23分21秒といいペー
         スです。有楽町のガードをくぐり和光を左に曲がると銀座通りです。コースが狭くなり、
         すぐ近くでの応援が嬉しいです。高島屋を過ぎ左右にカーブを曲がって浅草へ向かい
         ます。25km地点です。23分31秒、少しペースダウン気味です。スタミナ切れかな?
         給水所でスポーツドリンク。次の給水所ではバナナを食べて補給します。正面に浅草
         寺が見えてきました。すごい応援です。頑張れ頑張れと言いながら走ってようやく30k
         m地点通過。24分34秒と予定より30秒遅れのペース。またスポーツドリンクを飲み、
         バナナを食べます。銀座通りへ戻ってきました。行きの元気が懐かしい。

         あと10kmです。歌舞伎座を過ぎ35km地点が見えてきました。25分20秒と大幅に
         オーバーです。スポーツドリンクを飲むと前に坂道が。佃大橋です。どんどん抜かされ
         ていきますが気にせずマイペース一歩一歩進みます。好きな下りでもペースアップでき
         ません。またバナナを食べます。あと4km。ゴールが遙か彼方のように感じます。また
         橋です。なんとか40km地点到達です。タイムは27分14秒です。タイムはどうでもい
         い。何とかゴールしたいという思いだけです。スポーツドリンクを飲みます。あと2km。
         また登りです。本当に這うように走っています。でも歩いてはいません。あと1km。全
         然ペースアップできません。ゴールはまだか?カーブを右に曲がるとゴールが見えまし
         た。あと少し。タイムが見えます。なんとか25分台でゴールできそう。最後の最後でほ
         んの少しスパートし、ゴール! 3時間25分53秒です。


         ゴールしてから
         本当にしんどいレースでした。フラフラ歩いていき、ボランティアの方からスポーツドリン
         クをいただき飲みながら進んでいくと、ポンチョ?を着せていただき、その後バナナ、み
         かん、水を受け取り、チップをはずしてもらって完走メダルをかけてもらいました。その
         間両側に並んでいるボランティア全員が口々に『お疲れさま』『おめでとうございます』と
         声をかけてくれます。『ありがとうございます』と返事をしながら歩いていると思わず涙ぐ
         んでしまいました。レース中も給水所でも多くの声援をいただき本当にありがたく思いま
         した。

         荷物を受け取ります。昨年は段取りが悪く1時間以上待たされた人もいたということで
         すが、今年は番号別に整理をしてあり自分の受け取り場所へ行くともうバッグを持って
         待っていてくれました。東京ビッグサイトの中で着替えます。暖かくて助かります。着替
         え終わり、貰ったバナナやみかんを食べて一息ついたところで正圓さんに電話し合流
         しました。正圓さんも後半バテたみたいです。会社の同僚も見つかり合流。1人は自己
         ベストで初のサブフォー達成。もう一人は3時間8分台の好タイムでした。お互いの健
         闘を祝した後正圓さんのカメラで記念撮影。帰りの便は皆別々なのでここで解散。


         私は4時過ぎの飛行機なので羽田に向かいます。3時過ぎに羽田に到着。ロビーで東
         京マラソンの中継をしています。自分が走ったレースがまだ行われていてそれを見る
         というのはなんか変な気持ちです。TVではタレントや女子アナの走っている(歩いてい
         る?)模様を流しています。スポーツ中継というよりバラエティ番組のようであまりいい
         感じがしません。缶ビールとサンドウィッチを買ってきました。

         自分としては満足できない結果でしたが、よく考えると芦屋浜アスリートクラブのユニフ
         ォームを着て最初に東京マラソンのゴールをした記念すべきランナーという栄誉を手に
         した訳で、一人で得心し思わず祝杯を挙げました。思い出に残るほろ苦いビールの味
         でした。


     
        東京マラソンに参加して!
        藤本三咲子氏

          ランの大会と云うと、楽しいAACの方々に囲まれて、皆様に声援を送る私であったが、東京マラソ
          ンには出走したくて夫婦で応募してくれた夫は落選し、私だけが当選・・・いつもの賑やかさはない
          孤独なフルマラソン初挑戦・・・と、ちょっとクールに構えて一つ違いの姉の家で2月17日の朝を迎
          えた。

        けれども、孤独どころか、『方向音痴』な私を心配して早朝から姉が一緒に起きてくれて、温かな朝
          食も準備してくれて、何度も何度も地下鉄の乗り継ぎのレクチャ−・・・。かなり恥ずかしい『ビッグな
          』地下鉄マップを持たされ、姉の家を後にした。ちなみに私は1984年の学生時代から1995年まで
          東京に住んでいたのだが・・・。

