上田作之助関係メモ

2004.05.09
 上作さんが晩年、私との雑談のなかで語られていたことの一つに、岩波新書の『紅萌ゆる』があった。学園紛争の時に破壊された立命館大学の「わだつみ像」のモデルとなったご遺族にかかわる話とごっちゃになっていたが、気になりつつも時間が経過してしまった。最近になってようやく同書を手に入れて、何か分からないままに、上作さんの何かを求めてページを繰った。と、三高時代の上作像を浮かび上がらせる一文があった。後の上作しか知らない私にも、成る程と思わしめるものであったので、ここにその一文を引用して紹介することにした。
 同書は、次の通りである。
 著者:土屋祝郎
 書名:『紅萌ゆる−昭和初年の青春−』
 岩波新書 1978.6.30

p113-114
 文二甲一の教室のなかでは、上田作之助ががんばっていた。煙突のようにいつも煙草をくゆらし、人の二倍もある厚い長髪を掻き撫でる癖のあるこの男は、今年度の記念祭に参加することは絶対反対であると強硬に主張しだしたのである。昨年はあんなに熱心に賛成し、プラカードを持って、誰よりも先に立って新京極の盛り場を流して歩いた男が、今年は急転直下反対を叫ぶ。三高の学生が特権意識に酔って、普通なら許されないような醜態を公衆の面前で演出することは時代錯誤もはなはだしい、という論法なのである。
 彼の伯父は京都における労働運動の草分けとして知られており、彼はその養子というわけであったが、その家は三条通にあって、新京極に近い賑やかなところに相当な店を持っていたから、俗にいう京童の範疇に属するわけであるが、その伯父と親交のあった水谷長三郎の影響を受けてか、その風貌も風格も京童とは似ても似つかぬものを持っていた。その彼が早口で頑強に記念祭不参加を主張すると、他のものも昨年の彼らと同じではなかった。記念祭のようなばか騒ぎは一度やってしまえば、それで気が済むものでもある。意識すると否とにかかわらず、彼ら自身も徐々に変わりつつあったから、上田の主張が大勢を占めて、不参加ということに決定した。

 

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