        その上、姉の家から都庁までは地下鉄一本で行けるのである。然し乍ら、出口を一つ間違えると偉
          い事になる複雑な新宿の街・・・。私はここで待ち合わせした家族・友人を何度心配させ、怒らせた
          か分からない・・・。それで姉は地下鉄マップと更に東京都庁周辺図と・・・と次々と私に手渡し、荷物
          が増えていったのであった。

        しかし、心配には及ばず、地下鉄の中には協賛の『assics』の大きなビニールバッグを持って一目に
          してそれと分かる選手の方々が沢山乗っていらしたので、その方々に付いて行き、無事に都庁に到
          着!その後は分かりやすい案内図に従ってスムーズに進めた。


        昨年度の不備は殆ど改善されて、とても行き渡った素晴らしい大会であったが、スタート地点のトイ
          レの混雑はすさまじかった!そして殿方は〜っ!!!!!公園の土手に何列にもなって『立ち〇〇
          』芝生や植木は、大丈夫なのだろうか!?!?人間の本能とはエライものであった。


        いよいよスタート!スタートの紙ふぶきは何と『ハート型』に可愛くデザインされてい♪桜の花びらが
          舞うが如く、風情があった♪大阪からいらしたであろう関西弁の女性ランナーは『流石、東京はする
          事がかっこええわぁ!拾って行こ!』とはしゃいでいらした!今となっては拾ってくれば良かったと思
          うのだが、私は一瞬、東京人に戻り、クールに装ってしまった・・・やはり関西人らしく、素直にはしゃ
          いで拾ってくれば良かった!

        都庁を過ぎ、学生時代を過ごした芝の増上寺⇒三田を通過時には卒業以来、訪れる機会がなかっ
          たので本当に感慨深かった。品川⇒高輪は卒業式が行われた場所・・・。⇒銀座は自宅と仕事場に
          いる以外に東京では一番長い時間を過ごした街であろう・・・。⇒人形町には私が敬愛して止まない
          従妹がいて、⇒浅草浅草寺の五重塔は曽祖父が作った(・・・名前も彫ってあるのですぞ)と30キロ
          を過ぎるまでは自分のルーツを巡るように楽しく走れた。いつも混雑している道路がランナーの為に
          だけ解放されているのも醍醐味であった。


        しかし!来てしまった!30キロ過ぎて、足が突然鉛のように重くなり、そしてこの地点が銀座への折
          り返しであった為、銀座が見えてこない精神的な焦りも襲ってきた・・・そんな時、最近クールな中学
          生を(装う)姪っ子二人が、まるで小さな子供の頃のように『み〜ちゃん!』と声援を送り、一生懸命手
          を振っているではないか!?『おばちゃんが頑張る姿を見せたかった』との義理の兄の心遣いで家
          族全員応援に来てくれたのだ!泣けた!

        東京マラソンの素晴らしい点は沿道の応援とボランティアの方々であろう。昨年出走されたランナー
          や、AACの堀内夫妻もおっしゃっていた『フード類の不足』は、大会運営の尽力もさることながら、ボ
          ランティアの方々のお蔭で余るほどに改善されていた。昨年空腹を感じたランナーの方々が、私的
          に、自発的に、おにぎりやカステラや味噌汁、チョコ、飴等を振舞って下さっていたのだ!ビル風の
          吹きこむ寒い場所にも、応援の方が途絶える事はなかった。応援って力をくれるものなのだと人の
          心の温かさに感動した。

        37キロ地点で歩いてしまったが、何とか5時間12分(西岡澄子氏に負けた・・・)で完走することが
          出来たのは応援の方々のお蔭であった。心から感謝したい。


        また、人の温かさというものと正反対の『ハイテク』も成功の一因である。携帯電話でゼッケン番号
          をインプットすれば、ランナーのタイムが表示される為、応援する方もその時間に合わせて、場所を
          移動できるため、四車線の広い通りでも、予測して待ちうけ、何とかランナーを捜し出し、声援を送
          る事が出来る。姉家族はゴール地点でも迎えてくれた。身内の応援はやはり一番心強いものであ
          った。


        東京マラソンはAACのステファノの言葉を借りれば『お祭り』まさにそれである。老いも若きも、東京
          の街がひとときではあっても一つになる、そんな大会であった。練習不足による筋肉痛に苦しめられ
          た以外は参加出来て本当に良かった!来年もこのお祭りに沢山の方が参加されますように!